「忘れないで忘れないで忘れないで忘れないで」

投稿者:速水静香

 

いつもの平日の朝だった。
 カーテンの隙間から差し込む朝日が床に細長い光の道を作り、キッチンで淹れたコーヒーの香りがリビング全体に満ちていた。
 通勤前の静かな時間。すべてがいつも通りだった。

 その時、サイレントモードのスマホのLEDが光り、通知が来たことを知らせていた。

『新しいメンション:@x7j_9k5z2#』

 画面上に浮かぶタイムライン系SNSからの通知だった。
 しかし、送信者のアカウント名は、まるで乱数表から抜き出したような意味不明の文字列。
 時刻を見ると、七時ピッタリだ。

「誰だよ。」

 指先がスクリーンをスワイプし、通知は消えた。
 朝の忙しさに追われる中、それ以上深く考える余裕はなかった。
 会社に遅刻するわけにはいかない。おそらくボットか何かだろう。そう思いながらシャワーを浴びた。

 翌朝も同じ通知が来た。
 時刻は正確に七時。内容は空白。ただのメンション通知。

 何だろう、このアカウント、と思った。
 アプリを開いてブロック設定を確認し、そのアカウントをブロックした。不思議に思いつつも、忙しい朝の準備に追われ、それ以上考えることはなかった。

 三日目。
 また七時ぴったりに通知が来た。

『おはよう。』

 たったそれだけの文字。差出人不明の挨拶。
 
 スパムかな、と思った。しかし、昨日ブロックしたはずだった。
 そこで確認すると、昨日のアカウントとは別のアカウントからの通知であることが分かった。
 私は、このアカウントもブロックした。
 
 しかし、次の日からは、毎朝七時ぴったりに『おはよう。』という通知が届くようになった。
 ブロックするたびに新しいアカウントから。
 どのアカウントも自動に作成されているかのような、意味不明の文字列のもの。
 
 際限なく。
 ブロックしても、翌朝には別のランダムな文字列のアカウントから必ず、朝七時に通知が来るのだった。

 これは自動生成プログラムなのか?
 誰かが私を標的にしていた。そして、これは単なるいたずらにしては執念深すぎると思った。
 ただ、それ以外に害はなかったので、淡々とブロックをしていく作業を私は繰り返していた。

 いつのころから、次第に通知の内容が変化し始めた。もちろん、時刻は相変わらず朝七時ぴったり。

『今日も良い一日を。』
『気をつけて行ってらっしゃい。』

 意味のある内容になっている。
 もちろん私は無視して、ブロックをした。

 そんなある朝だった。七時の通知。

『今日の天気予報だと雨が降るよ。』

 私は、そのメッセージを朝読んだことを思い出した。
 そうだった、今日の朝は晴れだったのに、帰り道に雨に見舞われたのだ。
 私は、傘を持たず、ずぶ濡れになった。

 天気予報を見た。
 確かに天気予報では雨になっていたようだ。

 怖いことに気づいた。
 そのメッセージの送信者は私の地域の天気を知っている。

 もしかして、GPS情報でも盗まれているのか?
 位置情報をオフにしたが、その日、不安は消えなかった。


 
 そして、次の朝の七時。

『昨日の夕食のスパゲティ、おいしそうだったね。』

 これはどういうことだ?
 昨夜、確かに私はスパゲティを作って食べていた。
 それをどうして知っている?

 私はちょっとしたパニックに陥った。

 しかし、最終的に私は、スマホのカメラやマイクが遠隔操作で起動されている可能性に思い至った。
 ネットで調べると、スマホの乗っ取りは実際に起こりうる犯罪だという。
 マルウェアに感染すれば、カメラやマイク、位置情報などすべてが筒抜けになってしまうらしい。

 このスマホは完全に乗っ取られている。
 そう判断するしかなかった。

 恐怖に押しつぶされそうになり、ついに決断した。
 スマホを新しいものに買い替える。
 新品のものを通販ではなく、店舗で直接買って、その場で開封する。
 そして、余計なアプリは一切入れない。もちろん、以前のデータは一切引き継がない。
 電話番号すら新しいものにして、もはやSNSアプリすら入れなかった。

 正直、ここまですれば解決した、と私は思った。
 
 新しいスマホなら、どんなマルウェアも引き継がれるはずがない。
 別のSIMで、新しい回線、新しい電話番号。それを初期状態で使えば、もう私の情報にアクセスできないはず。

 しかし、新しいスマホを使い始めた翌朝――。

 七時ちょうど。スマホの通知音。恐る恐る見ると、初期インストールされていたメールアプリに通知があった。
 差出人は「tomoko@noreply.com」。

『新しいスマホ、素敵だね。でも、スマホカバーとスマホの色が違うよ。』

 心臓が飛び出しそうになった。これはもはや現実離れしている。

 通常のハッキングでは説明がつかない。
 どうやって新しい電話番号を知った?
 どうやって新しいメールアドレスを見つけた?

 まだ誰にも新しい連絡先を教えていないのに。

 ということは、スマホの問題ではない。
 私のアカウント情報が全てどこかで漏洩しているのか?
 もしかしたら、スマホを買った店の店員が関与しているのか?

 …いや、それでも説明がつかないことがある。

 スマホの色やカバーの色を正確に見られている。

 監視カメラ?
 いや、誰かが物理的に監視しているかもしれない。
 常に誰かに見られているという感覚がした。

 自分の部屋なのに、プライバシーも安全も奪われた気分だった。

 警察に行くべきか?
 でも、なんていえばいいのか?
 証拠となるアカウントはすべて削除してしまった。
 あるとすれば、このメール。
 この一日分のメールだけでは、訴えは難しいだろう。
 私は頭を抱えた。

 私は頭を抱えた。この状況を誰かに相談すべきなのか、それとも自分で対処すべきなのか。考えれば考えるほど、行き詰まっていく感覚だった。
 夜になっても、頭の中は同じ考えがぐるぐると回り続けていた。不安で寝つきが悪かった。

 誰かに見られているという感覚に取り憑かれていた。
 結局寝ることを中断して、部屋中の電子機器を疑い、隠しカメラがないか探し回った。
 しかし、何も見つかることはなかった。

 翌朝、七時ちょうど。

『返事をして。』

 相変わらずだった。

 ただ、もはや私の中では恐怖よりも別の感情が上に来ていた。
 この人物に返信しよう、と。

 私はメールアプリを開く。返信しようする、そこで気がついた。

 このメールへ返信をすることは不可能だということに。
 というのも、この送られてきているメールは、返信専用のアドレスだったからだ。

 しかし、「返事をして」という文面に、私はふと思いついた。
 もし監視カメラを使って、遠くから見ているのならば、画面に文字を表示することで、返信できるのではないか。

 そこで私はメモアプリを開いて、入力した。

『あなたは誰?どうして私のことを知っているの?』

 送信先がないので、画面に表示したまま待った。
 こんなこと、しても意味がないのに。
 どこかでそう思っている自分がいたが、もしカメラを使って監視しているのならば、この画面も見えるはずだった。

 数分後、再び通知が届いた。今度は七時を過ぎているのに。これまでになかったことだ。

『私はずっとそばにいるよ。怖がらないで。』

 血の気が引いた。そう、私は監視されることが証明されたのだ。そして、メッセージは七時以外にも届くようになったのだ。
 しかし、私は努めて冷静になり、メモアプリへ入力をつづけた。

『何が目的なの?』

 返事を待った。しばらくして通知。

『あなたが特別だから。私たちはもう長い間一緒だよ。』

 意味が理解できなかった。
 しかし対話が成立している。

 それから、しばらく、この奇妙な相手との対話が続いた。
 質問しても具体的な回答はなく、

『私はあなたの側にいる。』『あなたを見守っている。』

 というメッセージが続いた。もはや朝七時という制限はなくなり、私がメモアプリに入力するたびに返信が来るようになった。

 堂々巡りのような回答の中で、私は閃いた。
 私のことでなく、相手について質問すればいいのだ、と。

『あなたの名前は?』

 返事は意外なものだった。

『中村智子。覚えていない?』

 その名前に記憶はなかった。学生時代のクラスメイトの名簿を確認しても、そんな名前の人物は見当たらなかった。

『会ったことがない名前だ。』

 私はメモアプリで返信する。

『そう、忘れてしまったのね。仕方ないか。』

 そのメールが届いた。
 そして、間を開けずに次々とメールが届き始めた。
 
『私たちが初めて会った時のこと、覚えていない?』
『あの日、あなたは私に手を差し伸べてくれた。』
『あなたがいなければ、私は今ここにいない。』

 メールが届いた通知音の中で、私は必死に思い出す。
 しかし、記憶を必死で探っても、だれも思い当たらない。
 中村智子という人物との接点が見つからなかった。

 その夜、メッセージの内容が突然変わった。

『明日、駅前の緑色の看板がある大手コーヒーチェーン店に来て。午後3時。私があなたを見つけるから。』

 実際に会うという提案に、恐怖心が沸き上がった。
 しかし、一方でそれで解決するかもしれない、とも思った。
 行くべきか迷ったが、この異常事態を終わらせるには直接対面するしかないと思った。

『分かった。』

 私がメモアプリで返信したが、それに対しての返信はいくら待ってもなかった。

 約束の時間。
 私は会社を抜け出し、指定されたコーヒーショップに入った。
 
 平日の午後だったためか、客はまばらだった。学生や私のような会社員の姿が目目立った。
 誰が中村智子なのか見当もつかない。

 カウンターで注文を済ませ、壁際の席に座った。
 店内には馴染みのある香りが充満し、天井からは洋楽が流れている。特に問題はない。
 よくある大手コーヒーチェーン、という雰囲気だった。

 アイスコーヒーを飲みながら待つこと15分。
 誰も声をかけてこない。

 さらに15分経過。
 再集積に、一時間経っても、中村智子を名乗る人物は現れなかった。

 ダメだったか。
 そう思った。

 そして、最後に私は、この店のトイレを借りることにした。
 白いタイル張りの清潔なトイレで用を済ますと、幾分、気分は落ちついた。

 席に戻ると、テーブルの上に一枚の折り畳まれた紙が置かれていた。
 周囲を見回したが、誰も怪しい者はいない。

 紙を開く。
 乱れた文字で書かれていた。子供が書いたような不揃いな字だが、内容は理解できた。

『ごめんなさい、今日は会えませんでした。でも安心して。私はいつもあなたのそばにいます。中村智子。』

 怖くなって、私は何度もその紙を見つめた。
 鉛筆で書かれたような薄い文字。紙がどこから現れたのか、結局、分からなかった。

 帰宅後すぐ、スマホの通知が鳴った。もはや時間は関係なかった。

『会えなくてごめんね。でも手紙は受け取った?』

 私はこれまで通りに、メモアプリに文字を入力した。

『あなたは本当に誰?なぜ私のことをそこまで知っている?』

 返事が来た。

『あなたの一部だから。』

 意味が掴めず、さらに質問した。

『どういうこと?』

『あなたが私を作ったの。』

 混乱した。私が作った?何を言っているのか。

 その夜、妙な夢を見た。幼い頃の自分が一人で遊んでいる。想像上の友達と会話している。
 その友達の名前は…「ともこ」。目が覚めると汗でシーツが濡れていた。

 朝七時。通知が来た。

『思い出した?私たちの始まりを。』

 私は思い出した。幼少期、確かに想像上の友達がいた。親や先生が心配するほど、その友達の存在を信じていた。でも小学校高学年になる頃には忘れていた。まさか…。

『ともこ…中村智子?それが君なの?』

 すぐに返事が来た。七時を過ぎていたが。

『そう、やっと思い出してくれたね。』

 ありえない。子供が想像した友達が、この世に実在するわけがない。それも30年近く経った今になって。

 しかし通知は続いた。

『あなたが創り出した私。あなたが忘れても、私は消えなかった。ずっとあなたを見守っていた。』

 恐怖と混乱で頭が真っ白になった。
 医師に相談すべきか。精神疾患の初期症状なのか。それとも本当に何か超常現象が起きているのか。

 私はメッセージへの返信をやめた。

 しかし、一日中様々な時間に通知が届くようになった。

『私を忘れないで。』
『また一緒に遊ぼう。』
『私はずっとここにいるよ。』

 まるで子供のような口調のメッセージが届く。
 そして記憶の片隅から、幼い頃の「ともこ」との会話が断片的に蘇ってきた。いつも同じ言葉を使っていた。「忘れないで」「一緒に遊ぼう」「ずっとここにいるよ」。

 もうだめだ。私は病気なのかもしれない。私は、心療内科を訪ねることにした。
 

 白衣を着た中年の医師は、ずっとパソコンの画面を見ながら、私の話を半分だけ聞いているようだった。
 私が起きたことをすべて話し終えると、彼はあっさりと診断を下した。

『ストレス性の急性症状ですね。しかし、あまり心配することはありません。処方箋に従って、きちんと飲んでください。また、ストレスの原因から離れてください。』

 結局、医師は私の目を見ることなく、機械的に処方箋を書き始めた。

『ストレスで幻覚が見えることがあります。』『薬を飲めば治まるでしょう。』

 要約すると、たったそれだけ。
 何か要領を得なかったので、私が言葉を続けようとしても、次の患者が待っているからと急かされた。

 処方された薬を受け取ったが、釈然としない気持ちが残った。

『抗不安薬』『睡眠導入剤』

 本当に私の症状はこれで解決するのか?
 本当にこれは幻覚なのか?
 もし幻覚なら、なぜ私の子供時代の記憶と一致するのか?
 では、なぜ他人の目にも見える紙の手紙が存在するのか?

 ただ実際に最近、確かに仕事の重圧や人間関係の摩擦が激しかった。そのせいで幼少期の孤独感が呼び起こされたのかもしれない。
 私は仕事を休職することにした。
 心療内科を受診したことを伝えると、同僚や上司は理解してくれ、私はしばらく仕事を休むことになった。

 今日は、気分転換に部屋の掃除をした。
 私の部屋の棚には、これまで取ってきた、写真アルバムがあるそれを整理していた時だった。何かが気になった。
 私はペラペラとアルバムをめくっていった。
 これでもない…あれでもない…。

 そして気がついた。
 それは、小学校の低学年時代にクラスで撮った集合写真だ。
 そこに映っている少女が異様に気になった。
 後列、端から二番目。細い顔立ちの、物静かそうな女の子。

 アルバムの次のページには、顔写真と名前のページが続いた。
 クラス全員の名前が、分かる。
 私は気になった少女の名前を見る。

 その少女の名前。
 中村智子。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151518121272
大赤見ノヴ161515161678
吉田猛々161516171781
合計4745494545231