女子大生の栗山ちゆりは映画研究サークルに入っており、そこには昔馴染みの友人も何人か所属している。
その友人のひとりに、ちゆりは今悩まされていた。
「ねえ、ちゆり。ちょっと千円だけ貸してくれない?」
まただ。また始まった。
サークル仲間で高校時代からの友人でもある真奈が、いつものようにまた金を貸してくれと要求してきたのだ。
「またぁ? この間も千円貸したばかりでしょ? しかもまだ返してくれてないし」
「そうだけど、どうしても必要なの!」
「必要って、一体どんなことに?」
「今度彼氏とデートするんだけど、その時に交通費で色々必要なのよ」
「それなら御両親に頼めばいいのに……」
「だってわたし、ひとりで上京してるし、それに仕送りもしてもらってるから、お金を貸してって言いづらいのよ〜」
だったらバイトでもすればいいのに、と口から出そうになった言葉を直前に呑み込む。
真奈は見た目は可愛くて愛嬌もいいのだが、かなりの不器用なのだ。それこそ家事もろくにできないらしく、たまに真奈の親が掃除や料理をやりに来るのだとか。
しかも真奈は、精神的に打たれ弱い。だからこそ、バイトで失敗するよりは、親の仕送りが来るまでお金を借りて生活したいと考えているのだろう。聞いた話では、高額な化粧品や服に費やしているようだが、もう少し倹約しようとは思わないだろうか。実に困った友人である。
「お願い! 必ず返すから、今だけ千円貸してちょうだい! ちょうだいちょうだい!」
出た。真奈お得意の「ちょうだいちょうだい」が。
これを言われると、ちゆりは弱い。本音を言うと貸したくはないのだが、これを言われると「貸してもいいかな」という気分になってしまうのだ。それほど高額でもないというのも相俟って。
美人は得だと言うが、同性にですらワガママを通してしまうとは、なんて得な人生を歩んでいるのだろう。きっと周囲に可愛がられて──甘やかされて生育てられたに違いない。だからこんな自堕落な人間なってしまった。それなのに、ほとんどの人間から憎めまれないというのだから、世の中どうかしていると思う。
「……ちゃんと返してよ。前の分も一緒に」
渋々財布を取り出すちゆりに、真奈が喜色満面に抱き付いてきた。
「ありがとう、ちゆり〜! やっぱり、困った時は親友ね!」
「もう。調子いいんだから……」
苦笑混じりに言いながら、ちゆりは千円札を真奈に手渡した。
真奈と接するようになったのは、ちょうど高校に入学して数ヶ月経った時の事だった。
真奈と知り合ったのはとある友人からの紹介で、最初会った時の印象は「明るくて可愛い子」という感じだったのだが、今となっては「色々とだらしがない子」というイメージの方が強くなってしまっている。
基本真面目なちゆりとしてはあまり相性が良いとは言えないのだが、真奈が人懐っこく接してくるせいもあって、なんだかんだと関係を続けてしまっている。本音を言えば、真奈と少し距離を置きたいと思っているにも関わらず。
いくら友人といえど、やはり何度も金銭の貸し借りをする関係なんて不健全だ──そう本人に伝えられたらいいのだが、気の優しいちゆりにはなかなか口にはできなかった。それで今も、こうしてずるずると友人とは名ばかりの金銭を貸し借りをする関係を続けてしまっている。
その関係が変わったのは、ある日父が突然リストラ勧告され、今後は自分で小遣い代を稼がなければならないようになってしまった頃だ。
その日も、ちゆりは大学の授業が終わったあとに、バイト先へと赴こうと自室で着替えていた時だった。階下から聞こえてきた「ちゆり、真奈ちゃんから電話よー」という声に、ちゆりは渋面になりながら急いで着替えて受話器を取った。
「もしもし、真奈ちゃん?」
『あ、ちゆり。わたし、真奈だけど……』
「うん。で、なにか用なの?」
『……うん。ちょっと急で悪いんだけど、今から二千円って借りられないかな?』
「……また?」
『ごめん! でもどうしてもお金が必要なの!』
「けれど、この間貸した二千円もまだ返してくれてないよね?」
『それはそうなんだけど、いつもちゃんと返してはいるでしょ!』
「いつも一ヵ月遅れでね」
『細かい事はいいじゃない! ねえいいでしょ?』
「……理由を訊いていい? どうして二千円も必要なの?」
『それは……彼氏と電話していた時に、ちょっとした事でケンカしちゃって……』
「で、交通費がほしいって事?」
『そう! こっちから電話しても出てくれないのよ! だから直接会いに行こうって思って』
「理由はわかったけれど、でも、私も色々大変なの。私のお父さんがリストラされたって話は、前にもしたでしょ?」
『それは聞いたけど、わたしはわたしでピンチなの! このままだと彼氏に振られちゃう! それだけはイヤなの! ね? お願いだから二千円貸してちょうだい! ちょうだいちょうだい!」
またしても出た。真奈の「ちょうだいちょうだい」攻撃が。
これを聞くとまた心がぐらつきそうになるが、ちゆりとて今は懐が寒いのだ。いくら大学の授業料は変わらず親に払ってもらっているとはいえ、化粧品代や交遊費は全部ちゆりの小遣いから出ている。だからこれ以上はたとえ貸し借りといえど、お金のやり取りはしたくない。
そう決心を固めて、ちゆりはついに今まで溜まりに溜まっていた言葉を吐き出した。
「ごめん真奈。お金は貸せない。ていうか、これからも貸したくない」
『えっ。ま、待って。じゃあ、わたしはどうしたらいいの?』
「わからないよ、そんなの。他の人に頼んでみるのは?」
『もう頼んだわよ! でも、ちゆりしか残らなかったの! ちゆりだけが頼みなの!』
「とにかく、もうこれからはお金は貸せないから。私バイトがあるから、もう切るね?」
『待って! 切らないで! 話を聞いて──」
と、最後まで懇願してくる真奈だったが、ちゆりは心を鬼にして電話を切った。
その後、後ろ髪引かれる思いでバイトに赴いたちゆりだったが、帰宅後、再び真奈から電話が掛かってくる事は一切なかった。
あれから一週間ほど経った。その間、真奈と大学内で出会う事もなく、また連絡が来る事もなかった。
そんな真奈を気にしつつも、ちゆりは大学の授業を受けたりバイトをしたりと忙しい日々を送っていた。元々真奈とは距離を置きたいと思っていたので、ちょうどいいとすら思っていた。
そんなある日の事だった。いつものように大学帰りに自宅で着替えていると、階下の固定電話機が鳴り響いた。母が出掛けていたので、ちゆりが代わりに「もしもし」と出てみるも、何も反応がなかった。耳を澄ませてみるも、息遣いどころか生活音や雑踏すら聞こえてこない。ひょっとすると、うらびれた路地裏にある公衆電話などから掛けてきているのかもしれない。
そう思ってディスプレイを確認してみると、真奈の自宅の電話番号が表示されていた。
「真奈? どうしたの? さっきからなにも言わないけど、用でもあるの?」
相変わらず返事がない。なにか言いづらい内容なのだろうか?
「あ、もしかしてお金を貸してほしいとか? 前にも言ったけれど、私も厳しいからお金は貸せないよ? 他の人に頼んでくれる?」
話しかけてみるも、やっぱり反応がない。先ほどから無言電話ばかり続いている。そういうことをするタイプには見えなかったが、イタズラ電話なのだろうか?
「ねえ、聞いてる真奈? イタズラならもう切っちゃうよ? いい?」
最後の問いかけだったが、結局返答はなかった。もしかして、最初から受話器を横に置いて放置しているのかもしれない。それなら無音なのも説明が付く。
なんのつもりかは知らないが、用がないなら切らせてもらおう。こっちだって暇じゃないのだ。真奈の変な遊びなんぞに付き合ってなどいられない。
そう苛立ち紛れに通話を切ろうとして、電話口の奥で息遣いのようなものが聞こえた気がした。
「真奈? やっぱりいるの?」
『……を…………だい』
今度は聞こえた。蚊の鳴くような声ではっきりとは聞き取れなかったが、間違いなくなにかを呟いた。
「なに? なんて言ったの? はっきり言って」
『……ちをちょうだい』
ちをちょうだい……?
──まさか、血をちょうだいと言ったのか?
一体なんのために? 輸血? 看護師でも看護学生ですらない真奈が?
「真奈、ふざけてるの? もしそうなら、いい加減怒るよ?」
『……ちをちょうだい……ちをちょうだい……』
まるで壊れた録音テープのように同じセリフを繰り返す真奈に、ちゆりはだんだんと恐怖を覚えた。
いつものなら真奈の「ちょうだいちょうだい」に心を揺さぶられるちゆりが、まったくその気にならなかったくらいに。
あまり考えたくはないが、この間お金を貸さなかった事を根に持っているのだろうか。それでこんな脅迫じみた事を言っているのかもしれない。
だとしたら、これ以上は付き合いきれない。バイトの時間も差し迫っているし、そろそろ切ってしまおう。後が怖くもあるが、背に腹は変えられない。
「ごめん真奈。もう切るね?」
そう言って、ちゆりは今度こそ電話を切った。
それから、再び電話は掛かってくる事はなかった。
真奈から電話があって三日が過ぎた頃だった。バイトが休みだった事もあり、自室で録画しておいた映画を観ていると、玄関のインターホンが鳴った。
両親が出掛けてしまっているので、ちゆりが代わりに出てみると、そこには警察手帳を持った二人組の刑事がいた。
「突然すみません。栗山ちゆりさんで合ってますか?」
二人組の片割れである角刈りにした中年刑事の質問に、ちゆりは困惑しながらも、
「そ、そうですが、私になにか?」
と返す。
「ちょっとお尋ねしたい事がありまして。お知り合いに梓川真奈という女性はいらっしゃいますか?」
「は、はい。真奈は私と同じ大学の友達ですが……」
「その真奈さんですが、市内にある森林公園で、遺体として見つかりまして」
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
真奈が、遺体になって見つかった?
「……あの、遺体ってどういう事でしょうか? 状況が呑み込めないんですが……」
「心中お察ししますが、これは事実なんです。森林公園を散歩していたご年配の方が、首を吊っている真奈さんの腐乱死体を発見しまして。自殺という線で捜査していますが、遺書がないため、他殺という可能性も込みで動いています。それで、こうして真奈さんの知人に話を伺っている次第でして」
「真奈が、死んだ……?」
しかも、首を吊って。
つまりは自殺だ。真奈は、自ら命を絶ったのだ。
「どうして自殺なんて……」
「現在調査中ですが、どうにも首を吊る前に恋人に振られたようで、そのショックで自殺したのではないかと我々は考えています」
「恋人に……」
そういえば、一週間くらい前に彼氏と口論になったと言っていたような気がする。
もしかして、それが原因で彼氏と破局して、それを苦に自殺した……?
だとしたら、自分のせいだ。あの時真奈にお金を貸していれば、彼氏に直接会って仲直りできたかもしれないのに……。
なんてバカな事をしてしまったのだろう。二千円くらい貸してあげればよかったのだ。もしそうしていたら、真奈が死ぬ事もなかったのだ。
距離を置きたいと思っていた女の子ではあるけれど、決して嫌いではなかった。一応友達だとも思っていた。
そんな友人を死なせてしまった。
我が身可愛さに断ってしまったばかりに……。
「ただ、真奈さんの自宅を調べていたら、少し奇妙な点が見つかりまして……」
と、俯いた顔で自分を責めていると、角刈りの刑事がおかしな事を言い始めた。
「奇妙な点……?」
涙目でオウム返しに訊ねてみると、角刈りの刑事は「ええ」と頷いた。
「真奈さんの自宅にある固定電話の発着履歴を確認してみると、三日前にあなたのご自宅に電話されているようなんですが……」
「は、はい。それなら確かに、真奈から電話がありました」
「その時、なにか仰っていましたか?」
「え、ええ。囁くような声で『血をちょうだい』って」
「それはまた、ずいぶんと不気味ですね……」
「まあ、はい。けど、それがなにか?」
「いえ……」
ちゆりの質問に、何故か角刈りの刑事はなぜか言い淀んだ。それも心底不可解そうに。
ややあって、角刈りの刑事は眉をひそめたまま、
「今からおかしな事を言うかもしれませんが、落ち着いて聞いてください」
と言葉を続けた。
「その三日前にあった真奈さんからの電話ですが、どう考えてもおかしいんですよ」
「おかしいって、なにがです?」
「真奈さんの死亡時刻なんですが、五日前の朝九時から正午までの間となっているんです」
言っている意味がわからなかった。
というより、脳が理解を拒否していた。
「えっ……ど、どういう事ですか? だ、だって三日前に真奈から電話があったばかりなんですよ?」
「その詳細を知りたくて、我々もこうしてあなたのところに訪ねてたんですよ。普通に考えて、死者が電話をするなんてありえませんから」
その通りだ。死者から電話なんてあるわけがない。
だとすると、あの時の電話の主は一体だれだったというのか──?
「我々が確認した限りでは、玄関も窓もしっかり施錠されてありました。合鍵はご自宅にあり、だれかに渡した経歴もなさそうでした。また、空き巣などが侵入した痕跡もなく、同居人も確認されておりません。一体だれが真奈さんの自宅からあなたに電話を掛けたのでしょう? まずありえませんが、本当に真奈さんの声だったという事はありませんよね?」
刑事の質問が頭に入ってこない。というより、今は別の事で頭がいっぱいだった。
あの時の声が、真奈だったかどうかは自信はない。ただ同年代くらいの女性だったのは確かだ。
そして、今にして思えば。
あの時、電話の主は『血をちょうだい』と消え入りそうな声で言っていたが。
今にして思えば、本当は『命をちょうだい』と言っていたのではないだろうか──?
それこそ、死人が藁をも縋るような声音で……。
それは西暦1999年──まだガラケーと呼ばれる携帯電話が普及する前の出来事だった。