昭和五十年代の話である。
秀男さんが小学校三年生の時、ホステスをしながら女手一人で秀男さんを育てていた母親が、2DKのカビ臭いぼろアパートに、見るからに粗野でずんぐりむっくりとした男を連れてくると、
「この人はね利彦さん。あんたの新しいお父さんだからね」そう言った。
薄汚い、すえた匂いのするクリーム色の作業着を身にまとっていた利彦は腰を曲げて秀男さんと視線を合わせると「よろしくな」と一言だけしわがれた声で言った。目の細い野暮ったい丸顔。息がヤニ臭かった。
利彦に対して拒否感を秀男さんはすぐに持った。
突然のことで心の準備が出来ておらず戸惑うしかなかったというのもあるし、秀男さんが欲しくてたまらなかった「父親」のイメージからは程遠い姿の男だったからというのが主な理由だった。
スマートにスーツを着こなす優しそうな男の人を想像していた。だからがっかりしたというのが正直な所だった。
だけどそれだけでなく秀男さんは、なんとも言葉にしづらい、生理的嫌悪感を沸き上がらせるような、とても厭な雰囲気を利彦から感じていた。
そしてそれは、利彦の背中から発せられている物だと、利彦の脂肪と筋肉で盛り上がった肉厚の背中を初めて見たときから、すでに勘づいていた。
秀男さんの本当の父親は秀男さんが物心つく前に蒸発したと母親から聞かされていた。
本当の父親について秀男さんに詳しい話をすることを母は避けていた節がある。
秀男さんが父親についてしつこく何度訊ねても、曖昧に言葉を濁すだけだった。
写真を見せて欲しいとせがんだ事が何度かあった。でも母親は「全部捨ててしまって残ってない」と冷たく言い放つだけだった。
だから秀男さんは本当の父親の顔を知らずに育った。
利彦はその見た目の印象とは裏腹に、秀男さんに対してとても優しく接した。
口数は少なかったが、夕飯のおかずを秀男さんに毎日分け与えてくれたし、学校で困ったことはないかを聞いてくれた。
利彦なりに義理の息子と心の距離を縮めようと頑張ってくれていることを秀男さんは幼心に感じていた。
利彦との生活を日々重ねるごとにその頑張りに応えたい気持ちが沸き上がってくる。
それでも利彦の背中が目に入るたびに秀男さんの心に厭な不快感が込み上げてくる。
それがあるから、利彦に対して完全に心を許すことへの拒否感を、秀男さんは捨て去ることがずっと出来ずにいた。
とある金曜日の夜。母はクラブに出勤していてアパートには秀男さんと利彦の二人だけだった。
利彦が「広い風呂に浸かると気持ちいいぞ」そう言って、秀男さんをアパートから歩いて五分ほど行った所にある銭湯に一緒に行こうと誘ってきた。
アパートには狭いながらもちゃんと風呂はある。わざわざ銭湯に行かなくてもいいだろうと秀男さんは思ったし、まだ他人行儀が抜けない相手と一緒に風呂に入るのが気恥ずかしくもあった。
だから少し迷ったが、秀男さんは銭湯に一緒に行くことを了承した。
せめて一緒に風呂に入ることぐらいは歩み寄らなければ申し訳ないと思ったからだった。
アパートを出て街灯の少ない真っ暗な道を歩く。
利彦が前を歩き、その少し後ろを秀男さんが追った。横並びになるのは躊躇われた。
利彦はたまに後ろを振り返り秀男さんがちゃんとついてきているかを確認した。
秀男さんは基本うつ向いて利彦の方を極力見ないように歩いていた。
なぜなら顔を上げれば利彦の背中が視界の中に入ってしまうからだ。
その日も相変わらず利彦の背中からは厭な気配が漂っていた。
銭湯に着き番台に金を払い脱衣場に向かう。
二人の他に客は、年老いた白髪の男性が一人いただけで、店内はがらんとしていた。
「ここで服を脱ぐんだぞ」そう一言だけ言うと、そそくさと利彦は服を脱ぎ始めた。
利彦の横に立って秀男さんも服を脱ぐ。
服を脱ぎ終わった利彦が秀男さんの手を握った。秀男さんの小さな手に肉厚な感触が伝わる。
「風呂場は滑りやすいからこけるんじゃねぇぞ」
照れ笑いしながら利彦はそう言って秀男さんの手を優しく引っ張った。
浴場まで二人は横並びに歩いた。
だから利彦の背中は秀男さんの視界に入ることはなかった。
手を握られるのは少し気恥ずかしかったが、背中を見なくて済んだから秀男さんはほっとする気持ちにもなった。
浴場に入るとむわっと生暖かい空気が全身に覆い被さってきた。視界が湯気で曇る。
一瞬息が止まりそうになり、秀男さんの心拍数が上がった。
洗い場で二人並んで椅子に腰をかける。
なんの言葉もかわさず淡々と二人とも頭を洗った。
頭を洗い終えると、利彦は家から持ってきた石鹸を濡らしたタオルに乱暴に擦り付け泡立てた。そしてその石鹸を秀男さんへと「ほれっ」と一言だけ言って差し出した。
秀男さんはそれを黙って受け取ると、利彦の真似をして石鹸を濡れたタオルに擦り付けた。
そのまま二人は黙って、自分の体にタオルを走らせた。
しばらくすると利彦が口を開いた。
「秀男、俺の背中を洗ってくれないか」
背中という言葉を聞いて、秀男さんの胸が激しくざわついた。
利彦が秀男さんの方へと背中を向けた。
背中から発せられていた厭な気配がいったい何なのか、秀男さんはその時に初めて理解した。
視線だ。
利彦の背中から自分は誰かに見られているという視線を感じていたのだ。
曇った鏡に微かに映る自分の顔を見つめながら秀男さんは、この状況で自分はどうするべきか迷っていた。
背中を見ちゃいけない。本能が危険を知らせていた。
「秀男頼むよ。なっ?」
利彦が背中を向けたまま秀男さんにかけたその言葉には、この瞬間に義理の息子との心の距離を縮めたいという、哀願の念のような物がこもっていた。
その切実な利彦の想いに応えなくては申し訳ないという気持ちが秀男さんの危機回避本能を一瞬鈍らせた。
秀男さんはついに利彦の裸の背中と向き合った。
利彦の背中には人間の顔があった。
背中の肉にめり込むようにして顔がくっついていた。
刺青だとか背中の表面に描かれた絵などではない。
立体的で生々しい、誰かの体からもぎ取ってきた物を無理矢理背中に押し込んでくっつけたとしか言いようがない顔だ。
面長な輪郭をしていて頬骨が前に出ていた。髪の毛は生えていない。耳は利彦の背中の中に埋もれていた。
性別は男で年齢は利彦と同じくらいに思えた。
そしてそれは秀男さんにはまったく見覚えのない顔だった。
かっと見開いた目が秀男さんを見ていた。
一瞬訪れたの恐怖の後、秀男さんは蛇に睨まれた蛙のように動くことが出来なくなり、思考は完全に停止してしまっていた。
「秀男どうした? やりたくないか?」
利彦に声をかけられて秀男さんの思考は再び動いた。
「だ、大丈夫……。や、やるよ」
弱々しい声でそう言うと、恐怖を無理矢理振り払って利彦の背中の面積の大部分を占めている顔にタオルを思い切りゴシゴシと擦り付けた。
やるしかないそんな気持ちだった。
こうやって思い切り擦っていればこの顔は消えてくれるのではないか。そんな思いで必死に秀男さんは擦った。でも顔は消えなかった。
どんなに擦っても表情ひとつ変えずに顔は目を見開いたまま利彦の背中にあった。
「おお。力強いな。男らしいとこあるじゃねぇか」
秀男さんの切羽詰まった気持ちを知るよしもない利彦が、嬉しそうにいつもより明るい声色でそう言った。
秀男さんは擦るのを止めると、桶にお湯をためて背中を洗い流した。
泡が流れ背中の顔がまたはっきりとした形を見せる。
ずっと閉じていた口がパクパクと開閉していた。上手く聞き取れないが何か言葉を発しているようだった。
「……だよ。お……が……とうの……んだよ……」
言葉が次第にはっきりとしてくる。断片的な音と音が繋がってついに発している言葉の全貌が明らかになった。
「俺が本当のお父さんだよおおお」
背中の顔は、低く不気味にはっきりそう言った。
何も気づいてないような素振りで利彦は前を向き体を元の位置へと戻した。
浴場全体に背中の顔の声は響いたように思えたが、利彦には聞こえていないようだった。
「今度は俺が秀男の背中を洗う番だ……」
自分の背中に顔がめり込んでくっついていることを知っているの知らないのか、利彦は嬉しそうに声を少し弾ませながらそう言うと、秀男さんに背中を向けるように促した。
されるがまま秀男さんは利彦に背を向けた。
「俺が本当のお父さんだよおおお」
秀男さんの頭の中で何度も背中の男の声が脳内を侵食していくようにこだましていた。
利彦に背中を洗われながら、秀男さんの恐怖心は次第に「あの背中の顔の男が本当に自分の実の父親なのではないか」という、ありもしない思い面長な輪郭をしていて頬骨が前に出ていた。へと変化していった。
(そんなはずない! そんなはずない!)
秀男さんはそう自分に必死に言い聞かせ、そんな思いを振り払おうとした。
強い気持ちを持ち続けなれけば、あの背中の顔の男に心を取り込まれてしまいそうだった。
その後、銭湯を後にして家に帰り寝床につくまで、秀男さんは背中の顔の男が自分の実の父親だと思ってしまいそうになる心と必死に戦った。
そんな秀男さんの必死さに利彦はまるで気づいていないようで、義理の息子と心の距離を縮められたと信じているのか、ずっと上機嫌だった。
結局秀男さんは一睡もする事が出来ずに朝を迎え、そのまま学校へと行くことになった。
眠たい目をこすりながら午後の授業を受けている時、利彦が職場であるビルの建設現場で事故にあい、救急搬送されたという知らせが舞い込んできた。
青ざめた顔で迎えにきた母親に連れられて病院へと向かったが、たどり着いてすぐに利彦が亡くなったという事実を突きつけられた。
五階建てのビルの最上階部分での作業中に足を滑らせ地面に叩き落とされたのだという。
命綱である安全ベルトは何故か外されていた。
安置所で狂ったように泣き叫ぶ母親の横で秀男さんの心に渦巻いた感情は喪失感だった。
見るのも嫌だったあの背中と向き合わずに済むことになった、利彦が死んだことで背中の顔の男も死んだはずだ。それなのに何故喪失感が沸き上がったのか。秀男さんは自分の心なのにも関わらず理解が出来ずに戸惑うしかなかった。
ただひたすらぼうっとしていると安置所の中で誰かの声が響いた。
「お父さんはずっと秀男の側にいるよおおお」
銭湯で聞いた背中の顔の男と同じ声が何度も何度も秀男さんの耳に飛び込んでくる。
声はすぐ近くで聞こえる。
(どこだ? どこだ?)
秀男さんは必死に辺りを見回した。どこにもあの顔はない。灰色の無機質な壁と天井しかない。それでもすぐ近くで声が聞こえる。
何度も首を回して探し続けていると、秀男さんは自分の左手の手のひらに現れた違和感に気づいた。
何か丸くて大きな腫れ物を握っているようなそん違和感だった。
隣でずっと母親は泣き叫んでいる。
秀男さんは恐る恐る手のひらを開いた。
手のひらには顔があった。
面長な輪郭をして頬骨が前に出た、利彦の背中にくっついていたあの顔と同じ顔が、手のひらサイズに小さくなって、秀男さんの左手の手のひらの肉に食い込むようにしてくっついていた。
捲し立てるように顔は秀男さんに話しかけてきた。
「秀男大きくなったなぁ。ずっとお父さんは秀男の事見守ってたんだぞおおお。クラスで飼育委員やってメダカ育ててるんだろう? この間のテストは国語は八十点、算数は七十五点、理科は六十点、社会は百点取って偉かったなぁ。運動会は徒競走で三位だったな。仲のいい山下君とは毎日ひょうきん族の話して楽しそうだなあああ」
手のひらの顔の男の言うことはすべて事実だった。
(あぁ。やっぱりこの人が僕の本当のお父さんなんだ。実の父親なんだ……)
秀男さんはそう確信した。
「ずっとずっと会いたかったよ……お父さん……」
秀男さんの口からそんな言葉が漏れた。
もうこれでずっとお父さんと一緒なんだ。一心同体なんだ。そう思うと言いようのない喜びが沸き上がってくるのを秀男さんは感じた。
そんな秀男さんの気持ちを察知したかのように手のひらの顔の男は、
「秀男とついに一緒に暮らせてお父さんも嬉しいよおおお」
そう涙声で呟いた。
秀男さんは左手をぎゅっと握り、これからずっとこのままお父さんと一緒に暮らしていこうと固く誓った。
秀男さんが交通事故に巻き込まれ左手を失ったのはその日から一週間後、利彦の葬儀が終わって間もなくのことだった。
左手を失って以降、あの顔の男は現れなくなった。
片手での生活にも慣れた頃、ずっと心に閉まっていたあの顔の男の事を秀男さんは母親に打ちあけた。
信じてもらえないと思っていたが、意外にも母親はあっさりとその話を受け入れたようだった。
そしてしばらく考え込んだ後に立ち上がると、どこからか一枚の写真を秀男さんのもとへと持ってきた。
セーラー服を着たあどけない顔をした母親が両親、つまり秀男さんの祖父母と共に学校の校門の前で並んで撮った記念写真だった。
「ここを見てごらん」
そう言って母親は、写真の一部分を指差した。
その一部分とは、母親のセーラー服の左胸部分だった。
よく目を凝らして見てみるとそこに顔があった。心霊写真のようだった。
その顔は、利彦の背中、そして秀男さんの手のひらにくっついていたあの顔と同じ顔だった。
「この顔かい?」
そう訊ねる母親の言葉に秀男さんは無言で何度も首を縦に振った。
「この男はね。実家の近所に住んでた男でね。お母さんにずっと付きまとってきた気持ちの悪い男でね……」
母親は訥々と語り始めた。
この男は母親の三十歳も年上の無職の男だったという。母親が十歳くらいの時から「俺と結婚してくれないか」と学校の帰りを待ち伏せしては声を掛けてきていたという。
それは母親が高校を卒業して家を出るまで続いた。
声を掛けてくる、それ以上の事はしてこなかった。
それでも気色悪くて毎日怖くて仕方なかったと母親は語った。
その男は今どうしているのか。母親は知らないという。
「こんな写真にまで付きまとってきて気持ち悪かったけど記念の写真だったから捨てられなくてね。でもあんたに迷惑掛かるんなら捨てなくちゃね……」
そう言うと母親は「秀男本当にごめんね。利彦さんごめんね」そう言って静かに涙を流し始めた
。
秀男さんは母親が乳癌の影響で左胸の乳房がないことをその時に思い出した。
そして、母親の息子にも執着し取り込もうとしたその男の執念深さに、身震いするほどの恐怖を感じた。
写真はお寺に引き取ってもらった。
それから悪いことは何も起きていない。
秀男さんも母親もまだ元気で暮らしている。
未だに母親は本当の父親のことについて何も教えてくれない。
それについて、とある疑念を秀男さんはいつの日からか感じてはいるのだが、歳を取るごとにそれはもうどうでもいいことだと思うようになったそうだ。
利彦の命日には毎年銭湯に行くという。