高二の夏休み、俺は一年半ぶりに地元に帰ってきた。
野球部の推薦で寮がある遠方の私立高に進学したは良いが、盆も正月も練習第一という顧問の方針ゆえ、一年の頃は実家に帰る暇がなかった。
所詮は田舎の公立校でちょっと野球が上手かった程度の俺が通用する場所ではなかった。二年になって早々にレギュラーから零れ落ち、俺は二軍以下扱いのC班に入れられた。おかげで練習メニューもだいぶ緩やかになり、久しぶりに帰省できたというわけだ。
中学時代、いつもつるんでいた仲間三人とのLINEグループを久しぶりに開いて、「久しぶりに帰るから遊ぼうや」と連絡を入れた。彼らは揃って地元の高校に進学していた。
三輪と﨑山のふたりからはすぐに返信が来た。とんとん拍子に集まる日取りまで決まったが、もうひとり――田村からの反応がなかった。既読もつかない。本来なら、遊びに誘ったら真っ先に手を挙げてくれるフットワークの軽い奴だったので、「あれ?」と思った。
「田村もこの日来れる?」
ダメ押しにメッセージを入れると、﨑山から電話がかかってきた。
『田村だけど、たぶん来ないと思う』
「どうしたの? 喧嘩でもした?」
『そうだよな、お前知らないよな……田村さ、去年の冬にお母さんが死んじゃってから、塞ぎ込んで学校にも来てないんだよ』
﨑山に言われて言葉を失った。
驚いた。田村のお母さんには俺も世話になっていたんだ。
我が家は車を持っていなかったので、小学校の頃には野球少年団の遠征の時など、田村のお母さんが運転する車で一緒に送り迎えしてもらっていた。帰りに「親御さんには内緒ね」と言って、ファミレスに寄ってパフェなんかをご馳走してくれるのが楽しみだった。
買い物帰りに信号無視のトラックに撥ねられたという。
『最初は俺と三輪も色々声かけたりとかしたんだけど、本人の気持ちの問題だからしばらく放っておこうってことになったんだ。だから多分――』
「そうだったんだ、了解。ありがとな」
俺はそっと、「田村もこの日来れる?」のメッセージを取り消した。
三人で馴染みのカラオケ屋で歌ってゲーセンを冷やかして、あの頃の放課後の拡大版のような時間を過ごした後で、言い出したのは三輪だった。
「ねえ、『赤い家』を見に行ってみない?」
その名前が出てくるとは思わなかったので、俺は﨑山と顔を見合わせた。
「赤い家」というのは、神社の裏の森にポツンと一軒建っている廃屋の通称だ。名前の通り、外壁が真っ赤に塗られているからそう呼ばれている。
小学六年の時だった。当時、学校で「赤い家は呪われている」という噂がささやかれていた。赤い家に行って玄関をノックすると、何か恐ろしいことが起こるのだという。あまりに具体性のない話だが、みんな本気で怯えていた。
あの時「行ってみよう」と言い出したのは、確か田村だったように思う。
﨑山が、買ってもらったばかりのスマホで動画を撮ってくれて、みんな突撃系YouTuberのようなノリだった。
そんな中、家の前まで来ておどけた調子でドアを叩こうとした田村を、三輪が急に真っ青になって止めたのだ。
「やっぱりやめようよ。なんかおかしいよこの家」
元々、ホラーや怖い話の類が苦手な三輪だけは来るのを渋っていたのだが、「やっぱり一人だけ除け者は寂しいよ」と言ってついてきたのだった。
みんな押し黙った。水を差されて白けたというより、三輪の声と表情にただならぬものを感じ、そこで初めて怖くなった。
「……まぁ、どうせこんなの嘘だしな!」
気圧された様子の﨑山が、そうとりなすように笑って見せて……俺たちはそのまま、何もせずに帰った。
「赤い家に行ってくる」と粋がって宣言してしまっていたので、翌朝、みんなから質問攻めにあった。直前になってやめたというのが恥ずかしくて「ノックしたけど、何もなかったよ」と四人で嘘をついた。
「――あの時、みんなのことを止めたのを結構ずっと後悔しててさ」
三輪が言う。
「なんか急にめちゃくちゃ怖くなったんだ。でも、なんでそんな気持ちになったのかも分からなくて……クラスのみんなに嘘をついたことも、僕のせいでみんなに嘘をつかせたことも、ずっと心のどこかに引っかかっててさ」
「なんだよそれ」
﨑山が笑いだす。俺も正直、呆気に取られてしまった。
「お前、そんなこと気にしてたのかよ」
「分かったよ。じゃあ、せっかく集まったんだしリベンジに行こうぜ」
まだ日没には時間があるのに、背の高い落葉樹が鬱蒼と茂った森は既に宵のように薄暗かった。左右に黄色いロープが渡してあるだけの遊歩道はほとんど獣道で、普段の往来の少なさを感じさせた。確かに俺だって、ここに来たのは小六のあの日以来だ。
「ここってさ、小高い丘になってるだろ」
不意に、先を行く﨑山が言う。
「なんか親父が言ってたんだけどさ、古墳なんだって」
初めて聞く話だった。俺がそれに応えて、
「へえ。そんなところに家建てるなんて、『赤い家』の持ち主って何者だったんだろうな」
「なんかの儀式に使う場所だったりするのかもな」
三輪も頷く。
「赤く塗ってあるっていうのも魔除けとか、おまじないっぽいもんね」
三人でそんなことを話しているうちに視界がひらけ、目の前に赤い家が現れた。平屋建ての、板壁が真っ赤に塗られている以外は造りに変わったところはない、ただの日本家屋だ。
「赤くなかったら本当、普通の家って感じだよな」
家を見回して呟くようにそう言ってから、﨑山はふと気づいたように俺たちを振り返った。
「……なぁ、こんなに赤かったっけ?」
「僕も思った」
三輪が頬を掻く。「前来たときは、もっと褪せてた気がする。こんなに鮮やかな赤じゃなかった。記憶違いじゃなかったんだ」
ふたりの視線が俺に向く。いまいち覚えていなかったので首を傾げてみせた。
しかし確かに言われてみれば、家は妙に真新しい。
待てよ。誰かから聞いた気がする。赤い家が赤いのは――
「ってことはさ」
﨑山の声が俺の思考を寸断した。
「リフォームされてるってことだろ。人が住んでんだよここ」
廃屋だというのがそもそも間違っていたということか。噂の帰結としてはありそうな話だ。
「中にいるのかな? なんで赤く塗ってるのか住人に聞いてみようぜ」
﨑山が家の方に歩きだしたので、俺は慌てた。
「おい、他人様に迷惑かけんなって」
「だってよ、ドアをノックするまでやんなきゃリベンジじゃないだろ?」
振り向いて﨑山は悪戯っぽく笑い、玄関を叩いた。
――がちゃ。
ドアが開いた。
俺たちは絶句した。
家から出てきたのは田村だった。
田村は薄く微笑んだ。
「ああ、来てくれたんだ」
「……お前、なんでここにいるんだよ?」
目を丸くした﨑山が、かろうじて訊ねる。田村は首をひねって、
「なんで、って。だってここは俺の家じゃないか」
なんでもないように言う。
俺は三輪と目配せし合った。田村の家は、駅前のマンションのはずだ。
ドアを開け放し、田村は﨑山の腕を掴んで楽しげに言った。
「さぁ、入ってよ。来るのを待ってたんだから」
﨑山が手を引かれて中に連れられて行ってしまい、俺たちもそれを追うしかなかった。
玄関の向こうは真っ暗だった。三和土を上がった先、一メートルも見通せないような深い闇が落ちた廊下を、白く浮かんだ﨑山のTシャツの背中だけを頼りに進む。
「なんで電気つけてないんだ?」
暗闇の中の田村に向かって訊ねたが、返事はなかった。
「おい田村、お前いつからここに住んでんだよ?」
「三月だったかなぁ。それからずっとここにいるよぉ」
今度は答えてくれたが、声が浴室の中みたいにやけに反響して聞こえる。
長い廊下の突き当たり、急な階段を上って二階に出る。
その部屋に入った途端、俺は思わず声を漏らした。
「――懐かしいな」
窓から西日が差し込むそこは、放課後、漫画やゲーム機を持ち込んでみんなの溜まり場にしていた田村の部屋そのままだった。部屋を見渡す。勉強机。テレビ。ベッド。本棚。床に敷かれたカーペットまで同じだ。
それまでこの家と田村に感じていた緊張が、一気に緩んだ。
﨑山はベッドの上に、俺と三輪はそれと相対して床の座布団に。あの頃の定位置に、みんな言葉もなく収まった。俺は訊ねた。
「全部そのまま引っ越し先にも持ってきたんだな」
すると田村は片隅に立ったまま真顔で、
「引っ越しなんてしてないよ? だってここはずっと俺の部屋じゃないか」
また妙になことを言っている。聞き返そうとした時だった。
ドアが開いて、田村のお母さんが入ってきた。
「今日は寒いからココアにしてみたの。良かったら飲んでね」
中学の頃の思い出そのままの優しい笑顔で、田村のお母さんは勉強机にお盆を置いた。
寒いからココア? 八月だぞ? いや、その前に――
「きょうはさむいからここあにしてみたの。よかったらのんでね。きょうはさむいからここあにしてみたのよかったらのんでね」
同じ言葉を何度も繰り返しながら、そいつは部屋を出て行った。
盆の上にはマグカップがふたつ載っていて、どちらも空っぽで何も入っていなかった。
「……なぁ﨑山」
俺は、真っ青になっている﨑山に視線を向けた。彼は目を伏せた。
「俺たちは葬式にも出てる。遺体も見たよ」
「じゃあ今のはなんだよ!」
思わず叫んでしまった。そして気づいた。田村が居なくなっていた。
狼狽する俺の背後で、今度は三輪が声を震わせた。
「ねえ、おかしいよこの部屋。……なんで夕陽が見えるんだよ」
あ……。絶句した。三輪の言うとおりだ。
あんなに木々が生い茂った森の中に立つ家に、室内を照らすほどの陽光が入ってくるものだろうか?
俺は窓辺に駆け寄って――外の景色を「見下ろした」。
駅前の本通り。まばらな人影。車の往来。それは間違いなく田村のマンション、六階のあいつの部屋からの眺めだった。俺はへたり込んだ。
そして、もっと根源的なことにやっと思い至った。
なんで気づかなかったんだ。
この家、平屋のはずだ。外から見た時、二階なんてなかった。
じゃあこの部屋は、なんなんだ?
「あ……ああっ……!」
悲鳴を上げ、三輪が出て行った。乱暴にドアが閉められる。
「おい三輪っ!」
止める間もなかった。﨑山がよろよろと立ち上がる。
「なんで廊下を真っ暗だったのか、やっと分かった。気づかれたくなかったんだ」
﨑山のその言葉を掻き消すように、ドアが乱暴に叩かれた。
どん、
どんどんどんどんどんっ
「ねえ、こっちにおいでよ」
田村の声だった。
ドアは壊れそうな勢いで叩かれ続けているのに、彼の声は妙に穏やかだった。
「早くおいでよ。待ってたんだからさ」
逃げようにも、この部屋に他に出口はない。窓から飛び降りる勇気もなかった。
舌打ちして、﨑山がドアを開ける。それを止めようとして立ち上がり――ドアの向こうが目に入った。
階段も廊下もなくなっていた。
そこは真っ白な灯りに煌々と照らされた、畳敷きの部屋だった。
「さあ、おそうしきをしよう」
天井から先が輪になったロープが二本、並んで吊り下げられていた。
その横に田村が立って、ニコニコ笑っている。
さっき﨑山が言いかけた言葉の意味に気づいた。
田村の足元には影がなかった。
「なんなんだよ……」
俺は思わず呻いた。
「おい」
﨑山が田村を見据えた。目に涙を浮かべていた。
「三月からここに居るって言ってたな。そういや、俺たちからの連絡に返さなくなったのもその頃だったよな。……お前、もう死んでるんだろ?」
ククククッ、と田村は押し殺したような笑い声を漏らした。背中が小刻みに揺れている。
思い出した。赤い家の噂。
赤い家が赤いのは、人の血を吸うから。人が死んだ数だけ家は赤くなる。
﨑山はロープを見上げ、吐き捨てるように言った。
「お前とお母さんの分か? ふたりで良いなら、コイツは要らないだろ。 なあ?」
俺の方を顎でしゃくる。
田村は爆笑していた。下卑た、引き攣ったような馬鹿笑い。
ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ
﨑山がこちらを振り返った。やるせない笑みを浮かべて、彼は俺を思い切り突き飛ばした。目の前が真っ暗になった。
気がつくと、俺は背の高い雑草が茂る中に横たわっていた。
身を起こすと、そこは赤い家の前だった。
壁は褪せてほとんど薄茶色になっていた。ドアと窓には板が打ち付けられ、全体が歪んで傾いている。
こんなところに人が住んでいるはずがない。
周囲を見回すが、﨑山も三輪もいなかった。
ズボンの中でスマホのバイブを感じ、取り出した。母親からの着信だった。
『やっとつながった。ねえ、三輪くんって今日アンタたちと遊んでたんじゃなかったの?』
母はひどく動揺した様子だった。三輪の名前が出たことに俺は驚いた。
「……三輪が、どうかしたの?」
『飛び降り自殺したって言うのよ! 今、三輪くんのお母さんから電話もらって。三人で遊びに行くって言ってたのに、田村くん? 別の友達のマンションから飛び降りたって言うから、もう何が何だか分からないって……』
俺は電話を切って駆けだした。
今すぐここから離れなければならないと思った。
もつれる足を、後ろから誰かが掴んだ。
「やっぱり一人だけ除け者は寂しいよな?」