人の発する言葉って奴には、不思議な霊力が宿されている。
使い方を間違えると、生き方を狂わせちまう事だってある。
言霊…言葉の魂を操り、人に死の恐怖を植え付ける輩…。
俺たちは常に、呪いと死とに向き合いながら生きてきた。
人の不幸を願う呪いの先には、怨みや辛み以上の欲望があるはずだ。
その薄汚れた欲望を打ち消しす為に、俺たちはいるのかもしれない。
そう…俺たちは呪いを祓い、悪戯に呪いを扱う輩を…浄化する者だ。
…
ー寛永五年ー
「も、もう…勘弁してくれぇ…」
懇願する男は、ふんどし姿で両手を後ろに縛られていた。
顔には精気が感じられず、息苦しそうに涙を流している。
「ほらぁ、早くお舐めよぉ…もう子の刻になっちまうよ。
丁寧に、愛情を込めて…あんたが誘ってきたんだろぉ」
男は狂ったかのように、女の足を必死に舐め回す。
足の指、足の裏、足首、ふくらはぎ、太ももと…。
「助けてくれ…もう肆拾捌だ…死にだくねぇ…」
女は伏し目がちに微笑むと、男の顔を踏み付け。
「この太平の江戸の世にこそ、呪いという娯楽が花めくのさ。
ほら、もっと呪いを楽しみなよ…もっと恐怖を味わいなよ」
男は表情を強張らせると…。
「あっ…あぁぁ…肆拾玖、肆拾玖、肆拾…玖…」
女は男の亡骸を哀れんだ目で見つめ、はだけた着物を直すと。
「誰か来たようだねぇ…あらぁ…やだ、あたし好みのいい男じゃないか」
女は訪れた男の顔を見定めると、消えるように姿を眩ませた。
肆拾玖(しじゅうく)…。
…
翌朝、店を開くと早々に。
「水精さん、昨夜はご苦労様だったね」
俺の名は〈水精〉と書いて〈すいしょう〉と読む。
「これは私の気持ちだ」
花岡佐兵衛・薬研堀の薬種問屋の元締めにして、俺たちの祓いを繋ぐ。
元締めが懐から袱紗を出してきたので…。
「元締め、そいつぁさすがに受け取れねぇ…探るつもりが面ぁ見られちまった。
それと、小屋で息を引き取っていた男、見覚えのある顔でしてねぇ…元締め」
元締めが畳の上の袱紗をスッと俺の前に差し出すと。
「水精さん…実は謝らなければならない事がありましてねぇ」
元締めが頭を下げてきたので、俺は両手で肩を起こした。
「なにかあったんで?」
元締めの話では、昨夜俺が探りに行った女が、深刻極まりないと。
琉球から渡って江戸に来たらしいが、その狙いが一切分からねぇ。
「その女のまじないが、ちょいと変わったまじないでしてねぇ。
命を落とす祓い人も出る始末…水精さんも、お気を付けて…」
結局、元締めが袱紗を持ち帰る事はなかった。
袱紗をめくると、小判五十枚…元締め、預かっときますよ。
俺の表向きの仕事は、かんざし職人だ。
育ての親にかんざし作りを叩きこまれ、今では櫛も手掛けている。
飾りを作っている時だけが、何も考えずにいられる…唯一の時だ。
「水精さん!」
おやおや、可愛いお客が来たもんだ。
「いらっしゃい、おくみちゃん」
おくみちゃんはモジモジしながら、懐から何枚かの銭貨を出すと。
「これで買えるかんざし下さいな」
銭貨を数えてみても、十文ほどしかねぇ…こいつぁ困っちまった。
「なぁ、おくみちゃん…口開けてごらん」
おくみちゃんが大きく口を開けると、俺は切り分けた干し柿を入れてやった。
「おくみちゃん、この銭はね、どうやら俺んところへ来たくねぇらしい。
おくみちゃんがべっぴんさんになるまで、大切に持っていておくれよ」
おくみちゃんは、まじまじと銭貨を見つめると。
「うん、分かった!水精さん、ありがとう!」
されど十文…おくみちゃんからしてみれば、百両以上の価値ある銭だ。
まったく、いい日だねぇ…。
店を閉め、里芋と大根の鍋をつついていると、裏口をコンコンと誰かが叩く。
「水精さん、俺だ」
姫之丞・大衆演劇の女形を演じながら、俺と同じ祓い人だ。
「姫さんか…入ってくれ…なんかあったのかい」
姫さんは眉をしかめると…。
「しくじった…呪い屋の女に逃げられちまった…。
呪いも祓えねぇ…一体なんなんだあの呪いは…」
姫さんは大きく息を吐いた。
「姫さんがしくじったって…その女って…まさか…」
姫さんは食い入るように。
「なんでぇ…水精さん、その女知ってんのかい?」
俺が数日前の抜かりを姫さんに話すと、同じ女じゃねぇかと言う話になる。
そして次に姫さんが語る言葉を聞いて、俺は過去を思い出しちまったんだ。
「呪われたのは恐らく、俺たちと同じ祓い人なんじゃねぇかと。
気を付けろ…あの女は死魔だ…肆拾玖、肆拾玖、肆拾…玖…。
その言葉を最後に、息を引き取っちまった…もうお手上げさ」
肆拾玖…。
「まぁ…年の頃なら四十九に見えなくもねぇが、意味が分からねぇ…。
俺は今から桜組の棟梁の所へ…水精さん、水精さん!大丈夫かい?」
姫さんの呼びかけで、我に返る。
「あぁ…姫さん、すまねぇ…ちょいと昔を思い出しちまってね。
姫さん、そう言う事なら俺も桜組へ付いて行っていいかい?」
姫さんの快諾を得ると、俺たちは本所両国の桜組へ向かった。
桜組に着くと座敷へ案内され、そこには花岡の元締めもいた。
姫さんが手を付き頭を下げる…。
「棟梁、すまねぇ…しくじった…」
桜甚五郎・堂宮大工の棟梁として職人を仕切り、俺たちの祓いを繋ぐ。
棟梁と元締めが顔を見合わせると、棟梁は穏やかな表情で語り始めた。
「姫さん、頭上げてくれ…水精さんも何かを察して来なさったんだろ?。
今、元締めから話を聞かせてもらったんだがね…近頃の呪いは異様だ」
棟梁と元締めが再度顔を見合わせると、今度は元締めが…。
「此度ばかりは過ちが許されません…なので、此度は取分け掟を払います」
そして、次の事が俺たちに告げられた。
願い人(ねがいびと)…常陸水戸藩主・徳川頼房家臣・三木之次
患い人(うれいびと)…高瀬局(久昌院)
所縁人(ゆかりびと)…花岡佐兵衛・桜甚五郎
祓い人(はらいびと)…水精・姫之丞
「呪いの依頼は恐らく、母親である養心院様ではないかと…。
そして、呪い屋の女の名は…お幸。得体のしれない女です。
糸口が足りずに申し訳ありませんが…どうか、頼みます…」
お幸(おさち)…。
俺は元締めに、小判五十枚の借りがある。
そして俺は、どうしてもその女に聞かなきゃならねぇ事がある。
姫さんも屈辱を払拭するべく、俺たちはこの祓いを引き受けた。
店へと戻ると、姫さんが…。
「水精さん、常陸徳川のお家騒動だ。引き受けちまって良かったのかねぇ…」
姫さんの言葉が耳に入らねぇ程、俺の頭の中ではずっと肆拾玖が渦巻いていた。
思い出したくもねぇ過去だが、俺は姫さんに自分の過去を話してみる事にした。
なにか、今回の祓いの足掛かりになるかも知れねぇ。
「信じられねぇかも知れねぇが、俺は元々武士の家系で生まれ育ってね…」
武士と言えど下級武士で、生活は豊かではなかった。
しかし父上は、武士の家系という事に矜持し続けた。
父上、母上と呼ばされ、己を拙者と名乗れと躾けられた。
剣術に長けた父上は、俺に勉学よりも剣術を叩き込んだ。
父上の教示も相まって、俺は精神を鍛練されたのだろう。
俺が五歳の時に妹が生まれた。妹の名は…千歳。
千歳は俺にとても懐いていた。俺は千歳をこよなく可愛がった。
千歳が「兄上!兄上!」と甘えてくると、可愛くて仕方がない。
そして…。
俺が母上に頼まれ、納豆を買いに出ると…町で悲鳴が上がった。
何事かと悲鳴の上がった方向へ走ると…父上が…乱心していた。
父上は屋敷の前で、短刀で何度も千歳を刺しながら…。
「肆拾玖、肆拾玖、肆拾玖、肆拾玖…」
父上は主家の討手に切り捨てられ、御家は取り潰しとなった。
俺は血まみれの千歳と母上を両腕で抱き、泣くしかなかった。
それからの俺は、ぼろ雑巾のように路頭に彷徨った。
もう歩くのも辛い程、腹が減って腹が減って仕方がなかった。
いっその事食い逃げでも…そんな事が頭をよぎった時だった。
「坊ちゃん…やっぱりそうだ、お妙さんところの…」
母上が気に入っていた、かんざし屋のご夫婦だった。
俺は全てをご夫婦に話すと、主人は俺を抱き起した。
そして主人は俺の手を引いて、うどん屋に入ると…。
「なんでも好きなもん頼みな、銭の心配は要らねぇ」
俺はきつねうどんを頼んだ。
どんぶりが運ばれてくると、どうしたらいいか分からねぇ…。
「ほら、早く食いな…ここのきつねうどんは美味ぇぞぉ」
震える手で箸を持つと、うどんを持ち上げゆっくりとすすった。
美味ぇ…美味ぇよ…あったけぇ…もう涙も鼻水も関係なかった。
あの時食った甘い揚げの味は、今でも忘れられねぇ…。
「なぁ、かんざし作るの手伝っちゃくれねぇか」
主人のその問いに、俺は揚げを咥えたまま「うんうん!」と頷いた。
こうして俺は、かんざし屋のご夫婦に拾ってもらったんだ。
子に恵まれなかったご夫婦は、俺を実の息子のように可愛がってくれた。
最初こそ気恥ずかしかったが、おっ父、おっ母と呼ぶようになっていた。
おっ父は父親でもあり、かんざし職人の師匠でもあった。
俺が十四を迎えると、俺の作ったかんざしが初めて店に並べられた。
その頃からだった…おっ父とおっ母の動きが気になり始めたのは…。
夜な夜な二人で出かけては、朝方帰るとこっそりと布団に入る。
そしてある日、おっ父に告げられたんだ。
「もう気が付いちまってんだろ…隠しても仕方ねぇやな。
かんざし屋は表向きでな、俺たちの本分は…祓い人だ」
おっ父は、すべてを詳しく話してくれた。
俺は、祓い人のおっ父とおっ母を誇りに思った。
そして、自分の運命が大きく変わる事を悟った。
まず、呪いとは…呪いの恐ろしさ、祓いとは、祓いの方法、祓い人の掟…。
それから俺は、祓い人になる為に徹底的に知識を叩き込まれ、鍛えられた。
だけどそれも嫌じゃなかった…二人の事が大好きで、大切な人だったから。
そして、あの夜を迎えちまったんだ。
「今夜の相手はちょいと厄介だ、帰りが遅くなるかもしれねぇ」
朝方二人が店に戻ってくると、明らかに様子がおかしかった。
二人とも呆然とし、何も喋らねぇ…しばらくするとおっ父が。
「しくじった…そして何かをされた…その何かが分からねぇ。
頭の中が真っ暗だ…そしてその暗闇に浮かび上がる翁の面。
その翁の面が数えてやがる…壱、壱、壱…」
それからおっ父とおっ母は、少しずつ気が触れ始めちまった。
「あんた…今いくつだい…あたしは弐拾を超えちまったよ…」
「あぁ…俺は今、弐拾壱になっちまった…いや、弐拾弐だ…」
もう見ちゃいられなかった…毎日数を口ずさんでは、無表情で笑うんだ…。
「ははは…参拾漆、参拾漆、参拾捌、参拾玖…二つ増えた…あはははは…」
「二つも増えたか…俺は参拾玖、参拾玖、肆拾…肆拾だ!あははははっ!」
目を限界まで見開き、数を数えては絶望しながら笑い続ける…。
そしておっ父とおっ母は、俺に宛てた文を残し姿を消した。
文にはこう認められていた。
女を見つけた。
俺たちは祓い人としての本分をまっとうする。生きて帰る事はない。
お前が今後、祓い人として生きていくのであれば〈水精〉と名乗れ。
水晶とは水の精霊…水晶のように、呪いを扱う邪悪な輩を浄化しろ。
最後に、俺たちの子になってくれて…ありがとな。
おっ父…おっ母…。
俺は当てもなく探し回った…何も考えずに走り続けた。
そうだ…花岡の元締めなら何か知ってるかも知れねぇ。
花岡邸に着くと、門番に追い返されそうになったが…。
「おやおや、かんざし屋さんの…どうしたんだい」
俺は元締めに文を渡し…。
「おっ父とおっ母が…行っちまった!」
元締めは俺を屋敷に上げると、座敷へ通し座らされた。
「この祓いの所縁人が誰かは知れませんがね、二人はね…掟に従ったんだよ。
厳しい稼業さ…時には呪いを祓えずに、呪われちまう事だってあるんだよ。
水精さん、どのような事になろうとも、あの二人の生き様は…立派だった」
元締めの言葉に涙が止まらなかった…俺は改めて二人の事を誇らしく思った。
その夜は、花岡邸で過ごす事になった。長い夜が続いた…。
空が白み始めた頃、花岡邸の門に若い衆が走り込んできた。
おっ父とおっ母の亡骸は、大川(隅田川)に浮かんでいた。
覚悟はしていたんだ…そして、俺の覚悟も固まった。
祓い人として骨をうずめてやらぁ…仇は必ず討つ!。
…
「そうかい…まさか水精さんにそんないきさつがあったとは…肆拾玖ねぇ…。
って事はあれかい?その呪いを掛けられると、四十九日目にって事かい?」
姫さんがそう思うのも頷ける…。
「姫さん、それがそうでもねぇらしいんだ…俺もそう思案していた。
だけどね、二人とも二十日も待たずに肆拾玖を迎えちまったんだ」
姫さんは腕を組み、膝を立てると。
「益々意味が分からねぇ…この祓い、悠長にしていられないねぇ」
確かに姫さんの言う通りだ。
だが、女の得体が知れねぇ…そして俺は、この女に一度会っている。
…
俺は店を継ぎ、かんざし作りに心血を注いだ。
おっ父から学んだ事を頭に、心を込めてかんざしを作った。
店はそれなりに繁盛し、お客にも可愛がってもらっていた。
そんな時だった…。
「あらぁ、かんざし屋さんねぇ…可愛い坊やじゃないか、一人かい?」
な…なんなんだこの女…この悪臭…呪い…いや、この女そのものが…。
「い…いらっしゃい…」
俺は、歯の根が合わずに顔を上げる事ができなかった。
「まぁ、照れちゃってるのかい…このかんざし頂こうかしら」
この女…おっ父とおっ母の店だと分かってて来やがったんだ。
そのかんざしは…そのかんざしは、おっ父が最後に作った物。
「申し訳ございやせんが、そいつぁ売り物じゃあないんで…」
女はかんざしを元に戻すと。
「あら、そうかい…気に入ったんだけどねぇ。あんたが作ったんだろ?」
仇が目の前にいる…俺はかんざしを握りしめながら。
「そいつぁ、死んだおっ父が作ったもんでして…店の飾りでしてね」
この女が…この女がおっ父とおっ母を…。
「そうかい、残念な事だったねぇ…こんな素敵なかんざしを作る人だ。
一度会ってみたかったもんだ…気が向いたらまた寄らせてもらうよ」
あの時ほど、己の弱さに打ちひしがれ、屈辱に涙した事はない…。
…
そして俺と姫さんは、高瀬局様の呪いを祓う為に、水戸を目指した。
水戸街道をひた歩き、取手、藤代、若柴を抜け、牛久で宿に入った。
その後、府中、竹原、片倉を抜け、なんとか小幡までたどり着いた。
そして翌日、昼前には水戸に着き、俺たちは三木邸の門前に立つと。
「水精さん…なんか感じるかい…」
心を静め、気配を探る…。
「いや、どうやら邪魔立てする気はないようだ」
特に奇怪な気配は感じられねぇ…俺たちは三木邸の門を叩いた。
高瀬局様は臥せるどころか、気丈なお姿で俺たちの前へお越しになられた。
「それでは久子様…今、久子様の頭の中に浮かんでいるものは…」
※久子…高瀬局(久昌院)の本名
俺と姫さんは、高瀬局様のお言葉を固唾を飲んで待った。
「はい、暗闇に浮かぶ翁の面…その面が、弐、弐…と繰り返しております」
俺と姫さんは顔を見合わせると。
「水精さん…まだ弐だぜ」
その姫さんの言葉に、高瀬局様は。
「恐ろしゅうて恐ろしゅうて…どうしたら良いのかも分からずに。
しかし、お腹の子の事を思えば、私が脅えてなどおれぬのです」
そのお言葉に、俺たちは応えなきゃならねぇ…俺と姫さんは祓いに入った。
な、なんなんだ…この…出鱈目な呪いは…。
「水精さん…こいつぁ…」
姫さんも気が付いたようだ。
「そうなんだよ姫さん、死霊と死霊が結ばれちまっている。
あの女…死霊を操っている…いや、飼い慣らしてやがる」
結託した死霊どもの声が、頭の中で響き渡る。
『なんだこの野郎は…憑りついて殺しちまうか』
なめてんじゃねぇ…まずはてめぇから祓ってやる。
ほどいては祓い、またほどいては祓うの繰り返し。
すると高瀬局様が…。
「翁の面が消えました…今、私の頭の中では…暗闇に赤く光る肆拾捌の文字が…」
祓えているのになぜ…なぜいきなり肆拾捌に…。
「水精さん、ちょいと落ち着こうか…恐らく…。
取り敢えず、死霊を一つ祓ってみるとしよう」
俺は姫さんのこの言葉に救われた。
死霊をほどいて一つ祓うと、高瀬局様は目を開き。
「姫之丞殿のお考えの通りです…肆拾漆になりました…」
そうかい、そう言う事かい…それなら遠慮なく祓わせてもらうぜ…。
高瀬局様に憑りつく死霊の数…残り肆拾漆。
祓いは宵五つまで続いた。
「姫さん、こいつが最後だ…さっさと消え失せろ…」
終わった…終わったはずなんだ…終わったんだよな…。
すると…。
「消えた…消えたのです…壱の文字も暗闇も…なんと晴れやかな」
そのお言葉を聞き、俺と姫さんはがっちりと手を握り合った。
そして、三木家当主・之次様が屋敷に戻られると。
「遠路遥々、よくぞおいで下さった。
この度は拙者の願いをお引き受け頂き、誠にかたじけない。
主命に背き密かにかくまっておったのだが、どうした事か」
之次様は目を閉じ、またゆっくりと目を開くと。
「竹丸の時といい、今回命じられた堕胎も不条理としか思えん。
しかしそなたたち…よくぞ見事に祓ってくれた。礼を言うぞ。
疲れたであろう…今宵はこの部屋で、ゆるりと過ごされよ…」
その夜は、三木邸にて料理や酒を振舞って頂いた。
朝を迎えると、之次様と高瀬局様の他、皆に手を振って見送られた。
そして、江戸への帰路の途中で事は起こった。
霞ケ浦で涼を取っていると…景色が一変する。
「水精さん…こいつぁ一体どうなっちまったんだ…」
「あぁ、なにか仕掛けられている…こいつぁ幻惑…」
お幸…お幸がこちらに近付いて来る。
「姫さん!来たぜ!…なにしてんだ姫さん!」
姫さん…気付いてねぇのか…。
「あんたたち、二人ともいい男だから特別だよ」
お幸は姫さんに口づけを交わすと、瞬時に俺の目の前に現れた。
「残念だったねぇ」
お幸は俺とも口づけを交わすと、消えるように姿を眩ませた。
お幸を追い掛ける事すらできねぇ…景色が元へと戻っていく。
「水精さん…頭ん中が真っ暗だ…翁の面が現れちまった…。
水精さんは、大丈夫かい…壱、壱、壱、壱、弐、えっ…」
違う…俺には違うものが見えている…。
「姫さんに見えているのは、暗闇に翁の面だけかい?」
姫さんは頭を抱えながら…。
「そうだ…暗闇に翁の面だけだ…」
なんなんだ…俺の頭の中に浮かんでいるものは…。
「姫さん、俺に見えているのはね…。
暗闇で…着物を着た女の子が、翁の面を付けているんだよ」
その女の子が一歩前に出ると、翁の面が顔から外れる。
!?…千歳…なぜ千歳が…頭の中で千歳の声が聞こえる。
『大丈夫、兄上は大丈夫。だって兄上は〈零〉だから』
そう言うと千歳は姿を消し、頭の中の暗闇も消え去った。
千歳…どう言う意味なんだ…俺が〈零〉ってなんなんだ。
「水精さん…祓っておくれよ…どんどん数が進んじまうんだ…」
目を閉じ呪いをのぞき込む。
こ…こいつぁ…高瀬局様にかけられた呪いの比じゃねぇ…。
「姫さん、何も考えちゃいけねぇ…この呪いは、俺じゃあ…無理だ…」
やはりそうかい…あの女の狙いは、俺たち江戸の祓い人だったんだ。
俺たちをおちょくって遊んでやがった…こいつが本当の…肆拾玖…。
愕然としながら江戸に戻ると、姫さんは俺の店で暮らす事になった。
花岡の元締めに頼むと、多くの祓い人たちが俺の店を訪ねてくれた。
桜組の棟梁も、方々に手を回してくれた。しかし皆が首を横に振る。
それからは、おっ父とおっ母の時と同じように、地獄の日々が続いた。
「肆拾壱…肆拾壱だってよ!水精さん!はははははっ!」
死霊どもの煩わしい声に、俺まで押し潰されちまいそうだ…。
「まただ…まただよ…肆拾弐…肆拾弐…くっくっくっ…」
姫さん頼む、耐えてくれ…少しずつだが祓えているんだ。
その時だった、この臭い…この強烈な悪臭は、お幸の…。
「あらまぁ、無駄な事しちゃって」
お幸…いつ入ってきやがった…。
背後に感じる気配を頼りに、振り向き様にかんざしを振るう。
「なにするんだい…やめておくれよぉ」
この女…なめやがって…。
「てめぇ、今までにどれだけの人を呪った…どれだけの人を殺めた!。
なんの罪もねぇ人々と、その身内…一体どれだけの人を涙させた!」
お幸は鼻で笑うと。
「天下太平の世と言ってもだよ、この世は理不尽にまみれているからねぇ。
それなら、その理不尽って奴を存分に楽しまなきゃ…いけない事かい?」
お幸…てめぇなに言ってんだ…この女には、道理ってもんが一切通じねぇ…。
「それよりあんた、なんで肆拾玖にかからなかったんだい。
まぁいいさ、あの脅えていた坊やがねぇ…楽しかったよ」
霞ケ浦の時と同じだ…消えるように姿を眩ませやがった…。
その数日後…。
「肆拾肆…はははっ…肆拾肆…肆拾伍…えっ?」
姫さんは黙ったまま何かを考えている…すると。
「水精さん…分かった、分かったんだよ…翁の面が不気味に笑った時だ…。
その時何を思ったか…『死にたくねぇ』って思うと、数が増えるんだよ」
それさえ分かっちまえば…姫さん、もう暫く辛抱してくれ。
しかし…。
「すまねぇ水精さん…駄目なんだよ、やっぱり怖ぇんだよ。
もう肆拾捌だ…もう一度思っちまえば…次は…肆拾玖…」
なんなんだよ…一体、なにがどうしちまったってんだよ…。
あの姫さんの…あんなに綺麗だった…顔が…手が…足が…。
見るも無残に…歪んじまってんじゃねぇか…。
そして…。
「翁の面が消えたよ…暗闇にね、赤く光っているんだ…肆拾玖の文字がね…。
死にたくねぇ…死にたくねぇ!…水精さん…俺の身体…が…俺の…身体…」
歪んだ身体は醜く崩れ、崩れた身体は一層崩れ…。
姫さんが…姫さんが…溶けて無くなっちまう…荼毘に付す事すら叶わねぇ…。
姫さん…。
…
ー寛文二年ー
三十四年の月日が流れた…。
「水精さん!」
おやおや、可愛いお客が来たもんだ。
「いらっしゃい、つばめちゃん」
つばめちゃんはモジモジしながら、懐から何枚かの銭貨を出すと。
「これで買えるかんざし下さいな」
銭貨を数えてみても、十文ほどしかねぇ…こいつぁ困っちまった。
「なぁ、つばめちゃん…口開けてごらん」
つばめちゃんが大きく口を開けると、俺はかりんとうを咥えさせてやった。
「つばめちゃん、この銭はね、どうやら俺んところへ来たくねぇらしい。
つばめちゃんがべっぴんさんになるまで、大切に持っていておくれよ」
つばめちゃんは、まじまじと銭貨を見つめると。
「うん、分かった!水精さん、ありがとう!」
しかしまぁ…親子ってぇのはここまで似るもんかねぇ…。
まったく、いい日だねぇ…。
そして私は、浅草元鳥越にある、あの思い出のうどん屋へ寄ると…。
おっ父とおっ母を偲びながら、きつねうどんをゆっくりと味わった。
さてと、行くとしようか…私は江戸を発った。
※これより高瀬局から久昌院とする。
寛永十三年、私と姫さんが呪いを祓った久昌院様。
その久昌院様が御産された御子が、元服をされた。
更には、公方様(徳川家光)からの偏諱を与えられ、名を光国と改められた。
※後の延宝五年、五十二歳で光圀と改める。
寛文元年、光国様が幕府の上使を受け、常陸水戸藩の第二代藩主となられた。
私と姫さんは、三十三年前の祓い事に深謝を受け、姓を名乗る事を許された。
間もなくして、久昌院様が病でお亡くなりになられた。
私は小石川藩邸を訪れ、何度か久昌院様を見舞わせて頂いていた。
その際、私は恐れながらも久昌院様に一つの我儘を願い申し出た。
琉球へ渡りたいと…。
久昌院様のご尽力のお陰で、私は薩摩から船で琉球へ渡った。
お幸の居場所を突き止めるのに、そう時間は掛からなかった。
噂もあり、後はあの強烈な呪いの臭いをたぐっていくだけだ。
あの時、霞ケ浦でなぜ私が肆拾玖の呪いに掛からなかったのか。
あの時の千歳の言葉の意味が、やっと分かったような気がする。
千歳、母上、おっ父、おっ母…私は早くみんなに会いたかったんだ。
祓い人になった時から、私は既に死にたがりだったのかもしれない。
だから私は…〈零〉だったんだ。
お幸、聞かせてもらおうか…なぜ、父上に肆拾玖の呪いをかけたのかを。
なぜ、おっ父とおっ母を狙ったのかを…なぜ、私の人生に纏わり付く!。
姫さんはねぇ…生きながらにして、泥水のように溶けていったんだ。
断末魔を叫びながら、目玉が落ちるまで私を見つめていたんだよ…。
歪んだ身体は醜く崩れ、崩れた身体は一層崩れ…。
頭皮が裂けると頭骨が覗き、目玉が飛び出しぶら下がる。
弛んだ耳が頭皮を引きずり、乱れた髪が無残に散らばる。
目玉が落ちると畳を転がり、その目に悲しく無念が滲む。
姫さんの、あの可哀想な光景をね…未だに夢に見るんだ。
お幸、絶対に許しませんよ…お前は浄化じゃ済まさない。
なぜならば…。
お幸は既に生きちゃいない…その実、呪いを娯楽とした穢れた魂。
その魂が強い意思を持つと具現化し、愚行を働き罪を重ねたんだ。
千歳、母上、おっ父、おっ母…そして姫さん…仇を討ちに行くよ。
私の名は水精…黒瀬水精。
呪いを祓い、悪戯に呪いを扱う輩の…魂を消し去る者だ。