俺は東北の田舎に生まれ、小学校入学の前まで、その田舎で過ごした。
俺が母の腹の中にいるとき、父の単身赴任が決まり、出産して落ち着くまでしばらくってことで、母の実家に住まわせてもらってたってわけだ。だから、小さい頃は祖父母によく面倒を見てもらってた。
祖父母は、初めての男孫、しかも同居ってことで、俺をめちゃくちゃ可愛がった。目の中に入れても痛くないとはこのことか、とばかりに甘やかしたし、わがままを言っても叱るどころか全部許してくれた。
特に祖父は、まるで神様か、ってぐらいに俺を溺愛していた。母も含め、娘しかできなかった祖父が、初めて接した男の子が俺。だから欲しいものは何でも買ってくれたし、毎日の食事も全部、俺の食べたいものに合わせてくれた。まさに俺は家の中で、小さな王様のようだった。
そんな俺を、祖父はよく、家から少し離れた山の麓の空き地まで、散歩がてら連れて行ってくれた。そこでキャッチボールをしたり、追いかけっこをしたり、虫取りをしたり。娯楽の少ない田舎だったから、ゲーセンや玩具屋なんてあるわけもなく、祖父と遊ぶといえばその空き地と決まっていた。
空き地の隅には古い小さな社があって、空き地に行くと、まずはその社に手を合わせるのが俺と祖父のルールだった。何でかは覚えていないが、祖父にそう言われたんだと思う。そうすると、社の後ろから、着物姿の小さな女の子がヒョイと出てきて、祖父と俺に微笑みかける。それが日常であり、当たり前だった。
「あの子は、だれ?」
「見えだが?あの子はミツキって言う子だ。覚えどげ」
風呂に一緒に入りながら、そんな会話をした記憶がある。祖父は俺に優しく言った。ミツキは村の一部の子供だけに見える、不思議な子。神様が憑いた子だから、「神憑き」と呼ばれていて、やがてミツキと呼ばれるようになった。村の守り神みたいなものだから、粗末にしてはならないし、会ったことは秘密にしなくてはならない。
子供だった俺は、その話を純粋に信じたし、怖さも感じなかった。何より、祖父の表情や声色が、普段にも増して優しく、諭すような感じだったから、そういうもんなんだと納得していた。
いつだったか、その空き地で祖父と二人、夕方遅くまでキャッチボールに興じていたら、すっかり日が落ちて真っ暗になったことがあった。山の麓ってこともあって、昼間と違い、まるでヤマノケでも出てくるんじゃないかってくらい不気味な雰囲気に、俺は思わず泣き出した。すると、社の傍で、長い雑草の蔓で縄跳びをしていたミツキが、俺に駆け寄ると、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
と、頭を撫でてくれた。
「だがら、ピッタリ泣ぎやんだんだか。ミツキのおかげだべ」
帰り道にその話をしたら、すっかり涙の止まった俺を見ながら、祖父は笑った。それから、こんなこともあった。俺が何日か続けて、馬鹿でかい蛇に襲われるっていう悪夢を見て、それを祖父に話したら、
「んで、ミツキのどごさ行って、拝んでくっか」
と、即座に空き地に連れて行かれた。で、社に手を合わせると、いつものようにミツキが出てきて、俺の頭をまた撫でてくれた。
「だいじょうぶ、怖ぐねえ、怖ぐねえ」
ミツキに頭を撫でられると、不思議なことに、不安や恐怖が一気に薄らいだ覚えがある。ミツキの姿を見ることができない祖父も、俺の表情が明るくなったのを察して、笑顔で頷いていた。
そんな、今で言えば怪異の類かもしれないミツキとの交流もありつつ、俺は田舎でスクスクと育ち、その後、仕事がひと段落した父に呼び寄せられ、小学校に入学するタイミングで、家族で東京に住むことになった。
その後、俺は見事に都会に染まった。田舎暮らしのことなんて、スッパリと見事に忘れた。あたかも東京生まれ、東京育ちのごとく振舞った。祖父が亡くなるまでは。
そう、俺が20歳になるかならないかの夏、祖父が急に倒れてしまったんだ。まあ年齢も年齢だったし、母もある程度は覚悟していたと思う。
祖父はガンだった。気づいたときにはもう末期も末期。治療なんてする段階じゃなく、見送ってあげるだけの状態。で、母は祖父の最期を看取る為に、田舎に数日帰省するという。俺を連れて。
「おじいちゃん、誠(俺)にどうしても来て欲しい、って」
母がハンドルを握りながら、助手席の俺に言う。
まあ、そうだろうな、というのが俺の素直な心境だった。生まれた時から一緒にいて、成長の過程を見守り、可愛がってきた孫。死ぬ前に会いたいと思うのが普通だろう、と。
一方で、成長した俺は、祖父との暮らしを思い出すたび、感謝ではない「苛立ち」の感情が芽生えることが多くなっていた。何故なら、祖父は俺には優しかったが、他の従姉妹たちには、対応を露骨に変えていたからだ。
たまに遊びに来る従姉妹たちに、祖父母が振る舞ったのは、普段の俺の食事よりも数段、グレードの劣るものだったし、人形やぬいぐるみなど、女の子が欲しがるようなものを従姉妹がねだっても、何かと理由をつけて断っていた。
俺が、孫達の中で唯一の男の子だったというのが理由だろうとは理解できるが、当時を思い出すにつけ、「あの時は居心地が悪かったな」「従姉妹たちに申し訳なかったな」という思いが去来した。
だから、20歳にまで成長した俺の中では、祖父に対しては正直、「男児というだけで優劣をつける理不尽な大人」という不快感が強く、祖父の命が尽きようとしている状況を聞いても、俺はどこか冷ややかだった。
数時間かけて、母と俺は、懐かしの田舎に着いた。久々訪れた、昔ながらの屋敷の玄関先で、祖母が出迎えてくれた。
「よぐ来たなあ。じじ、待っでっがら」
祖父は既に緩和ケアの段階になっており、自宅にいた。時折、主治医の往診を受けながら、最期を住み慣れた我が家で迎える。そう遠くないうちに。祖母の表情は柔和ながら、何かを達観したような、静かな覚悟が滲んでいる。
「おお、誠ぉ。しばらぐだなや」
祖父の部屋。寝たままで首だけを起こし、痩せ細った祖父が、顔を綻ばせながら俺を懐かしげに見た。相変わらず、他の孫達に接するよりもワントーン高く、優しい声で、祖父は色々聞いてきた。大学はどうだ、不便はないか、まさか彼女なんてできてないだろうな、などなど。ひとしきり、頷きながら俺の返答を聞いていた祖父は、ふと思い出したように、言った。
「ミツキのとこさ、挨拶行ったが?まだなら、はえぐ行げ」
「ミツキって…何言ってんだべ、もう見えるわげ、ねえべや」
それを聞いた祖母は、呆れたように笑い、祖父にツッコミを入れるようにおどけながら俺を見た。
ミツキ。田舎のことを忘れ、祖父との楽しかった思い出も、東京暮らしと祖父への不快感で上書きされていた俺の頭の中で、その名を聞いた途端に蘇ってくる幼少の記憶。そういえば、そんな子がいたな。山の麓の空き地。社の裏から出てきて、俺に笑いかけ、時には一緒に遊んだな。頭も撫でてもらったな。
「だいたいみんな、5、6歳までなんでしょ?見えるの。誠はもう二十歳になるんだから」
母もミツキと聞いて、笑っていた。心霊の類いは全く信じていない母ですら、ミツキの存在を認識し、在るものとして受け入れていることが、俺には意外だった。
「子供の神様みでえなもんだがらなぁ。まあ、行っで手ぇ合わせるぐらいは、してもバチは当たんねべ」
祖母が、祖父の身体を拭きながら言った。祖父は、祖母に上体を起こしてもらって、背中を拭かれながら、俺に手を差し出した。
「ミツキのとこさ行ぐんだば、これ持ってげ。お守り」
年季の入ったお守りを無言で受け取った俺は、無造作にズボンのポケットへ押し込めた。その後、母と俺は客間へ移動すると、荷解きをした。古びたタンスに貼られ、剥がされたアニメのシールの残骸が、ここがかつて俺も過ごした場所であることを物語る。
「…暇だな」
一息ついて、俺は気づいた。田舎、母と祖父母、夏休み。友人もおらず、娯楽もない。そもそも、今や祖父をよく思っていない俺だ。正直、もう死ぬ間際かと思っていたからついてきたが、案外まだ元気じゃないか。俺は何日、ここで過ごさなきゃならない?
「…散歩行ってくる」
「ケータイ、持ちなさいよ」
あてもなく、俺は外へ出た。炎天下の夏の午後。蝉の鳴き声が四方の山から、渦を巻いている。のどかすぎる風景にため息をつき、俺は友人と他愛無いメールのやり取りをしながら、ただ歩いた。
やがて気づくと、アスファルトの舗装が途切れ、細い山道を歩いているところだった。メールに集中していたせいもあったが、気づかないうちにずいぶん歩いたようだ。
「あれ?」
思わず、声が出た。先刻、祖父母の家でのやり取りの際、甦ってきた子供の頃の記憶。その中で見た風景と、全く同じ景色が、目の前に広がっていた。雑草の茂る山道と広場、奥に聳える山、そこにポツンと建つ小さな社。
吸い寄せられるように、俺は社に歩み寄った。記憶の中では小綺麗に掃除されていたはずの社は、今や朽ち果てて、お供え物もない。
「ずいぶん、ほっとかれてるな」
俺は小声で呟いた。その途端、山の木々にとまっていたであろう鳥たちが、一斉にバタバタと飛び立ち、鳴いた。そして、苔むした社の後ろから、ヒョイと女の子が飛び出してきた。
「誠、おっきぐなったなや」
着物を着て、手には長い雑草の蔓。記憶の中の姿のまま現れたのは、紛れもなく。
「…ミツキ?」
思わず、名を呼んだ。途端に、幼い頃の思い出が、一気に俺の中で、まるで蓋を開けたように溢れ出す。記憶と寸分違わぬ姿でいるということは、祖母や母も言うように、ミツキはこの世の者では無い。だが、不思議と、「人ならざるモノ」だという怖さはなかった。
「ずっと、待っでだよ」
ミツキは無邪気な笑顔で俺に微笑みかけた。
待ってた?
俺にはその意味が分かりかねた。そもそも、なんで子供の頃にしか見えないはずの彼女が、見える?ミツキははにかみながら、俺に言う。
「誠とは、祝言あげねばなんねえがら」
祝言。結婚てことか。ミツキの出現と発言に戸惑い、押し黙ったままの俺のズボンの裾を、ミツキはギュッと掴み、続けた。
「約束したがら、来たんだべ?」
約束?祝言の?俺は懸命に、幼少の記憶を辿る。だが、思い出せない。考え込む俺に焦れたように、ミツキは地団駄を踏むと、俺をじっと見つめ、言った。
「…一郎(祖父)は、生ぎでだが?」
ミツキの顔から、笑顔が消えている。睨むような、刺すような視線で俺を見ている。重い病気だけど、生きてるよ。目を逸らしながら俺は答えた。すると、ミツキはー
「ああ、だがらわがんねえのが」
一言、そう言った。ゾッとするような声色だった。俺は、蛇に睨まれた蛙のように、その場に固まってしまった。ミツキの方を向き直ることは出来なかった。すぐ側で感じるミツキの気配が、ついさっきまでとはまるで変わってしまったからだ。とてつもなく禍々しい気配が、掴まれたズボンの裾を通して、伝わってきた。
時間にして、1分ほどそのまま固まっていたように思う。静寂を破るように、携帯が鳴った。母からだった。ハッとして、ミツキに背を向け、電話をとる。
「誠!今どこ!?おじいちゃんが!」
電話の向こう、取り乱した母の声に、俺はミツキを振り切り走り出した。携帯を耳に当てたまま、後ろを振り返らず、ひたすら走った。突然苦しみ出して、呼吸が止まった、脈もない、今先生を呼んでいる、早く帰ってきて。そんな母の言葉が、聞こえてはいたが、俺は正直それどころではなかった。ただ、ミツキが怖かった。一刻も早く、社から離れたかった。
来た道を、ひたすら走った。山道を抜け、舗装された道に出る。陽炎の立つ田園風景すら、不吉に感じた。何も見るまい。そう思いながら、ただ前だけを向いて走り続けた。
やがて、祖父母の家が見えてきた。開けっ放しの玄関に、転がるように駆け込んだ。
「誠……」
母が、涙目で俺を出迎えた。俺は息を切らしながらも察した。間に合わなかったと。そして、ようやく後ろを恐る恐る振り返った。誰もいなかった。少しだけほっとした。
「顔、隠してやって。あんまり見せねえ方がいいがら」
主治医の声が、祖父の部屋から聞こえた。母に促され、俺は祖父の元へ行った。祖母が正座をし、祖父の顔に白い布をかけている。
「顔、見るが?」
祖母がポツリと言った。俺が頷いたのを確認すると、祖母は布を外した。祖父の目は、見開いていた。苦悶の表情を浮かべたまま、硬直していた。
「苦しがったんだべな…居でやれねくて、申し訳ねえ」
主治医が祖母に頭を下げる。祖母は気丈に微笑み、仕方ねえべさ、今までお世話になりました、と主治医に労いの言葉をかけた。そして。
「葬式の準備、せねばねな」
再び祖父の顔に布をかけ、祖母が立ち上がった。そこからは、バタバタした時間が続いた。近所の人やらお寺さんやら、入れ替わり立ち替わりやってきた。皆、それぞれに覚悟はあったのだろう。泣き喚くような人はいなかった。そんな中。
「この度は、ご愁傷様で…」
体格の良い、年配の作業着姿の男性が、玄関先で祖母に頭を下げた。祖母も、少し改まった様子で、その男性を出迎えている。
「区長さんよ。ここ一帯で、皆から頼られてる人。あんたも挨拶しなさい」
母から促され、俺は玄関先まで出向いて、区長に頭を下げた。すると区長は、俺の顔を見るや、眉間に深く皺を寄せ、睨むように俺の全身をくまなく見始めた。
「おめえ…、ちょっと、チヨ(祖母)さん。お孫さんと、話しでえんだけど…外でいいがら」
真剣な表情で俺を見つめる区長の申し出に、祖母は戸惑いながらも了承し、俺に玄関の外まで出るよう促し、戸を閉めた。すっかり日の落ちた軒先で、俺は区長と相対した。区長はぶっきらぼうに自己紹介をした。聞けば、区長の家系は代々「見える」一族で、依頼があれば祈祷やお祓いも請け負うのだという。そして、その信頼感も手伝って、区長の仕事も任されるようになったと。そんな区長は、俺の背中のあたりをじろりと見ながら、唐突に言い放った。
「悪いな、単刀直入に言う。おめえ、何かに憑かれてっぞ」
「憑かれてる…?」
その言葉を聞いた途端、俺はガタガタと震え出した。意思に反して、手足が激しく振れ、呼吸も乱れる。祖父の死という現実が、少しの間忘れさせてくれていた恐怖。それが区長の言葉によって鮮明に蘇り、俺は堪えきれず泣き出した。涙ながらに俺は区長に吐き出した。ミツキのこと、何か約束をしたらしいこと、そして、豹変したミツキから逃げたこと。
区長は黙って、俺の背中をさすりながらそれを聞いていた。が、話しを進めるうち、その表情は、険しい怒りを秘めた顔へと変わっていった。
「誠…今がら、大事なごど言うぞ」
区長は、俺の両肩を正面から掴んで、俺の目を真っ直ぐに見て言った。
「この村は、確かに田舎だげどな…ミツキなんてのは、誰も聞いだごどねえ。区長のおれが言うんだがら、確かだ」
一瞬、言っている意味がわからなかった。ミツキは、村の守り神じゃなかったのか?村の子は皆、小さい頃に見たり、遊んだりしてたんじゃないのか?区長は俺の肩を、更に強く掴み、続ける。
「お前が言ってだ社は、誰も近づがねえ。マムシが出るがらな。他の子供が遊んでるどご、見だごどあっか?」
そういえば。記憶の中、俺はいつも、祖父とだけ、その空き地に行っていた。他の子供はおろか、母と一緒に行った記憶すらない。でも、母も祖母も、ミツキの事は知っていた。それは?
「一郎、『誰にも言うな』どが、『見える子、見えねえ子がいる』みでえなごど、言ってねがったか?」
幼少の記憶が、どんどん蘇る。湯船に浸かりながら、俺にミツキの事を教えてくれた祖父の笑顔。視線を落として頷く俺の様子を見、区長は苛立たしげに大きくため息をつく。
「大方、そんなごど、家族にも言ってだんだべな。だがら、お前の家だけ、ミツキってもんの存在を信じて…家の外にも漏らさず…」
度が過ぎる程に俺を可愛がっていた祖父の、在りし日の姿が、脳裏に浮かぶ。区長の話が本当だとすれば、俺は物心ついた時から、祖父に騙され続けていたことになる。一体、何故。何の為に。
「祝言の約束、って言ってだんだべ?それも、たぶん一郎がしたはずだ。だどすると…」
区長は、しばらく目を閉じ、何事か思案すると、やがて決心したように、口を開いた。
「少し準備する。んで、お前と社に行ぐ。一郎が死んだ日に申し訳ねえが、早くせねば駄目だ」
そう言うと区長は、玄関を開けるや、祖母と母を呼び、小声で何かを話した。その間、俺は外でずっと震えていた。蒸し暑い夏の夕刻、ミツキとの遭遇と祖父の死、そして裏切り。俺の頭の中はグチャグチャに乱されていた。
「行ぐぞ」
どれくらい待ったか、懐中電灯を持った区長が出てきて、俺の手を引いた。申し訳程度の街灯が照らす、少し前に逃げ戻った道を、再び歩く俺。その足取りは、自然と重くなる。
「なんで、じいちゃんは、ずっと俺を騙して…」
ポツリと溢した俺に、少し前を歩いていた区長が振り返り、首を振る。
「考えだぐねえが、お前に引き継がせようとしたんでねえが、と思っでる。俺はな」
引き継ぐ?何を、と思いかけて、俺はハッとして区長を見た。
「一郎、そいづと、祝言の約束したんでねえがな。子供の頃にな…」
背筋が凍った。ミツキと結婚の約束をし、それを果たさずに祖母と結婚した祖父は、次代にその約束を押し付けようとしていたとでも言うのか。
「そんな、馬鹿なこと…」
有り得ない、と思った。だが、俺や祖母や母に、ミツキが神様と吹き込み、無害な存在と思わせたり、口封じをしたり。自分たちに男の子が生まれなかったから、男孫である俺の誕生を心待ちにし、異常な程に可愛がった。考えれば考えるほど、辻褄が合ってくる。
「だとしたら…許せない…」
重かった足取りが、無意識のうちに速くなり、恐怖に覆われた心を燃やすような、激しい怒りが俺の中で湧き上がってきた。生まれてからずっと、偽りの愛情を注いでいた祖父に。そして、祖父をそう振る舞わせた元凶である、ミツキに。
「一郎は、つい最近まで、ちょくちょく社さ行ってだみてえだ…さっき、チヨさんがら聞いだ…っと、着いだな…」
区長の足が止まり、懐中電灯が照らした先。日中も見た古びた社が、オレンジの光を纏って妖しく輝いている。そして。
…ずるずるずる…
「ひっ」
何か重たいものを引き摺るような音と、区長の短い悲鳴が響き、社の裏からミツキが顔を出す。
「誠…なんで逃げだ…」
ミツキは笑っていた。だが、子供の頃や、日中に見た、無垢な笑顔ではない。ニタニタと、気味の悪い、睨め付けるような視線を俺に向けながら、口角を上げている。
「ま…誠っ…、あれがミツキか?…あれが、女の子に見えんのが!?」
区長はヒッ、ヒッ、と引き付けを起こしたように呼吸を荒げ、震えた声で俺に叫んだ。
“女の子に見える”
言われた意味がわからない俺は、恐怖よりも怒りの感情に任せ、ミツキに向かって声を張り上げた。
「うるさい!お前となんか、何も約束してない!俺に関わるなっ!!」
力の限り、振り絞るように、俺はミツキに怒鳴りつけた。その瞬間、俺たちの居る空間一帯に、凄まじい腐臭が立ち込めた。生ゴミが夏場に放置され、蝿や蛆が湧き、甘ったるさも足されたような、吐き気を催す匂い。これが死臭か、と思った。引き付けを起こしていた区長は、その場で激しく嘔吐し出した。
「誠ぉぉ…」
ミツキが、表情を歪めて、目を見開いて俺を睨みつける。釣り上がった両目の瞳は、瞳孔が縦に裂けたように細長く伸び、まるで蛇のようだった。
「指切り、したでねぇがぁぁぁ!!!」
ミツキの怒声で、空気がビリビリと震える。あんぐりと、両端が裂け千切れる程に大きく口を開けたミツキは、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。足音ではなく、先刻も聞こえたずるずる…という、何かを引き摺るような音を鳴らしながら。と同時に、俺の太もものあたりが、火傷しそうな程に熱くなる。
「誠っ!!一郎がら…何が、渡さったがっ!?」
区長が、吐瀉物を口の端から垂らしながら、俺に叫んだ。ハッとした俺が、ポケットをまさぐると、祖父から渡されたお守りが、酷く熱を帯び、中身が少し動いているような気すらした。
「ひぃっ」
俺は思わず、お守りをポケットから取り出すと、向かってくるミツキ目掛けて投げつけた。地面に落ちたお守りの口が開き、中身が転がる。ミイラ化した、小さな指のようだった。
指切りって、このことか。直感的に思った。これは、恐らくミツキの指だろう。
「神様なんかでねえっ…そいづは…蛇が取り憑いだ、怨霊だっ…!!」
そう叫んだ区長が、再び嘔吐し、耐えきれないとばかりに俺とミツキに背を向ける。そして、足元に転がってきた、小さな指を一瞥したミツキの首がー
ぐるん
と回転し、上下が逆さまになった。そして、喉元から上半身にかけて、一直線にメリメリと裂け目が入ったかと思うと、その中から、真っ黒い、巨大な蛇が顔を出した。
「ヒッ…ヒッ…神でねえ…巳だ…」
神が憑いた女の子だから、ミツキ。祖父の笑顔が一瞬、脳裏によぎる。
そうじゃなかった。区長が呻いた通り、こいつは、「巳憑き」だ。
まるで脱皮のように、ミツキの皮を脱いだ大蛇は、鎌首をもたげ、俺に迫る。俺は金縛りにあったように動けない。耳から、頭の中から、「祝言」「約束」そんな言葉が俺の心の中まで突き抜けてくる。
こんな化け物と?
結婚?
俺が?
恐怖に青ざめ、もう声すら発することのできない俺は、強く、強く念じた。
“絶対に、嫌だ”
と。大蛇は俺の全身に絡みつき、大きく口を開け、俺を頭から飲み込もうとしている。暗がりの中、大蛇の真っ赤な口内が、みるみる俺に近付いてきてー
そこで俺は気を失い、次に気づいたときには、祖父母の家の布団で寝かされていた。
後から聞いた話しでは、区長が社に向かう前に、祖母に「夜明けまで戻らなかった場合、誰か迎えに来るように」と伝えていたらしかった。その言葉通り、明け方まで帰らない俺たちを心配し、迎えに来た村の若い男達が見たのは、倒れている俺と、引き付けを起こしながら、同じところをグルグルと歩き回り続ける区長の姿だったそうだ。
「…帰るわよ」
目を覚ました俺に、母は安堵した表情を一瞬浮かべたものの、すぐに短く、そう告げた。訳もわからないまま、俺は車に乗せられ、祖父の葬儀も見届けることなく、帰路についた。
「…どうしても来て欲しい、って…こんな事に、巻き込む為に…」
帰り道の車内。母は憤りとともに、俺に色々な話をした。区長から、ミツキは恐らく神様などではなく、良からぬ存在であろうと聞かされたこと、それに俺が巻き込まれそうになっていて、祓いに行ってみるが、もし駄目だった場合は、すぐに俺を連れて東京へ帰れと言われていたこと。
祖父は俺はおろか、母や祖母にもミツキの存在を偽って伝えていた。母にとってもショックだったのだろう、時折涙を浮かべながら母は、祖父への怒りを滲ませていた。
「…区長さんは…?」
「…病院に運ばれたけど…」
母はそれ以上は言わなかった。俺も、その様子と、気を失う間際に見た区長の姿から、なんとなく察して、聞くのをやめた。あとはお互い無言だった。
俺は一人、物思いに耽った。大蛇に飲み込まれたとき、ミツキの記憶が流れ込んできた気がする。遠い昔、結婚に憧れた小さな女の子。貧しいながらも幸せに暮らしていたが、病魔に冒され、誰とも添い遂げられず、この世を去った。その無念がいつしか、怨霊となり、俺の遠い先祖と関わって、祝言の約束を取りつけ、先祖はそれをずっと先送りにし。不憫には思ったが、同情はしなかった。俺には関係ない話だし、いい加減に成仏してくれよという思いしかなかった。そんなことを考えながら、俺と母は、数時間かけて、東京まで戻った。
これが、数年前に経験した、俺の体験談だ。
その後、何年か経ち、俺は結婚した。勿論、ミツキとではなく、普通の女性とだ。そして子宝にも恵まれた。男の子だ。俺は現在、慣れない育児に奮闘しながら、幸せな毎日を過ごしている。
ただ、不安に思うことが、一つある。
ミツキと対峙して気を失っていたとき、ミツキの執拗さに根負けして、祖父と同じように、子孫を差し出しはしなかったか。そして、もしそうなら、生まれてきたこの子に、いずれミツキが祝言を迫りに来るのではないか。
そんな漠然とした不安を抱えながら、息子が玩具で遊ぶ姿をぼんやりと眺めていた。雑然と玩具箱に入れられた人形や積み木を、ポイポイと投げながら歓声をあげる息子。投げられた玩具のひとつが、俺の足元に転がってくる。
ミイラ化した、小さな指。
外で、ずるずると音がした。窓の外を見る。
庭木の茂みの中に、蛇の尻尾が消えていくのが見えた。