その夜、受付を担当していたのは店長のカズだった。
リクエストは「ミサキちゃん、できれば長めで」「ホテルじゃなくて、ウチ」──それだけで、客の名前は名乗らなかったという。
「なんかさ……声が変だったんだよ。えらい低くて、でも猫なで声っつーか……ちょっと妙に甘えてくる感じ」
電話を切った後、カズはいつもより数秒長く沈黙して、それからボールペンをくるくる回しながら「ミサキでいいか?」と小声で言った。
新人じゃ無理だと判断したのかもしれない。
その判断は、後になって“正解だったのか、最悪だったのか”わからなくなるのだけれど。
店の控室では、ミサキが缶コーヒーを開けたところだった。
白いタイトワンピに身を包み、片耳にだけピアスをしている。指先は小さく揃えられたジェルネイル。どこか隙のない風貌で、どんな客にもそつなく対応する──そう思われていた。
カズが「指名入った」と伝えると、ミサキはすぐに立ち上がった。
ただ、彼女の顔がピクリと動いたのを、見逃した者が一人いた。
「え、本指?」
声に微かなひっかかりがあった。
「本指名って言ってたけど……記録にはねえな」
カズは予約台帳を確認しながら首を傾げる。過去に同じ電話番号からの履歴もなかった。
「どんな客だった?」とミサキ。
「いや、なんか……“前の時と同じワンピで来てね”って言ってたよ。あと、送迎の車、ナビ使わないでって」
その瞬間、ミサキの手が止まった。
ふと視線が揺れる。その目線の先で、自分の胸元にかかっている“例のワンピース”が、小さく皺を作っていた。
「……まあ、いるんだよな。覚えてる風で全然記録に残ってないやつ。脳内指名っつーか」
カズが笑って言ったが、ミサキは黙ったままだった。
──ナビを使わずに?
変な注文だったが、変な客は慣れっこだ。今さら驚くことでもない。
ただ、ミサキの態度がいつもと違っていた。
車に向かうまでの数分、彼女はひとことも言葉を発さず、コートのボタンをひとつ、またひとつと止めるたび、どこか“音を聞いている”ような顔をしていた。
では続けて──
運転手のサトルは、夜の送迎には慣れていた。
風俗店のドライバーという仕事柄、変な場所へ行くことも多いし、ヤバい客と鉢合わせることもある。けれどその夜は、出発前から違和感があった。
「ナビ使うなって? なんでまた……」
独りごちながら車を出すと、後部座席のミサキが短く答えた。
「その人が、そう言ってたから」
ただそれだけ。
バックミラーに映るミサキの横顔は、冷めた水みたいだった。夜景も信号も何も映ってない目。あの子、あんな目してたっけ──とサトルは思った。
住所は一応聞いていた。都内ではあるが、なぜか“丁目”や“番地”の表記が異様に曖昧だった。
「◯◯区の、あの“線路の下をくぐる道”の先にある、平屋のアパート」
それしか情報はない。カズが電話口で何度か確認したが、客は曖昧に笑いながら「来たらわかるって」「ミサキちゃんなら絶対わかるから」と繰り返しただけだった。
「──どこ曲がる? ミサキちゃん」
サトルが訊くと、後ろからぽつんと返ってくる。
「次の信号、左。……そのあと、また左」
その通りに進むと、来た道に戻っていた。
「あれ、今の……」
運転手は眉をひそめたが、ミサキは何も言わなかった。
同じ場所を3周、正確に回った。
そのたびに自販機の前にいる猫が、じっと車を見ていた。最初は白かった猫が、2周目には黒くなっていた。3周目には……もういなかった。
「もう一回左、で、線路の下……」
ミサキの声に逆らうことはできなかった。なぜかその声が、カーオーディオのスピーカーから直接鳴っているような気さえして、運転手の背筋がゾッとした。
くぐった先に見えたのは、昭和の団地のような平屋建て。
窓はどれも新聞紙で覆われており、玄関に貼られた表札は墨で塗り潰されている。
──というより、それ、表札じゃない。
近づいて見れば、まるで人間の“爪”のようなものが、ベッタリとコンクリートに打ち込まれていた。複数本。サイズも形もばらばらで、すべて茶色く変色している。
「……ここでいいって、あの人言ってたんです」
ミサキが静かに言って、ドアを開けた。
サトルが止める間もなく、彼女は足早に建物へ向かっていく。
しばらくして、チャイムの音も足音もせずに、ドアがひとりでに開いた。
そこには誰もいないように見えた。
でもミサキは、躊躇なくその“空白”の中へ入っていった。
ミサキが部屋に入ると、そこはまるで“作りかけの空間”だった。
壁紙は中途半端に剥がれ、床には畳の縁だけが残り、押入れだったと思われるスペースはただの穴になっていた。照明は天井から裸電球がひとつぶら下がっているだけ。なのに、不思議と明るく感じた。
──窓がない。
どの面にも、外と繋がる開口部がない。
換気扇も、通風口もない。
けれど息苦しさもない。むしろ“空気が多すぎる”ような妙な感覚があった。
「……いらっしゃい、ミサキちゃん」
声が、奥の部屋から聞こえた。
現れた男は、痩せていて、どこか“中途半端な顔”をしていた。目が笑っていないのに、口だけが妙に緩くて、顎が不自然に尖っている。年齢は40代くらいだろうか。
服は真新しいスーツなのに、靴は裸足だった。爪だけが異様に白く、手指をしきりに動かしている。
「今日も、その服で来てくれて……うれしいよ」
男はにやけながら、ミサキのワンピースに触れようとしたが、彼女はさりげなく避けた。
「今日は……なにを希望ですか?」
彼女の声には、警戒心と同時に、妙な諦めがにじんでいた。
まるで“またこの夢か”とでも言いたげな口ぶりだった。
「ねえ、ミサキちゃん」
男は床にあぐらをかいて、ミサキを横に座らせると、ふいにこう言った。
「指って、何本あるか知ってる?」
「……両手で十本、ですね」
「ほんとに?」
その言葉と同時に、男は自分の指をゆっくりと一本ずつ、数え始めた。
「いーち、にーい、さーん……」
途中で笑いながらやり直す。
「……あれ? また増えたなあ」
「なんで今日は十一本あるんだろ?」
「でも昨日は……八本だったんだよ?」
──頭のおかしい客、珍しくない。
けれどこの男には、何か“抜けた狂気”があった。あまりに自然に狂っていて、演技や薬物の域を超えている。
「ミサキちゃんのも、数えさせてよ」
彼はそう言って、彼女の手を取った。
ごく当たり前の接触に見えたが、ミサキの表情はさっと硬直する。
「……いや、ちょっと待って」
彼女が手を引く前に、男の指が一本、ぬるりと彼女の人差し指をなぞった。
「これ、いい指だね。すごく合ってるよ、ボクの右手と」
そう言いながら、彼は自分の手に何かを“貼りつけるような”動作をした。
ミサキは立ち上がった。
笑顔のままで、静かに深呼吸をして、こう言った。
「延長、できますか?」
男は嬉しそうにうなずいた。
「もちろん。君が終わりたいって言うまで、ずーっと延長だよ」
ーーーー
帰りの車内で、ミサキは無言だった。
送迎のサトルが気を遣って、ラジオを小さく流していたが、それも途中で切った。何か“音を鳴らしちゃいけない空気”が漂っていた。助手席の書類を整えるフリをしながら、バックミラーでそっと彼女の手元を見る。
──あれ?
右手の指が、一本、少ない。
中指と薬指のあいだに、不自然な隙間が空いている。影の具合かと思ったが、角度を変えてもそこだけ“凹んで”見える。
「……ケガでも、した?」
ようやく聞いたその一言に、ミサキは笑いもせず、ただ首を横に振った。
「いえ……もらったんです」
「え?」
「代わりに……あげたんです」
意味がわからなかった。
でもサトルはそれ以上、何も聞けなかった。
店に戻って控室に入ると、ミサキはすぐにコートを脱いだ。
その瞬間、スタッフのひとりが気づく。
「あれ、今日そのワンピだったっけ?」
ワンピースが、少し違っていた。
形は同じだが、生地が明らかに厚く、布地に“刺繍”のようなものが浮いている。
よく見ればそれは、無数の小さな爪の模様だった。
「……ああ、これ、似たやつなんですよ」
ミサキはそう答え、ロッカーに向かう。
でもロッカーの鍵が、開かなかった。
ナンバーは合っているはずなのに、ガチャガチャと何度まわしても反応がない。
そして、扉の上に貼られた名前──“MISAKI”が、
なぜか**“MI××KI”**になっていた。
「字、潰れてますよ」とスタッフが言うと、ミサキはしばらくそれを見つめたあと、ふっと鼻で笑った。
「潰れてるんじゃなくて……忘れられてるんですよ」
その日の夜、ミサキは自宅アパートの風呂場で鏡を見て、初めて気づいた。
自分の手のひらに──“違う指”が混じっている。
右手の小指だけ、爪の形が他の指と違う。
根本が黒ずみ、角度もおかしい。まるで“誰かの指”がそこだけ差し替えられていた。
思わず洗おうとして、ボディソープを何度も泡立てたが、においが消えなかった。
土と汗と、……なにか腐ったような臭いが、指の根元に染みついている。
そして──その指の根本に、細く、白い文字が浮かび上がっていた。
「あげた」
二日後、再び店にあの男からの電話がかかってきた。
受付をしていたのはまたしてもカズだったが、彼は受話器を肩に挟んだまま、険しい表情で黙りこくっていた。その様子に気づいたスタッフが「また変な客っすか」と冗談を飛ばすと、カズは曖昧に頷くだけだった。
「ミサキちゃん……また、来てくれるよね?」
電話の向こうの声は、猫撫で声とも囁き声ともつかない、不快な抑揚でそう言った。
「前よりもずっと良くなってるはずだよ。今度は、君のほうから来なきゃいけない番だよね」
その言葉の意味を、カズは理解できなかった。ただ受話器を置いたあと、なんとも言えない重さのある沈黙が背中に貼りついたような気がした。
呼ばれたミサキは、相変わらず淡々としていた。むしろ前回よりも整った身なりで、ワンピースの襟を丁寧に正しながらロッカーから香水を取り出した。香りはいつものものなのに、なぜか空気がきつく、重く感じられた。
「場所は、また同じとこ?」
送迎の車に乗り込んだとき、サトルが尋ねた。
助手席のカップホルダーには、いつもの缶コーヒー。運転前にひと口すする癖のある彼も、この日は口をつけなかった。
ミサキは静かに首を横に振った。
「今度は……こっちから、向かわなきゃいけない気がするんです」
その一言の意味は、サトルにはよくわからなかった。ただ彼女が、カーナビを遮るようにしてスマホを伏せるのを見て、何も言わず車を出した。
前回のルートは通らなかった。全く違う方向へ、しかもミサキの指示は妙に的確だった。
「そこを左、次の角を右……まっすぐ突き当たりまで行って」
その案内の通りに進んでいくと、車はいつの間にか、人気のない道に入り込んでいた。
街灯はあるのに光が届かず、建物はあるのに窓がない。やけに静かで、タイヤがアスファルトを踏む音だけが耳についた。
そして着いたのは、あの建物があったはずの場所──だった。
だがそこには、なにもなかった。
建物は消えていた。まるで初めから存在していなかったかのように、跡形もなく。
代わりに広がっていたのは、荒れた空き地だった。地面には何かが焼け焦げたような黒いシミと、うっすらと円を描くような“溝”が残されていた。
サトルはブレーキを踏んだまま呆然とした。
「……取り壊された……のか? いや、あんなの、昨日まで……」
言葉に詰まり、後部座席を振り返る。
だがミサキは驚いていなかった。むしろ当然のようにシートベルトを外し、静かに車から降りた。
「ここでいいです。しばらくしたら戻ります」
サトルは呼び止めたかったが、なぜか声が出なかった。喉の奥に詰まったような感覚。彼女の背中が、まるで“別の誰か”のように見えて、思わず息を呑んだ。
ミサキは空き地の中心まで歩き、ぴたりと立ち止まった。
周囲には誰もいないはずだった。けれど彼女は、まるで“何か”がそこにいると知っているように、静かに手を差し出した。
そして、その手の中から──一本の指を、抜くようにして差し出した。
まるで空気の中に“見えない誰かの手”があり、それがそっとその指を受け取ったかのように、空気が凹んだ気がした。
風が止まった。空の音が消えた。あらゆる時間が、数秒だけ歪んだように見えた。
そしてミサキは、静かに車へ戻ってきた。
「……返してもらいました」
そう言って右手を広げる。
サトルは目を凝らした。
確かに彼女の手には──一本、増えている。
ただし、それはどう見ても彼女の指ではなかった。
色が白すぎて、爪の形も尖り気味で、他の指と合っていない。角度もおかしくて、根元にかすかに赤黒い縫い痕のようなものがある。
「それ……自分の?」
サトルが思わずそう訊いたとき、ミサキはほんの少し、笑った。
その笑みは、どこか別人のもののようだった。
「……もう、“自分の”とか、どうでもよくなってきました」
帰社後、控室にいたスタッフが、奇妙なことを言い出した。
「さっきさ、ロッカー前にミサキさんいたでしょ? でもそのあと、洗面台にもいたんだよね」
何人かが「は?」と聞き返す。
「だから、同時に二人いたんだって。どっちも、ミサキさん」
その話を聞いて、カズはふと顔を上げた。
「……片方、髪結んでなかったか?」
「そうそう。で、もう片方は結んでた」
スタッフたちは最初こそ笑っていたが、やがて誰かがこう呟いた。
「でも……どっちも、指の数が合わなかった気がする」
その言葉を受けて、別の者がさらに言う。
「……片方のミサキさん、指が、十二本ありましたよ」
数日後、ミサキは出勤しなかった。
無断欠勤ではなかった。前日に「しばらくお休みをいただきます」とだけLINEが入り、それっきり既読もつかなくなった。カズが電話しても応答はなく、サトルが自宅を見に行ったが、ポストには何日分ものチラシが溜まっていた。
「蒸発したってことかね……」
カズが呟いたとき、控室の空気が一瞬だけ冷えたように感じた。
だがその翌日──
出勤してきた女の子が、恐る恐るこう言い出した。
「……ミサキさん、昨日、店の裏で見ましたよ?」
他にも何人かが「駅前で見かけた」「コンビニで立ち読みしてた」と証言した。髪型も服装も、話し方まで同じ。けれど、決まって誰も“声はかけなかった”と言う。
「なんか……違う感じがして。目が合ったけど、目の奥に“人”がいない感じだった」
そう言って、誰もが口をつぐんだ。
一週間後、店のFAXに一枚の紙が届いた。
手書きの、それも妙に滲んだ筆跡で、こう書かれていた。
『次の指、選んでください。左手が空いています』
差出人の名前はなかった。だが、宛名のところに、小さく“ミサキちゃんへ”と添えられていた。
そして、ある雨の夜。
サトルが最後に彼女を見たのは、配送帰りに通りかかったガード下だった。
夜道の向こう、薄暗い歩道に立っていた人影。
白いワンピース。濡れた髪。傘も差さず、ずっとじっと立っている。
その姿に、なぜか見覚えがあった。
車をゆっくり近づける。
ライトに照らされ、浮かび上がったその顔──間違いなかった。ミサキだった。
だが、サトルは言葉を失った。
彼女の両手が……異常だった。
左右合わせて、指が十七本あった。
しかも一本ずつ、形も色も違う。白い指、赤黒い指、ひび割れた指。誰のものともわからない“寄せ集め”のような指が、手のひらに無理やり詰め込まれていた。
それでも彼女は、穏やかに笑っていた。
まるで、自分の体がどんどん他人になっていくことに、心から満足しているような顔だった。
サトルはその日、家に帰ってから自分の手をまじまじと見つめた。
何度も、何度も数えた。
──一、二、三、四……五……六……?
一度、数が合わなかった。
汗がにじむ手のひらを拭いながら、彼は静かに呟いた。
「……あなた、いま……何本ありますか?」
その声に、後ろから誰かが、囁いた気がした。
「それ、あげたんじゃないですか?」