「呼い人」

投稿者:成星一

 

あなたシミに恋したことがありますか? 壁のシミ、天井のシミ、道路のシミ、そこにはある種の魔がひそんでいます。あるいはあなたは幼いころ、年うえの異性に憧れたことはあるでしょうか。それは大人になってから初恋と呼ばれ思い出になるようなものなのかもしれませんし、いっときの憧れなのかもしれません。しかし、そこにはまぎれもなく強い想いが存在します。その気持ちは大人になってからも心の奥にシミのように沈着し不意にどこからか聞こえる声によってふたたび呼び起こされることもあるでしょう。
 これは片想い中の幼ななじみへの気持ちを抑えきれない紗奈と、年うえの女性ナミ、そしてナミと恋仲になっている凪のお話。
 彼はぼーっと壁のシミを見つめては、いつもうっとりとした表情を浮かべます。そこになにがあるのでしょうか。
 この物語はいずれあなたの耳にも届くかもしれない、そんな『こい』のお話です。

「なあ、知ってるか? 凪の噂」
 平坂中学校一年二組の教室後方で男子生徒が三人集まりヒソヒソ話をしていました。彼らの近くの床には黒いシミが沈着しています。
「あー、なんか彼女ができたんだって?」
「まじで? あの冴えない凪が? 嘘だろ?」
 彼らが話している凪というのは同じクラスの男子生徒。どちらかと言えば目立たない存在で、勉強も運動も普通という男の子でした。
「だってあいつ特別イケメンでもないし、背だってちっちゃいじゃん」
 ひとりの生徒が言うと、別の生徒がすぐにそれを否定します。
「でも、となりのクラスのやつも見たって言ってたぜ。仲よさそうに神社で女とジェラート食べてるところを。薄暗かったからぼんやりとしたシルエットしか見えなかったみたいだけど相手は大人だって噂。背格好からして大学生か、それよりちょっとうえくらいなんじゃないかってさ」
「なんであいつに彼女なんてできるんだよー」
 ひとりの男子生徒が大声で嘆いた瞬間でした。
「彼女なんかじゃない!」
 廊下側最前列の席に座っていた女生徒がとつぜん立ちあがりました。
「な、なんだよ、紗奈」
 大声をあげた男子生徒がたじろぎます。紗奈と呼ばれた女生徒は長い髪をふたつにたばねたヘアスタイルに、くりくりの大きな目が特徴的な女の子でした。彼女はひたいに青すじを浮かべ教室後方の男子生徒をにらんでいます。
「そんなに怒ることないだろ。っていうか別に凪に彼女ができようが関係ないじゃないか。おまえたちはただの幼なじみで、つきあったりしてるわけじゃないんだろ」
 男子生徒がそう言い返すと、紗奈は大きな目を吊りあげます。身体からはまるで怒りのオーラが見えるようでした。
「そ、それよりも……」
 その勢いに圧倒された男子生徒が慌てて話題をそらします。
「最近、このあたりで行方不明者が出たんだってさ」
 別の生徒もその話題に乗っかります。
「へ、へえ。そ、それは怖いな。誘拐かな? おれたちも気をつけないとな。あはははは……」
 頭上で始業のチャイムが鳴ります。
「あ、やばい。次は移動教室だ。急がないと」
 そう言って三人の男子生徒はそそくさと教室を出ていきました。入れ違いに黒髪で背の低いおとなしそうな少年が教室に入ってきます。手元ではスマートフォンを操作していました。
「凪ちゃん」
 紗奈が声をかけました。
「どこにいってたの?」
「どこって、トイレだけど……」
 凪はおっとりした声でこたえます。紗奈は休み時間ごとに教室を抜け出す凪のようすを不審に思いほんの少し訝しみましたが、それと同時に彼女のなかで先ほどクラスメイトに言われた台詞が思い出されました。
「ただの幼なじみだろ」
 まぎれもない事実に紗奈は言葉を押し殺します。
「ううん、なんでもない。それより、次、移動教室だよ。早くいかないと怒られちゃう」
 そう言って凪の手をとり教室を出ていきました。誰もいなくなった教室では、黒いシミがぼやっと大きな影になり、そしてすぐに消えました。

 放課後のチャイムが鳴ると、紗奈は教室後方に向きなおります。となりに住んでいる幼なじみに声をかけるためです。
「凪ちゃん、一緒に帰ろ……」
 しかし、そこにはすでに凪の姿はありません。先ほど噂話をしていた男子生徒のひとりが教室後方の扉を指さします。まだ他の生徒が帰りじたくをしているなか、扉がすでに開いていました。
「あー! また!」
 紗奈は頬をぷくっとふくれさせました。その姿を見て、男子生徒がくすくす笑います。ですが、紗奈としては笑いごとではありません。鞄のなかに教科書を押しこみすぐに教室を飛び出します。廊下でとなりのクラスの先生とすれ違います。
「走っちゃダメよ!」
「すみませーん」
 慌てて下駄箱までいきますが、そこにも凪の姿はありませんでした。
「なんで、そんなに急いで帰っちゃうのよー」
 ぶつぶつとひとりごとを言いながら、紗奈は靴を履きかえ学校をあとにしました。

「ただいまー」
 平坂中学校から五分ほど歩いた場所に『ノン・チャ・モード』という小さなジェラート屋さんがあります。そこが紗奈の家。三年まえに紗奈の母親は会社を退職し、実家の一部を改装して念願だったお店を開くことにしました。客の入りは上々で、忙しいときには娘の紗奈が手伝いをするほどです。
 その日もノン・チャ・モードは、近所の高校生が数組店内で購入したジェラートの写真を手持ちのスマートフォンで撮影していました。
「新商品、さっそく売れてるよ」
 紗奈の母親が嬉しそうに言いました。この店はノン・チャ・モードという店名の通り『まさか』という素材を使用したジェラートが目玉のひとつになっています。
「おかあさん、今度はなにをアイスにしたの?」
 紗奈が聞くと母親は嬉しそうに筍を取り出しました。
「はあ? 筍?」
「春だからね」
「あうう……」
 紗奈はこの店が潰れないか本気で心配になります。頭をかかえていると母親が言います。
「普通のフルーツのジェラートもあるから安心しなさい。っていうか、うちの変わり種ジェラートもけっこう美味しいのよ。あんたは嫌がって試食もしたがらないけど」
 紗奈の目のまえに広がるショーケースには季節のフルーツやミルク、チョコレートなどのジェラートがならび、そのなかにあたりまえのように筍のジェラートや青汁のジェラートもならんでいます。
「それより、ちょっと店番お願い。おかあさん、銀行にいってくるから」
 そう言ってエプロンを紗奈にわたします。
「あ、それから……」
 店を出ようとするときもうひとこと紗奈に伝えます。
「さっき凪ちゃんきてたよ。スプーンをふたつ持っていったから誰かと食べるのかしら。やけに楽しそうな顔してたよ」
 紗奈の心臓がドキンと跳ねます。ここにも凪のデートの痕跡があったのです。しかし、紗奈はそのデート相手の女性を知りません。おばけや宇宙人なども同じですが一度も会ったことない女性の存在は、頭ごなしに否定したくなってしまうものです。それが凪の恋人というのならなおさらでした。子どものころからずっと一緒にいて、家族ぐるみで仲がよくて、これから先もずっと一緒にいると思っていた凪が自分から遠く離れていってしまうなんて考えたくもありません。そんな感情が、彼女の心の平穏を乱していました。
「ふふふふふ……」
 耳元で声が聞こえます。紗奈はあわてて振り向きましたが、そこには誰もいませんでした。凪に恋人ができたという噂を聞くようになってから、心が乱れおかしな声まで聞こえるようになっています。
「さびしいよ……」
 紗奈は誰もいない店内でひとりつぶやきました。言葉の波紋が宙に見えない同心円を描きます。しかし、彼女の言葉にこたえる人はどこにもいませんでした。

 翌日の土曜日、紗奈はテスト勉強をするために午前中から図書館へ出かけました。出かけるまえに凪の家に寄って、一緒に勉強しないかさそおうとしたところ、凪の母親からはのぞまないこたえが返ってきました。
「あの子なら、朝早く出かけていったわよ。デートって言っていたから、てっきり紗奈ちゃんとお出かけするんだと思ってたけど……」
 その言葉に紗奈は頭頂部を鈍器で殴られた以上の衝撃を受けました。肩をしゅんと落とします。
「わかりました」
 そう言ってとぼとぼと凪の家を離れて図書館へ向かいます。すでに勉強をするという気分でもなかったのですが、他にいくあてなどありません。近所の公園や少し離れた場所にあるショッピングモールにいくことも考えましたが、そんな場所へと迂闊に足を踏みこめばデート中の凪と鉢あわせする恐れもあります。それならば、安全にひとりでいられる図書館の自習ブースにこもって認めたくない現実から目をそらしていることを選びました。
「はあ……」
 教科書を開いても、ノートをまとめても、出てくるのはため息ばかりでその内容など少しも頭に入ってきません。時間だけが無常にすぎます。今ごろ凪は知らない女性とどんなことをしているのか、笑っているのか、それ以上のことが起こっているのか、想像したくない想像ばかりが膨らみました。目のまえはちかちかとハレーションを起こし、図書館の静寂が秒針の鳴き声とともに彼女の耳にかん高い無音のサイレンを響かせます。
「凪は、私の……」
「きゃあっ!」
 耳元で聞こえた声に紗奈は悲鳴をあげました。周囲の人がいっせいに彼女に目を向けますが、紗奈はそれどころではありません。周囲をぐるりと見まわしますが、背後には誰もいないどころか、すぐうしろは壁になっていました。シミがうっすら沈着しているだけで誰か人間が入りこむすきまなどどこにもありません。勉強に集中できないどころか、いよいよ精神的にまいってしまったのだろうと思いました。
「すみません」
 力なく誰にともなくそう言うと、紗奈は荷物をまとめて図書館の自習ブースを離れました。

 図書館を出ると、すでに夕方。風が少し冷たくなっていました。彼女の頬をなでる風に湿っぽさを感じながら紗奈は帰路につきます。肩の重さに首を沈めて歩いていると、あっというまにノン・チャ・モードの店が近づきます。
「あっ……」
 顔をあげた紗奈の視界には凪の姿が映りました。凪はちょうどノン・チャ・モードから出てきたところです。手に持ったジェラートにはプラスチックのスプーンがふたつささっています。いつか母親が言っていた台詞を思い出しました。
「誰かと一緒に食べるのかな」
 そこに凪の母親の台詞や学校での男子生徒の噂話を総合すると、年うえの女性と一緒にこのジェラートを食べるのだろうという予想したくない予想が立ちます。凪は紗奈の存在に気づいていません。紗奈はそんな凪に声をかけることができませんでした。時間をおいてノン・チャ・モードの店に入ると母親が言いました。
「今、凪ちゃんきたよ」
「うん、知ってる」
 自分の声が思った以上に沈んでいることに紗奈は驚きました。母親は「今、お客さんもいなし、ちょっとお店見ていて。宅配便が届くと思うから」と言うと奥の居住スペースに入ってしまいました。時刻は十七時をまわっています。そろそろ夕飯のしたくをする時間なのでしょう。土曜日夕方であっても日が落ちればジェラート屋にお客さんはあまりきません。紗奈はひとりぼっちでショーケースの奥に立ちました。無音の音が耳に痛く、なにもせずにいると凪のことばかりが頭に浮かんできます。
 そういえば子どものころに、凪とこんな会話をしたなと思い出します。
「紗奈は将来、おれのお嫁さんになるんだ」
「どうして?」
 幼い紗奈の目を凪は見つめます。
「だって紗奈はいつもおれのことを怒るじゃないか」
「それは、凪ちゃんが悪いこととか間違ったこととかをするからでしょ」
「そう。だから、これからも紗奈にはおれの間違いを正してもらう。一生な」
 幼い子どもの会話といえばそれまでですが、紗奈にはそれが一生で一度きりの光りかがやくプロポーズの言葉のように感じられていました。
 しかし、今、凪は自分の知らない女性と楽しい時間をすごしている。子どものころの約束どころか自分の存在さえ忘れてしまっているのではないか。そんな悲しみが紗奈のなかからこみあげてきます。
「よりにもよって、年うえの女性だなんて……」
 相手がただの美人ややさしいだけの人ならば、負けず嫌いの紗奈は努力で対抗しようとしますが、彼女のまえに立ちふさがるのは絶対的な年齢という壁です。努力では覆すことができません。そんな現実に、悲しみと涙がこみあげてきます。
「それならせめて……」
 紗奈はその女性の顔をひと目だけでも見たいと思いました。今まで逃げていた現実を目のあたりにすることで、凪への想いを断ち切ろうとしたのです。
「ねえ、おかあさん。私、ちょっと出かけてくる——」
 そう言ってショーケースをこえ、扉に向かって歩き出したところで店内に人がやってきました。
「宅配でーす」
 こんなときにとも思いましたが、紗奈ははやる気持ちを抑え荷物を受けとり、伝票にサインをしました。中身は果物と季節の野菜のようです。ジェラートに使う材料でした。紗奈は手伝いのいつものくせで箱を開けて検品を始めます。色が悪くなっているものや腐っているものを先にはじかないと中身すべてがダメになってしまうからです。はじいた果物と野菜をとりあえずエプロンのポケットに入れて、ダンボールはそのまま床おきにしてお店を出ました。外はすでに暗くなりかけています。
「ちょっと紗奈! あなたこんな時間にどこいくの——?」
 背中から母親の声が追いかけてきましたが、それを無視して走ります。しかし、周囲に凪の姿はありません。先ほど店のまえで彼の姿を見てからすでに三十分以上時間がたっています。他人のデートのいき先など第三者がわかるはずもありません。それでも店を飛び出した以上、どうしても凪の姿を探さずにはいられません。紗奈は記憶をたどります。このあたりで恋人同士がデートをするところはどこだろう。近くの公園か、少し離れたショッピングモールか。紗奈の家でジェラートを買ったということはショッピングモールの目はつぶれます。そうなると考えられる場所は公園です。紗奈はそちらに足を向けます。
「いや、違う!」
 その瞬間にひらめきました。昨日、学校で男子生徒がこんな話をしていました。
「となりのクラスのやつが、神社でジェラートを食べているところを見た」
 紗奈はきびすを返すと公園ではなく神社の方に走り出しました。
 
 十分後、息を切らして紗奈は神社に到着しました。学校の裏にある神社。街の喧騒を離れてひっそりと鳥居が立っています。その奥にあるのは長い石段。すでに暗くなっている夜の神社の石段を一段ずつあがっていきます。胸がどきどきと鳴っていたのは緊張のせいか石段をのぼったせいか、紗奈にはわかりませんでした。
「……そんな……おれ……本気で……」
 紗奈の心音のあいだを縫ってわずかに声が聞こえてきました。しんと静かな神社からです。声の主はわかりませんが、男性のようです。紗奈はその声の主が凪であると確信しました。話しているということは、きっと凪は噂の年うえの彼女と一緒にいるのでしょう。いったい自分はどんな気持ちでここまでやってきたのか、凪のまえに飛び出してなにをしようとしているのか、紗奈には自分でもわかりませんでした。しかし、彼女はどうしても相手の女性の顔を見ないと気持ちがおさまりませんでした。進みたい気持ちと逃げたい気持ちを同時に高鳴る胸にかかえながら、一歩いっぽ石段をのぼります。石段のうえには狛犬と獅子が左右にならんでいました。紗奈は向かって左の狛犬の陰に隠れます。すぐ近くから凪の声がします。幼なじみが狛犬の向こうの参道で誰かと話をしています。
「……そうすれば、ずっと一緒にいられるの?」
 その言葉に紗奈は衝撃を受けました。ずっと一緒にいる。まるで永遠を誓うプロポーズの言葉のようにも聞こえます。片想いの相手をここまで惚れさせた女性がどんな人物なのか、紗奈は確認しようとします。ゆっくりと狛犬の陰から顔を出します。ぼんやりと男のシルエットが見えます。それはこちらに背面を向けていました。小柄で黒髪の男性。凪の背中でした。山道のなかほどに立つ凪は言います。
「もちろんいくよ。いくに決まってるだろ。きみのいない世界なんて考えられない」
 幼なじみにそう言わしめる相手がどんな顔をしているのかたしかめるため、紗奈はさらに顔を出します。凪の背中ごしにある女性の顔を拝もうとしました。
「え?」
 そこで紗奈は驚きの声をあげました。狛犬の背後から出ていき、凪に向かって声をかけます。
「ねえ、凪ちゃん。いったい誰と話してるの?」
 そこには凪ひとりだけしかいなかったのです。

「どういうこと?」
 紗奈はたずねます。その声に驚いて凪が振り向きます。
「紗奈、どうしてここに……っていうか、ちゃんと紹介してなかったよな」
 そういって半歩身体をずらして虚空に向かって手のひらをしめします。
「ナミさん。おれたち二週間まえからつきあってる」
 そんなふうに言われても、そこには凪ひとりしかいません。紗奈の目には凪と地面の黒いしみ以外、なにも見えないのです。
「凪ちゃん、なに言ってるの? 誰もいないじゃない」
「はあ?」
 凪は呆れたような声を出します。
「ここにいるじゃないか、ほら」
 そう言われてじっと目をこらすと、凪の一歩うしろでしみが広がりぼんやりと黒い影があらわれました。
「ひいっ」
 その影はじょじょに姿を鮮明にしていきます。白いワンピース。長くたらした黒い髪。そして、その顔は茶色くどろどろに溶けていました。
「きゃ、きゃあ!」
 最初に見た印象は人型の腐ったなにかでした。黒髪のしたの目に眼球はなく、そこにあるのは黒い空洞。顔の皮膚はあちこちがめくれて剥がれ、茶色くにごった肉を露出させています。腐敗臭が紗奈の鼻をつきました。
「うっ……」
 のどの奥から感情以外のものがこみあげてきます。今、目のまえに存在する女性は少なくともこの世で生を享受している存在でないことだけは理解できました。
「おい、失礼だろ!」
 凪が声を荒げます。
「ごめんね、ナミさん」
 そう言って顔のただれた女性に凪が顔を向けます。
「いいの……凪は私のもの……」
 怪異の台詞は先ほど紗奈が図書館で耳にしたものと同じでした。
 まさか、この怪異はずっと凪にとり憑き、彼の感情を支配していたのではないか。そんな思いが紗奈の頭をよぎります。
「だ、だめだよ、凪ちゃん……その人、人間じゃない……」
「バカなこと言うなよ。こんなに綺麗なナミさんに対して」
 しかし、凪にはこの怪異が絶世の美女に見えているようでした。
「あまりひどいと紗奈でも怒るぞ」
 そう言って声を荒げます。
「だ、だめ……」
 紗奈は首を左右に振ります。
「さあ、いきましょう」
 怪異は皮膚のめくれた茶色い腕を伸ばし凪の手をとります。
「うん。そうだね」
 凪は抵抗するそぶりも見せず怪異と一緒に境内の方に向かおうとします。
「だめ……」
 紗奈が言います。
「だめえええええええ!」
 おなかの底から声を出し怪異に向かって走ります。そして感情のままに怪異を突き飛ばしました。
「きゃあっ」
 怪異は凪から手を離して倒れます。
「凪ちゃん!」
 紗奈は凪の手をとり引っ張ります。
「お、おい。なにするんだよ、紗奈」
 凪は心底驚いた声を出します。
「っていうか、ナミさん、大丈夫?」
 うしろを振り向こうとします。
「だめなの!」
 ほとんどヒステリーのように紗奈が叫びます。紗奈の視線の先では、首をあらぬ方向に曲げたナミが眼球のない黒いくぼみで彼女のことをにらみつけていました。
「凪は……私の……」
 ひしゃげた口がぱくぱく開きます。その口腔内は歯がところどころ抜けています。
「こ、こないで……」
 ナミが身体をぷるぷると震わせながら起きあがろうとしています。身体がもろくなっているのでしょう。手の甲を地面に押しつけるようにして、ゆっくりと起きあがろうとします。めきめきと音がして手首から骨が露出しました。
「きゃあ! こないで!」
 紗奈はエプロンのポケットのなかから腐った葡萄をとり出しナミに向かって投げつけます。それは先ほど、宅配便から受けとり彼女自身が検品し箱からはじいたものでした。
「ぐぼっ」
 その葡萄がナミのひしゃげた口に命中して炸裂します。
「ごぼっ、ごぼっ」
 ナミが咳きこみました。しかし、それだけ。ナミは空洞の目で紗奈をにらみ立ちあがろうとします。
「やめて!」
 紗奈はポケットの中身を次々ナミに投げつけます。すでに硬くなってしまった筍が頭に命中し、茶色く変色した桃が顔の中心にぶつかります。顔中が腐った果物でぐちゃぐちゃになり、もともとのゾンビ顔とあわせて見るも無惨な姿になっています。
「おい、なにやってるんだよ」
 慌てた凪がうしろを振り返ります。そして、その無惨なナミの姿が彼の目に写りました。
「うわあっ」
 今まで美しい姿をしていたナミが怪異の姿になっていることを知った凪は叫び声をあげました。
「許……さない……」
 真実の姿を凪に見られたナミが怒りに満ちた声をあげます。
「許さない許さない許さない」
 わなわなと震えながら立ちあがろうとします。
「だめ、逃げて!」
 紗奈は凪の手をとり階段に向かって参道を走ります。階段までの距離は数メートル。その距離を凪の手を引き一気に走ります。
「待ぁてえええええええ!」
 背後からナミが追いかけてきました。立ちあがるのをあきらめて、腹ばいになって手で地面をかくようにして前進します。
「きゃああああ!」
 その異様な光景を目にした紗奈は叫びながら走ります。階段までの距離はじょじょに近づいてきます。狛犬と獅子までもう少し。そのあいだを抜ければ階段で、そこを駆けおりれば神社を抜けられる。したには人通りがあるかもしれない。そうすれば助けを求められる。そんな思いで走りました。
「凪ちゃん、あとちょっと!」
 そう言って紗奈が振り向いたときでした。
「逃すかあああ!」
 ナミが手を伸ばしました。その手が紗奈の足首をつかみます。
「きゃっ」
 おなかから紗奈が倒れます。凪をつかんでいた手を離してしまいます。
「許さない許さない許さない」
 ナミが呪いの言葉を吐きます。
「やめて、こないで……」
 紗奈がナミを見て懇願し足をばたつかせます。
「うがあっ」
 ナミはそんな紗奈の足に噛みつきました。
「きゃあっ」
 アキレス腱にぼろぼろの歯を食いこませながらナミが言います。
「さあ、おいで? あなたは私と同じになるの。そして、もう凪は私のもの……」
 暗闇のなか、空洞の目が爛々と輝いているように見えました。
「やめろおおお!」
 そのときでした。ナミの背後から叫ぶ声が聞こえます。それと同時に、巨大な岩がナミの脳天に叩きつけられました。
「ぎゃあああああ」
 ナミの頭がぐちゃりとつぶれます。その姿は紗奈の目に鮮明に写りました。血や肉片が紗奈の顔にも飛び散りました。紗奈はその先に男性の姿を見ました。岩を振りおろした声の主は凪だったのです。彼は神社にあった大きな岩を拾い、ナミの頭に叩きつけたのでした。
「うわああああ!」
 叫びながら凪が岩を振りおろします。それも一度や二度ではなく、何度もなんどもナミが動かなくなるまで振りおろし叩きつけます。
「はあ、はあ、はあ……」
 凪は肩で息をしています。
「ありがとう」
 紗奈がお礼を言いました。手を血まみれにした凪が首を横に振ります。
「おれはなんてことをしてしまったんだ」
 それがナミという怪異に恋をしていたことをさすのか、ナミという生まれて初めてできた美しい恋人を手にかけてしまったことをさすのか、紗奈には判断がつきませんでした。
「大丈夫」
 だから、こう言うしかありません。
「凪ちゃんは悪い病気にかかっていただけ。でも、もう大丈夫」
 凪は震える声でこたえます。
「立てるか?」
「無理かも」
「しかたないな」
 凪が肩を貸し、ふたりは石段をおりて神社をあとにしました。穏やかな風が背中をなでます。
「ふふふ。なんだかなつかしいね」
 夜の街を歩きながら紗奈が言います。
「なにが?」
 凪は聞き返します。
「こうやって凪ちゃんと一緒に歩くの。これからもずっとふたりで歩いていけるのかな」
 それは紗奈にとっての精いっぱいの告白でした。彼女にとっては子どものころの口約束のアンサーでもあります。
「うーん、そうだな」
 凪は照れくさそうに頬をかきます。目のまえにノン・チャ・モードの明かりが見えてきました。
「そういえば、おかあさんが新作のジェラート作ったって言ってたよ。持ってくるね」
 紗奈は照れ隠しにそう言ってお店のなかに入っていきます。そんな背中を凪が見つめます。
「ねえ……」
 どこからか呼び声がします。紗奈はジェラートにスプーンをふたつつけて店を出ました。
「凪ちゃん、おまたせ……あれ? 凪ちゃん?」
 そこに凪の姿はありませんでした。代わりに黒いシミがひとつ。アイスがとろりと汗をかき、それが地面に落ちました。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151518181884
大赤見ノヴ151416161576
吉田猛々161716171682
合計4646505149242