「…おいで…、こっちにおいで…」
今、僕の目の前にはいるはずのない者がいる。あちらの世界へ連れて行こうと言わんばかりに細く生気のない腕をゆっくりと伸ばしてきている。ただ震えるしかない僕の頭の中に思い浮かぶのは『早く…、母ちゃん早く!』
小さい頃から僕は『見えて』いたのかもしれない。かもしれないというのはソレが他の人にも見えていると思っていたから特に不思議に思う事はなかった。もちろん葬式に参列した時、故人と同じ顔、姿をした人が棺の横に立っていたり近所の公園に行った時は下半身はブランコ、上半身は滑り台を滑っている女の子が見える事があった。子供ながらに恐怖を感じる事もあった。そんな時、僕は決まって母の後ろに隠れる。ソレを見たくないというのもあったが母の後ろは大丈夫という確信のようなものがあったからだ。
僕がそう思うようになったのは妹をベビーカーに乗せて母と散歩に出かけた4歳くらいの時。春を少し過ぎてポカポカと暖かい日で咲いている花や飛んでいる蝶を指さして母にアレコレと質問していた。母が笑顔で答えるからきっと僕はちゃんと見ていなかったんだろう。テンションだけ高くなっていたんだと思う。「じゃあママ、アレはな…に?」自分が指さして質問をしたソレの異様さに途中で本当に分からなくなった。道路沿いに人が屈んで入れる程の小さな鳥居がありそのすぐ先にこれまた小さな祠がある。それ自体はいつも散歩で見かけていたがその日は違って人の様な何かが鳥居の前に立っていた。散歩中にすれ違う人なら挨拶はするけどアレには挨拶をしたくない。黒い渦のような物を背負ったその何かに僕は恐怖を感じて足をとめた。「どうした?おうち帰ってアイス食べるんでしょ?」母は片手でベビーカーを押しながら離れた僕の手を繋ぎ直して歩きはじめた。母には見えてないのか?この先が怖いと感じているのは僕だけなのか?アレが怖いと思うのは間違ってるのか?僕の頭の中はパニック状態。それなのに手をひかれて歩みは進んでいく。母の手を振りほどこうか…、泣いて「行きたくない!」と叫ぼうか…。そんな事を考えながら下を向いていた僕はチラリと前を見た。…。ソレはこちらに向かって来ていた。黒い渦は先程よりも大きく僕たちを飲み込みそうだと思った。「あぁ…、僕たち食べられちゃうんだ…」小さかった僕は短い人生を終える覚悟で目を閉じた。「邪魔だボケ!!」山に響く怒声に僕は飛び上がる程ビックリして思わず目を開けてしまった。そこには…何もい?!
??い?空気すらも怖いと感じていたのに何もなかったようにいつもの散歩道になっていた。でも僕の心臓はとてつもない速さでドクドクと動いているしあの怒声は母の声…。意味がわからず辺りをキョロキョロと見回して母を見上げた。僕の視線に気付いた母は僕を見下ろすように見つめてニカッと笑う。「あ~、お前ビビったなぁ?み~ちゃった」からかう様に笑う母を見て僕は恥ずかしさと笑われた事に怒りを覚えて悔しくて泣きたくなった。僕が何も言わず俯いていると母は歩みを止めてこう言った。「怖くてビビったって良いんだよ。お前が何も出来なくたってその時はママが助けてやるからちゃんとビビれ!」そう言って母は笑う。その時は言われた意味なんて分からなかったけど漠然と『ママがいれば大丈夫』と思うようになった。
時は流れて僕は中学生になった。小さかった妹も大きくなりさらにその下に弟や妹が産まれた。思春期をむかえた僕は毎日のように弟や妹を泣かせて母とも前の様に話す事もなくなった。家族がいなくたって1人でやっていけるくらいに思っていた。毎日くだらない話をしてくる母を疎ましいと感じムカついてる所もあったと思う。
そんなある日、隣家に新しい隣人がやってきた。多分80代の老夫婦。子供や孫と離れて暮らしているから我が家のように子供が多い家庭が近くにいると嬉しいとか言っていた。妹たちは差し出されたお菓子を喜んで受け取ったり時には隣家に上がり込んで隣のおばあさんにお手玉などの昔の遊びを教えてもらったりしていた。僕は妹たちを横目に家でテレビゲームをやる。『昔の遊び?絶対つまんねぇじゃん』そう思っていたし何故か隣人と関わりたくなかった。母も関わりたくなかったようで庭先でお隣と顔を合わせても世間話をせず会釈だけして家に入ったりしていた。「お隣さんのおうちで遊ぶのやめたら?みんなで行っちゃうとおじいちゃんもおばあちゃんも疲れちゃうよ?」と妹たちを諭していた事もあった。それでも妹たちは母がトイレに行った時、洗濯機を回している時など目を盗んで隣家へ遊びに行っていた。
しかし事態が急変する。隣家が引っ越してきて数ヶ月、お隣のおばあさんが亡くなった。引っ越しをして来た時にはすでに余命宣告を受けていたようで隣家を終の住処にと選んだそうだ。妹たちも小さいながらにもうおばあさんと遊べないとわかったらしく隣家へ行く事もなくなった。僕はというと関わりを避けていたせいか何も思わなかった。身内でもないんだからこんなもんだろみたいな。しかし母は違った。母も関わりを避けていたのに心なしか外を見る事が増えた。外の天気を見てる?と思ったけどそうではない感じ。でも『わざわざ自分から話かけるのもなぁ』と気恥しさがあって僕は見て見ぬふりをした。
お隣のおばあさんが亡くなって1ヶ月くらいたったある日、隣家に老夫婦とは違う人たちが来ていた。僕がその人たちの前を通り自宅に入ろうとしていると「あの…、お隣の方ですか?生前はありがとうございました。両親もとても楽しかったと話していました」と声をかけられた。どうやら隣家の片付けをしに老夫婦の子供たちが来ていたらしく引き払うと言っていた。僕は関わりがなかったから「あぁ、そうですか」なんて軽く返事をして自宅に入った。しかし家に入った後、『…今の言い方、ちょっとまずかったかな…」と罪悪感に見舞われた。だから僕はとりあえず母に今日の事をはなした。僕の言い方はもっと社交的に置き換えて…。母は黙って話を聞いていたが僕が話終えると「あ~…、マジかぁ…」と一言呟いた。『アレ?何かまずい事言ったかな?』と僕は内心焦った。『話す事は話した。よし、逃げよう!』そう思った僕は母に焦りを悟られぬように極力普段通りに見えるように意識して自室へ逃げ込んだ。
それから数日後、僕は母とケンカをした。ケンカと言うより言い合いに近かったかも。母は妹たちを連れて出かけるから一緒に行こうと提案してきた。でも僕は家族と出かけるなんて恥ずかしくて同級生に見られたら次の日に絶対からかわれる…。そう思って出かける事を拒否した。出かける事を拒否するのは前からあったがその日の母は何故か頑固だった。「お菓子とか買うから」「外でご飯食べるかもしんないから」色んな言葉で僕を誘ってきたが乗り気になれず首を横に振り続ける。そして「しつこいって!行かないって言ってるだろ!」僕は母に怒鳴る様に言い放った。それを聞いた母はピタっと動きを止めて黙り込む。『言いすぎたかもしんない』少しの沈黙は僕に罪悪感を植え付けはじめた。「お前が行かないならそれでもいいよ。でも何かあっても知らないからな」そう言うと母は妹たちの手をひいて家を出て行った。家に1人残された僕。『みんないなくなったしこれで静かにゲーム出来る。いつも家にいたって何もなかったじゃん』僕は開き直るように植え付けられた罪悪感を1人で過ごせる開放感へと置き換えていった。だからお菓子を食べながらやるゲームは最高に楽しかった。没頭していた時にふと時計を見ると母たちが出かけて数時間がたち窓の外も夕日が沈みかけて夜になろうとしていた。『もうこんな時間か…。いつまで出かけてんだよ』僕は自分で留守番をすると言ったのに帰りが遅い母たちに少しイラだった。とりあえず自室にあるお菓子のおかわりを取りに行こうと手にしていたコントローラーをおいて立ち上がろうと床に手をついた。…ギシ…。何か軋むような音が聞こえ!
た。『どこから音がした?帰ってきたのかな?』しばらく同じ姿勢のまま耳をすませたが次なる音は聞こえてこない。聞き間違いかご近所の音が聞こえたのかもしれない。その事をあまり気にせすキッチンを通りこして自室へ続くドアを開けた。ベットの上に隠しているお菓子を取ろうと薄暗い部屋に足を踏み入れると…違和感。いや、違和感なんて生易しいもんじゃない。ソレは僕の部屋の中央あたりにいて背を向けて正座をしていた。服装は少し古い感じでヨレヨレしたポロシャツ、髪は短いというより薄くぱっと見でおじいさんという感じ。しかしうちにおじいさんは住んでいない。じゃあここにいるのは誰だ?なんで僕の部屋にいる?ここで何してる?色んな事が頭の中をグルグルと駆け回る。その間、僕は動けずにいたが1つの答えを導き出した。『これはヤバい。ここから逃げよう』そう思った僕は後ろ手にキッチンへのドアにそ~っと手を伸ばした。爪先がカチッとドアノブに触ったとわかった僕は勢いよく振り返りドアも勢いよく開けた。『自室を出て電気のついてるリビングに行こう』その時の僕はそんな事を考えていたと思う。自室から出られれば助かるみたいな。でも…本っ当に甘い考えだった。自室のドアを開けるとキッチンのテーブルがある。その上に何かが座っていた。白髪でパーマをかけた髪。花柄のブラウスにグレーのズボンを履いたソレはキッチンのテーブルの上で正座をしてこちらを見ている。骨が浮き上がって見える程に頬は痩けていたが口元はニンマリと歪んでいてギラついた目を細めていた。きっと笑顔だったんだろうけどこんなに怖いと思う笑顔は見た事がない。!
僕は震!
えていてガチガチと歯をならす程恐怖していた。逃げたい…。体はピタっと動けないでいたが目だけは動かせたからキッチンを見回した。そして異様な暗さに気づく。さっきまでいたリビングは電気をつけていたしそこのドアも開けたままにしたのに家の電気を全て消したかのように暗い。そう思っているとなんだか家の中がひどく寒く感じ鳥肌がたった。それなのに僕の額からは汗が吹き出し体は動いてないのに心臓がすごく速く脈打っている。どうしよう…、前にも後ろにも動けない…。「…おいで…」僕の体がビクッと動いた。おいで?目の前のソレが言ったのか?この時、僕の思考は完璧に停止して目の前のソレを凝視していた。「…おいで…。こっちにおいで…」ひどくかすれた声だが女性、それもかなり高齢の声が頭に響く。僕が震えながらソレを見ているとテーブルの上にいたソレはゆっくりと立ち上がり滑るように床へと降りた。ソレは腕を伸ばして僕に近づく。「…こっちにおいで…」相変わらずニンマリと口元を歪ませて。『なんで誰もいないんだよ…。母ちゃんがいてくれたら…。早く…、母ちゃん早く!』僕は身勝手に不在の母の帰宅を願っていた。心臓から凍えるような冷気を纏ってソレが近づき僕の腕を掴んだ。腕から這い上がる冷気に僕の生気を吸われるかのように意識が遠のいた。
「おい!おい!!」強く揺すられる感じと母の声で僕は目を覚ました。リビングやキッチンに電気がついている。キッチンの壁にもたれ掛かる様に気絶していた僕を母の後ろから不安そうな顔をして妹たちが覗き込んでいた。いつもの家だと思えた瞬間、僕は母の腕にしがみついた。「い…家の中に何かが…!こっちにおいでって…!」母に言わなきゃと気持ちばかりが焦って言葉にならないしもう1人じゃないという安心感で僕はボロボロと泣いた。母は僕の頭をなでたり背中をさすってくれた。「大丈夫、もういないから。だから一緒に出かければ良かったのに」母にそう言われて僕は激しく頷いた。しかし頷きながらいくつかの疑問が産まれた。しつこく出かけようと言っていたのは何が起きるか分かってたから?僕の部屋にいたヤツは?僕の腕を掴んだヤツは?込み上げる質問をはにぶつけようと口を開いた時、母に静止された。「お前の話はちゃんと聞くし分かる範囲で答えるからちょっと待って」そう言うと母は妹たちにお菓子を渡しリビングへ連れて行った後、「お話しなきゃだから今はこっちにこないでね」と言ってリビングへのドアを閉めた。そして1本の線香に火をつけた後、ため息をつきながら僕の前に座った。「質問に答えるって言ったけど1つ聞かせて。ここにきたのはおじいさん?おばあさん?」僕は一瞬固まった。詳しく話してないのに何故おじいさんかおばあさんが来るとわかったんだ?「いや…、男の人は僕の部屋にいたしもう1人はそこのテーブルの上に…」僕がキッチンのテーブルを指さすと母は目を見開いて驚いた。「どっちも!?う~ん、そっかぁ。2人で来ると思わなか!
ったなぁ」何かを考えるように床を見つめる母に僕は次の質問をぶつけた。「アレはなんだったの?なんでうちに来たの?」そう聞かれた母はまた少し驚いた。「気づかなかったの?アレはお隣のおじいさんとおばあさんだったんだよ」そう言われた僕は怖いけど思い返してみた。おじいさんは背中しか見えてないから顔を見てないけど…もう1人がおばあさん?避けていたとはいえあんな顔だったかな?僕は思ったまま口に出した。「あ~、確かに覚えてる顔と違ったかもねぇ。おばあさんは病気ですごく痩せちゃったらしいんだよ。多分お前とあんまり話せなかったから来たんじゃないかな?そろそろ四十九日だし」うちに2人が来た事は理解は出来たが納得は出来ない。「なんであの2人だってわかったの?顔だって全然違ったし詳しく言えてないのに」もちろんあの2人は怖かったけど家にいなかった母が知っている事も怖かった。「う~ん、まぁもうすぐ四十九日ってのはなんとなく思ってたし今日は家の中の空気も悪かったからそこもなんとなくね。でも帰ってきた時、家の中にお隣さんの家のニオイがしてさ。それにお前が変なとこで寝てるからそれでわかったんだよ」なんとなくで回避出来たのかと関心していたが別の疑問が生まれた。「亡くなったのはおばあさんだけじゃないの?僕がそう言うと母は顔をしかめた。「おじいさんなぁ…。実は亡くなったんだよ。火葬場が混んでて亡くなったおばあさんを自宅で安置してたらしいんだけどずっとおじいさんと2人きりだったって。遠くに住んでる娘さんが何日か経ってから様子を見に来たらおじいさんがおばあさんがいる布団の横で座ったまま亡?!
?なっ?!
?たらしいんだよ。お前は学校行ってて知らないだろうけどかなり騒ぎになったんだよ」なるほど…、おじいさんも亡くなっていたとは…。僕は先程の寒気がまた襲ってきた気がしておばあさんに掴まれた腕をさすった。「どうした?ケガでもした?」母が僕の腕を掴んで服をめくると2人揃って言葉を失った。僕の右腕に紫色のアザが2つできていた。きっとあのおばあさんの物だろう、右手と左手の手のひらのようにハッキリとついていた。「家に来ただけじゃなかったの!?」母は驚きと恐怖の顔を見せたがすぐにキッと睨むように僕をみつめた。「いいか?もしまたあの2人かどちらかがきたら気持ちで負けるな。絶対にそちらへ行かないって思いをお前の口からハッキリ伝えろ。その時だけはビビるな。いいか?絶対に負けるな!」母はそう言うと数珠を探しに寝室へと姿を消した。…気持ちで負けるな…、僕に出来るのか…。戸惑いや恐怖、不安などで心の中はぐちゃぐちゃしててまた泣き出しそうだ…。僕が体育座りのまま頭を掻きむしっていると視線を感じた。顔を上げるとリビングのドアが少し開いていて小さい妹がこちらを覗き込んでいる。こちらの会話が気になったようで母に渡されたお菓子を持ってキョトン顔をしている。その姿に僕はイラだった。「何だよ!あっち行ってろ!」手元にあった雑誌を妹に投げつけた。きっと妹が泣いたら母が来て僕は怒られる。しかしそんな事はどうでもいいと思うくらい追い詰められていた。…キィ…。僕が怒ったのに妹はドアをさらに開けてキッチンへ入ってきた。妹の意外な行動に少し驚いて僕が見つめていると妹が声をかけてきた。「…おいで…!
。こっ!
ちにおいで…」