「最愛、故に再愛」

投稿者:吉田涼香

 

ワタルと結婚したのは30歳の時。
あれからもうすぐ10年になる。
友人は皆、当たり前のように子供を授かっていて、子育てに励んでいた。
時々友達数人と会うこともあるが、子育ての苦労話がお決まりの話題となっていて、正直うんざりしていた。
その上、友達の子供の顔も見なくてはならない。
自分の子供はどんな顔をしているんだろう。
どんな声で話すんだろう。
どんな夢を持つんだろうか。
そんな虚しい気持ちを一人ぐっと噛み締めながらも、この心が漏れないように、最上級の笑顔を繕っていた。

そして何故か、友人達と会って帰ってくると、私の持ち物が失くなっていることがあった。バッグに付けていたクマのチャーム、バッグに入れてたはずのバレッタ。
この2つが失くなった後は、私の物が失くなることはなかった。
結局誰が取ったのかも分からず、未だ見つかっていない。

私達夫婦には、子供がいない。コウノトリは未だに私を避けている。
ワタルは一人っ子だということもあり、結婚する前からワタルの両親は、私に子供が生まれることを願っていた。

“孫を抱きたい”という強い願い。

結婚して2年目までは良かった。まだご両親にとっても許容の範囲内だったからだ。

だが3年目からは違った。顔を見れば、誰々さんのところは子供が3人目らしいよとか、誰々さんは4年目でオメデタなんだってとか。それを笑顔で言われ続けた。
胸に針が刺さっていくようにチクチクとした痛みを感じながらも、私は笑顔で軽くあしらっていた。
けれどもワタルが中学生の頃、母の日に話してくれた夢とやらを初めて聞かされた時は、一人声を押し殺して泣いた。

お母さんみたいな優しい人と結婚して、うちの家族みたいな仲の良い家族を僕も作るんだと、中学生のワタルは母の日に話していたらしい。
胸が張りそうになるのをその場で必死に堪えて、
「素敵な夢ですね。叶えてあげたいです。」
とお義母さんに返事をして、トイレに駆け込んだ。
溢れそうになる涙を、見せたくなかったからだ。
ワタルは、母親に笑顔になって欲しくて言っただけの話だから、気にするなと言ってくれた。
例えそうであったとしても、中学生のワタルはその夢を話していた。
その場限りの話だったとしても、家族というものに興味がなければ、そんな話はしないだろう。

その後も母の日に語ってくれた夢の話を何度も聞かされてきたが、今ではスルースキルがレベルアップして泣かなくなった
子供を授かる為に、何もしなかった訳ではない。

5年前から、避妊治療を行っている。担当は佐々木先生という女性のベテラン医師。
このまま続けていても、見込みがないのではないか。

私の中で、“諦め”という二文字が頭の中を支配し始めていた。
子供を授かることへの諦め。
それによって、結婚生活を終えても仕方ないという諦め。

その相談も含めて、診察日にいつものように病院に訪れた。だが、その日は全てが違っていた。
自動ドアが開くと右側に受付があるのだが、何故だかそこはトイレとなっており、受付は左側にあった。

よく見ると病院の内装も、全く違う。
病院に到着するまでの間、ずっと諦めることを考えていたから気が逸れてしまい、もしかして途中で道を間違えたのかな?
そう思い外に出て病院の名前を確認しようとした時、川本さん!と後ろから私を呼び止める女性の声が聞こえた。
振り向くと、受付の女性が笑顔で私を見ていた。
だが受付の女性もいつもの若い女性ではなく、とても優しそうな中年の女性だ。

「川本アヤノさん。本日、佐々木先生が急用でお休みされていますので、代わりに夏目先生が担当されます。夏目先生の診察室が4番なのですが、4番は地下2階の方にあります。この通路を真っ直ぐ進んで頂きますと、左手に階段がありますので、そちらをお使い下さい。」

婦人科は本来3階にある。そもそも、地下に診察室があるなんて聞いたことがなかった。
いつもと違うことに戸惑いながらも、受付の女性に分かりましたと返事をして、指示通り通路を真っ直ぐ歩いて行くと、左手に階段があった。

本当に地下があるんだ。
私はそう思いながら、その階段を降りて行った。
蛍光灯はついているけれども少し薄暗く、どこか古さを感じた。
B2の表記が目に入り、4番の診察室へと向かった。

診察室は4番、5番、6番とあり、ドアに大きく数字が書かれている。
診察室の前に置かれている薄緑色の長いソファには2人の患者が座って待っていた。
2人共、見た目で分かる妊婦の女性だった。
看護師の若い女性が私を見ると、
「川本さんですね。4番にお入り下さい。」
と言いながら、4番の診察室のドアを開けて入るように促してくれた。
私は軽く会釈をしながら、4番のドアを開けた。
診察室に入ると、人の良さそうな笑顔を浮かべた看護師から、
「こちらにお掛け下さい。」
と言われて、私は丸い回転椅子に座った。

目の前には、真剣な表情でカルテに目を落としている夏目先生がいた。
髪を後ろに一つに束ね、細身の体に白衣を纏う夏目先生は、とても美しい女医だった。

「川本さん。これから、引継ぎ作業を行っていくのですが…」
夏目先生は、カルテを見ながらおもむろにそんな話をしてきた。
「引継ぎ作業…ですか?もしかして、佐々木先生から夏目先生に代わられるんですか?」
私がそう聞くと、夏目先生はカルテから目を離して私を見ると、ニコッと優しい笑顔を向けた。

「大丈夫ですよ。心配ないですからね。」

私は夏目先生の言葉を頭の中で反芻して、その言葉の意味を考えていた。
先生が代わるから、私が不安になっているんじゃないかと思い、安心するように言ってくれたのではないか。

どういう意味ですか?なんて、わざわざ聞くのは夏目先生に対して失礼になるように感じて、はいと返事を返してそれ以上何も聞かなかった。

「川本さん。今日からして頂くことをお話しますね。まずですね、毎日リチャード・グレイダーマンが弾くリストの“愛の夢”を聴いて下さい。」
夏目先生は、突然そう言った。
「えっ?あの…愛の夢を聴くんですか?」
「はい。1日1回は必ず聴いて下さいね。でもリチャード・グレイダーマンが弾く愛の夢ですよ。あと、コーヒーと煎餅は好きですか?」
「あ…はい。好きですが…。」
「では、1日1回必ずコーヒーを飲んで、煎餅も食べて下さい。して頂きたいことは以上です。毎日続けて下さいね。2週間後にまた来て下さい。」

私は唖然とした。リチャード・グレイダーマンが弾く“愛の夢”を1日1回、コーヒーと煎餅も1日1回、まるで薬の処方箋でも出しているかのように言っているが、一体何なのか。
それをしたから何になるというのか。

「もしかして、子供が出来ない私に対しての気休めで言ってますか?希望がないのに、未だにしがみついている馬鹿な女と、嘲笑っているんですか?」
声を荒げて思いの丈をぶつけた私に、夏目先生は穏やかな表情で、私の左肩をポンポンと軽く叩いた。
「ずっと子供に恵まれないという辛いお気持ち、よく分かります。私も7年間そうだったんですよ。」
「先生も?そうだったんですか?」
夏目先生は深く頷いた。

「それでも私は、子供を授かることが出来ました。なので不妊治療で苦しんでいる女性を一人でも多く助けたい。その気持ちだけでやっています。だから私を信じて下さい。」
真剣に話す夏目先生の目を見ていて、私は何も言い返せなくなった。
もしかしたら、本当に子供が授かるかもしれない。
藁にもすがる思いとはこんな気持ちなんだと、私は初めて知った。

家に帰ってからリチャード・グレイダーマンが弾く愛の夢を聴き、コーヒーを飲み、煎餅を食べてみた。
確かにリラックスは出来たけど、それ以上どうかなることもなく、私は何をしているのだろうと一人で笑ってしまった。
ワタルが仕事を終えて帰ってくると、ただいまという言葉よりも先に、
「あれ?今日何か良い事でもあった?」
と、私の顔を不思議そうに眺めながら言ってきた。
「えっ?何で?」
「だって、顔が笑ってるから。」
「私、笑ってる?」
ワタルはうんと返事をした。
「アヤノに楽しいことがあったなら、俺も嬉しいけど。ずっと辛そうだったから、あまり辛いなら子供の事は考えなくて良いよって言おうと思ってたんだよ。」
思いも寄らない言葉だった。
まさか、そんなことをワタルが考えていてくれたとは思わなかったからだ。

「母の日に俺が言ってた夢の話で、辛い気持ちにさせてしまったよな。言わないでくれって母さんには頼んだんだけど、やめなかったよな。本当にごめん。アヤノも辛い気持ちを抱えながら、不妊治療をずっとしてくれてる。もう十分じゃないかって思ってたんだ。だから本当は、もう不妊治療をやめても良いって言おうと思ってたんだよ。」

思いがけないワタルの言葉に、私はその場で泣き崩れた。
ワタルはワタルで、この状況に向き合ってくれていた。
まさか愛の夢を聴いて、コーヒーを飲んで、煎餅を食べたことでリラックスして、ワタルの心を知るという効果が出たとか?
いやいや、まさかね。さすがにそんなに都合の良い展開は起きないよね。

「辛い時は、俺に話してくれよ。」
そう言いながら、泣いている私の背中を優しく撫でてくれた。

ワタルの言葉で、思わず母のことを思い出した。
母は半年前に亡くなった。
私に子供が出来ないことで、義理の母から言われたことが辛くて一人で声を出さずに泣いたこと。
子持ちの友人達と会った時の愚痴、不妊治療での辛い気持ちも、母には全部聞いてもらっていた。
いつも私の心に寄り添ってくれて、私の味方でいてくれた。

「辛い時は、いつでもお母さんに話しなさい。ちゃんと聞いてあげるから。」
母はいつもこの言葉を言ってくれた。
ワタルが言ってくれた言葉が、母の言葉と重なった。

いつでも私の話を聞いてくれる優しい母だったが、母は私と弟を産んでいる立派なお母さん。
私が叶えたくても叶えられない願いを、母は叶えている。
子供が出来ない人間の気持ちや辛さなど分かるはずがないと、辛く当たってしまったこともある。
それでも母は、私に怒ることなくいつも寄り添ってくれた。

だから亡くなった後、どれだけ母に支えられていたかを思い知った。
辛さと悲しさは波のように何度も押し寄せてきたが、私はそれを言葉にしないようにしていた。

何故なら、悲しいよ、辛いよ、苦しいよという言葉を吐き出せば、その瞬間に私はこの黒い感情達に殺されると思ったからだ。
私の心を救えるのは私だけ。

そう強く思っても、心が疲れてしまった時は思わず母にメッセージを送りそうになった。
だが、もうこの世にはいないことを自分に言い聞かせて、意識的に手を引っ込める。その繰り返しをしていた。
母が亡くなってから1ヶ月が経った頃、私のインスタに反応してコメントをくれた人がいた。

”初めまして。私もアヤノと言います。同じ名前だったので、思わず反応してしまいました。子供授かると良いですね。アヤノさんが幸せになれますように。”

インスタは誰かに見せる為というより、自分の思い出の為にやっているものだった。
たまに友人がコメントをくれたりする程度で、ほとんど反応はない。
だから久しぶりに見た優しい言葉に、バランスを崩していた私の心の中は、暖かい風が吹き抜けたような感覚になった。
嬉しさのあまり、私はすぐに返事を返した。

それがキッカケで同じ名前のアヤノさんと仲良くなり、知り合って1ヶ月も経たない内に、外で一緒にお茶をしながら話をする仲になった。
同じ名前の友人が出来たのはお互い初めてで、呼び方をどうするかを二人で考えたが、名前で呼び合うのは笑ってしまうので、苗字の方を少しいじって、私は川ちゃん。彼女のことは高ちゃんと呼ぶことに決めた。

彼女の名前は高木アヤノ。35歳の独身で、趣味で作ったネックレスやブレスレットをインスタに公開している。
元々は作ったものを公開しているだけだったが、趣味で作ったとは思えない程のクオリティーの高さから売って欲しいという声が大きくなり、今では販売もしている。
私も、ハート型のローズクォーツのブレスレットを一つ持っている。
とても可愛くて気に入っているので、いつも身につけていた。
しかもこのブレスレットは、願いが叶うようにと高ちゃんが私の為に作ってくれた特別なブレスレット。
高ちゃんとの出会いは、まるで亡くなった母からのプレゼントのように感じる程、心が穏やかになる時間をくれた。

私は言われた通り、毎日リチャード・グレイダーマンの“愛の夢”を聴き、コーヒーを飲んで煎餅を食べることを毎日続けた。
愛の夢、コーヒー、煎餅。これ全部、母が好きだったものだ。

2週間後、私は診察を受けた。

「川本さん。ちゃんと毎日やられていましたか?」
夏目先生は優しい笑顔を向けながら、私に聞いてきた。
「はい。やってました。このお陰なのかは分からないですが、良い事もあったりしたので、毎日続けてました。」
私がそう答えると、では診てみましょうと言いながらエコーの準備が始まり、私は診察室に置かれているベッドに体を倒して待っていた。

私のお腹にプローブという機械を当てながら、夏目先生は黒い画面を真剣な表情で見つめていた。
私もその画面を見ていたが、画面は真っ暗で何も映っていない。

「あの…先生。画面、何も映っていないみたいですが…。」
私の言葉に反応する事なく、私のお腹にプローブをグリグリと当てながら、画面を見続けていた。
「川本さん。ここ、分かりますか?」
夏目先生が指差した箇所を見ると、真っ暗な画面に小さな光のような丸い点があるのが見えた。
「光ってる点みたいなやつですか?」
私の問いかけに、そうですと穏やかな笑顔を浮かべながら答えた。

「ちゃんと1日1回、やられていたんですね。これが証拠ですよ。引継ぎ作業がちゃんと行われていってますね。安心して下さい。」
そう言ってプローブを私のお腹から離した。
「この前も言ってましたね。引継ぎ作業って、何ですか?」
夏目先生が私を見て、何かを言おうとした瞬間、
「先生。木山さんがそろそろのようです。」
と、慌てた様子で若い女性の看護師が入って来た。
分かった、すぐ行くとその看護師に答えた夏目先生は、
「川本さん。愛の夢とコーヒーと煎餅、続けて下さいね。また2週間後に来て下さい。」
そう言うと、夏目先生は看護師と一緒に慌てて診察室を出て行った。

誰もいなくなった診察室を出て、階段を上がり1階の受付前を通り外に出ようとした瞬間、グラっと眩暈がして気分が悪くなった。心臓に手を当てながら、ゆっくりと歩いていると、
『気をつけて!』
と言う声がどこからともなく聞こえた。男性とも女性とも言えない声質で、頭の中から聞こえているように感じた。
病院の玄関にある自動ドアから外に出ると、目の前にあるタクシー乗り場に、一台のタクシーが止まっていた。
私はすぐにタクシーに乗り込んで、自宅のマンションまで行ってもらうように告げた。
私の具合いの悪さに気付いたタクシーの運転手は、何度も大丈夫ですか?と尋ねてきたが、何とも言えない気持ちの悪さが襲っている私にとって、大丈夫ですと答えるのがやっとだった。
マンション前に着いてタクシーを降りた私は、すぐに家に入り、リビングに置いてあるソファーに座り込んだ。

一瞬つわりなのかとも思ったが、その症状が出ることはなかった。
少し落ち着いた所で水を飲み、呼吸を整えていると、ピンポンとインターフォンが鳴った。
モニター画面を見ると、高ちゃんの顔が映し出されている。

「高ちゃん?どうしたの?」
インターフォン越しに問いかけると、
「もしかして、具合いが悪くなってない?」
と、思いもよらない言葉が返って来た。
「えっ?…うん。ちょっと具合い悪いけど…何で分かったの?」
「私ね、実は霊感があって。川ちゃんが異常に苦しんでいる姿が頭の中で見えたんだよね。だから様子を見に来たの。大丈夫?」
「うん。少し落ち着いたよ。あっ、今開けるね。」
私はそう言って解除ボタンを押した。
玄関前の自動ドアが開いて、高ちゃんが入るのが見えた所でモニターは消えた。
高ちゃんはとても心配してくれていたようで、
「本当に大丈夫?頭痛は?吐き気は?気分はどう?」
と私の顔を見るなり、勢いよく聞いてきた。
高ちゃんのあまりの勢いに笑ってしまったが、大丈夫だよと答えた。
「それより高ちゃん、霊感があったの?」
「うん、小さい頃からね。大切な人に危機が迫っている時も、分かるんだよね。」
そう言うと、突然私の右腕に付けているブレスレットに触れて来た。

「これ…。石が黒くなってる。今日どこに行った?」
病院だけど、と答えながらブレスレットに目を向けると、ローズクォーツの綺麗な石が、恐ろしい程真っ黒になっていた。
「病院か…。病院も色々いるからね。川ちゃんにプレゼントしたこのブレスレットは、私が気持ちを込めて作っているから、変なモノが来てる時も反応してしまうと思う。また新しいの作ってあげるね。そのブレスレットは預かるよ。」
高ちゃんはそう言って、黒ずんでしまったブレスレットを持って帰って行った。

『それで良い』

突然、またあの声が聞こえた。周りを見渡したが姿も形も何もない。
私、疲れているのかな?
気持ちを落ち着かせる為に、愛の夢を聴きながら温かいコーヒーを飲んで、煎餅を食べた。
今まで以上にリラックス出来て穏やかな気持ちになり、先程までの気分の悪さは何だったのかと思う程、精神の安らぎを感じていた。

すると、お腹の中がグルっと回るような感覚があった。思わずお腹に手を当てて目を向けると、少しお腹が大きくなっていることに気付いた。
それからというもの、愛の夢を聴きながらコーヒーを飲んで煎餅を食べると、私のお腹は日に日にどんどん大きくなり、検診日当日には、立派な妊婦の姿となっていた。
ワタルはかなり不思議がっていたが、子供が出来たのなら嬉しいと喜んでくれて、ベビーベッドを準備してくれた。

つわりといわれる現象が起きなかったので、私としてはかなり助かった。
病院にはタクシーに乗って行った。偶然にも乗ったタクシーの運転手は、具合いが悪くなった日に乗っていたタクシーの運転手で、私のことを覚えていた。
「あの時は本当に具合いが悪そうだったんで、心配したんですよ。原因に気付かないのかなってね。いや、おめでとうございます。」
他愛もない会話をしながら、タクシーは病院に着いた。

「元気なお子さんを産んで下さいね。」
タクシーから降りる寸前、満面の笑みで運転手にそう言われて、ありがとうございますとだけ返事をしてすぐに降りた。

病院に入ると地下2階に降りて、4番の診察室前にある薄緑色の長いソファに座って待った。今日は他の患者がいない。
すぐに若い女性の看護師から、4番の診察室に入るように促された。
診察室に入った私のお腹を見た夏目先生は、
「川本さん。おめでとうございます。いよいよ今日、ご対面出来ますね。」
と言って、看護師に準備をするようにと伝えていた。
「ご対面?もしかして…赤ちゃんとですか?」
私の問いかけに、夏目先生はそうですよと笑顔で答えた。

私は分娩室に通され、いわゆる出産というものをしたのだが、何故か力む必要がなく、ベッドの上に横たわっているだけで子供が産まれた。
何か異常があるのではないかと満遍なく見てみたが、至って普通の健康そうな赤ちゃんだった。
「あの、先生。引継ぎ作業って一体何だったんですか?」
夏目先生は、穏やかな表情を浮かべながら私に一言言った。

「それは、お子さんに聞かれると良いですよ。それと、このままお子さんも連れて一緒に帰られて下さいね。」

常識ではあり得ないことだが、私は言われるがまま、産まれたばかりの子供を抱いて病院を出た。
タクシー乗り場にはあのタクシー運転手がいて、こちらに気付くと窓から顔を出して、
「産まれたんですね。おめでとうございます。どうぞ乗って下さい。送りますよ。めでたいんで、お金はいりませんよ。」
気前の良い運転手のお言葉に甘えて、私はそのタクシーで家へと帰った。

家に入りベビーベッドに寝かせると、赤ちゃんは私をじっと見つめてニコニコしていた。
あまりの可愛いさに、私も笑顔で見つめ返すと、
『アヤノ。高木アヤノっていう人を信じたら駄目だよ。』
という声が突然聞こえた。聞こえたというより、ベビーベッドの中にいる赤ちゃんが喋っていた。
えぇぇ!と驚きの声を上げながら、その場で尻餅をついてしまった。

『アヤノ!もうすぐあの人が来る!』

この声、亡くなった母の声だ。

「お母さん!?」

驚きながら赤ちゃんに問いかけると、そうだよと普通に返してきた。
『そんなことより、あの人を家に入れたら駄目だからね。』
赤ちゃんの顔をした母が喋っている状況に、頭の整理が追いつかないまま混乱していると、まるで現実に戻すかのように、けたたましくインターフォンが鳴った。
インターフォンの画面には、高ちゃんが映っている。
はい、と応答すると、そのタイミングで赤ちゃんが泣き出した。
鳴き声を聞いた途端、高ちゃんの顔がみるみる内に険しくなっていった。
「ねぇ…まさか、赤ちゃん産まれたの?」
「うん。その、さっき産まれたんだけど…」
と私が言いかけたところで、高ちゃんは狂ったように声を張り上げた。
「ずっと子供が産まれないように呪いかけてたのに!どうして今頃産まれるんだよ!」
ずっと呪いをかけてた?一体どういうこと?
「あぁぁぁ!失敗かよ!」
という捨て台詞の後、画面はブチっと消えた。

今のは何?
今日は頭の中の整理が追いつかないことが起きる日なの?
ちゃんと分かるように、説明して欲しい。
そう思った瞬間、私は玄関を出てすぐに下に降りていた。
するとマンションの外では、ワタルと高ちゃんが言い争っている姿が見えて、私は2人の傍に近付いた。
「アヤノ。大丈夫か?」
私を見るなり、ワタルは心配そうに言ってきた。
「私は大丈夫なんだけど。ワタルは高ちゃんのこと知ってるの?」
ワタルは私の言葉にキョトンとしていた。
「タカちゃん?こいつのことを言ってる?」
ワタルが高ちゃんを指差しながら言ってきたので、私は頷いた。

「こいつ、俺の同期で宮島ユミコっていうんだけど。タカちゃんって呼んでたのか?」
私の頭の中は真っ白になった。
「高木アヤノじゃないの?」
ワタルは首を横に振った。
「高木アヤノって、こいつがそう言ってたのか?」
私はうん、と返事した。

「アンタがいっつも奥さんの自慢話しててさ、ウザかったんだよね。結婚した直後から子供欲しがってたから、ずっと産まれないようにこの10年呪いかけてたんだよ。この人の物を盗んで、呪いの道具にした。成功してたよね。インスタやってるのもアンタが言ってたから知ってたし、直に呪いをかけてやろうと思って、偽名使って近付いてブレスレット渡したのに、そのブレスレット駄目にするし。」
そう言うと、私をギロっと睨んだ。
「次は子供が不幸になるような呪いでもかけようかな。」

許せない…許せない…絶対許せない!私の怒りがマックスになった時、『大丈夫。こいつは消える。』という声が聞こえた。
母の声だった。
「ワタル、もう家に入ろう。こんな人と話してたくない。」
私がそう言うとワタルは、二度と来るな!と彼女に言い放ち、一緒にマンションの中へと入った。

あまりにもショックで、言葉にならなかった。
ワタルはそんな私の気持ちを察したようで、
「子供に会う為に、午後は帰らせてもらった。」
そう言って私の肩に手を置いた。

部屋に戻って、ベビーベッドで寝ている様子を見ながら、
「可愛いな。この子が俺達の子か。」
とワタルは喜んでいた。
「久しぶりだね。ワタルさん。」
赤ん坊の顔をした母が言う。でも、ワタルは可愛いと言いながら、ほっぺを触っていた。
あれ?ワタルには聞こえない?

「お母さんの声はね、アヤノにしか聞こえないのよ。アヤノを助ける為に、産まれてきたからね。」

ワタルが仕事に行ってる時に、引継ぎのことを母に聞いてみた。引継ぎとは生まれ変わるということ。母と私は、いわゆる前世と言われる時代から、引継ぎという契約を交わしている親子で、もしも片方が死んだ後、生きてる方に危機が迫ると、助ける為に生まれ変わる。
母と私は絶対に離れることはない『最愛の関係』をずっと続けているらしい。
勿論、危機が迫っていなければ、次の来世で親子としての引継ぎが始まる。

娘として生まれ変わった母を産んだ日から2週間後、娘になった母を抱きしめて私は病院へ行った。
ところが、病院はまた変わっていた。
変わっていたというより、以前の病院に戻っていた。
受付は右側にあり、通路を真っ直ぐ歩いても、左手に階段などはなく、そこにあるのは大きな自販機だけだった。

「あの病院、何処に行ったの?」
娘になった母に問いかけてみたが、母は静かに眠っていた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151518181581
大赤見ノヴ151515161677
吉田猛々161717171784
合計4647505148242