「終了します」

投稿者:カエル文二

 

気が付くと俺は、病院のベッドの上に寝かされていた。
「気が付いたみたいだね。君が運転していた車が工事現場の雑木林の木に突っ込んで止まっていたのを、朝、現場に来た作業員が見つけて通報してくれたんだよ」
 30代くらいの看護師さんが俺に声をかけてきた。俺は看護師さんと話しをしようとして上半身を起こそうとしたが、頭がクラクラして起き上がれない。
「そのまま寝てなさい。シートベルトとエアバックで衝突時の衝撃は緩和されたとはいえ、車のフロント部分は大破していたそうだから、かなりの衝撃を受けたハズなんだよ。今は安静にして寝ていなさい。」
「そうだったんですか。どうもありがとうございます」
 俺は寝たままで、お礼を言うことしかできなかった。
「君が事故を起こした辺りは、不可解な事故が多いんだよ。特にカップルで車に乗っていた人たちは全員、死亡しているようだね。君は一人で運転していたから助かったのかもしれないね」
 俺が助かったのは、一人で運転していたからではない。間違いなくミチルのおかげだ……。

***

 8月〇日、俺はM県S市の××運動公園で開催されたロックフェスを観に来ており、××運動公園までは車で来ていた。俺の自宅はA県のN市にあるため、車で帰るには、普通は高速道路か国道のどちらかを使って帰ることになる。但し、どちらの道も当然、渋滞が予想される。渋滞嫌いの俺は、かなり遠回りになるが空(す)いていると思われる、海岸沿いの県道を通って帰ることにした。

 時刻は19時頃だったが、予想通り海岸沿いの県道は渋滞しておらず、車も数台しか走っていなかった。ついつい俺はアクセルを踏んでスピードを出してしまった。
「スピードの出し過ぎはダメよ。この道の制限速度は50キロなんだから……」
 ミチルが少し怒った顔で言う。仕方なく俺はスピードを制限速度まで落とす。
「ミチルはいつも厳しいなぁ」
「別に厳しい事は言ってないわ。当然の事を言ってるだけよ。それに、この辺は原因不明の事故が多いから、私はこの道で帰るのは反対なんだけど……」
「他に走っている車がないんだから事故りようもないよ」
「でも実際には、車が海に落ちたり、雑木林に突っ込んだりした事故が何件か発生しているのよ」
「どうせ居眠り運転が原因なんでしょ」
「それがそうとも言えないのよ。事故を起こした車は全てカップルが乗っていたそうだから、二人同時に居眠りなんて考えられないのよ。それに、この辺は女の幽霊が出るっていう噂があるの」
「じゃあ、その女の幽霊が事故を引き起こさせているって言うわけ?」
「そんな事は言ってないわよ! ただそういう噂があるから、出来ればこの道は避けた方がいいっていうだけ」
「ふーん、でも俺は渋滞が何よりも嫌いだから、幽霊が出る噂があっても、空いている道を走りたいんだよ。因みにミチルは、幽霊は存在すると思う?」
 いつも即答で返すミチルが少し考えてから言った。
「その存在が科学的に証明されていない以上、現時点では存在はしないという事になるわね。でも、その存在の可能性を示す現象は数多く報告されているから、いずれ証明される日が来るかもしれないわね。オカルト好きのケイタ(俺)は、幽霊を見たくてわざとここまで遠回りしたの?」 
「今日は偶々だよ。この道に幽霊が出るという噂も初めて知ったよ」
 ミチルの言う通り、俺はオカルト好きで、この車に友人達を乗せて何度か心霊スポットに行った事がある。しかし心霊現象を目にしたことは一度もない。一度でいいから幽霊を見てみたいと思う反面、幽霊にとり憑かれるのだけはゴメンだとビビッている。
「もし幽霊が出たら、ケイタはどうするつもりなの」
「その時はダッシュで逃げるに決まっているじゃないか」
「じゃあ、逃げ遅れないように十分注意してね」
「もし俺が逃げ遅れて幽霊にとり憑かれたら、ミチルは助けてくれる?」
「そんなの無理よ! 私にできる事は、お祓いをしてくれそうな神社やお寺を紹介するくらいよ」
「それじゃあ、逃げ遅れてもとり憑かれないようにする方法があったら教えて?」
「一番は、とり憑かれたと思い込まないようにする事じゃないかしら。人はその思い込みによって幻覚を見たり、体が動かなくなったりするのよ。だから自分はとり憑かれたりはしないと強く思う事が肝心なのよ」
「思い込みか。確かに、怖い怖いと思っていると、何でもない物を幽霊だと錯覚してしまう事はありえるね。思い込みの他に、何か別の方法はない?」
「効果についてはハッキリしていないけど、幽霊を近づけないようにするグッズは、ケイタも色々と持っているんじゃなかった?」
「いつも心霊スポットに行く時に持っていくお守りなら、今日は持ってないよ。よく考えてみると、お守り自体に効果があるのではなく、お守りを持っていれば憑依されないという思い込みに効果があるのかもしれないね」
「それじゃあ今日は、お守りを持っていないから、憑依される可能性があると思い込んでしまわないように心掛ける必要があるわね」
 ビビりな俺は、今日はお守りを持っていないという事で少し不安になった。しかし、今走っている道は、普通に舗装された道路で街灯もあり、また所々に民家もあり、幽霊が出るような道とは思えなかったので、幽霊が出るという噂自体を気にしなくなった。

 暫く海岸沿いの道を走っていると、前方に自転車を停めて、その傍らに一人の女性が立っているのが見えてきた。こちらに気が付いたのか、その女性がこちらに向かって手を振りはじめた。俺は近くまで行って車を止めて外に出て、白いシャツにデニムのパンツを穿いた髪の長い女性に声を掛けた。
「どうかしましたか?」
「自転車がパンクしてしまって、この先の〇〇町まで乗せて行ってもらえませんか?」
 自転車を見ると確かに後輪が変形してタイヤがパンクしている。まるで自転車の後ろから何かがぶつかった様に見える。自転車がどうしてこうなったのかを聞いてみたら、パンクした時に倒れて後輪が変形してしまったとの事だった。自転車が倒れたくらいで後輪がここまで変形するとは思えなかったが、何か事情があるのかもしれないと思い、それ以上聞き返す事はやめた。そして白シャツの女性が熱心にお願いしてくるので、俺は車に乗せてあげる事にした。さすがに自転車は車に乗せられないので、道の端に置いて、女性を後部座席に乗せて車を発進させた。

 車を発進させてもミチルは黙ったままで、挨拶もしない。
「ミチル、どうして挨拶しないんだ?」
「挨拶? 誰に挨拶をするの? この車にはケイタしか乗っていないでしょ」
 今年(202X年)、発売されたAIナビゲーション“道”では、ナビゲーターにミチルとミチヒコのどちらかを選択するようになっている。彼女のいない俺は当然、いつもミチルを選択している。更にナビゲーターの口調には通常モードとフレンドリーモードの二種類があり、友達感覚で話すフレンドリーモードを俺はいつも使っている。また、AIナビゲーション道では、車内に取り付けられたセンサーが、新たに乗車した人を感知すると、ナビゲーターが挨拶をするようになっている。その他、ナビゲーターは道案内だけでなく、居眠り運転防止のために、運転手と世間話をしたり、会話に応じたりするようにプログラムされている。
 今、この車の後部座席には、白シャツの女性が新たに乗車している。いつもならミチルが、「こんにちは、私はこの車のナビゲーターのミチルです。よろしくお願いします」と言って挨拶をするハズなのに反応がない。
 まさか、『後部座席に乗せた女性が幽霊なのか?』と思ったが、どう見ても幽霊には見えない。目も口も鼻もちゃんとあるし、幽霊の様に透けて見えるわけでもなく、霊感のない俺にも鮮明に見えている。今もバックミラーにハッキリと映っている。とても彼女が幽霊とは思えなかった。
「ミチル、車内センサーに異常がないか、確認してくれないか」
「了解。確認してみるから、少し待ってね」
 ロードマップスクリーンの下にあるナビゲータースクリーンに映っていたミチルの姿が消えて、『車内センサーチェック中』という表示に変わった。ミチルの発言のせいで、車内に少し気まずい雰囲気が漂っていたので、後部座席の女性に向かって声を掛けた。
「すいません、センサーが故障しているみたいです。ナビの言う事は気にしないで下さいね」
 バックミラーで確認すると、白シャツの女性は何も気にしていない様子でニコニコしている。その表情を見てホッとしたのもつかの間、ミチルがとんでもない事を言い出した。
「センサーをチェックしたけど異常はなかったわ。車内にはケイタ、あなた一人しか乗っていないわよ」
 センサーの故障じゃないとすると、そもそものシステムの故障かもしれない。しかし、今はそれを確認することはできない。
「センサーじゃなくて、システムのエラーみたいです。本当にナビのミチルの言うことは気にしないで下さいね。一人で運転していると寂しいので、俺はいつもナビのミチルを話し相手にしているんですよ。まあミチルは俺にとって、運転中の彼女みたいなものなんです」
 そう言って、バックミラーで後部座席の女性を確認しようとした時、俺は自分の目を疑った。さっき迄、ニコニコしながら後部座席に座っていた白シャツの女性の姿が見当たらないのである。俺は驚いて車を止めて、振り返って確認したが、白シャツの女性の姿は後部座席から消えていた。この状況を確認した直後、俺の全身に鳥肌がたち、背筋に悪寒が走った。ほんの数秒前まで、間違いなく後部座席にいたのをハッキリと見ている。その証拠として女性が付けていたと思われる甘い香水の香りが後部座席に漂っている。何処にも隠れようのない車内から一瞬にして姿を消す事ができたのは、幽霊だったからなのだろうか。恐怖からなのか、悪寒からなのか、体が小刻みに震えている。俺はこの場所を一刻も早く離れたくて、車を急発進させた。エアコンを止めて、窓を開けると生暖かい風が入ってきた。その暖かさで何とか体の震えが止まり、落ち着く事ができて、急発進した事をミチルが怒っているのに気が付いた。
「急発進は危険だから駄目よ」
「そんな事、言っていられないんだよ。今はダッシュで逃げなきゃいけないんだよ」
「ダッシュで逃げるのは、幽霊が出たからなの?」
「実はそうなんだよ。さっき迄、後部座席に白シャツの女性がいたんだよ。香水の香りも僅かに残っていたから間違いないんだよ」
「正確には、ケイタにはそう見えていた、或いは、そう見せられていたのかも。そして、香水の匂いが残っていると思い込まされているのかもしれないわね」
 実際には存在していないものをどうして俺が見ているのか、匂いが残っていると思い込まされているのか、という疑問は残るが、ミチルが言うように全ては俺の思い込みなのだろうか。
「ミチル、車内のドライブレコーダーの記録を再生してくれないか」
 俺は車を止めて、白シャツの女性を乗せたあたりから、ドライブレコーダーの記録を見たが、そこには俺が一人芝居をしているとしか思えない映像が映っていた。
「これで解ったでしょ。次からは変なものを見たら幻だと思って気にしちゃダメよ」
「ミチルの言う通りだね。次からは無視するようにするよ」
「ケイタも落ち着いたみたいだし、後はダッシュで家に帰るだけね。でもスピード違反はダメよ」
 ミチルと話をして、俺は冷静さを取り戻す事ができた。白シャツの女性の事は忘れて、早く家に帰る事だけを考えて運転していたのだが、その後、俺はとんでもない幻を道の前方に発見してしまうことになる。

 制限速度を守りながら俺が運転していると、前方に白シャツの女性の自転車が道の端に置いてあるのが見えてきた。後輪が変形しているので、あの白シャツの女性の自転車に間違いない。俺はなるべく、その自転車を見ないようにして通り過ぎようとした。何事もなく通り過ぎることができたと思った直後、助手席に人の気配を感じた。そして助手席の方から、あの甘い香水の匂いが漂ってきている。どうやら今度は、勝手に助手席に乗り込んできやがった、と思いつつも、『これは俺が勝手にそう思い込んでいるだけだ』と自分に言い聞かせて、無視して運転を続けた。無視はしていてもどうしても気になって、助手席の足元をチラッと見てしまう。
 やはり白シャツの下にデニムのパンツを穿いた下半身が見えてしまった。見るんじゃなかったと後悔しながらも、前だけを見て運転をしていると、徐々に助手席の女がこちらに顔を近づけている気配が感じられる。俺の顔を覗き込もうとしている気配がひしひしと伝わってくる。女の顔が俺の視界に入ってくるのは時間の問題である。俺は恐怖のあまり、急ブレーキで車を止めて、きつく目を瞑った。暫くすると助手席の方の気配が感じられなくなった。またミチルが、「急ブレーキは危険だから駄目よ」と怒っているのが聞こえたが、今はそれどころではない。恐る恐る目を開いて助手席を確認すると女は消えていた。

 俺は車を発進させて運転を再開したが、いつまたあの女が勝手に、車に乗り込んで来るのかと思うと、気が気でなかった。俺が黙り込んで運転を続けているとミチルの方から話しかけてきた。
「どうしたの、黙り込んじゃって、また幽霊が見えたの?」
「実は、そうなんだよ。逃げても幽霊が追いかけてくるんだよ」
「じゃあ、追いかけてこられない所まで、ダッシュで逃げるしかないわね」
「どこまで逃げれば、追いかけてこなくなるのだろう?」
「もしその幽霊が地縛霊だったら、そんなに遠くまで追ってこられないんじゃない。因みに、もう少し先の〇〇川が今走っているA市とB市の境界で、B市で幽霊が目撃されたという噂は無いわよ」
「その幽霊の噂について詳しく教えてくれないか?」
 俺は幽霊の噂から、幽霊から逃げる方法が見つけられるかもしれない、と思い聞いてみた。
「SNSでの噂だけど、以前にこの道で、自転車で帰宅途中の女性が、後ろからきた車に追突されたそうなの。追突された女性は、後から来た別の車の運転手に救急車を呼んでもらって、一命はとりとめたけど、重大な障害が残ったらしいの。その女性の証言によると、追突された後に、車の運転席から男性が、助手席から女性が降りてきて、倒れている女性の近くまで来たけど助けずに、そのまま放置して逃げて行ってしまったとの事よ。そして、その追突した犯人は、まだ捕まっていないそうなの。その後、追突された女性は障害を苦にして、事故現場で自〇してしまったらしいの。以来、この辺では壊れた自転車の傍らに立つ女性の幽霊が目撃されるようになったそうよ。一人で運転していた人が、この女性を乗せて〇〇町まで来た時に、後部座席を確認したら、姿が消えていたという話が、幾つかSNSのチャットに投稿されているわ。そして、この女性の幽霊が目撃されるようになってから、カップルが乗った車の不可解な事故が続くようになったのよ」
 この話を聞き終えた後、俺にある仮説が思い浮かんだ。カップルだけが事故に遭っているのであれば、あの幽霊はカップルで走ってくる車を探して、無差別に復讐しているのではないか? そして俺がミチルの事を『運転中の彼女』と言ってしまったので、俺とミチルの事をカップルだと思い込んでしまっているのではないか? もし俺のこの仮説が正しければ、あの幽霊に俺とミチルはカップルではなく、だだの運転手とナビだと判らせることができれば、追いかけてこなくなるのではないか? そんな解決策を思い付いて、どうやってあの幽霊に判ってもらおうかと考えていた時、道の前方に女性の幽霊が立っているのが、また見えてきてしまった。

 道は前方で二股に分かれており左側が、ナビが示している帰り道になっている。その道への通行を阻むかのように、左側の道の真ん中に女性の幽霊が立っている。俺は女性の幽霊に向かって、『ミチルは彼女ではなくナビゲーターだから、道を通してくれないか?』と強く念じてみた。しかし、全く道を空けてくれそうな気配がない。
 仕方なく俺は一旦、右側の道に進んで、その後で左側の道に戻る事にした。右側の道に入る手前で俺は女性の幽霊に向かって声に出して言ってみた。
「ミチルは人じゃなくてナビだから、俺達はカップルじゃないぞ!」
 何とか判ってもらえないかと思い、口に出して言ってみたが、全く反応がなく、女性の幽霊はピクリとも動かなかった。ロードマップの画面を見ると経路から外れてしまったので、帰り道の再検索が始まっている。元の道へと戻る道が表示されるのを待っていたら、ミチルが有りえない事を言い出した。
「この先、目的地周辺です。案内を終了します」
 俺の自宅があるA県N市は、まだまだ先である。また、ミチルの口調がフレンドリーモードから通常モードに切り替わっているのも変である。慌ててロードマップ画面をスクロールさせて、再表示された経路の先を確認してみると、ゴールがこの先の〇〇川の中になっている。
「ミチル、目的地を俺の自宅に変更しろ!」
 思わず俺は叫んでいた。しかし、ミチルからの反応がない。ナビゲーター画面を見ると、そこに映っていたのはミチルではなく、あの白シャツの女だった。白シャツの女はニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべて言った。
「この先、三途川(さんずのかわ)です。オマエの人生を終了します」
 俺はナビの電源を切ろうと思い、電源スイッチを押してみたが電源がオフにならない。あの白シャツの女がニヤニヤ笑っている画面が消えない。それどころか、車を止めようとしてブレーキを踏んでも止まらない。ハンドルが勝手に動いて、俺の思い通りに回らない。まるで自動運転されている車に乗せられている感じだ。車から飛び降りようと思い、シートベルトを外そうとしたが、鍵がかかったように外れない。ドアを開けようとしてもロックされたように開かない。
 殆どパニックになりかけていたが、俺は幻を見ているだけで、幻を勝手に現実だと思い込んでいるだけなんだと、必死に自分に言い聞かせていた。本来ならば、経路から外れている道を、運転し続けている俺に、ミチルが注意をしているハズだ。もしかすると、幻を見て運転している俺の事を、現実に戻そうとしているかもしれない。
 俺はミチルの声に意識を向けて聞き取ろうとした。すると、微かではあるが「…ボックス…」というミチルの声が聞こえてきた。それと同時にナビゲーター画面に映っている白シャツの女の姿が消えて、ほんの一瞬ではあったが、ミチルの姿が映ったようにも見えた。俺は一瞬だけでも幻から解放された気がして嬉しくなった。だからと言って、車の制御を取り戻した訳ではない。前方を確認すると遠くの方に工事中のバリケードらしきものが見えてきた。そのバリケードの先が〇〇川で、当然ながら橋は掛かっていない。こうしている間にも、車はそのバリケードに向かって直進して行く。
 俺はミチルの声に集中すれば、今見ている幻が無くなるのではないかと思い、再度ミチルの声に意識を向けた。
「……ボックスの中」
 ボックス??? 何の箱の事を言っているのだろうか? 注意深く、余計な事を考えずにミチルの声だけに意識を集中してみた。
「…ダッシュ……内の……ボックスの中」
 これを聞いて、俺はハッと気付かされた。ミチルはダッシュボード内のグローブボックスの中にある物の事を言っているのだ。ビビリな俺は心霊スポットに行って万が一、何かあった時のために、お祓いの効果もあると言われている、天然塩とフランキンセンスのアロマオイルをグローブボックスの中に入れていた。フランキンセンスはイエス・キリスト誕生の贈り物として聖書にも登場し、古代ギリシャやエジプト、ローマでは神に祈りを捧げる宗教儀式の薫香として用いられ、オカルト業界では除霊効果もあると言われている。しかし、これまで一度も使う事はなく、グローブボックスに入れた事自体を忘れていた。グローブボックスに入れる際にミチルに、どうしてそんな物を車内に持ち込むのかと聞かれた。「心霊スポットで何かあった時のために、ダッシュボードに入れておくんだよ」と説明した際に、そこはダッシュボードではなく、正確にはグローブボックスと言うのだと教えられた事を覚えている。因みにダッシュボードとは、運転席と助手席の前方かつ、フロントガラスの下の部分全体を指すそうだ。
 俺はグローブボックスを開けようとしたが、もしかすると、ここも開かないのではないかと思い、開けるのを躊躇してしまった。前方を見るとバリケードがもう30メートルくらいの所に迫っている。更に、此処に来て車がスピードを上げたように感じられた。バリケードを突き破るつもりなのだろう。
 俺は覚悟を決めて、グローブボックスに手を伸ばした。すると、カチャ、という音がしてグローブボックスが開いた。中にある天然塩とフランキンセンスのアロマオイルを急いで取り出した時、ガシャンという大きな音とともに車に衝撃が走った。バリケードを突き飛ばしたようで、橋梁工事中と書かれたバリケードが弾き飛ばされていったのが見えた。
 もうグズグズしている時間はない。車は雑木林を切り開いて造られた舗装されていない道に入り、この道の先に工事中の橋が見えてきた。俺は天然塩の袋を無造作に破いて、塩を頭からかぶり、残った塩をナビゲーター画面の女に降りかけた。するとニヤニヤしていた女が急に苦しみだした。更に俺は、フランキンセンスのアロマオイルの瓶の蓋を開け、思いっ切りその香りを吸い込み、両手のひらにオイルを出して顔や首、頭に素早く塗った。そしてナビゲーター画面にも手でオイルを塗った瞬間、画面に映っていた白シャツの女が消え、ミチルに切り替わった。
「早く、ハンドルを左に切って」
 ミチルの叫び声が聞こえた。俺は言われるがままに、ハンドルを左に切った。さっき迄、全く思うように動かなかったハンドルが嘘のように動いた。
 そこまでは記憶が残っている。その後、激しい衝撃に襲われ、目の前が真っ暗になった。

***

 俺の車は、雑木林に突っ込んで、川まで約1メートルの所で木にぶつかって止まっていたらしい。ミチルはブレーキでは止まれないと判断してハンドルを雑木林の方へ切らしたのだろう。後日、車内のドライブレコーダーを確認したところ、俺がフランキンセンスのアロマオイルをナビゲーター画面に塗った瞬間、首の後ろから背中にかけて、黒い煙の様なものが出ていったのが映っていた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515151572
大赤見ノヴ171617171784
吉田猛々161717171683
合計4548494948239