営業職の父と専業主婦の母、そして当時小学5年生だった私の3人家族は、築40年の古い団地で暮らしていた。同じ団地には、幼稚園からの幼馴染、山下 惟月(やました いつき)がいる。男女の友情は成立しないと言う人もいるが、私と惟月の間には、互いを信頼し合う確かな友情がある。だからこそ私は、惟月の持つ特殊な能力について、深く追求することはしなかった。
惟月は幼稚園の頃から、私に不思議なことを話す子供だった。「この道は、なるべく通らない方がいいよ。」「来週から、朝10時出発のバスには絶対に乗らないでね。」初めのうちはただ、惟月が私を揶揄っているのだと思っていた。でもある日、惟月の言う通りに通学路の道を変えたら、翌日、私が通るはずだった道で、私の同級生が通り魔に襲われたとのニュースが飛び込んできた。それから2日後、私は惟月の言う通りに、乗車するバスの時間を変更した。すると2時間後に、私が乗るはずだったバスが大型トラックとの衝突事故を起こした。
子供ながらに私は、惟月には、未来が見える不思議な力があるんだと悟った。その事実を深く追求しなかったのは、惟月が自ら望んで特殊能力を使っているとは思えなかったから。きっと私には計り知れない、惟月なりの苦労があるに違いないと、私は確信していたからだ。
それから半年後、私は両親と共に、住み慣れた団地から閑静な住宅街へと引っ越した。惟月の家族も引越し祝いに来てくれて、私の新しい家をとても気に入ってくれた。帰る時間が迫る頃、惟月は真剣な顔で私に一言告げた。「5年4組の一条 奈子(いちじょう なこ)には気を付けろ。」
一条奈子、彼女は私の家の斜め向かいに住む、同じ小学校の同級生だ。私が引っ越して来た当日、奈子は「私たちクラスは違うけど、仲良くしよう。友達になろうね!」と、私に話しかけてきてくれた。惟月の言葉に困惑しながらも私は、「奈子ちゃん?優しい子だけど。」とだけ答えた。惟月は私の言葉に「そっか」と呟き、家に帰った。しかしこの惟月の忠告は、すぐに現実のものとなる。
当時、私の学校では女子生徒を中心に、香り付きのボールペンが流行っていた。私は祖父におねだりして、12本セットのものを買ってもらい、学校でも家でも大事に愛用していた。特に私は、石けんの香りを放つ水色のボールペンが大好きで、その石けんの香りのボールペンだけはインクが減らないように、大切に使っていた。
ある日、奈子の家に遊びに来ていた私は、そこでも香り付きのボールペンを使って、同じクラスの友達に手紙を書いていた。手紙を書き終えて、私が奈子の様子を伺うと、奈子は私が大切にしている石けんの香りがするボールペンを使って、塗り絵を始めていた。私は思わず、奈子に言葉を発した。「奈子ちゃん、ごめんね。そのボールペンは大切に使っているものだから、違う色に変えてもらってもいいかな?」と、私は奈子にお願いをした。
すると奈子は、鬼のような形相で私を睨みつけ「今すぐこの部屋から出て行け。私の家から出ていけ!」と、私を怒鳴りつけた。驚いた私は、すぐに奈子の部屋を飛び出した。私が玄関のドアを開けて外に出た瞬間、奈子は待ち構えていたかのように、2階の窓から外にいる私に向かって物を投げつけ始めた。私の頭、肩、腕、腹部。奈子は私の全身を目掛けて、次々と物を投げつけてくる。奈子が私に投げつけている物、それは私が奈子の誕生日にあげた、ポーチ、リップ、手鏡、手櫛。それから私が奈子に貸していた、数冊の漫画だった。
さらに不気味だったのは、奈子の1歳年上の姉、一条 花奈(いちじょう はな)だ。私に人格否定とも取れる暴言を吐きながら物を投げつける奈子を、花奈は表情ひとつ変えず、黙って見つめていた。奈子が投げつけた漫画の1冊が私の目に当たった瞬間、私は強い恐怖感を覚え、そのまま走って自宅へ戻った。自宅に戻った瞬間、私は涙が止まらなかった。溢れる涙を手で拭い、私は母に奈子の状況を伝えた。
けれど母は「あんたが悪いことでもしたんでしょ。」と私を叱るばかりで、寄り添う言葉を一言もかけてくれない。このやり取りはいつものことだ。母は、私が友人関係の悩みを打ち明ける度に「あんたに原因があるのよ!」と言い、真っ先に私を疑う。たとえ相手が先に私に手を挙げたとしても、相手が先に私の悪口を言い始めたとしても、毎回謝るのは私の方だった。
今回の奈子のことも、「ボールペンごときで大袈裟なのよ!奈子ちゃんにワガママを言ったあんたが悪いわ。」と言って、涙を浮かべる私の気持ちに母は一切、寄り添ってくれなかった。確かに私も、小さなことに感情的になり過ぎたのかもしれない。その場を黙ってやり過ごせばよかったのかもしれない。大人になった今なら、そう気持ちを切り替えることは簡単だ。しかし当時の私には「大好きな祖父に買ってもらった特別感」という気持ちの方が勝ってしまったのだ。
それでも、「やっぱり、一人っ子はワガママに育ってしまうのね。」という母の決まり文句を聞きたくなかった私は、心の中で「私が奈子ちゃんを怒らせたんだ。」と自分に言い聞かせた。その一方で、「こんな時、惟月と話ができたら・・・」と、心の拠り所を探す自分もいた。いつも私の味方になってくれたのは惟月だけ。でも惟月はもう、近くに住んでいない。急に襲ってきた虚無感から、私は眠りにつくまで、涙が止まらなかった。
奈子との蟠りができてから1週間後。私の家に奈子が、姉の花奈と一緒に訪ねてきた。私は1週間前の奈子の表情がフラッシュバックし、なかなか玄関に向かうことができない。しかし母から強く促され、意を決して玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、穏やかな笑顔を浮かべる奈子と花奈。別人のような優しい2人の様子に、私は圧倒された。「この前はごめんね。私たち友達だよね?仲直りしよう。」そう、奈子は私に声をかけてきた。奈子から先に謝ってきたし、この間のような殺気を感じる視線もない。私は緊張しながらも、「私もごめんね。本当にごめんね。」と、奈子に伝えた。
だがその直後から、私の両瞼が赤く腫れるようになった。目を開けるだけで痛みが走り、前髪が当たるだけでヒリヒリと痛痒い。皮膚科で処方された飲み薬で、症状が一時的に回復するものの、日が経つと再び、赤く腫れ上がる両瞼。この頃から私は、アレルギー反応を和らげる処方薬と、塗り薬が手放せなくなった。
ある週末、私は奈子の家で一緒に宿題をしていた。奈子の母に、飲み物の種類を聞かれた私は台所に向かう。奈子の母が冷蔵庫の扉を閉めた瞬間、私は自分の目を疑った。その冷蔵庫の扉には、奈子の姉の花奈、奈子、そして私の3人が写った写真が貼られていたのだが、私の両目部分が切り取られた状態だった。私はその場で「何これ!」と大声を上げてしまった。
私が困惑しているにも関わらず、その場にいる奈子の両親と、姉の花奈は無表情のまま。奈子だけが、顔を真っ赤にして笑っていた。きっと私の目をくり抜いたのは、奈子の仕業に違いない。けれど、その写真をそのまま飾っておく奈子の両親の心理が、私には理解できなかった。まるで、私に見せつけるかのように飾ってあるようにも感じられて、怖くて堪らなかった。
翌日の朝、玄関を開けると、私の自転車のカゴには、バラバラに引き裂かれたぬいぐるみが入っていた。このぬいぐるみは以前、私の家に遊びに来た奈子が「譲って欲しい」と、何度も私に懇願したものだ。「奈子と友達でいるのは、もうやめよう・・・。」その日を境に、私は奈子と少しずつ距離を置き始めた。いくら私の母に「ご近所さんなんだから仲良くしなさい。」「同じ学校に通っているんだから友達でいなさい。」と叱られても、私は自分の選択に後悔はなかった。
些細な価値観の違いにも、敏感に反応しては怒りを撒き散らす奈子。私の発言がいつ、奈子の地雷を踏んでしまうか分からない。そんな恐怖感から解放されたことで、私の心も少しずつ、安定を取り戻していった。一連の奈子との出来事を、私は学校で会った惟月にすべて打ち明けた。惟月は私に「原因不明の瞼の腫れは、奈子の念が引き起こしたものに違いない。奈子と関わらなければ、もう大丈夫だよ。」と静かに言った。「ちゃんと惟月の忠告を聞かなくてごめん。」そう話す私に、惟月は優しく微笑みかけてくれた。
それから3年の月日が流れ、私は14歳、中学2年生になった。奈子とはあれ以来、学校ですれ違っても一切、言葉を交わすことはなかった。しかし夏休みが終わった頃から私は、原因不明の体調不良に悩まされる。1日中、吐き気が続き、食欲もない。病院で様々な検査をしてもらったが、特に異常は見つからなかった。仕方なく私は、処方された吐き止めの薬を飲みながら、なんとか力を振り絞って学校に行った。教室で座っているのも辛い時は、1日の半分を保健室のベッドの上で過ごすこともあった。一向に良くならない自分の体調に、人知れず涙を流す日々もあったが、そんな時に手を差し伸べてくれたのが惟月だった。
私が保健室で横になっていると、惟月が急いで駆けつけてくれた。そして開口一番に「明日の土曜日、俺のばあちゃんの所に行こう。」と話す惟月。私は惟月の突然の提案に驚いたが、きっと私が助かる方法を見つけてくれたんだと、その場で確信した。
バスで惟月のおばあちゃんの家に向かう道中、体調が優れない私に、惟月は優しく肩を貸してくれた。「惟月、面倒かけてごめんね。」そう、かすれた声で話す私に惟月は「お前のせいじゃないよ、大丈夫。」と声をかけ、ゆっくり話を続ける。「2年2組の小橋 愛美(こはし あいみ)って子、知ってる?」惟月の質問に私は、「うん。惟月と同じ水泳部の子だよね?話したことはないけど、知ってるよ。」と答えた。惟月は話を続けた。「小橋がお前のこと心配しててさ。理由を聞いたら、一条 奈子がお前に対して、強い恨みを持ってるって教えてくれたんだ。」惟月の言葉に私は思わず、「奈子が?まだ昔のことを根に持ってるんだ・・・。」と涙目になりながら反応した。
惟月は、私にハンカチを手渡しながらこう言った。「実は小橋も去年、奈子の嫌がらせが原因で、体調を崩してたんだ。切っ掛けは、奈子が片思いしている男子と、小橋が親しげに話していたこと。隣の席なら、誰だって会話ぐらいするだろう?でも奈子は、小橋が自分の好きな人を横取りしたと、クラスの子に言い触らしていたらしい。」惟月の話を聞く私の頭の中に、琴音の鬼のような形相が甦った。「極め付けは、奈子が作った“てるてる坊主”。ほら、俺たちも小さい頃、“明日、晴れますように”って、ティッシュで小さいてるてる坊主を作ったことがあっただろう?奈子も同じように、無数のてるてる坊主を作って、その一つ一つに小橋を侮辱する汚い言葉を書いては毎日、小橋のバッグや、ロッカーに入れ続けていたんだ。」
惟月の話を聞く私の頭の中に、奈子が引き裂いた、私のぬいぐるみの姿が浮かんだ。「恐怖に震える小橋の姿を見た奈子は、顔を真っ赤にして、隣で笑っていたらしい。それから小橋は、クラスでもできるだけ目立たないように、奈子の標的にならないように、静かに生活することを決めたって言ってたよ。」奈子の地雷を踏まないようにと、気を遣う小橋さんの気持ちが、私には痛いほど分かった。
突然、惟月はくるっと視線を私に向ける。「そして先週の放課後、小橋は偶然見てしまったらしい。奈子が1人教室で、お前の名前を呟きながら、てるてる坊主の顔の部分をボールペンで痛め付けている姿を。なぜ奈子が、お前を恨むのか気になった小橋は、それとなく奈子の動向を観察し始めたんだ。その理由はやっぱり、武石 湊(たけいし みなと)だった。武石は今、お前の隣の席だったよな?小橋が親しげに話していた男子生徒、それは武石で、奈子は中学に入学した時からずっと、武石のことが好きらしい。だから今度はお前が、奈子の好きな人を横取りしたと思っているんじゃないかって。」
「あの奈子なら有り得るかも・・・。」私は心の中で納得した。絶望する私の表情を気遣いながら、惟月は話を続ける。「俺が他の人とは違う能力、いわゆる霊感ってやつを持っていることは、子供の頃から薄々気づいていたよな?」惟月の質問に私は黙って頷いた。「俺が奈子を初めて見た時、あいつの背後に、黒い洋服を着た男女が見えたんだ。死神?それとも呪詛?どちらにしても奈子は、人に悪影響を与える存在だと察知した俺は、お前に“一条 奈子には気を付けろ”と伝えた。でも結局、俺の霊感だけではお前を救えなかった。だから霊媒師である、俺のばあちゃんに頼むしかないって思ったんだ。」
惟月の父方のおばあちゃんは、自分の能力を公にはしていない。家族や友人に危険が及ぶ時だけ、霊媒師の能力を発揮し、人助けをしているそうだ。惟月の強い霊感はおばあちゃん譲りで、霊体や人のオーラ、人間の持つ邪悪な思考を読み取る力。そして、身近に迫る危険を予知できる能力が備わっているという。霊媒師の道に進む気はないと断言している惟月だが、「大切な友達を守れることに繋がると思うと、完全に霊感を閉じてしまうことに躊躇している自分もいる」と話す惟月。生まれ持った強力な霊感と葛藤する惟月の思いに、私は上手く言葉を返すことができなかった。
そんな話をしているうちに、私たちは惟月のおばあちゃんの家に辿り着いた。初対面の私を見るなり、険しい表情を浮かべたおばあちゃんは、私を6畳ほどの和室に案内した。おばあちゃんは慣れた手つきでお香を焚き、私の周りをゆっくりと歩きながら、お香の煙を私の全身に振りかけた。その後、私の頭の上に手を置いて、小さな声でお経を唱え始めたおばあちゃん。おばあちゃんのお経はなぜか心地よく、私はすぐに睡魔に襲われた。自分の体が次第に軽くなっていくのを感じ、しばらくすると、全身が温かいものに包まれている感覚にもなった。それから私が目を覚ましたのは、3時間後のことだった。
私が目を覚ますと、惟月は急いでおばあちゃんを呼びに行った。おばあちゃんはすぐに私を起こして、私の背中に文字を描き始めた。文字を描き終えたおばあちゃんは、私にゆっくりと語り始める。「随分、理不尽な呪いに苦しんだね。辛かっただろう。お前に呪いをかけた子、そしてその子の家族は、人に恨みを覚えると日常的に呪詛を行っているようだね。厄介な家族に目をつけられたもんだ。」その言葉に私は、驚きよりも、腑に落ちた気持ちの方が強かった。
「他人と接する中で、自分の思い通りにならないこと、不快な気持ちになることは、人間関係ではよくあることだ。だけどその家族は、ほんの少しの憤りも許さない、徹底的に人を呪いで貶めることが正義だと思っている。呪詛の方法は両親が直接、子供に教えているに違いないね。」私と惟月は顔を見合わせて、阿吽の呼吸で同時に頷いた。
惟月のおばあちゃんは最後に私に言う。「いいかい?きっと相手は、今日お前が呪いを解いたことに気付くはずだ。だから次は両親の方が、お前に強い呪いをかけてくるだろう。でもすぐに、お前を助けに来てくれる人たちが現れる。その時お前は、その人たちと手を繋いで前へ進むことだけを考えるんだ。誰かに後ろから声をかけられても、絶対に振り向いてはいけないよ。絶対に。」私はおばあちゃんの忠告に力強く頷いた。
それから3日後の夜、私は不思議な夢を見る。誰もいない森の中で、私はベンチに座りながら黄昏ていた。すると前から、高貴な着物を身に纏った2人の老夫婦が歩いてくる。私を見るなり、老夫婦の女性の方が「ここにいては駄目。一緒に帰ろう。」と言って、私の手を取る。続けて男性の方も、優しく微笑みながら私の手を取る。私は一瞬で、その2人が誰なのかすぐに分かった。
実際に会ったことはないけれど、幼い頃から写真で何度も目にしていた、母方の曽祖父母だ。楽しく3人で広い草原を歩いていると、私の背後から声が聞こえてくる。「そっちじゃないよ、こっちだよ。」その声は間違いなく奈子の声。私は瞬時に、曽祖父母の手をギュッと力強く握る。それでも奈子は諦めずに「そっちじゃないよ、こっちだよ。」という言葉を連呼し続ける。私は奈子の鋭い声に負ける訳にはいかないと、自分の意志を強く持った。歩き続けた先に湖のほとりが見えた瞬間、曽祖父が「もう大丈夫だ。よく頑張ったな。」と、私に言葉をかけてくれた。曽祖父の声が遠くなっていくと同時に、私はハッと目を覚ました。それからというもの、奈子は学校の廊下ですれ違う度に、私のことを怯えた表情で避けるようになった。確かな自信に満ちあふれた、以前の強気な奈子の姿はもうない。
それから6年が経ち、大学2年生になった私は、カナダで1年間の留学生活を送っていた。久し振りにかかってきた、日本にいる母からの電話に出ると、「奈子ちゃん、結婚したんだって!」と、思わぬ形で奈子の近況を知ることとなった。「お腹には赤ちゃんもいて、来年ママになるのよ。」と、奈子を褒めては、私の現状に小言を言う母の癖は相変わらずだ。私は母の心無い言葉を聞く度、1週間後に迫る、帰国の日が億劫に思えて仕方がなかった。
そして1週間後、私は1年振りに日本の地に足を踏み入れた。翌日、時差ボケの疲れを我慢しながらも、母の買い物に付き合い、自宅へ戻る私。奈子の家の前を通りかかった時、奈子と、奈子の夫らしき人物が家から出てきた。ここは何とか上手く切り抜けなければと思った私は、笑顔で奈子夫婦に挨拶をした。
しかし、顔を上げた私の全身に衝撃が走った。なんと奈子の夫は中学の同級生、武石 湊(たけいし みなと)だったのだ。場の空気を読み、私は武石君に気づかない振りを続けたが、武石君の目の焦点が、私と合わないことに強い違和感を感じた。武石君の目はうつろで、地面の一点をずっと見つめている状態だ。戸惑う私を尻目に、母は饒舌に奈子のことを褒めては、私の欠点を指摘する会話を繰り広げていた。そんな母の言葉に奈子は「留学もすごいじゃないですか。とってもかっこいいですよね。私も英語ペラペラになりたいな。」と、私と母を交互に見つめながら返す。私は咄嗟に、謙遜交じりの相槌だけを奈子に返した。
母と奈子が会話を終えたタイミングで、私はやっと自宅に帰ることができた。家に戻ってからも「今、彼氏いないの?」「あなたも早く親孝行してよね。」という母の小言は続いた。私は思わず、「お母さんは忘れちゃったの?奈子が私にしてきた事も、奈子の両親が呪詛をしていた事も全部!」と、母に怒りをぶつけた。わざと足音を大きくして2階へ上がる私の背中に、「一体何を言ってるの?しょうがない子・・・。」という母の冷たい言葉が響いた。ベッドに横たわりながら大きなため息をつくと、私のスマホが鳴る。
相手は惟月からだ。「もしもし?いつ・・・」私の言葉を遮り、惟月は大声で叫んだ。「一条、いや武石 奈子(たけいし なこ)から今すぐ離れろ!」惟月の叫び声とともに家のインターフォンが鳴る。そして「奈子ちゃんが来てるわよ。あなたに話があるんだって!」と、玄関から私を呼ぶ母の声。高鳴る鼓動を抑えながら、私は急いで自分の部屋の窓から庭先に飛び降りた。「痛っ!」と、挫いた左足に気を取られていると、私の部屋の窓から母が顔を出し、ゆっくりと私に告げた。「そっちじゃないよ、こっちだよ。」
母の姿をした母ではないその者は、私を見下ろしながら、顔を真っ赤にして笑っている。私は強張る体を必死に起こして、左足を庇いながら、無我夢中で惟月の家へと向かった。「惟月、また面倒かけてごめんね。」