ヴィジュアル系バンドをやっていた頃の話だ。
今でも活躍しているバンドのローディーをしていた関係で、迷惑がかかるといけないのでわたしたちのバンド名は伏せておく。
メンバーとはもう会うことは出来ないし、この話を他人に話そうとする者もいない。
いや、違うな…あの夜の事を思い出すと笑っちゃうの。
恐すぎて笑うしか無い、みたいな。
だって”俺”以外もう…
メンバーは3人だった。
ギターのヒカル、ベースのユースケ、そしてボーカルのわたし。
小学校の低学年の頃、初めてのクラス替えで知り合った。
きっかけは単純だった。
バンドをやれば目立てる、女にもてる。
そんな安直な理由で集まったわたしたちは、音楽の才能があるわけでもなかったが、とにかく大きな音を鳴らしている時間が好きだった。
そんなわたしたちの練習スタジオは、普通の場所じゃなかった。
ユースケの親父さんが所有しているテナントビルの地下一階。
その一室が長年空きテナントのまま放置されていて、ユースケが「自由に使っていいってさ」と言ってきたのがきっかけだった。
「誰も借りないんだよ。換気も電気もちゃんとしてるし、ちょうど良くね?」
それがすべての始まりだった。
たしかに、最初は快適だった。
夜の飲み屋街にある雑居ビルだったから、どれだけ音を出しても苦情は来ない。
スタジオ代もかからず、機材も置きっぱなしでいい。
金も手間もかからない。
練習が終わればそのまま夜の街へ繰り出せる、
こんな“穴場”があるのかとみんなで笑いあった。
初ライブに向けて一層練習に力が入る。
さっそくドラムセットを組み、アンプを並べ、シールドをつなぎ、音を鳴らした。
照明はやや暗かったが、むしろ雰囲気があった。
壁には古いスナックの名残のような装飾があり、その上に何かで引っかいたような線がいくつも走っていた。
「猫でもいたのか?」
そう冗談を飛ばして笑ったあの日が、今では嘘のようだ。
最初の異変は、ユースケのアンプだった。
彼の使っていた古いベースアンプ。
電源を入れると「ザーッ」というホワイトノイズの中に、微かに別の音が混ざっている気がした。
── あ……い…… ── る………… ── か……
わたしは気のせいだと思おうとした。
けれど、何度聞いても、その「声」はそこにいた。
耳を澄ますと、明らかに人間の声だった。
歌のような…何かを諭すような旋律で。
ユースケは何故かハッとした表情を見せたが、直ぐに元の表情に戻った。
試しにレコーダーで録音してみた。
だが、再生された音には何も入っていなかった。
その場にいるときだけ、アンプを通じて、まるで“空間そのもの”から唄が響いてくる感覚だった。
ライブの当日は曇り空だった。
ライブハウスは雑居ビルの三階。
地下でなくても、ここもまた、狭く湿っていた。
階段を上りきると既に他のバンドメンバーたちが楽屋に詰め込まれていた。
挨拶もそこそこに、わたしたちも小さな楽屋の隅を確保する。
鏡は洗面台にたった一枚。
そこにはヘアメイクをしてる対バンの人、仕方がなく自前の手鏡を取り出してメイクを始める。
「なあ、今日チケットどう?」
ヒカルが眉を描きながら聞いてくる。
「ギリギリノルマは超えたわ」
わたしは黒いドウランを雑に目の回りに引きながら答えた。
10枚売ればノルマクリア、11枚からようやくバックが出る仕組みだ。
呼べた客の殆どは顔見知りばかり。
友達か先輩、元カノのそのまた友達なんかもいた。
ユースケは鏡を一切見ず、淡々と仕上げていく。
そのメイクはちょっとした美容系の女子よりずっと洗練されていた。
「ほんと器用だよなお前」
ヒカルが感心すると、ユースケは小さく笑った。
「まあね」
ユースケは汗で落ちないからと、目の回りをマッキーで塗りだす。
「やっべ、めっちゃ目に染みるっ」
涙でボロボロのファンデーションを見てヒカルが爆笑した
「不器用だったわ、誉めて損した」
相変わらずの関係にわたしたちも自然と笑みがこぼれた。
メイクが終わり、衣装を整える。出番が近づくと、大好きな攻殻機動隊のサントラから選んだSEが流れ出す、すると心臓の鼓動が嫌でも早まった。
ステージに出ると照明が眩しかった。熱気が頬を撫でる。
ざわめきが一瞬静まり、ヒカルが最初のギターの音を響かせた。
歌い始めると、ようやく全身に血液が巡る。
客席の顔ぶれはほぼ予想通りだったが、下手に目をやったとき、初めて見る女がそこにいた。
黒いドレス姿。肌がやけに白く、髪は長く湿って額に張り付いていた。
こちらをじっと見つめ、全く動かない。
曲も激しさを増し、真っ暗なステージ、客席をストロボがチカチカと照らし出す。
頭を激しくふるファン達がまるでコマ送りの様な動きに見えた。
彼女と視線が交差した、その瞬間、彼女の口元がニヤリと動いた気がした。
「……っ」
一瞬、歌詞が途切れそうになった。
なんとか持ち直し、視線を逸らした。
曲が終わる頃には、彼女の姿は見えなくなっていた。
ライブ終了後、客席にいた知人にそれとなく尋ねた。
「あの下手の方にいた女、誰か知ってる?」
「え?誰もいなかったよ?」
妙な沈黙が胸を撫でた。
ユースケを見ると、なぜかぼんやりと遠いところを見つめていた。
「ユースケ、どうかした?」
ユースケはゆっくりと、こちらに視線を戻した。
「いや、なんでもない。いいライブだったな」
微笑んだユースケはまるで水の底からこちらを見ている様な濡れた瞳をしていた。
ライブが終わったあと、打ち上げをするほどの金も元気もなかったわたしたちは、駅前のファミレスに入った。
反省会と銘打って余韻に浸りたかったんだと思う。
だけどユースケはほとんど喋らなかった。
ヒカルが頼んだアイスコーヒーに、ガムシロップを三つ入れ、かき混ぜる前に何かを思い出した。
「……映像、撮れてるよな」
「うん。PA卓の横から、友達に頼んでた」
「見よーぜ、どんな感じだったか」
そう言って、わたしはノートパソコンを取り出した。
テーブルの隅に立て、USBから映像を再生する。
画質は荒いが、ステージはよく映っていた。
ヒカルのギター、ユースケの動き、そしてわたしの歌声。
モニター越しに見ると、不思議と“他人のバンド”みたいだった。
──その時だ。2曲目のサビに差し掛かる頃、違和感に気づく。
下手の隅に、黒い影が映った。 ドレス姿。濡れた髪。
あの女だった。
一切動かず、首だけを少し傾けている。
コマ送りのように激しく揺れる観客たちの間で、彼女だけが完全に静止していた。
「……なあ、これ」
「間違いない。いたよな、やっぱり」
ヒカルが身を乗り出す。
次の瞬間、ストロボがたかれたシーンが再生された。
断続的に照らされる彼女の顔が、ゆっくりとこちらを向きはじめた。
「な……なんで……」
ヒカルの声が震えた。
その視線が──確かに、カメラを見ていた。
いや、違う。 あれは、画面の前にいる、俺たちを見ている。
画面の中と現実の境目が、混ざりあって不意に溶けていく。
わたしは思わず蓋を閉じた。
「……やめとこう。これ以上は見ない方がいい」
しばらく沈黙が続いた。
アイスコーヒーの氷が、パキリと割れた。
その微かな音でわたしたちは現実に戻された。
──ライブ以降、どんどん異変が加速していった。
次のライブに向け地下に潜ったわたしたちは言葉を失った。
ギターの弦、ドラムの皮、マイクのスポンジ。すべてがじっとりと湿っていた。
よく見ると、青緑色のカビが点々と浮かび上がっていた。
とくに、ベースアンプのスピーカー。
通気口から中が見えたが、その紙製のコーンにまで、黒く濡れた斑点がびっしりと。
「除湿器入れてんのに? これ、ヤバくね?」
わたしたちは慌てて機材を拭いた。
除湿器も換気扇もちゃんと稼働していた。
それでも、毎晩置いて帰るたび、翌日にはすべてがカビに包まれていた。
それと並行して、ユースケの様子が変わっていった。
最初はただ、無言でアンプに耳を近づけていた。
練習中にも関わらず、音を出さず、アンプの前に座り込み、何かを聞いていた。
「おい、何してんだよ」
「……唄ってんだよ、この人が」
「誰が?」
「わかんねぇ。でもここにいる。なんか聞いた事ある唄なんだよ」
その日以来、ユースケはベースを弾かなくなった。
アンプの上に手を置き、撫でるように触れ、目を閉じていた。
まるで母に抱かれて甘えているように。
ヒカルは「ふざけてんのか」と怒鳴ったが、ユースケはまったく反応しなかった。
ただ一点を見つめて、微笑んでいた。
そして、あの日が来た。
いつものようにスタジオへ入り、照明をつけた瞬間。
視界が黒く染まった。
ドラムセット、ギターアンプ、マイクスタンド。
すべてが漆黒のカビに覆われていた。
床や天井まで、ねっとりとした黒が這っていた。
機材のつまみには手の形の痕跡があり、誰かが触ったばかりのようだった。
壁の引っかき傷からは、黒い液体のようなものがじわじわと染み出していた。
生臭い、焦げと鉄の混じったような臭いが鼻にまとわりつく。
わたしたちは無言で立ち尽くした。
カビというより、生き物のようだった。
何かに呼応するように、動いて、脈打っているように見えた。
その日を最後に、わたしたちは「地下練」をやめた。
数日後、ユースケが消えた。
携帯も繋がらず、実家にも帰っていなかった。警察に届けが出されたが、行方はつかめなかった。
数週間後、わたしたちは機材の回収のために再び地下へ向う。
あの場所に入るのは最後にしようと、ヒカルと話し、そう決めた。
階段を降りた瞬間、空気が変わった。
湿気と、焦げたような臭い、そして新たに腐敗した布のような匂いが混じっていた。
扉を開けた瞬間、霧のような白いものが部屋中に充ちていた。
照明をつけても、薄暗く濁っていた。
そして、見えた。
霧の向こうに、人影。
見覚えのある黒のドレス。
ドレスは良く見ると煤で黒く染まっているようだった。
髪が長く酷く濡れていて、床まで届き地面に模様を描いている。
ライブに来ていた女だ。
“それ”は、ゆっくりと首をこちらへ向けた。
── くるり、と。
まるで梟のように、不自然な角度で首が傾いた。
左右にカタカタ…カタカタ…と…
「……あ………く……」
口元だけが白く、割れた唇の隙間から泡のようなモノが蠢いていた。
耳ではなく、胸の奥に響くような声だった。
わたしたちは叫び声をあげて、階段を駆け上がった。
振り返りはしなかった。
背後からは、濡れた足音が、髪を引き摺る音が、ゆっくりと、階段をひとつずつ登って来ている…触れられたら帰れない、そんな確信があったからだ。
その後、ユースケの親父に経緯を話すと、申し訳なさそうにこう言った。
「あそこね、昔スナックだったのよ。厨房で火事があって……」
「火事?」
「ママと、従業員と、お客さんが三人。地下だったから煙が充満して、逃げられなかったんだって。」
ユースケの親父はそう言ってふと目を伏せた。
「ユースケには言ってなかったんだけどねぇ…」
その口ぶりから、ユースケの親父さんの口からはそれを言い出せない思いが滲んでいた。
そこまで言って黙った。
沈黙の中それは突然耳に入る。
「本日未明、○○市中央区のビルで火災が発生しました」
火災事故のニュースだった。
「……あっ」
ユースケの親父と、目が合った。
その瞬間、嫌な予感がテレビの画面に形になって現れた。
炎に包まれるあの雑居ビル、地下練の入り口が崩れ落ちる。 テロップには、死亡者の欄にユースケの本名が載っていた。
「ママの所に行っちゃったんだ…」とは言えなかった。
今でも、ふと音を立てると耳元でノイズが混ざることがある。
その中に、微かに聞こえる──湿ったベースの音、そして女の唄う声。
わたしの部屋にまでカビが広がり始めたのは、つい昨日のことだった。
カーテンの裏、ベッドの脚、壁に飾ったのスニーカーにまで青緑の斑点が滲んでいた。
息が詰まるような湿度の中、わたしはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
耳元で唄が聴こえる。 懐かしいような、胸を裂くような唄。
もう、逃げ場なんてない。
「なあ、ユースケ……」
天井の染みを見上げながら、わたしはかすれた声で呼びかけた。
「そっちに──ボーカル、いるじゃんか」
そう呟いたあと、 わたしは足元の椅子を、強く蹴り飛ばした。
気道は細くなり辛うじて吐いた空気はノイズのような音を上げ、空を舞う。
腹の底では何かが脈打つ鼓動を感じた……
ノイズの中、狂い始めたわたしの意識は粘着質の真っ黒なカビに埋もれていった。
ユースケの声はわたしにだけは聞き取れるから
その手はわたしに見えるよう掲げたままで…
わたしは澄んだ空に落ちていった。
「ふぅ……」
全て語り終わるとヒカルは黙ってノートパソコンをそっと閉じた。
最近俺にも聴こえてくるんだよ…
あの自分よがりの糞みたいな子守唄が。