暗い部屋に閉じ込められていた。
なぜこんな所にいるのかも分からない。
俺はあちこちを手探りで触ってみた。綾目もわかぬ闇の先に、木の壁があるのだけが分かった。
壁の向こうに、人が居るような気がした。
俺は壁をドンドンと叩いた。
「中に……、居るのか?」
「いるよ。だれ? ここ、どこ? まっくらで、こわいんだけど」
「出てこい」
「ぼくも出たいよ。でも、あかないんだよ。カギ、かかってるのかな?」
「いや、鍵は掛かっていない」
だったらなんで、出っ張りに手を掛けて横に動かしても開かないのか。
「じゃあ、外から開けてよ」
外に居る誰かが、笑ったように思った。言わなかった方が良かったのか。いや、ここに独り居る方が怖い。
「開けろ、と言ったな。それを、待っていた」
“シャッ”という音と共に暗闇が四角く切り開かれた。外もどうやら夜みたいだったが、部屋の中よりはずっと明るく感じた。
俺は必死に、もう一度閉められる前に、外に飛び出した。
外には、俺を待っている人が居た。怖い顔だったけど、口を大きく開けて笑っている。助けにきてくれたんだ。俺はその人の中に飛び込んでいった。
俺の名前は沢渡洋(さわたりよう)。今20歳で大生をやってる。東京で一人暮らしをしてて、遊びたいから学校よりバイト先で過ごす時間の方が長いくらいだ。まあ、なんちゃって大学生だ。
最初に書いたのは、俺の一番古い記憶だ。何でそんな事を書いたかというと、最近記憶が曖昧になっているからだふぅ。
あっ、今打ち込みもミスしてしまった。でも敢えて直さない。何か、最近こんな事が多いんだ。ノートにも、自分で書いた記憶が無い文字が書かれてる事がある。
これを読んでくれた人、気付いた事があったら俺に教えてくれ。取り繕う事はしないから。
まだ、俺が普通だった時の話から書こう。
俺は彼女とラブホテルの狭い部屋に居た。俺が一人暮らしだから部屋すればいいんだが、壁薄くて隣のヤツに珠美の声を聞かれのが嫌だったし、たまに珠美が大声を出したい時とか趣向を変えた時に利用する。これもバイト代が必要な理由だ。
ただ、俺はラブホテルが苦手だ。理由は窓が無いから。部屋の電気を消すと真暗になり、子供の頃の事を思い出すからだ。暗くて狭い所が怖いなんて、最近観たリメイクの『うる星やつら』の面堂終太郎みたいだと思った。
だから、ラブホテルで珠美とする時は電気を煌々とつけている。最初は『恥ずかしい』と言っていた珠美だったが、今は何かに目覚めてしまったみたいだ。
ベッドでゴロゴロしていたらスマホが鳴った。俺はスマホを開いてLINEを読み、溜息を吐いて布団に投げた。
「洋、誰から?」
「別に」
珠美は唇を尖らせて『女でしょ。浮気?』と訊いてきた。可愛いし、一緒に居て楽しいけどちょっと嫉妬深いのが玉にきずだ。
「まあ、女には間違いないな。でも、母親だよ。来週帰ってこいって」
俺が生まれ育った村にはお盆前に祭がある。神輿も屋台も出ないつまらない祭で、正直面倒だった。それを伝えると、珠美は俺に帰るように勧めてきた。意外に珠美は家族を大切にする性格だった。仕方なく俺は帰る事にした。
電車とバスを乗り継いで故郷に着いた。実家から最寄りのバス停の間には林がある。真直ぐ突っ切ると10分で実家に着き、う回すると30分かかる。その日はとても暑く、ペットボトルのお茶もほとんど残っていなかった。自販機も近くに無い。
俺は悩んだ。村の夏祭の3日前からこの林には立入禁止という掟がある。夏祭は8月9日からで、その時は8月6日。夏祭当日をカウントするのかどうか覚えていなかった。
母親に聞くのも面倒だったし、とにかく早く家に帰って涼みたいから、俺は夏祭の日も入れて3日という判断にした。こんなのどうせ迷信なんだから。
林の中は、枝葉に強い日射しが遮られて薄暗かった。ただ、そのお陰で涼しかった。ぶらぶら歩いていたら、遠くの木の枝に鳥が止まっているのが見えた。そう言えば、この林の中に入って初めて見た生き物だったかもしれない。
「ギィエェェェェェェーーーーーーーー!」
鳥が聞いた事も無いような声で鳴いた。俺は肝が冷え、実家へ全力疾走した。
「おう、洋、帰ってきたんか」
古い家屋の玄関の前で息を整えていると叔父さんが声を掛けてきた。伯父は実家で祖母と俺の両親と一緒に住んでいる。結婚はしなかったらしい。俺は数年後珠美と結婚するつもりだった。
「丁度良かった、手伝ってくれ。俺も年取ったからこれ持って歩くの危ないからさ」
伯父は供物が乗っている、白木のお盆みたいのを指差した。供物は卵、イクラ、ザクロだった。まあ仕方ないかと思って手伝う事にした。俺は伯父に渡された塩水を少し飲み、耳に濡れた綿を入れた。驚いた事に、伯父はたった今俺が出てきた林の中に歩いていった。
俺はここを通ってきた事は、言えなかった。林道を抜け、古ぼけた鳥居をくぐり、社に着いた。俺達は社の前に供物を置いて実家へ戻った。
「ねえ、伯父さん、あの神社の神様は何なの?」
「ああ……、あそこには沢渡の家の守り神が祀られてんだ。でも約束を守らないとバチが当たるんだぞ」
「守り神なのに?」
「ハハハ、厳しい神様なんだよ」
伯父の笑いは乾いていて、何かを隠していそうに感じた。
「まあ、洋のお陰で仕事も早く終わったよ。ありがとうな。東京では忙しいんだろ? ここに居る間はゆっくりしてたらいい」
そう言うと伯父は冷蔵庫からビールを取り出し、ちゃぶ台の上に置いて何処かへ出掛けていった。俺はありがたくビールを飲み、畳の上に横になった。幸いこんな古い家でもwifiは完備されていて、俺はデータ量を気にせずYouTubeを楽しめた。そして、いつの間にか寝てしまった。
バタバタバタ。
俺は眠りから覚めた。俺の周りを誰かが走り回る気配と音がした。まだ眠かったから、目を瞑ったまま様子を窺った。どうやら子供のようだった。12歳上の兄の守彦(もりひこ)は結婚していて、走っているのはきっと5歳になる甥の健(たける)だろうと思った。
健は可愛く思っているが、今はまだ酒が残っていてだるい。俺は寝た振りでやり過ごす事にした。でも健は諦めず俺の周りを走り回った。さすがに狸寝入りは続けられず、俺は『分かったよ』と言いながら体を起こした。
誰も居なかった。気配も消えていた。
俺は家の中を、兄夫婦と健を探して回った。古い家なので無駄に広く、隠れる所はあちこちにある。こんな歳になって隠れん坊などバカバカしいと思った。でも、何処にも居なかった。
「母さん、兄貴と百合さんと健は?」
「は? あなた何を言ってるの? 守彦が帰ってくるのは明日よ」
「えっ、でも……」
何か勘違いしていたのかもしれふぁいと思った。でも、とにかく健が居ないのでゆっくり出来ると思った。俺が帰ってきたのでその日の夕飯はすき焼きだった。一人暮らしでは食べられない高級肉はめっちゃ美味かった。祖母が元気そうなのが嬉しかった。
翌日午前中、伯父からまた供物を運ぶ手伝いを頼まれた。2日目の供物は若鶏の肉、生鮭の切り身、ザクロだった。鳥居をくぐる時、上の横棒に昨日は無かった傷が付いているのに気がついた。大きな動物が爪で引っ搔いたような傷だった。
「こ、これは、どうした事だ……」
一足早く社の前に立っていた伯父が、震える声で呟いた。
「伯父さん、どうしたの?」
「供物が、減ってないんだ」
お墓参りのお供え物は減る事はない。この供物もそれと同じだと思っていた。だから、逆に減っている方が怖い。いや、そうか。
「動物が食べるって事?」
「そうじゃない。神様が食べるんだ。でも、食べてないとなると……、別の何かを見つけたのかもしれん。洋、とりあえずそれはここに置いておけ。俺は先に帰る」
そう言うと、伯父は脱兎の如く林道を走っていった。
俺は伯父に言われた通り供物を社の前に置き、ぶらぶら実家へ帰っていった。昨日見た大きな鳥は居ないかと探したが、今日は姿を見られなかった。やっぱり今日も林の中には生き物の姿は無かった。
実家の引き戸を開けると、三和土(たたき)の上の部屋に居る伯父、父、母が振り返った。伯父の顔だけが引き攣っていた。伯父は手にボロボロの本を持っていた。
「洋、帰ってきたのね。あのね、お義兄(にい)さんが言ってるんだけど……、あなた林になんて入ってないわよね?」
「入ったよ。昨日と今日、伯父さんと一緒に」
気になる事があったが、敢えて言わなかった。嘘は言っていない。
「そう言う事じゃない。一人で入らなかったかって、聞いてるんだ」
どうやらこれ以上ごまかす事は出来ないみちゃいだ。俺は昨日林の中を通って帰ってきた事を白状した。すると伯父の顔色が変わった。
「そ、そこで、何か、見なかったか?」
「見たよ。めちゃくちゃでかい鳥。あんなのこの辺に居るんだね。もしかして新種かな? 捕まえたら俺の名前が付いたりして」
「ああっ」
伯父は頭を抱えてうずくまった。この様子に不穏なものを感じたらしく、母が心配そうに『何か、まずいんですか?』と訊いていた。
「ああ、俺は親父と爺さんに話を聞いてな、この本を調べたんだ」
伯父は茶色く変色した本を俺達に見せてきた。そして、沢渡家に関する言い伝えを話し始めた。
伯父ぐぁ話した内容はこうだった。
≪七百年位前、地主だった谷中家が所有する林に、猿の顔をし大きな猫の体をした翼のある妖怪が現れた。近隣住民に頼まれ、当時の当主の谷中正厳(やなかしょうげん)が退治に向かった。
西の方から一族でやってきた妖怪を、結局退治は出来なかったが、妖怪と交渉の末毎年夏に祭を行う事、祭の前の三日間供物を社に奉納する事になった。その代わりに谷中一族に繁栄を約束する。ただ、三日間は供物を運ぶ者以外林に入る事は禁じられ、供物を持ってくる際も妖怪の声を聞かないように耳に濡れた綿を入れるように言われた。
そして、禁を破った者は、妖怪に七つの歳の魂を差し出さなくてはいけない。
それ以来、“谷中”と名乗っていた先祖は、猿と渡りをつけたという事、妖怪と契約をして障(さわ)りがあるかもしれないという事で“沢渡”と改名した。≫
「あの時聞いた恐ろしい声は、もしかして妖怪だったの?」
「多分な……」
俺は吹き出しそうになった。冗談で言ったのに、伯父は真剣な顔で頷いていた。
「でもさ、7歳までの子供の魂って事は、俺はもう20歳だから大丈夫って事?」
俺の話を聞き、母が少しホッとしたように見えた。
「いや、言い伝えでは声を聞いた者の魂を分離させ、7歳の魂にして喰らうらしいんだ」
俺は昼寝をしている時走り回っていた子供の正体を悟った。そしてそれを叔父と両親に話した。叔父は俯いて頭を振った。母は貧血を起こしたようによろめき、父親に抱き止められていた。
「伯父さん、何で7歳で、魂を喰われたらどうなるの?」
「正確には分からない。頼みのこの本が大分虫に食われているからな……。7歳までは“神様の子”と言われるくらいだから、妖怪にとってはご馳走なのかもしれない。で、魂を喰われた者は、妖怪に心を乗っ取られるらしい」
自分が自分でなくなってしまう恐怖で、俺の全身に鳥肌が立った。
「俺……、東京に帰るよ……」
ここから離れれば妖怪の目から隠れる事が出来るかもしれない。その結果もう一生実家に帰れなくてもかまわない。俺は荷物を取りに行こうとした。
「無駄だ、奴等には羽があるんだ」
「お義兄(にい)さん、何か方法はないんですか?」
「ある、この本に生き残った数人の例が書いてある」
俺は木で人形を彫らされた。急いで彫ったのでこけしみたいな形になったが、伯父は『これでいい』と言った。それを持って林の中の社に行き、人形に息を吹きかけ、社の中の中心置いた。
伯父は社の戸を閉めると、戸の横に乾いた黄色い砂をまいた。俺にそこに座り、朝まで決して動かないように言った。そして『夜に妖怪がやってくるだろうが、砂の上に居れば姿は見られない。決して社の戸を開けてはいけない。朝になって妖怪が諦めて帰れば、魂は守られる』と注意事項を言われた。
何かの間違いで、妖怪に見つかる時もある。その時は“ニンゲン”という呪文を口にすればいいらしかった。
伯父が去り、林に夜の帳が落ちた。
真夜中が過ぎた頃、林の中の音が消えた。
『トン、トン』
何処からけぇ音がした。俺は辺りを見回した。何も、居なかった。
『ドン、ドン』
先程よりも大きな音がした。俺は驚いて声が出そうになったのを、何とか手で押さえこんだ。
「ねえ、あけてよ……」
「ココ、どこなの?」
「こわいよ、ねえ……」
6~7歳くらいの男の子の弱々しい声が聞こえてきた。気のせいに違いない。俺は全身から汗が噴き出るのを感じ、両手で耳を塞いでうずくまった。
『パキッ』
小さな音がした。俺は恐る恐る目を開け、林の奥へ目を凝らした。影が凝った所に、光る一対の眼がいくつもあった。
「な~んだ、ここに居たのか」
「さあ、喰おうか」
怒りが混じった唸り声が聞こえた。俺の心臓が悲鳴をあげた。
「おい! こいつはオレが見つけたんだぞ。手を出すな。お前も殺すぞ!」
数種類の低い声が聞こえてきて、それに続いて小枝を踏み折る音が近付いてくるのが分かった。
猿……?
じゃない。人の顔を持つ妖怪だった。首の周りには、犬が動物病院で付けられるエリザベスカラーのような立派な毛が生えていた。体は動物だった。伯父は猫と言っていたが、俺はライオンに近いと思った。そして背中には羽毛がふさふさと揺れる大きな羽が生えていた。
妖怪が社の階段に足を乗せた。『ミシッ』という音がした。体重がある、実体を持つ妖怪だと思った。妖怪は戸の前までやってきた。黄土色の体毛が触れるくらいの所に。妖怪は、獣の体を持っているのに太陽と乾いた砂のような臭いを発していた。
すると社の中から戸を『ドンドン』と叩かれた。それに応えるように、妖怪が前足で戸を叩いた。
「中に……、居るのか?」
「いるよ。だれ? ここ、どこ? まっくらで、こわいんだけど」
社の中からは子供の声が聞こえてきた。中には俺が作った木彫りの人形しかない筈だった。この子供は何処から社に入ったのだろう。
「出てこい」
「ぼくも出たいよ。でも、あかないんだよ。カギ、かかってるのかな?」
「いや、鍵は掛かっていない」
妖怪の口からは人間の言葉が流暢に出てくる。その矛盾に気持ちが悪くなり吐き気を覚えたが、俺は口を押さえ体を曲げて何とか耐えきった。
「じゃあ、外から開けてよ」
少年の言葉を聞き、妖怪は口角を上げて『クックッ』と笑った。
「開けろ、と言ったな。それを、待っていた」
妖怪は戸に鋭い爪をかけ、前足を横に動かした。木と木が擦れ合う音がした。戸が、遂に、開いた。
子供が安堵の声を叫びながら社から出てきた。その瞬間妖怪が大きな口を開け、少年を喰らった。
俺は、気を失っだぁ。
「おい、洋、洋」
揺り起こされた。
「あ、父さん、伯父さん……」
「ああ、良かった。目を覚ましたかぁ」
父が安堵の溜息を吐きながら言った。俺は辺りに目を向けた。もう太陽がしっかり出ていて、林の中は生き物の気配で溢れていた。
俺が頭を振ったり揉んだりしている最中に伯父は社の戸を開け、中を覗き込んでいた。
「洋、ここ、開けたか?」
「ううん」
「そうか……。いや、それならいいんだ。で、夜に何か来たか?」
伯父は黒くなった木彫りの人形を、嫌そうに、摘まみながら言った。
俺は社の階段を見た。爪痕はおろか、足跡すら無かった。俺はホッとした。
「ううん……」
何故か、妖怪の事は言っちゃいけないような気がした。いや、この時、俺の代わりに誰かが俺の口を使って言ったみたいだった。
「俺、やっぱり東京に帰るよ」
「おい、洋、祭は今日だぞ」
伯父が手を伸ばしてきた。俺は伯父に腕を掴まれる直前に体を捻り、その手から逃げた。
「それ、俺が居ないとダメなやつ?」
「いや、まあ、俺達が居れば……」
伯父はしどろもどろになって言った。
「兄貴、洋は疲れたんだよ。慣れた家で休むのがいいんじゃないかな?」
「夜さ、何もしないで座ってたら、やらないといけないレポートがあったの思い出したんだよ。スマホも無かったからメモとかも出来なかったし……。そのレポートさ、卒業に関わるんだよ。な?」
卒業という言葉を引き合いに出したら、父の手前伯父も強く出られなくなったみたいだった。伯父は不承不承といった様子で頷いた。
東京に帰ってきて、珠美から『田舎から帰ってきたら人が変わったみたい』と言われた。頭にきて、どうしても感情を抑えきれず、俺は珠美に罵声を浴びせて別れた。
でも、何となく思っているんだ。あの妖怪が、俺のなくぁ……。
なーんてな。冗談だよ。釣れた、釣れた。面白かったか? それじゃな。
もうここに来る事も無いし、アカウントも消すから。
調べたり、すんじゃねえぞ。