「画家にとって1番大切なものは、描いた絵から声が聴こえるかどうかだ。
お前の絵は悪くないが、まだまだ生きた絵とは言えんな」
若き日に師匠に言われた言葉を今でも思い出す。
ものに魂が宿るとか作品に命を吹き込むとか、そんなオカルティックな事をあの頃の俺は全く信じていなかった。
ただかむしゃらに、ひたむきに作品に向き合い続けていれば、いつか師匠のような絵描きになれると信じていたから。
でも、今ならわかる。
あの強烈で甘美な瞬間に立ち会ってしまったら、忘れる事なんてできなかった。
だから俺は描き続けるんだ。
生きた絵をもう一度描く為に。
葬儀を終え帰宅した俺は喪服を脱ぎ、固まった体を伸ばす。
いつもの部屋着に着替えて廊下へ出ると、妻の理恵が喪服のまま玄関で座り込んで泣いていた。
その腕の中には、息子の遺骨が抱かれている。
そう言えば葬儀の間もずっと泣きっぱなしだったなと思いながら、妻にに近付きそっと肩に手をやる。
「お疲れ様、君も疲れたろ。
とりあえずお風呂の用意をするから、喪服が皺にならないように着替えておいで」
そう言うと妻は泣くのをやめ、少し蔑むような視線で俺を見つめたあと2階へ上がって行った。
どうやら慰め方を間違ってしまったようだ。
俺は薄情な人間なんだろうか?
1人息子の翔を交通事故で亡くしたばかりだと言うのに、妻のように泣く事はできなかった。
悲しく無いわけはないし、もちろん一般的な子供への愛情は持っていた。
しかし葬儀の手配やらで俺まで塞ぎ込んでいるわけにはいかなかったし、何より師匠に同行して世界中を飛び回っていたので息子が亡くなったと言う現実に気持ちが追い付いていなかったんだと思う。
そのため妻からの連絡で翔が亡くなったと聞かされ、急いで帰国した時から妻とはどこか温度差があったような気がする。
きっと妻は一緒に泣いて欲しかったのかもしれない。
そんな事を考えていると2階から遺骨を抱いた妻が降りてきた。
うちには生憎仏壇がないので、とりあえずリビングに安置する。
これから辛い時期が続くと思うが、しばらくは日本に留まり2人で乗り越えて行こうと考えながら手を合わせた。
「そうか、奥さんはだいぶ塞ぎ込んでしまっているようだね。
こちらの事はいいから、君も今まで側にいてあげられなかった分彼女を支える事だけを考えてあげなさい」
憔悴している妻の様子を見てしばらく家にいたいと師匠に電話で伝え、快く承諾してもらった。
自分の作品を描きつつ、海外にアトリエを持つ師匠に師事する為あまり家に帰れなかった事もあり、今くらいは妻を側で支えてあげたいと思った。
今まで任せきりだった家の事をなんとかこなしていくが葬儀の後も妻に生気が戻る事はなく、息子の遺骨を眺めて1日を過ごす事がほとんどになっていた。
俺が家にいなかった寂しさからか翔への愛情は相当深かったらしく、49日法要の時にも遺骨を抱き締めながら泣き喚いて納骨する事ができない程だった。
それからも妻はどんどん元気がなくなり、塞ぎ込むようになっていった。
最初の頃は食べてくれていた食事にもほとんど手をつけなくなり、遺骨の側で翔の書いた作文や小学校で作った工作、写真なんかを眺めては涙を流す日々を過ごしていた。
さすがにこのままではまずいと思ったが、出来うる事は全てやっているつもりの俺にこれ以上してあげられる事はなく、俺の方も疲れ切ってしまっていた。
そんな時、困りきった俺の元へ師匠からの連絡が入った。
情けないがどうしたらいいかわからないと弱音を吐く俺に、師匠はやれやれと言う感じで答えてくれた。
「出来ることは全てやっていると言ったが、君だけに出来る事はやったのかい?
君が奥さんの為にしてあげられる事は、面倒を見て一緒に悲しむ事だけじゃないはずだよ」
俺がいまいちピンと来ないでいると、さらに呆れたように師匠は続ける。
「君は絵描きだろう。
写真やお子さんの思い出が残った物に縋る奥さんに、今こそ生きた息子さんの絵を描いてあげる時なんじゃないのか?
私自身も私の知る沢山の人たちも、絵によって救われた事がある。
奥さんの為、君の息子さんへの愛を込めて本当の絵を描く時なんじゃないか?」
そんな事は思いもしなかった。
そもそも俺は絵にそう言う事を求めた事がなかったし、師匠の言葉も信じていなかったから。
それでもこれ以上妻にしてあげられる事が思いつかなかった俺は、人生で初めて亡くなった人間の絵を描く事を決めた。
妻を1人家に残すのは少し心配だったが、家から出たりする事もなかったので家事を一通りこなした後に午前中と午後の2、3時間くらいずつ、家から20分くらいの場所にあるアトリエで絵を描き始めた。
思えばモデルのない絵を描くのは初めての事だったが、目を閉じると翔の姿が沢山浮かんで来る。
あまり長い時間を一緒に過ごせた訳じゃないが、共に過ごした時間は俺にとってもかけがえのない時間だったと再確認した。
今更ながらもっと一緒にいてやりたかっと思うと自然と涙が溢れ、俺の筆は勝手に動いていた。
妻の様子を見ながら、しかも慣れない作業に思ったより時間がかかってしまったが、描き始めて2週間が過ぎた頃ついに絵は完成した。
俺の記憶の最後に残る、飛行機に乗り込む俺に手を振る翔の姿。
5歳で亡くなった翔は腰から上、ほぼ原寸大で15号のキャンバスに収まり、眩しい笑顔で手を上げている。
翔が、ここにいる。
今まで沢山の絵を描いてきたが、こんな感情に包まれるのは初めてだった。
師匠の言うように声がするなんて事はなかったが、俺の翔への想いは間違いなく、溢れんばかりに詰まっていると感じた。
さっそく絵を持って帰り、妻の待つリビングへ急ぐ。
2ヶ月を過ぎても納骨できていない息子の遺骨の前で座り込んでいる妻の肩に手を置きこちらを向かせる。
「翔の絵、描いてみたんだ。
思えば君たち家族を描くのは初めてだったね。
本当は、翔が元気なうちに君と一緒に描いてあげたかった。
本当にごめん。
よかったら受け取ってくれないか」
言いながら俺は泣いていた。
背中に隠していた絵を胸の前に出して見せると、一瞬目を見開いたと思えばみるみるうちに瞳に光が戻り、ポロポロと妻は涙を流した。
余計に悲しませてしまったかと一瞬焦ったが、次の瞬間俺の手から絵を受け取ると愛おしそうに抱き締めた。
「あなた…ありがとう」
ええ、とか、うん、とか、簡単な返事以外の妻の声を久しぶりに聞いた気がする。
それだけで、本当に描いて良かったと思えた。
絵によって人の心が救われる。
師匠の言っていた事が少しだけわかった気がした。
絵はリビングのいつでも見られる明るい場所に飾り、2人で翔が帰って来たようだねと話した。
それからは妻が食事を摂るようになり、口数も増え少しずつ日常が戻って来るのを感じて過ごした。
意地でも手放さないと言った様子だった遺骨もしっかり納骨し、晴れて2人で息子の冥福を祈る事もできた。
このまま緩やかに元の生活に戻れるだろう、そう思い始めたある日、食事中に妻が突然変な事を言い出した。
「ねぇあなた、私達だけで食事をしていても寂しいし翔が可哀想だわ。
このダイニングにも、翔の絵を飾ってあげたいの。
大好物のパンケーキを食べている絵を描いてくれないかしら」
正直ここからでもリビングの絵は見えるし絵と一緒に食事?とも思ったが、せっかく元気になりつつある妻に余計な事を言えずに俺は快諾した。
妻が食事の準備や家事を出来るようになり絵に向き合う時間が増えた為、2枚目の絵は1週間で完成した。
食卓につき、大きな口を開けてパンケーキを頬張る翔。
さっそく絵を持ち帰ると、妻は目を輝かせながらなんとダイニングテーブルの翔の席だった椅子にその絵を立て掛けた。
「これでこれからは毎日3人で食事できるわね!」
妻はうっとりとした表情で絵を見つめながらそう言った。
この頃から妻が少しずつおかしくなっていくのを感じていたが、1人息子の死から立ち直り嬉しそうにしている妻を見て俺は何も言えなかった。
「寝室に眠っている翔の絵が欲しいの」
「浴室に目を瞑ってシャンプーしている翔の絵を飾りたいわ」
「トイレに1人で用を足している翔の絵が欲しいわ。
あの子は怖がりだったけど、最近は夜でも1人でトイレに行けていたのよ」
妻が願うたびに俺は絵を描き続けた。
それは妻の望み通りの場所にかけられ、気がつけば家中どこにいても翔の絵がある状況になっていた。
はっきり言って、異常だ。
妻は明らかに精神を病んでしまっている。
気がつくと俺と話す時間より、絵の中の翔に話しかける時間の方が増えて来ていた。
それでも俺は、描くのをやめなかった。
俺の絵で1人の人間の心が満たされている。
絵描きとして最高の勲章のように感じていたのかもしれない。
そんなある日、階段を上がる翔の絵を書き上げた俺が家の駐車場に車を停めると、隣の奥さんが近づいて来た。
昔から面識のある隣のおばちゃんって感じのガサツな人だが、何やら顔を顰めて言いづらそうにこう言った。
「こんな事言いたくないんだけど、奥さん大丈夫?
さっき玄関を掃き掃除しているのを久しぶりに見かけたから話しかけたの。
落ち込んでいるかと思ったんだけど意外と元気そうで、よかったと思ったんだけど…
なんだか気味の悪いことを言ってたのよ」
俺がなんて言ったんですか?と促すと、隣の奥さんは俺の耳に近づきこう言った。
「翔くんが、帰って来たって言うよの。
これからはずっと一緒だって。
言いづらいんだけど、その…
奥さん、大丈夫なの?」
それだけ言うとそそくさと自分の家に入ってしまった。
それと入れ違いに妻が玄関から顔を出し、俺の持つ絵を見て目を輝かせた。
「新しい絵、出来上がったのね!
さっそく階段に飾りましょうね!」
そう言って強引に俺の手から絵を奪うと、俺には目もくれず家の中へ戻って行った。
ここまできて初めて、俺は事態の深刻さに気付いた。
俺の絵で救われていたんじゃない。
俺の絵のせいで、妻は翔を失った現実から逃げていたんだ。
それはもう取り返しのつかないところまで来てしまっているのかもしれない。
だからと言って、妻をこのままほっておく訳にはいかない。
俺は、再び妻から息子を奪わなければならなくなってしまっていた。
1度認めてしまうと、全てが異常だったと思えて来る。
食卓につく絵画も、寝室眠る絵画も、それらに話しかける妻も。
なぜ俺はこの現実から目を背けていたんだろう。
こんな事をしていて、妻が元の生活に戻れる訳ないのはわかってたはずなのに。
きっと、俺には聞こえない翔の声が妻には聞こえていたのかもしれない。
それを今の妻から取り上げる事でどうなるかは想像に容易いが、それでも妻を、そして翔のためにも絵は全て処分する事にした。
深夜、妻が眠ったのを確認してから家中の絵を外し、静かに外へ運び出した。
自宅の車を使うと起こしてしまうと思い、昼間のうちに借りて近くのコインパーキングに停めておいたレンタカーへ向かった。
かなりの重さだしかなり嵩張る。
時間帯も相まって、誰かに見つかれば泥棒と勘違いされしまうんじゃないかと思いながらも急いでレンタカーへ乗り込みアトリエへ向かう。
俺のアトリエは住宅街から少し離れた近くの山に少し入った所にあり、周りには民家もない。
そして建物周辺は切り開かれていて、建物自体もかなり小さい為ここが不審火にあっても周りの木々に燃え移る心配はないだろう。
この数ヶ月の翔への想いが、ここには詰まっている。
妻を惹きつけて縛り付けてしまっているものが絵にこめてしまった俺の念のようなものだとしたら、この場所も一緒に処分しなくてはいけない。
中に入りいつも絵を描いていた場所に立つ。
目を閉じると、この数ヶ月間の事に思いを巡らせる。
思えばモデルのない絵を何枚もスラスラ描けていたのも、何か不思議な力によって描かされていたんじゃないかと思った。
俺にとっても妻にとっても、翔の絵は特別な意味があった。
だけど、それじゃいつまでも前に進めない。
俺は覚悟を決め、床に置いた絵に灯油をかけて火をつけた。
外へ出ると、火は一気に燃え広がりアトリエ全体を包んでいた。
俺はしばらく放心状態で立ち昇る煙を見上げていた。
「何してるの…」
何分経った頃だろうか。
驚いて振り返ると、妻が立っていた。
どうやら絵が外され俺がいない事に気付き、車でここまで来たようだ。
「翔はどこ…?」
妻は、もう「絵」とは言わなかった。
そしてその手には包丁が握られており、血走った目でじりじりと俺に近付いて来る。
「理恵、あれはただの絵だ。
翔はもういないんだよ!」
妻を傷つけないように溜め込んでいた言葉が溢れた。
辛いのは俺も同じだ。
一緒に乗り越えて行きたいから、あんな物に縋っていてはダメだとわかって欲しかった。
しかし妻の目にはさらにはっきりとした憎悪が宿り、俺を睨みつけてくる。
「あの中に翔がいるのね。
あなた、自分の息子の声も聞こえないのね。
もういいわ、どいてちょうだい」
「理恵…」
俺は両手を広げて理恵を抱き締めようとした。
「どいてよ!」
腹部に痛みが走る。
熱い。
すぐに立っていられなくなり、妻の足元に倒れ込んだ。
「今、助けるからね、翔…」
包丁を地面に落とし、俺には目もくれずに燃え盛る建物へと入っていく。
あの中に入ってしまったら、妻は助からないだろう。
もう体に力が入らない。
俺は妻を救えなかった。
悔しくて情けなくて、でも叫ぶ事もできずにみっともなく涙を流していると、崩れゆくアトリエの中から確かに聞こえた。
「パパ!ママ!
あついよ!たすけて!
ぼくはもう、死にたくないよ!」
数ヶ月ぶりに聞く、翔の声だった。
目が覚めると病院のベッドの上だった。
起きあがろうとするが腹が痛む。
なんとかナースコールを押すとすぐに医師や看護師が様子を見に来てくれた。
妻に刺された傷は思ったより深かったようで、退院までには数週間かかったが命に別状はなかった。
妻は、やはり助からなかった。
事件としては、精神を病んだ妻が夫と無理心中を図ったとして片付けられた。
医師や警察からその話を聞いた時、
俺は涙が止まらなかった。
誰もが俺に同情し、慰めの言葉をかけてくれたがそんなものは的違いだった。
俺は、喜びに打ち震えていた。
あの時、間違いなく俺にも声が聞こえた。
俺の描いた絵は生きていたんだ。
あれを体感してしまったら、俺はもう普通の絵を描く事なんか到底できなくなっていた。
あれから数十年経つが、俺は今でも描き続けている。
穏やかな笑顔の、母子の姿を。
しかし、何枚描いても絵の中から2人の声が聞こえることはなかった。
だから俺は描き続ける。
何枚も、何十枚も、何百枚も、あの「生きた絵」が描けるその時まで。
それが、俺の画家としての矜持だ。