「お母さんの奇行」

投稿者:あきら

 

私が小学校4年生の時、学校の中である『心霊騒動』みたいなものが起きた。

 それは授業公開日の日だった。その日は給食の時間以外の全ての授業と休み時間を、保護者達は自由に見学することができる。
 授業が始まればみんな落ち着かない様子で後ろを振り向いて、誰の親が入って来たのか確認したり、休み時間には自分の親の手を引いて嬉しそうに体育館へ連れて行ったりと、1日中みんな浮かれていた。

 騒動が起きたのは3時間目の授業中のことだ。確か私たちは国語の授業をしていた。先生は教科書を朗読しながら、新しく教室へ入ってくる保護者がいるとニコッと笑いながら軽く会釈をするので、子供たちはその度に後ろを振り返る。私の母親もその授業中に教室へ入って来たので、嬉しくてソワソワしていた。
 そして授業が残り15分ほどになった頃――それまでと同じように、先生が教室の入口へ視線を向けた。だが、その様子がおかしい。先生は微笑んだり会釈したりもせずに、顔を強張らせて硬直している。クラスメイト達は皆、突然様子のおかしくなった先生に釘付けになった後、ゆっくりと教室の後ろへ振り向く。

 見たことのない保護者が、教室の後ろに並ぶ保護者の列の前を歩いていくところだった。すでに並んでいた他の保護者達から、凝視されながら。

 黒いジャケットとスカートを着た女性と、背が高くガリガリのスーツの男性。いったい誰のお母さんとお父さんだろう?と不思議に思っていると――先生や他の保護者達の様子がおかしい理由に気が付いた。その二人が教室の端について正面を向いたとき、やっと”ソレ”が見えたから。

 女性は両手で黒フレームの大きな写真立てを持っていた。写真立てには、ある男性の胸から上の写真が収まっている。テレビでそういったモノを見たことがあるが、恐らくそれは”遺影”だと思った。
 でもその写真に写る男性は、まさに今女性の隣に立っている、背の高い男性と同一人物だったのだ。

 教室は異様な静けさに包まれていた。みんなその二人を凝視しているというのに、女性は何も動じず無表情で直立不動だったし、男性も陰気な表情でただ立っているだけ。(もしかして、あの男性は、幽霊なのだろうか?こんなにはっきり見えているけど、女性が遺影を持っているということは、死んでいるのだろうか?)きっとみんなそう思ったに違いない。どこからか小さく悲鳴が上がると、それをきっかけに子供たちはパニックになった。

 先生がハッとして落ち着けようとしたけど、みんな中々騒ぐのをやめなかった。私も異様な状況に怖くなって教室を見回していたが、1人だけ静かにしている子がいることに気づく。
 夏休み明けと同時に転校してきた、マイちゃんだ。唇をかみしめて怒ったような表情で、下を向いている。教室の後ろを見てみると、女性の方はマイちゃんと似ているような気がした。マイちゃんのお父さんとお母さんなのだろうか……

 休み時間になっても混乱は収まらなかった。その異様な男女は、微動だにせず突っ立ったまま。騒ぎを聞きつけ集まってきた他のクラスの子たちも大騒ぎを始めたのでいよいよ収拾がつかなくなり、授業公開は4時間目以降中止となった。「トラブルがあったため授業公開は中止する、保護者は校外へ出るように」という校内放送が流れると、ようやくあの男女も帰っていったのだった。

 夕方、家に帰って私は母とあの時の話をした。

「今日怖かったね…あれから、あの話をしようとすると先生が怒るから皆と何にも話せなかったんだよ。あの二人、たぶんマイちゃんのお父さんお母さんだと思うんだけど、お父さん、オバケだったのかな…」
「ちょっと異様だったわよねえ…でも、先生が言う通り、あんまりあの人たちの話はしないであげようね」
「どうして?」
「”オバケじゃないから”よ。二人とも生きてる人間なんだもの。母さん、あの男の人と腕が軽くぶつかっちゃったから分かるわ。ちゃんと生きてる人間よ。あの二人は子供たちを怖がらせるようなことをしてたけど、でも、マイちゃんって子は何も悪いことしてないじゃない。からかわれたりしたら可哀そうだから…マイちゃんとも、これまで通り接してあげようね」
「…わかった」

 あの大混乱の教室の中で、唇をかみしめて俯いていたマイちゃんを思い出す。普段からお父さんとお母さんがああいう感じなら、マイちゃんはかなり苦労しているんじゃないか。転校してきたばかりの新天地で、あんなことをされて嫌だったんじゃないか。不思議な時期の転校も、あのお父さんとお母さんが原因なんじゃないか。そう思うと、子供ながらにマイちゃんを気の毒に思った。

 次の日から、やはりマイちゃんはからかわれるようになった。女子は怖がって距離を取ったし、男子は「お前の父ちゃんユウレイなの?」といって面白がるのだ。あの日は大騒ぎになったし、みんなの楽しみだった授業公開日を台無しにされてしまったから、学校中でマイちゃんは後ろ指をさされ噂の的になってしまった。

 それを見ているのが辛かった私は、マイちゃんと今まで通りに接した。私はもともと学級委員長だったからマイちゃんと仲良くしても可笑しな立場ではなかったし、私と話している時だけほっとした顔をするマイちゃんを見ると嬉しかった。
 マイちゃん自身は本当にいい子だったので、授業公開日から1か月もたつ頃にはすっかり男子からのからかいも無くなる。でもマイちゃんは相変わらず腫物のようになっていたので、私たちは自然と2人で居ることが多くなった。

 あの出来事が起きる前よりもマイちゃんと私は親密になり、お互い親友のような存在になった。でも、相変わらず『両親の話』だけは触れることができなかった。というより、マイちゃんの悲しむ顔を見たくなかったから、私が意図的にその話題を避けていたのだ。

 そんな日が続いて、冬休みになった。マイちゃんと会えなくて毎日つまらなかったが、ある日偶然、母と出かけたスーパーでマイちゃんとマイちゃんのお父さんに出くわしたのだ。思わず駆け寄る。マイちゃんも嬉しそうにしてくれて、2人で抱き合った。

「君がミエちゃんだね。毎日マイから話を聞いてたよ。本当に、マイと仲良くしてくれてありがとう」

 マイちゃんのお父さんはそう言いながら、恥ずかしそうにしているマイちゃんの肩をぽんぽんと叩く。相変わらずガリガリだが、授業公開日の時のような陰気さは感じない優しそうなひとだ。変なひとじゃないようでホッとした。
 久々に会えたから私たちは離れるのが名残惜しくて、私は「マイちゃんのお家に遊びに行きたい」と駄々をこねた。当然母は私を叱った。今思えば、『以前様子のおかしかった夫婦の家に遊びに行かせるのが心配だった』のだろう。だが私は子供だったし、その時はそんなことを思いつきもしなかったのだ。

「…こちらは全く構いませんよ。マイのお友達が遊びにきてくれるのは、実は初めてで。マイも喜びます。あの、もちろんミエちゃんのお母様がご心配でなければですが…」

 マイちゃんのお父さんは恐縮しながらそう言ってくれた。こう言われてしまえば人の良い母は、目の前でそれを断るなんて出来なかっただろう。母から遊びに行く了承をもらえて、私たちはもう一度抱き合って喜んだ。

 スーパーでお菓子を買い、そこからマイちゃんちの車に同乗させてもらって、マイちゃんの家に向かう。
 夏に県外から引っ越してきたマイちゃんたちの家は、昭和っぽい古い一戸建てだ。門扉と塀があって、あまり敷地内の様子は外から分からない。家に上がらせてもらい、お菓子とジュースを広げながらマイちゃんとお父さんと盛り上がった。マイちゃんも楽しそうだしお父さんも意外と明るい人で、楽しい時間を過ごした。
 そうしていると、突然廊下の奥がギシギシと鳴った。その瞬間、マイちゃんとお父さんは、緊張した顔になる。足音はゆっくり居間に近づいてきて、そして扉が開いた。そこに立っていたのは、マイちゃんのお母さんだ。あの授業公開日の時みたいな、暗い顔で、黒いワンピースを着て、そこにいた。

「あら……マイのお友達?遊んでくれてありがとうね。ゆっくりしていってね」
「は、はい!川田ミエって言います。お邪魔してます」

 授業公開日のことを思い出して身構えてしまったが、思ったよりも普通に話しかけられて拍子抜けした。お母さんはニコニコしたまま居間に入ってきて、マイちゃんの後ろを通り過ぎて、窓際に向かう。マイちゃんもお父さんも何も話さないから、なんとなくお母さんの方を目で追っていると――ソレが目に入った。

 お父さんの遺影。

「あなた。マイのお友達が遊びにきてくれてるのよ。賑やかに盛り上がっちゃって、マイもすごく楽しそう。嬉しいわねえ」

 マイちゃんのお母さんは、そう言いながら小さな祭壇の上のその遺影に、手を合わせて話しかけている。同じ部屋の中に、生きているお父さんがいるにも関わらずだ。思わず、マイちゃんとお父さんを振り返った。2人とも辛そうな顔で俯いて何も言わない。私も何も言うことが出来ない。ただ、マイちゃんがあまりにも辛そうだから手を握った。
 お母さんはしばらくそこで、祭壇の上の小物をいじったり世間話みたいなことを一人で喋り続けてから、機嫌良く部屋を出ていった。

 重たい沈黙が残って、頭の中ではいろんなことが浮かぶ。
 (マイちゃんのお母さんにお父さんは見えてないんだろうか。死んだと思ってるんだろうか。お母さんがおかしくなってしまったから、こんな状態になってるんだろうか)

「…マイ、ミエちゃん。この部屋はちょっと居心地悪いだろう。マイの部屋に行って遊んでおいで」

 お父さんが弱々しく笑いながらそう言った。マイちゃんは何も言わずに頷いてから、私の手を引いて2階へのマイちゃんの部屋へ連れて行く。部屋の扉を閉めると、マイちゃんは泣いた。

「ミエちゃん。せっかく家に来てくれたのに、私の親、変でごめん。怖かったでしょ」
「…大丈夫、びっくりしただけだよ。マイちゃんと遊べるだけで楽しいからいいの」
「あんな感じだから、私の学校でも、近所付き合いもうまくいかなくて…引っ越し何度もしたの。私、もう何があっても引っ越ししたくない。ミエちゃんと友達になれたもん」

 マイちゃんは辛かっただろう。どれだけ馴染もうと頑張っても、お母さんがああではたくさん苦労したはずだ。私まで泣けてきて一緒に泣いてしまう。落ち着いてきてから、マイちゃんは家族の話をポツポツと話し始めた。

「初めはね、お母さんもお父さんのこと見えてたし話してたの。仲がいい普通の家族だった。
 でもある時に、お母さん突然『お父さん死んじゃった。これからは2人だよ』って私に言ったの。私もお父さんもびっくりした。お父さんが話しかけても全く聞こえていないみたいだし、姿も見えてないみたい。本当に私しか居ないみたいにしてて…お父さんもお母さんを病院に連れて行こうとしたけど、声が届かないし、無理だった。だから、もう何年間もあんな感じなの」
「どうして死んじゃったと思ったんだろう…」
「分からない。私が小さい頃だったから、その話をされた時期のことあんまり覚えてなくて…でも、『お父さんが死んだ』って言った前の日の夜に、狂ったみたいに泣き叫んでた事だけは覚えてる」
「お父さんと喧嘩したのかな」
「んーん。お母さんが泣いてたその夜は、お父さん家に居なかったの。次の日の朝から、お父さんは死んだことになってた…」

 その泣いていた夜に、”どうしてかお父さんが死んだと勘違いして”取り乱していたのだろうか。心か脳かどちらかの病気だろうと、漠然とその時に思った。マイちゃんを傷つけると思ったから口には出さなかったが、マイちゃんもそう考えているように感じた。
 詳しく教えてくれた話によると、お母さんは家事などは普通にできているようだ。家族3人分の食事を作るが、お父さんの分は祭壇へ配膳するらしい。「お父さんは食べられないけど、マイや私と同じものをお供えしないときっと淋しがるから」と言いながら。お父さんは祭壇の上の食事を、文句も言わずに食べる。お母さんは食事が綺麗に平らげられていることにいっさい疑問を持たずに、片付ける。そんな狂った生活を送っているらしい。
 諦めてお母さんに関わることを辞めてしまったお父さんの代わりに、マイちゃんは何度も「お父さんはここに居るよ、生きてるよ」とお母さんに伝えたが、お母さんは困ったような淋しいような表情で、笑うだけだったそうだ。

「…マイちゃん辛いね。3人一緒に居たって、2人分の会話しかできないなんて、寂しいよね」
「お互い空気みたいにしてるのもつらいけど、それはもう慣れたの。今一番つらいのは、お母さんがオカシイことをやってるとき」
「おかしいこと?」

 お母さんは確かにおかしな状態だが、まだ今聞いた以上の奇行があるのだろうか。

「たぶん、そろそろやる頃。…ミエちゃん、気になる?見に行ってもいいよ。怖かったら、もちろんやめておこう」

 怖いと思ったが、好奇心を押さえられなかった。そして、私のことを信頼してこんなことまで打ち明けてくれたマイちゃんに応えたいと思ったのだ。静かに私が頷くと、マイちゃんは窓辺に近づいて行った。そしてカーテンを少しだけ開いてそこから目だけを出して外を覗くので、私も真似する。窓からは、草がぼうぼうに生えた広い庭が見える。しばらくドキドキとそうしていると、私たちが外を覗いている窓の真下にある玄関から、お母さんが出てきた。

 お母さんは草を気にせず庭を歩いていく。向かう先には、小さな木造の小屋みたいなもの。小さくて古い小屋の扉を開けて、お母さんはそこへ入っていく。扉を閉めるために一度外を振り向いたときに、胸にあの『お父さんの遺影』を抱いているのが見えた。思わずマイちゃんを見ると、怒っているような悲しいような表情で、こう言った。

「ね。毎日ああやって、あの小さい小屋へ行って、変なことをしてるの。その他のことは、お父さんと仲が悪くて無視してるだけって思うようにすればまだ我慢できるけど…あの小屋でやってることは、気持ち悪くて、本当に嫌なの。お母さんもお父さんも、本当におかしくなっちゃったんだって思うから…」
「小屋で、なにをやってるの」
「…見に行く?ミエちゃんなら、いいよ」

 マイちゃんも緊張した顔だ。ここまで話したんだから全部打ち明けてしまえ、とうことなのだろうと思うが、きっと打ち明けること自体が勇気がいることに違いない。私はマイちゃんと手を繋ぐ。

「小屋を見たらお母さんのこと怖いって思っちゃうかもしれないけど、私この先もずっとマイちゃんの友達だよ」

 マイちゃんは泣きながら私の手を握り返して、そしてその手を引いて部屋を出た。音をたてないように気を付けながら階段を下りていく。お母さんは外に居るのだから、きっとお父さんにバレないようにだ。居間の扉が少しだけ開いていて、そこから一瞬だけ居間を覗くと、お父さんはパソコンで仕事しているようだ。薄暗い部屋の中で、真剣な顔がモニターのライトに照らされている。
 静かに廊下を抜けて、靴だけを持ってすぐ隣の和室に入り、その掃き出し窓から外へ出た。もう随分暗くなった庭。姿勢を低くして、草に紛れるみたいに、そっと小屋へ近づいた。

 木造のそれは、もともとは農作業の道具などを入れておくような場所だったのだろう。それを、お母さんは一体何に使っているのだろうか。
 マイちゃんは小屋の前でかがんで、私を手招きした。

「お母さん、この中にいるときはすごく集中してるから、多分気付かない。そこから覗いてみて」

 そう耳元でささやいてから扉の方を指差す。小屋自体も古くて傾きかけており、建付けも悪い扉はぴったりと閉まらないようで、10センチ近く隙間が出来ていた。2人でゆっくりと這うみたいにその隙間へ進む。一歩ごとにお母さんの唸るような声が大きくなって聞こえてくる。
 そして同時に、どんどん強くなる異臭。その匂いには既視感があるのに、なんの匂いだったか思い出せない。
 
 二人縦に並ぶようにして、扉の隙間を覗き込んだ。

 狭い3畳ほどの空間で、お母さんがこちらに背を向けて正座している。ろうそくの灯が照らすのみで小屋の中は暗い。そこからお母さんの抑揚のない声が聞こえてくるのだが、お経などとは違うと思った。そしてお母さんの頭の向こうに、お父さんの遺影が壁に掛けられているのが見える。
 供養というか、 ”故人を偲ぶ”ために行っているなら、家の中の居間にあった祭壇でやればいいのに。どうしてわざわざ、こんな暗くて寒い場所で。何を行っているのかが分からなくて、じっと目を凝らして耳を澄ませて観察していると……私は、気付いてしまった。

 異臭の既視感。小さなころ、私は虫取りが好きでトンボやバッタを公園で捕まえてはよく持って帰ったのだが、弱らせてすぐに死なせてしまった。その時の匂いだ。うまく説明できないが、草や湿った土や腐りかけた枯葉みたいな――そういう匂いが、死んだ昆虫からは漂ってくるのだ。その匂いに気づいてしまった時に、トラウマになって虫を触れなくなってしまった。

 その匂いが、この小屋の中から強烈にしてくるのだ。
 お父さんの遺影が掛けられた正面の壁には、なにやら奇妙な凹凸がある。小屋の暗さに目が慣れると、壁に何かがくっつけられているのだと分かってしまう。それは、それは、ここからでも形が分かるほど大きな蛾やバッタやネズミなどだった。それらが、細い釘で壁に、無数に打ち付けられていた。ろうそくの近くに打ち付けられている大きなクモは、まだ生きているようで脚をばたばたと動かしている。ろうそくに照らされて、クモの影が壁の上で暴れる。
 そしてお母さんから見て左と右の壁には、白いお札みたいなものが、赤茶けた汚く太い釘で無数に打ち付けられている。何一つ文字は読めないが、禍々しい悪意のこもったものに違いなかった。

 悲鳴が出かけたが、手で押さえて必死に飲みこむ。呼吸をしてこの最低な匂いの空気を吸い込むことさえ嫌だった。お母さんの声が大きくなる。だんだん聞き取れるようになってしまう。

「 ――だね おかしいね? おかしいよね? こわれろ 死んだ後も苦しめ お前も傷付け 私よりもみじめになれ ずっと消えて無くなれずに苦しめ お前もこわれろ お前もお前もお前も 」

 そんなあらゆる暴言を、呪詛のように呟き続けているのだ。お母さんは座ったまま少し項垂れるように上体を倒す。そして上体を戻すと、手には、変色した石を握っていた。立ち上がってその石で、死骸と釘だらけの壁へさらに何かを打ち付けはじめる。打ち付けている間、「苦しめ!」と言う声はもう半ば叫ぶような声量になる。
 打ち付け終えて、肩で息をしながらだらりと腕を下ろすと、そこには死んだトカゲがぶら下がっていた。

 とん。
 私の肩が叩かれて、飛び上がるほど驚いた。ぱっと振り向くと、マイちゃんが険しい表情で手招きしている。「もうすぐ出てくる。戻ろう」と、口パクで教えてくれながら。私たちはなるだけ静かに、草を掻き分けて掃き出し窓へ急いだ。音をたてないように和室へ入り、玄関へ靴を戻す。

 ずっと頭が混乱していた。私が虫を何度も死なせてしまうたびに、私の母親は「命を大切にしなさい」と叱ってくれた。お母さんとはそういうものじゃないのか。あんなにたくさんの生き物の命を奪って壁に打ち付けておくなんて。何のために。そもそもどうしてお父さんの遺影があそこに必要だったんだ。居間では、あんなに優しく遺影に語り掛けていたのに。大事に大事に抱きかかえて、授業公開にまで持ってくるのに。「苦しめ」って、一体だれが。

 泣きそうになりながら音をたてずに廊下を進むマイちゃんの後を追う。居間の横を通るとき、また無意識に扉の隙間から居間を覗いてしまって――
 お父さんと、目が合った。

 PCモニターの前でキーボードを叩く姿勢のまま、白い光に照らされたお父さんの顔。いや、顔?顔と呼ぶにはあらゆるパーツが欠落している頭部。
 目と口の位置に大きな穴の開いたお父さんが、こっちを向いていた。真っ黒な眼窩が私を見ている。マイちゃんの方へ駆け出したいのに、動けない。怖い。怖い。お父さんが立ち上がる。迷いなく真っすぐこちらに歩いて来る。扉の前まで来て、立ち止まってから、少しかがんで、私に顔を近づけて、じっと目玉のない眼窩で私を見て……そして口の穴の奥深くの暗がりから――「 たすけて。 」という小さな小さな声が聞こえた。

 その瞬間、ばたん!と大きな音をたてて居間の扉は閉まった。
 心臓が壊れてしまいそうなほど暴れている。硬直して動けない私に向かって、廊下の奥から、マイちゃんが弱々しく言った。

 

「……言ったでしょ。お母さんもお父さんも、ふたりとも本当におかしくなっちゃったんだって……ふたりともまともじゃないの」

 静かにそう言ったマイちゃんの悲しい顔が、今でも忘れられない。
 その後、18時になると”普通の”お父さんがマイちゃんの部屋まで声を掛けに来て、私とマイちゃんを車に乗せて家まで送ってくれた。車内で明るく話すお父さんへ、ちゃんと返事をできていたか分からない。家に着いた後も、見たことを母に相談できなかった。

 あの後冬休みが明けてからも、私たちはずっと今まで親友だった。ただ、もう二度とマイちゃんの家へは行かなかったし、家族の話もしなかった。

 でも、つい最近。私たちは中学校3年生になったのだが、先日マイちゃんのお父さんが亡くなったのだ。「家族葬で執り行う」と新聞のお悔やみ欄には書いてあったが、私も参列させてもらった。行くまでは、一体どんな状況になっているだろうと心配だった。6年前には『お母さんの中ではお父さんは死んだことになっていた』し、今回本当にお父さんが死んで、一体お母さんはどう受け止めたのだろう?さらに混乱して酷い状況になっていないといいけど……と。
 
 でも、お母さんの様子は想像とは違った。晴れやかな顔で、すっきりと憑き物が落ちたみたいな表情をしているのだ。その逆に、マイちゃんの顔色は酷い物だった。あの日見たお母さんとの変わりようを不気味に思いながら、どういう事なのか全く分からずにその日を終えた。
 そしてマイちゃんが学校に来てから、全てを話してくれた。

 マイちゃんのお父さんが突然自宅で具合が悪くなり、マイちゃんが救急車を呼んだそうだ。いつも通りお母さんはお父さんに関することは気が付かないのだろうと思っていると――なんと、お母さんは一緒に救急車に乗って病院まで来た。そして治療むなしくお父さんの死亡宣告がなされると、お母さんは、その場でこう言ったのだそうだ。

「あーーーーーーーーーーーーーーー、やっと地獄におちた!やっと!あははははははは!この後も永遠に永遠に永遠に苦しめ!」

 嬉しくてたまらない!と言った様子で、周囲の医療関係者やマイちゃんのことを気にも留めずに、お母さんは捲し立てたという。

「あのね、お父さん、マイが小さなころに不倫してたの!それも会社の奴と!私を馬鹿にしながら何年間も!!!
 私ね、それに気づいてしまった日に決めたの!こいつを同じだけ苦しめてやるって!!もう私の大好きな旦那は死んだんだと思うことにしたから、次の日から無視して!苦しみながら生きて苦しみながら死んで地獄に落ちて苦しみ続けるように、色んな呪いを調べて試したの!惨めだね!馬鹿にしてた嫁から死んだ扱いされて無視されても、マイに自分が不倫してたことを知られたくないから黙ってるしかなくて!知らないうちにどんどん穢れが溜まって!生きながら腐るみたいに苦しんで!あははははははは」

 私は怖かった。あのおぞましい呪術のようなものがが成立したのかどうかもだが――長年奇行を続けてきたマイちゃんのお母さんが、実はずっとずっと正気だったということが、怖かった。正気の上で、お父さんへの復讐と呪いのために、マイちゃんも巻き込み苦しめていただなんて。
 全部話し終えたマイちゃんは、疲れ切った顔でこう言う。

「優しいお父さんも優しいお母さんも、私が気付かなかっただけで小さい頃にもう死んでたんだね。きっとお母さんも地獄に行くよ。地獄で二人とも苦しむんだよ。
 ミエちゃんは一緒に見たことがあるから分かるよね。生きながら死ぬことも、生かしながら殺すこともできるんだって。私たちはやり方も知ってるよね。
 ミエちゃん、私、怨まずに生きていけるかな。お父さんやお母さんや、私に意地悪をしてくる人たちを呪ってやろうと思わずに、生きていけるかな。
 私は絶対に、あの人たちと同じ場所には行きたくないのに」

 自信なさげなマイちゃんの手を握るしか、私にはできない。手のひらいっぱいに冷や汗が出て少し震えてしまうのを、どうか気づかれませんようにと祈りながら。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151815121878
大赤見ノヴ191917171890
吉田猛々191818171890
合計5355504654258