山田さんは地元の大学を卒業し、就職するにあたって、初めて一人暮らしをすることになった。会社から指定された配属先は実家から通えない距離ではなかったが、以前から自由気ままな生活に憧れていたのだ。
大学の卒業式を終えるとすぐに、不動産屋を訪れた。有名なチェーン店ではなく、個人経営の店だ。愛想の良い年輩の店主が次から次へと単身者向けの物件を紹介してくれた。
その中に、相場よりだいぶ家賃の安いマンションがあった。広さ、間取り、築年数、最寄り駅からの距離、コンビニまでの距離と、条件はどれも文句なしだった。
「ここ、何でこんなに安いんですか?」
山田さんが店主に尋ねると、
「オーナーさんのご厚意です。一言で言えば、掘り出し物ですわ」
店主はそう言って、年齢に似合わないウインクをした。
山田さんは喜んでその部屋を契約した。
あわただしく引っ越しを終え、山田さんの一人暮らしがスタートした。新居での暮らしは快適だった。そのお陰で、会社勤めが本格的に始まってからも、ほとんどストレスを感じずに過ごせた。
(あとは、この部屋に連れてくる新しい彼女さえ出来れば完璧だな)
少し前に恋人と別れたばかりだった山田さんは、そんなことを考えながら日々の生活を送っていたという。
そんなある日のことだった。
夜、山田さんが仕事から帰ると、室内のインターフォンモニターのランプが白く光っていた。
留守中に宅配便でも来たのかと思い、録画映像を再生してみる。
ところが、そこには誰も映っていなかった。無人の共用廊下の映像が流れているだけだ。
近所に住む悪ガキがピンポンダッシュでもしたのだろうか?
山田さんはそう考えて、特に気にすることなく、晩御飯の支度に取り掛かった。
だが、数日後。また同じようなことがあった。
帰宅すると、モニターのランプが白く点滅していた。それなのに、録画を再生しても、ドアの前には誰一人として映っていないのだ。
山田さんは録画時刻を見た。午前中だった。子どもは学校に行っている時間だ。
二回目なので少し気味悪かったが、何か実害が出ているわけでもない。機械本体の不具合だろうと考え、缶ビール片手に野球中継を見ていたら、この件は頭の中から消えていた。
それから、さらに数日後のことだ。
この日、山田さんは引っ越して以来、初めての来客を迎えた。大学時代の友人である小林君だ。同じゼミに所属し、授業帰りによく飲みに行っていた相手だという。
バーガーショップで買った夕飯を食べながら、小林君とお互いの新社会人生活について報告しあう。話題が共通の趣味である野球へと移った頃、突然、部屋のチャイムが鳴った。
山田さんはソファから立ち上がり、モニターを覗いた。
だが、そこには誰もいなかった。
モニターカメラ特有のザーザーという音だけが、あたりに響いているだけだった。
「お客さん?」
そう尋ねる小林君に、山田さんは「インターフォンが馬鹿になっちゃったみたいでさ」と苦笑いしながら返す。
「どういうこと?」
首を傾げる小林さんに、山田さんはこれまでの経緯を説明した。
「なるほどね。俺はてっきり、リナがアポなしで遊びに来たのかと思ったよ」
小林君が冗談めかした口調で言う。
リナさんとは、山田さんが以前交際していた女性だった。バイクで一人旅に出るような活発な女性だが、やや嫉妬深く、山田さんに対する束縛は強かった。次第にそれが苦痛となった山田さんは、コンパで知り合った女性と一夜限りの浮気をしてしまい、それが原因で二人は別れていた。
「リナのことはもう言うなよ、とっくに別れてるんだから」
山田さんが不機嫌そうに言う。
「そうだったな、ごめんよ」
「リナには、ここの住所なんて教えてないんだから。あいつが来るわけないだろう」
「わかった、わかった。ごめんごめん」
気まずい空気が室内に流れた、その時、またしても玄関でチャイムが鳴った。
今度は小林君が先に立ち上がり、山田さんを制してモニターを覗きに行った。
「な、誰もいないだろ?」
山田さんが小林君の背中に声を掛ける。
だが、小林君は何も答えない。
「そのインターフォン、やっぱり壊れてるんだよ。小林、機械に強かったっけ? 修理できない?」
山田さんがさらに声を掛けると、小林君がようやく振り返った。
その顔はひどく強張っていた。
「え、どうしたんだよ、小林?」
山田さんは戸惑いながら小林君に問う。
「女」
小林君がぽつりと答える。
「え、女?」
「女が、いる」
山田さんはあわてて立ち上がり、小林君を押しのけるようにしてモニター画面を覗く。
しかし、そこには誰もいない。
「おい、小林。女なんて」
どこにもいないじゃないか、と山田さんが言う前に、小林君が喉の奥から絞り出すように言葉を発した。
「血まみれだった」
「……え?」
「だから、今、そこに、血まみれの女が立ってたんだよ!」
小林君の声は震えていた。
「やめろよ、何言ってるんだよ。馬鹿らしい」
「本当だよ。ぼく、はっきり見たんだよ!」
小林君は真剣な表情を崩さない。
山田さんは大股で玄関へ向かい、魚眼レンズを覗いた。
誰もいない。
鍵を開け、深呼吸を一つしてからドアを開ける。
共用廊下には、やはり誰の姿もない。
素早く左右に視線を走らせたが、人の気配すら一切しない。
「おい、小林、ふざけんなよ。血まみれの女なんて、どこにいるんだよ?」
山田さんは乱暴にドアを閉めた。
しかし、小林君は山田さんを正面から見据えて言う。
「ぼく、昔から結構見えちゃう方なんだよ。霊感強くて。さっき見た女も間違いないよ。絶対、そこにいた」
山田さんは心霊現象を信じないタイプの人間だったが、小林君があまりにもはっきりと言うので、不安が増して来たようだった。
「山田に見えていなかっただけで、これまでもずっと、あの血まみれの女はここに来てたんじゃないのか?」
小林君は青ざめた顔で発言を続ける。
山田さんは頭を強く振って、それを否定した。
ふいに、小林君が低いトーンで切り出した。
「山田。一応、聞くんだけど。あの女、リナじゃないよな?」
「は? どういう意味だよ?」
「リナのやつ、おまえと別れた時、ものすごくショックを受けてたよな。最近、連絡もつかないし。まさか、自殺なんてしてないよな? それで、化けて出てきたわけじゃないよな?」
小林君もリナさんとは面識があった。三人でカラオケに行ったこともある仲だ。
「馬鹿なこと言うなよ、そんなことあるわけないだろ!」
山田さんは怒鳴るように反論した。
「でも、リナは思い詰めるタイプだった。万が一ってこともあるだろ? 絶対にリナが自殺してないと言い切れるか?」
山田さん自身も、リナさんと別れた日以来、一度も彼女とは連絡を取っていなかった。
「わかったよ。そこまで言うなら電話してみるよ。リナに」
山田さんスマホを操作し、リナさんの番号にコールした。
数回のコール音のあと、繋がった。
「はい、リナです」
「あ、俺だよ。山田」
「うん、久しぶり。どうしたの?」
山田さんは、リナさんが自殺などしていなかったことに安堵したようで、小林君にも聞こえるほどの溜息をついた。
「いや、実は、小林のやつが馬鹿なことを言っててさぁ」
ホッとした反動なのか、山田さんはやたら明るい声で、リナさんにここまでの経緯を聞かせた。
「そうだったんだ。私、自殺なんかしないよ。馬鹿だなぁ」
リナさんの楽しげな笑い声が、小林君の耳にも聞こえた。
山田さんは口調を真面目なものに替えて、リナさんに過去の不実を改めて謝った。
「もう怒ってないよ。悔しいけど、私、まだヤマちゃんのことが好きだからさ」
そう告げたリナさんにほだされたのか、山田さんは、新居へ遊びに来るよう彼女を誘ったのだという。
※ ※ ※ ※ ※
「結論から言うと、これ、ドッキリだったんですよ」
私の目の前の席で、小林君がそう言う。
ここまでの話はすべて、小林君が私の対面取材に応じて語ってくれた内容だ。
「あの日、ぼくは最初から山田に『リナと復縁したらどうか』って話をしに行ったんですよ。リナから頼まれて」
人から頼られると断れないタチの小林さんは、しぶしぶ、恋のキューピッド役を引き受けたのだという。
「とはいえ、この件を山田にどう切り出したものかと悩んでいたんです。男女の色恋ですから、うかつな物言いをすれば、かえってこじらせてしまうし」
そこへ、山田さんから「インターフォンの調子がおかしい」という話を聞かされた。
小林君は、これだ、と膝を打った。
「こいつを利用して、山田をビビらせて、リナに電話をさせようと、とっさに思い付いたんです」
血まみれの女がいる、などというホラ話をでっち上げ、リナさんの自殺を匂わせた。
実際には、小林君はこの前日にもリナさんとやり取りをしていたし、霊感なんてまったくないそうだ。
結果的に小林君の作戦は成功した。
「それで、ハッピーエンドのはずだったんです。それなのに……」
事態が急転したのは、三日後のことだ。
リナさんが亡くなったのだ。
リナさんはバイクを運転中、見通しが悪いわけでもないカーブで横転し、投げ出され、後続車に轢かれた。頭が潰れて、即死だった。山田さんの家へ遊びに行く道中だったという。
「ショックでした。リナが死んだ原因の何割かは、ぼくのせいじゃないかって思ってしまって。罪悪感というか……」
小林君はそう言って顔を伏せる。
「もちろん、山田の受けたダメージはそれ以上でした。葬儀のあとは憔悴しきっていて。見ていられなかった。心配だったんで、帰りは、ぼくが山田を家まで送り届けたんです」
そこから先に起きた出来事は、たぶん、信じてもらえないと思うんですけど……。
そう言って、少しためらう仕草を見せたあと、小林君は、ぽつりとぽつりと、話の続きを語り始めた。
※ ※ ※ ※ ※
山田を部屋まで送り届けて、一緒に飯を食うような気分でもなかったので、
「今日はこれで。また連絡するよ」
そう告げて、ぼくは部屋をあとにしました。
夕暮れ時でした。あたりが徐々に暗くなり始めていて。
駅に向かって歩いていたら、ラフな格好のおじいさんに声を掛けられたんです。
「ご身内に、不幸でもありましたか?」
ぶしつけな人だなと思って、どちら様ですかって尋ねたら、山田のマンションの大家さんだったんですよ。
喪服を着たぼくが、マンションから出て来たんで、気になってしまったらしくて。
そういうことならと、ぼくは事実だけを正直に話しました。
「ぼくは、あのマンションの201号室に住んでいる山田君の友人です。実は、山田の親しい友人が事故死してしまって、今日が葬式でした」
そうしたら、オーナーのじいさん。
「ああ、またですか」
うめくような声で、そう言ったんです。
「また? またって何ですか?」
ぼくは即座にじいさんに尋ねました。
じいさんは一瞬、余計な事を言ってしまった、という顔になって、それから、あきらめたように話してくれました。
「三回続けてなんですよ」
「三回続けて?」
「201号室に住んでいる方の、ご友人が亡くなるのは」
ぼくは背筋が冷たくなるのを感じながら、じいさんに話の先を促しました。
「前の住人も、そのまた前の住人も、恋人や親しい友人を亡くされている。あまり非科学的なことは言いたくないんだが、やはり、あの事件の祟りなのかと……」
あの事件。
じいさんによると、それは、五年ほど前に起きた男女の刃傷沙汰なんだそうです。
あのマンションの、今は山田が住んでいる201号室に、かつてヨシオカという男性が住んでいた。
ヨシオカには、アキナさんという恋人がいた。いや、恋人なのか、ただの遊び相手なのかはわからないですけど。
いずれにせよ、アキナさんは自分がヨシオカの彼女だと思っていた。
それで、ある時、ヨシオカが浮気したのしないので大喧嘩になって、アキナさんは、ヨシオカを包丁で刺した。
そして、自分も喉を掻き切って自殺してしまった。
それ以来、201号室に引っ越して来た住民は、必ず、親しくしている人間が死んでしまうのだと。
「そういうのって、不動産屋に告知義務はないんですか?」
ぼくはじいさんに詰め寄りました。でも、じいさんは、
「ヨシオカさんが刺された現場も、アキナさんが自殺した現場も、うちのマンションとはまったく関係ない離れた場所だ。だから、告知義務はない」
そう言って、逃げるように去って行きました。
ぼくの頭の中に、嫌な想像が渦巻きました。
ぼくが山田に「血まみれの女がいる」なんて、つまらない嘘をついたから、アキナさんの怨霊を呼び寄せてしまったんじゃないのか?
いや、そもそも、ぼくがあの時「血まみれの女」なんて嘘を急に思い付いたのも、実際には、アキナさんの怨霊に思考を乗っ取られていたからなんじゃないのか?
だって、アキナさんは喉を掻き切って死んだんですよ?
ご遺体は、血まみれだったに決まってるんですから。
ぼくは無性に、山田のことが心配になりました。
リナの死にショックを受けていた山田が、アキナさんのように喉を掻き切って自殺している光景が、脳裏に鮮明に浮かんでしまったんです。
ぼくは踵を返して、山田のマンションに戻りました。
201号室のドアの前に立ち、インターフォンを押します。
しばらく待ちましたが、山田は出て来ません。
ぼくはもう一度インターフォンを押し、ドアを強めにノックしました。
それでも、中から山田の反応はない。
やはり、山田はアキナさんの怨念に取り憑かれて、早まったことをしているのではないか。
ぼくは焦って、ドアノブを掴んで引っ張りました。
そうしたら。
開いたんです。ドアが、スーッと、とても軽い手応えで。
ぼくは「山田、生きてるか?」と声を掛けながら、部屋の中に入りました。
室内は真っ暗でした。電気がついていなかったんです。
その暗がりの中から、ウフフフ、ウフフフ、という、かすかな笑い声が聞こえてきました。
ぼくは手探りで電気のスイッチを探し、オンにしました。
リビングのソファに山田が座っていました。
山田が、笑いながら座っていました。
「おい、山田、大丈夫か?」
ぼくが大きな声で呼び掛けると、ようやく山田は反応して、ぼくの方を見ました。
「小林、聞いてくれよ。嬉しいことがあったんだよ」
「嬉しいこと?」
「うん。リナが、生きてたんだよ」
「……は?」
「リナは死んでなかった。ついさっき、ここへ遊びに来てたんだよ。俺がもうちょっと早く帰ってきてたら、会えたのになぁ」
ぼくは自分の脈拍が速くなっているのを感じました。山田はろれつが回っておらず、明らかに様子が変でした。
「山田。落ち着けよ。リナがここに来るわけないだろう?」
「来たんだよ。だって、ほら」
山田はインターフォンモニターを指差しました。
見ると、モニターの録画ランプが、すごい速さでチカチカと真っ赤に点滅していました。
ぼくは恐る恐る、再生ボタンを押しました。
次の瞬間、モニターに映し出されたのは、リナとは似ても似つかない、血まみれの女でした。
「山田、おまえ、こいつを部屋の中に入れたのか?」
ぼくは指先の震えをこらえて、山田に尋ねました。
「もちろん。リナをうちに入れないわけがないだろう」
山田はそう言って笑いました。ケタケタケタという、今までの山田からは聞いたこともない下品な笑い声でした。
「あいつはリナじゃない。家に入れちゃダメなやつだよ!」
ぼくは恐怖のあまり、叫ぶように言いました。
あたりを見回しましたが、あの女はどこにもいません。
「山田、あの女はどこに行った?」
ぼくは再度、山田に尋ねました。
すると、山田はさも愉快そうに、
「どこって、おまえの足元にいるじゃないか」
ぼくは弾かれたように下を見ました。
血まみれの女が、ぼくの腰にしがみついていました。
ぼくはスーッと意識が遠のいて、そのまま気を失ってしまったんです。
気が付くと、朝になっていました。
カーテンから、陽光が差し込んでいて、雀のさえずる声がどこかで聞こえました。
ぼくは山田の部屋で、ソファに横たわっていたんです。
ベッドでは、上半身裸の山田がスヤスヤと寝息を立てて眠っています。もちろん、あたりには誰もいません。
さっきのは夢だったのか?
そもそも、ぼくはいつからここで寝ていたんだ?
時間の感覚がまったくわからなくて、ぼくは頭が混乱してきました。
「おい、山田」
ぼくは、ひとまず山田を起こそうと声を掛けました。
山田が、ううう、とうめいて寝返りを打ち、彼の背中がこちらを向きました。
ぼくは悲鳴を上げて部屋から逃げ出しました。
山田の背中に、無数の真っ赤な手形がついていたからです。
※ ※ ※ ※ ※
「そのあと、ぼくは一人暮らしをしていたアパートではなく、実家に戻りました。とても一人でいられる気分じゃなかったんです」
小林さんは膝を小刻みに震わせながら、そう語る。
実家に戻った小林さんは、その日の深夜、40℃近い高熱を出した。医者に行っても原因はわからず、検査や静養のため、三週間ほど入院していたという。
入院中、小林さんは何度も同じ夢を見た。
あの血まみれの女に、包丁で喉を掻き切られる夢だ。
小林さんの全身はあふれる血で真っ赤に染まり、叫びながら目覚めると、毎回必ず失禁していたという。
心療内科でカウンセリングを受けたり、高名な神社にお祓いへ行ったりして、ようやく悪夢からは解放された。
「あの日以来、山田とは一切連絡を取っていません。何だか、連絡するのが怖くて……」
山田さんから連絡が来たことも一度もないそうだ。
それから半年ほど経った頃、小林さんは仕事の都合で、あのマンションのある町を訪れることになった。
駅前に、個人商店の小さな不動産屋があった。案内板に物件情報が何枚も貼り出されている。
「その中にあったんですよ。あのマンションの201号室が」
掘り出し物です、今すぐご連絡ください!
そう紹介されていたという。