カルト宗教って怖いよ。…いや違うな、宗教というか……同じ思想の奴らが集まって、外の者たちには隠さなきゃならないようなことをみんなでやっている時の熱量というか、自分たちがやっていることを妄信する姿だとか、そういうのが本当に恐ろしいんだ。
俺、君を気に入ってるからさ。君に警戒するべきこういう世界もあるんだって教えてやるよ。おっさんの若かりし頃の失敗談だと思って、聞いて笑ってくれ。20年も前のことだ。
当時、社会は景気は悪いし失業率も高いし就職氷河期だったしで、苦しむ知人はたくさんいた。でも俺自身はたいして苦労することなく、かなり好待遇な保険会社への新卒就職を叶えたんだ。学歴も自慢できるほどのものではなかったのに、幸運としか言いようがない。思えば小さなころから俺はツイていて、ラッキーな役回りになることが多かった。だから俺は人生イージーモードなんだと確信して、高を括って調子に乗っていたと思う。そんな時期の話だ。
会社に面倒見がよく営業成績トップの先輩がいて、入社してからずっと俺の世話役をしてくれていた。先輩に帯同して営業の現場を見て勉強させてもらってたんだけど、ある日「高田、お前にひとつ顧客あげるよ。お客さんたぶんお前のこと気に入ると思うし、すっげえ金持ちだから、うまくやってこいよ」って言ってくれたんだ。俺は憧れの先輩が分けてくれた大口顧客に大興奮したし、先輩の顔を立てるためにも、成績を残すためにも、とにかく張り切ってた。
そのNさんという顧客へ、経営してる会社のビルへ挨拶に行った。Nさんはこの不況の中、一代でここまで企業を大きくした超やり手らしい。俺は立派な建物や社長室の雰囲気に圧倒されてたけど、Nさんは朗らかな60代の男性で、幸運にも俺を気に入ってくれたようだった。その後は頻繁に連絡をくれて保険もたくさん加入してくれたし、優良顧客を紹介してもらったりご飯を奢ってもらったりと、ビジネス以外の付き合いでもとにかく可愛がられて、俺はすっかり成功者のオーラに酔って舞い上がっていたと思う。
そうしてある日、新入社員の中で営業成績トップを突っ走り浮かれていた俺を、Nさんがある事へ誘ってきたんだ。
「プライベートでの話なんだけどさ。高田くん、社長たちたくさん来る集まりとか興味ない?こないだ紹介してあげた〇〇商事の社長とかも来るよ」
名前を出された人もNさんと負けず劣らずのやり手社長だ。聞けば、そういうレベルの成功者たちがたくさん、とあるところに集まるらしい。……この時代で、君だったら『怪しい自己啓発セミナーへの勧誘か?詐欺か?』ってすぐ疑えるだろ?でもさ、当時の俺はもう成功者たちから十分すぎるほどの恩恵を受けてしまっていたから、疑うことなんて全く無かったよ。それより『もっと社長の知り合いを増やして成績獲れるかも、成功者たちの仲間入りができるかも』って欲さえあった。だから二つ返事で誘いに乗ったんだ。
先輩にそういう集まりへ誘われたことを報告すると、先輩も一緒になって喜んでくれた。「お前間違いなくビッグになるよ。さすがだな」って言われて嬉しかったし、先輩が譲ってくれた顧客からのツテで美味しい思いをしてる俺へまったく嫉妬や恨み言を言わない先輩は、本当に格好いいと思った。
そうして、約束の土曜日の朝だ。待ち合わせ場所に行くとピカピカに光る高級車で、Nさんはやってきた。注目を浴びながらその助手席に乗せてもらって、胸が高鳴ったよ。俺は本当に幸運な男だって。こういう生活を送りたいって。今日は絶対に何かを掴んで帰るぞって。
「今日は連れてってくれてありがとうございます!緊張してきました」
「いやいや、来てくれて嬉しいのはこちらの方さ。少し遠出になるから、リラックスしてて」
そう言われ車に揺られて、半日ほどずっと移動していた。俺はてっきり都内のホテルなんかで会食があるのかと想像していたから、まわりがどんどん田舎の風景になっていくことに戸惑った。田舎のドでかいゴルフ場でゴルフコンペでもするのか?なんて思ったけど、車は細い山道へ入っていく。そして『私有地の為立ち入り禁止』と書かれたしっかりとしたゲートを開いて通り抜け、鬱蒼とした木々の中をひたすら登っていった。ここまで来るとすこし怖くなって、ちょっと怪しむ気持ちも湧いてくる。でもNさんの機嫌を損ねてしまう気がしたから、何も聞けずにいた。
山道を登り切った先には、あまり大きくはない古い寺?神社?のような建物があった。宗教や歴史に疎い俺でも、かなり古くからあるだろうとすぐ分かる黒く年季の入った建物だ。驚くことに、こんな山道の先の古びた神社に似つかわしくないような様々な高級車が、20台ほど停められているんだ。こんな辺鄙な場所に、全部合わせたら当時数億円にもなる高級車たちがずらりと並んでいるのを見せつけられて、さっきまでちょっと湧いていた怪しいとか疑うような気持ちは、もうすっかり消え失せてしまってた。『ここには間違いなく成功者たちが集まって、何かすごいことをしてるに違いない』って確信してしまったんだ。
「すごい……これみんな、社長たちのお車なんですか」
「はは、そうだよ。今日は結構集まりがいいね。何しろ、いつもの会合と違って特別な日だし。まさに、僕含めて全員の未来を占う特別な日だから」
「そんな特別な日にどうして俺を?」
「きっと君が気にいるからさ。ここにいる全員がね」
Nさんは晴れやかな笑顔で俺にそう言った。よく分からないけど、こんなにもすごい人に良く言われて気分が悪いはずがない。俺って本当にツイてる、すごい男なんだって、自分に酔いしれたよ。
「全くかしこまる必要ないから。場所見てわかると思うけど、今日はみんなこっそりこの集まりにやって来てる、ただのおっさんおばさんたちだから。リラックスしてればいいからね」
そう言いながら手招きするNさんに続いて、ギシギシと軋む階段を上って、神社で言う拝殿みたいな場所に入ったんだ。古いガラスがハマった扉の向こうに20人以上の人の顔が見えて、ガタガタと扉が開く大きな音で、みんなが一斉にこっちを向く。皆びしっと決まったスーツを着て、見るからに高そうな腕時計や指輪なんかを付けてる。雑誌やニュースで見たことのある新進気鋭の社長や、名の知れた議員なんかの顔もあって、俺は緊張で心臓が止まりそうだった。
けど、Nさんと俺の顔を見るとみんなぱっと明るい笑顔になって、軽く会釈をしてくれた。おかげで緊張は少し解けたけど、すごい空間に来てしまったぞと、武者震いなのか畏怖なのか分からない震えが止まらなかった。
部屋は一辺10mほどの正方形だ。床のまん中には白くて大きな布が敷かれてて、布を踏まないように壁際に沿って、四角く輪を描くように、車座の状態で人々が座ってる。
Nさんは「この布踏んじゃ駄目だよ。ついて来て」と言いながら、座っている人たちへ会釈しつつ人の輪が途切れている場所まで移動してく。俺も慌ててついてくけど、目が合う人みんな嬉しそうに俺に会釈していくから、変な心地だった。
Nさんの隣に座って輪に並び、座っている人々を改めて見回す。みんな小声で和やかに談笑しているけれど、大物のオーラを纏う人々に交じって、キョロキョロと落ち着きがない若者も数人混じっていることに気づく。きっと俺のように、何も詳しいことを聞かずにここへ連れてこられたんだろう。それから数人やって来ては輪に加わって、最終的に部屋の中は30人ほどになった。
頃合いだというようにみんなが頷き合うと、部屋の中は静まり返った。
秘密の談合でもやるんじゃないかって考えようとしてたけど、絶対に様子がおかしい。何をしようとしているんだろう。
俺やNさんから見て反対側の壁際の一番端に座っていた男が、自分の前に置かれたこんもりと膨らんだ黒い布の中に、手を突っ込んだ。そして何かを引っ張り出した。それを、右手から左手へ、そして、隣に座る女の右手へと手渡す。その女も同じようにして隣の人へ送っていく。
ずるずるずるずる。りん、りん、りん。
黒い布の奥から途切れることなく伸びて、何かが延々と送られていく。暗がりの中でもさらに黒いそれは、ロープのようだ。2mおきくらいに鈴が結わえられているから、ロープが動くたびに鳴り続ける。手渡された人は恍惚としたような少し緊張しているような、不思議な表情で休むことなくロープを送っていく。ついに俺やNさんの近くまでそれが来た。真っ黒のロープを、Nさんは嬉しそうに手に取って、そして俺へと送る。見よう見まねでそれを受け取って、次の人へ送ろうと――
「え」
髪の毛だった。真っ黒のロープの編み目からボサボサと飛び出しているのは、間違いなく人の髪の毛だ。ロープそのものもぬめっとした気味の悪い湿り気があって、膨大な量の髪の毛で編んだものに違いなかった。
一気に悪寒が走って思わず手を離してしまいそうになったけど、Nさんが肩で俺を小突いた。ハッとしてNさんを見ると、見たことが無い程満面の笑み。俺は唖然とした。意味が分からなかったし、髪の毛のロープもNさんも周りの人間も全部が怖かった。でも、こんな山の中で一人だけ走って逃げられるはずがないとも思ったから、どうしようもなく次の人へロープを送った。
ロープは部屋をぐるりと一周して、始まりと終わりを結び輪になった。静かに、でも熱に浮かされたみたいな表情の人間たちがひたすらそのロープの輪を回し続ける光景は、異様としか言いようがない。一体何が目的でこんなことを。
りん、りん、りん。
鈴が小さく鳴るのを聞きながら単純作業をやり続けていると、頭の中がぼうっとしてくる。30分ほどそうしていたんじゃないか。もうまともに考えられなくなってきた頃だ。
りんりんりんりん。
みんなのロープを回す速さは変わっていないのに、突然、ほぼ同じリズムでずっと鳴っていた鈴の音が早く鳴りだした。とたんに部屋中から、『おお』みたいな感嘆の溜息が聞こえる。Nさんを含めて社長連中の目の色も変わる。Nさんの視線の先を追って、真ん中の白い布の方を見ると――
真白の布の中央に、タールのように黒く濡れて光る、小さな足跡があった。
あんなのあったか?と戸惑った顔をしてるのは俺と同じような若者たちだけで、皆が熱狂したような目つきでそれを見ている。どう考えても異常なことが起きていると言うのに、立つことも、ロープを送る手を止めることも出来ない。
すると、なんとその足跡は、目の前でもう一つ増えた。増えたというより、姿の見えない何者かが一歩踏み出した、って感じだ。べた、べた、べた、と濡れた足音が聞こえる。そのたびに足跡は増えて、白い布の上を、ゆっくりと歩き回った。
絶句してそれを見ているしかなかった。その足跡が近づいてくると社長たちはお辞儀をしたりうっとりとしてる。そして足跡が増えるたび、部屋の中に獣みたいな臭気と圧迫感と、社長たちの熱気が満ちていった。
すると、突然。
りりりりりりりりりりりりりりり!!
いきなりけたたましく鈴が鳴り響き心臓が止まりそうになった。俺の手元にあった鈴が狂ったように鳴り出したんだ。もう一つ、反対側に座っていた若い男の手元にある鈴も激しく鳴っているようだ。おおおーっと歓声と拍手が巻き起こって、呆然としている俺の横で、Nさんはガッツポーズをして、俺の肩を叩いた。
「さすがだ高田君!!君はすごい子だ、レンメ様も気に入ると思ってた!」
意味が分からずにもてはやされながら、怖くなって俯くと――俺の膝のすぐ近く、白い布の上に、爪先を揃えてこちらを向いた黒い足跡が、あった。
Nさんに肩を抱かれながら、とっかえひっかえ社長連中たちが俺に握手を求めてきた。瞳孔が開いてるみたいな視線と、熱狂する異常な雰囲気の真ん中にいると、情けないけど人間ってなにも出来ないんだ。とにかく俺がすごい奴なんだってことと、『レンメサマ』とかいう誰かによろしく!って、みんな口々に言う。全部が訳分からない。俺はとにかく呆然としてた。
――その後は、実は記憶が曖昧なところがあるんだ。たぶん、握手の嵐が終わってから差し出された水を飲んだせい。だから夢を見てたのかもしれないし、冗談半分だと思って聞いてくれ。自分でもこの後の記憶が、全部現実に起きたことだなんて信じられないから。
混乱してたし喉がカラカラだったから、Nさんに差し出された水を飲んだ。薄めた日本酒みたいな変な味。たぶん俺の他にも、もう1人鈴が激しく鳴ってた若い男も飲まされてたと思う。晴れやかな顔で社長連中が建物から出て高級車で帰っていくのを見ていると、だんだん視界がぐにゃぐにゃして足元もふらふらしてきた。何か盛られたに違いないと気づいた頃には、もう一人で立ってることすらできない。Nさんに肩を貸してもらう形で支えられていると――なんと、帰っていく連中の中に先輩を見つけたんだ。先輩もこの連中の仲間だった、嵌められたんだと気づいて呆然としたよ。
もう抗う気力もなくなって、Nさんに連れられて部屋の奥へと歩かされた。もう一人の若い男も、おそらくそいつを連れてきたであろうおっさんに肩を貸されて歩いている。
気づかなかったけど、部屋の奥の壁には同じ材質で目立たない扉が付いてた。Nさんがそれを開けると、細くて暗い廊下がずっと続いてる。ギシギシと軋む暗い廊下を歩かされながら、「どうして、どうして」ってうわ言みたいに口から漏れた。するとNさんは、
「高田君、会ったときからすごく運の強い子だと思ってたけど、流石だ。レンメ様はあの子と君とどちらにするか悩んでるけど、君がヤドカシになっても、ヤドカシに選ばれなくても、僕は君を誇りに思うよ。この先もずっとよろしくね。もしヤドカシに選ばれなかったら、また会えるから。その時は全部教えてあげるよ」
多分こんなことを言ってたと思う。意味は何一つ解らなかった。
長い廊下の奥はT字になっていて、突き当たりの廊下に扉が幾つか並んでる。俺は一番右の小部屋に入れられて、扉を閉められてしまった。壁越しに聞こえる物音で、もう一人の男も横の小部屋に入れられたんだと分かる。4畳ほどの小さな部屋で畳の上に倒れながら、此処できっと殺されるんだ、と俺は思った。そして眠気に抗えずに、そのまま意識を飛ばした。
そしてまた、意識が戻った時。まだ同じ小部屋にいて、全部悪夢じゃなかったのかって絶望したよ。何時間か寝ていたんだと思う、意識が少しはっきりして動けるようになってた。入ってきた扉を確認したけど、取っ手のようなものはついてないし、蹴ったりしてもびくともしない。すると扉や壁を蹴る音で隣の男も目を覚ましたらしくて、大声で俺に話しかけてきた。
「おおい!!お前も閉じ込められてるんだよな!?ここは何なんだ!?」
「……分からないよ。うまい話なんだと思って馬鹿みたいについてきちまったんだ。俺たち殺されるのかな」
俺がそう言うと、隣の男は泣き出した。出来ることもないから男を宥めながら話をしていると、隣の男は林というらしかった。やはり俺と同じで、とある社長から凄い人たちが集まる場所へ連れて行ってやると言われたらしい。他にもそうして連れてこられた若者は居たみたいだが、小部屋に連れてこられたのは俺と林だけのようだ。あんなオカルティックな儀式を見せられたあとではこの状況に希望を見出すことも出来なくて、俺と林は沈黙した。
そうして黙っていると。徐々に、獣の匂いや湿った土のような匂いが小部屋の中でし始めたことに気づいた。あの儀式の時に嗅いだような匂いだ。背筋が寒い。急に空気が薄くなったみたいに呼吸が苦しい。この部屋には俺しかいないのに、満員電車の中にいるみたいな圧迫感。
身動きできずに5分ほど固まっていると、それらの感覚が一気に薄れたのがわかった。助かったとほっと息をついて、林に話しかけようとすると――
「あ」
突然、壁の向こうで、林が気の抜けた声でそう言った。それきり何も言わないのでどうしたのかと壁に耳を当ててみる。小さな音が、なにか聞こえてくる。
ぞ、ぞ、ぞり。
きっと、畳に何かがこすれる音だ。重たい何かを引きずってるみたいなその音が、ずっと続いている。そして、
【 エェ、オン、レェ、メ、オォ、 】
そんな風に聞こえる声、というか重たくかすれた吐息のような――古い楽器を思わせるような音。そして林の、怯えているような浅くて荒い呼吸音。とっさに先ほどの儀式中に起きた怪異や、俺の小部屋に現れた異常を思い出す。林の部屋にも、今ナニかが居るのだろうか。
引きずる音と声は、小さな部屋を行ったり来たりしているようだ。可哀そうに林はついにまた泣き出してしまった。「高田くんたすけてくれ…」と林が呼びかけてくるけど、俺は隣にいるナニかに再び目を付けられたくなくて、息も殺して返事をしなかった。薄情だったと今でも思う。でも、本当に恐ろしかったし、死にたくなかったんだ。
ぞ、ぞ、という引きずるような音が止んだ。林の声も止んだ。【レェ、メ、エェ、エェ、エェ、エェ】という声のようなものだけがしばらく聞こえていたのに、突然。
がば、ごぼ、ごぼぼ、
という空気の混じった重たい水音が響いた。途端に、林の腕や足が畳を打って暴れているような音がしてくる。
ばたんばたん、ごぼ、がば。ばたっ、がば、ごぼ、
畳と空気しかない部屋の中なのに、その音はまるで溺れて苦しがっているみたいだと、思った。
何が起きてるんだ。林はどうなってしまったんだ。口に手を押し当てて声を殺して泣きながら、ただひたすらこの地獄みたいな音が止むのを待った。
林が暴れる音が小さくなってもその水音はしばらく続いていたけど、やがて何も聞こえなくなった。先程までは音が止むのを願っていたけど、今はもう無音ですら恐ろしくてたまらない。壁から耳を離して、頭を抱えて畳に突っ伏し小さくなって震えた。
そこからまた何時間か経ったと思う。ぎしぎしと床の軋む音が聞こえて、はっとして顔をあげると、小部屋の扉が開いた。扉の向こうにはNさんがいた。俺をこんな目に合わせた元凶だっていうのに、あの時は、Nさんの姿を見て本当に心から安心したんだ。馬鹿みたいだけど、神様みたいに見えたよ。何時間も強張らせてた体は思うように動かなかったし、歯もガチガチ鳴って上手く喋れない。そんな俺ににっこり微笑みかけてから、Nさんは開けた扉のすぐ足元を見下ろした。
俺もつられてそこを見ると、小部屋の入り口の畳の部分だけ、足跡の形に黒く濡れていることに気付いた。足跡はあのロープを廻す儀式の時と同じ大きさで、そして、部屋の外に向けて爪先を揃えていた。
「――うん。レンメ様は、隣の子をヤドカシに選んだみたいだね。高田君のことも見に来たみたいだけど、あっちを気に入ったんだ」
濡れた足跡に向かって一礼してから、Nさんは小部屋へ入って来て俺へ肩を貸した。立たせてもらい部屋を出ると、隣の部屋の扉も開いている。その扉の前で、林を連れてきた社長が拝むように頭を下げている。その平伏した背中の向こう側に見えたのは。
生きているとは思えないほど黒ずんだ顔色の林が、座り込んでいる姿。目をこぼれ落ちそうなほど見開いて、口は顎が外れてしまったんじゃないかというほど縦に開いている。そして手には、大量の毛髪。あちこち頭皮ごと髪が失われている頭から、自分で引き千切ってしまったに違いなかった。
そんな異常な状態でピクリとも動かない林の周りの畳は、真っ黒になるほどあの足跡で埋め尽くされていた。
「うわあああああああああ!!!」
俺は絶叫した。でもNさんは何でもないようににこにこしている。
「なんでこんなことに!?なんで俺たちにこんなことをしたんですか!?」
「びっくりしたかい。落ち着いて、約束したから全部教えるよ。もう君も、立派な”仲間”だからね。君は僕らの仲間になりたかったんだろう?」
『成功者や金持ちの仲間入りができるかも』と欲を持っていたことを思い出して言葉に詰まった。でも、こんなことになるとは思ってなかったんだ。気味悪い儀式に参加させられて、隣の部屋で人がおかしくなってしまうのを見ることになるなんて。そう反論すると、Nさんは全部話し始めた。
「僕は、『一代で名をあげた天才』とか『敏腕社長』ってよく言われたよ。もちろん努力もしたしセンスもあると思う。でも、それだけじゃ届かない世界ってあるもんだろう?努力もセンスも同じだけ持ってる2人がいたとしたら、成功する方としない方の違いってなんだと思う?
答えは”運”だよ。多くの人にとって目に見えない不確定要素かもしれないけど、それを確定要素として手持ちのカードにできれば、成功するのは間違いないだろ?君だって自分の”運”が良い事を実感してきたはずだ。運と言うのは確実に存在してる。それを、成功したい者や、成功し続けたい者たちは、喉から手が出るほど欲しがってる」
「……運だなんて、どうやって」
「大昔から、強運を持つ者から運を奪って一握りの人間に配るというシステムがあるのさ。歴史に名を残した偉人達の中にも、このシステムに力を借りていた人がいる。君が教科書で習った人の中にもね。システムの中心にいらっしゃる存在は、レンメ様っていうんだ。髪で作られた輪を一緒に廻した仲間たちへ、奪った運を分け与えてくださるんだよ。」
「……あの足跡の…?」
「そう。レンメ様は本来、希薄な存在だから僕たちには足跡しか視認できないんだ。希薄だから放っておくと消えてしまう。それで、現世に留まれるように殻を用意するんだ。それがヤドカリみたいだから、レンメ様が着る殻――あの林くんのようになることを、ヤドカシと呼んでいる。4日前に前任のヤドカシが死んでしまったから、滞りなく次が選ばれてほっとしたよ。
で、さっき廻してたのは歴代のヤドカシたちの髪の毛で造られたロープなんだよ。林くんの髪もあそこに編み込まれることになる。歴史を感じて素敵だろう」
ちらりと林を振り返ってから、Nさんはさらにこう続けた。
「――ヤドカシには、なるだけ運が強くて若い子を選ぶ方がいいんだ。…レンメ様はヤドカシが持ってる運を配ってくださるから…ジューサーにいれる果物はさ、果汁が多くて新鮮じゃなきゃ美味くないだろ?」
俺はぞっとした。確かに俺は運が良いと思っていたけれど、まさかそれを搾り取るために目を付けられていたとは思いもしなかった。あの髪のロープを廻していた連中は、みんな、他人を犠牲にして甘い汁を吸いながら成功を収めた奴らだったんだ。
怒りで顔が熱くなった。肩を貸してくれていたNさんをドンっと押して離れると、Nさんは真正面から俺を見つめながら、笑顔でこう言った。
「……レンメ様はヤドカシから生命力と運を吸い取って、生命力をご自身の糧とされ、そして運は輪を廻した者たちに振り撒いて下さる。だからヤドカシは空っぽになって、最終的に10年も経たずに亡くなるんだ。林くんもいつかはね。
林くんが空っぽになる頃、次のヤドカシを選ぶまでに――レンメ様が分けてくれた運で成功して、名をあげて、有名になっとかないと。急に消えたらみんなから心配してもらえるくらいの大物にさ。
じゃないと次こそは君かもよ。ね、高田君。 ”仲間”へようこそ」
レンメ様を背にして、皺を深めて邪悪に笑ったNさんの表情が、20年経った今も頭から離れない。
これで俺の、20年も前の昔話は終わりだ。
結局レンメ様とは何なのか誰も知らない。姿を見たことがあるのはヤドカシとなる者だけだし、彼らは喋ることも正気でいることもできないからだ。そんな正体の分からないものを、『輪を廻す仲間たち』は真剣に崇めている。みんなどうでも良いんだ。何百年も前に始まったこのシステムの真ん中にいるのが、神様でも、悪魔でも、悪霊でも何だって。その恩恵が大切なだけ。
俺がこの歳になって、社長と呼ばれるようになって、いくつかわかった事もあるんだ。新しいヤドカシとなる人間をレンメ様のところへ連れて行った者は、どうやらよりたくさんの運をレンメ様から与えていただけるらしい。Nさんが俺を気にかけて可愛がってくれた理由がわかったよ。
でも今思えばあの人は、俺よりもよっぽど良い人だった。俺はヤドカシに選ばれず生き残ったからNさんには特別な恩恵は無かったのに、その後もずっと俺をビジネスパートナーとして大切にしてくれたんだから。今は感謝してるよ。
なんでこんな話をしたかって?君を気に入ってると言っただろう。何も知らないままなんて可哀そうだしね。だからだよ。
――どうした?
なに、水の味が変じゃないかって?
気にするなよ。大丈夫だ。リラックスして。
これからもずっと、よろしく頼むよ。