「巣喰うもの」

投稿者:LSX454vette

 

曇った鏡の向こうで、小さな自分が笑っていた。
幼い私の髪を母が梳いている。
白いプラスチックの櫛が、乱暴に髪を通るたび、私はピクリと肩をすくめた。
だけど、母の手には、容赦という言葉はなかった。
「女の子なんだから、きれいにしておかないと。私の子なんだから、ねえ?」
私はうなずいた。そうしないと、また怒鳴られる。
鏡越しに母の目が合う。
その目は笑っていないのに、口元だけが歪んで引きつったように笑っている。
「お前はね――私の“子宮”から出てきたんだから、私のものなのよ」
母はそう言って、私の頬を優しくなでた。でもその手は、冷たくて、重たかった。
その言葉は、繰り返された。
着替えるとき、寝るとき、髪を切るとき、誰かと話したとき。
「お母さんの“子宮”の中にいたんだから、他の人のものになるわけがない」
「他人になんて、渡さないからね」
心のどこかで、ずっと考えていた。
「私は、この人の“体の一部”としてしか見られていない」
母にとって、私は“所有物”でしかなかったのだと。
――そして、その“支配”は、 大人になっても、 距離を置いても、多く離れた地に逃げても終わらなかった。
 鏡に映る小さな自分が、静かに言った。
「まだ、中にいるよ。お母さんの子宮の中に」
「ねえ、理紗。出たつもりで、出てないのよ」
「またあの夢…」
幼い頃から「お前は私のために産まれた」と呪いのように言い続けてきた母――。
その歪んだ愛情に耐えきれず、成人を機に縁を切り、県外へと逃れた。
逃げたつもりだった…。
カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、天井に小さな揺らぎを映す。その影が、母の青白い手に見えた。
「理紗ちゃん。ちゃんと、見て。忘れないで。ここにいるから」
かすかに母の声が聞こえた気がした。
俊明と出会ったのは春先のまだ空気が冷たい三月だった。
母から逃げるように選んだ場所。知り合いもいない、完全な“ひとりの始まり”。
その日、粗大ゴミを出しに出た。
段ボール箱に詰めた、古びた電気ストーブ。
母が買い与えた、無機質な暖房器具。なぜこんなものを持ってきたのか、自分でもよくわかない。
「あ、それ重そうだね。持ちますよ」
突然、声をかけられ驚いて振り返る。
顔を上げると、春色のシャツを着た男性がいた。
穏やかな目元。整っているけれど、どこか人懐こい笑み。
「あの、同じアパートの者です。佐藤俊明といいます。引っ越してきたばかりで」
言葉の調子も、笑顔もやわらかかった。
私は慣れない笑顔を作り、
「……理紗です。あの、すみません」
俊明は、段ボールを軽々と持ち上げ、そのまま収集所まで一緒に歩いてくれた。
途中、何気なく彼は言った。「今日、すごく空気が軽く感じるんです。何か、いいことが始まる気がして」
私は言葉を返せなかった。
でも、胸の奥で何かが、静かに“ほぐれていく”のを感じていた。
その夜は母の夢を見なかった。
いつもなら、母が怒り、嘲り、まとわりつく夢。
目を覚ました瞬間、ふと思った。
「俊明さんに会ったから?」
「……いや、違う。あの人のそばには、母の影が入り込めないんだ――」
私と対照的に人懐っこい俊明の性格もあり、私たちの距離は一気に縮んだ。
「引っ越し祝いをしませんか?あ、いや、変な意味じゃなくて」
慌てる俊明の姿を見て、思わず吹き出した。こんな風に笑ったのは記憶にないほど心から笑った。
引っ越し祝いのポートワインとピザを手に高鳴る鼓動を抑えながら、俊明の部屋のインターホンを鳴らす。
笑顔で出迎えてくれた俊明の顔を見て、なぜかほっとした。
「すごい……匂いがしない」
「……匂い?」
「実家はずっと、薬品と線香と……あと、煮詰まったような女性の、母の匂いがしてたの」
俊明は笑わず、ただ頷いてキッチンへ向かった。何かを察してくれたようだった。
テーブルの向こうの俊明の笑顔を見て、私の心は満ちていった。
俊明は多くを語らない男だったけど、静かに私の不安を「そのまま」置かせてくれる人だった。
「一緒に暮らした方が家賃が浮く」俊明は照れくさそうに言った。
初めての恋人。初めての同棲。ようやく見つけた私の“居場所“
朝は俊明の方が早い。
彼の寝癖を直してやるのが、密かな楽しみになっていた。
俊明が出勤したあとの部屋で、一人で珈琲を淹れ、静かな音楽を流す。
 ――そのときだけ、自分の人生を「選んだ」と思えた。
ある夜、私の左手を掴みながら、俊明がふと呟いた。
「指輪、似合いそうだなって思ってさ」
私は笑った。「それって、プロポーズ?」
「いや、予告。プロポーズはもうちょっとちゃんとする」
その夜、私は何度もその言葉を思い返しながら眠りに落ちた。
それでも、ふとした瞬間に“あの人”の影は差してくる。
俊明は「疲れてるんだよ」と言ってくれたが、私の胸には小さな棘が残った。
それでも、この部屋でだけは、私は“母”から自由だった。
そして、この平穏が永遠に続くと信じていた。
最初、それをただの「遅れ」だと思っていた。
晴れてバイトからパートになった。忙しかったから、と。
だが、胸の奥の違和感――鈍い圧迫感のようなものは、日に日に膨らんでいった。
夢を見た。
畳の上に母がいた。
黒い喪服姿で、手に白い包みを抱えている。中身は赤子だった。
包みの端から、ぬめっとした臍の緒が垂れていて、私の足首に巻きついている。
母が笑う。
「この子、あなたの中から出てきたのよ」
母の手が包みを開ける。
そこにいたのは、母の顔をした胎児だった。
目覚めた瞬間、自分の腹を押さえていた。
冷たい汗。胸の奥がざわめいている。
その日、産婦人科へ向かった。
無機質な部屋。モニターに映ったものは、確かに“命”の形をしていた。
医師は言った。
「おめでとうございます。妊娠四週目です」
その言葉が、まるで呪いのように響いた。
病院のロビーで、受け取ったエコー写真を凝視した。
そこに映っていたのは、小さな影だった。
けれど――その“影”の中に、何かがある。
顔のようなもの。
目のようなもの。
笑っているような、あまりにも早すぎる“表情”。
「……これ、何?」
看護師は笑顔で
「ああ、それはノイズですよ。心配いりません。
 異常はありませんから」
異常はない。
けれど、知っていた。
これは自分の子じゃない。母が、戻ってきたのだ。
妊娠のことを俊明に話せないまま、数日が経った。
それは雨の朝だった。
梅雨入りを告げる気象予報の声が、テレビの向こうから流れていた。
母と連絡を取らなくなって三年。番号も、変えたはずだった。
けれど、なぜかその電話は私の携帯に直接かかってきた。
“実家”という表示。心臓が一瞬、嫌な跳ね方をした。
通話ボタンを押していないのに通話が始まっていた。
慌てて、スマホに耳を当てると聞き覚えのない男性の声がした。
「……もしもし」
「あなたが、佐々木理紗さんですか」
「こちら、○○警察署です。お母さまの件でご連絡を――」
担当者の言葉は、淡々としていた。
母・美千代が自宅で倒れていたこと。
第一発見者は、民生委員。
死後、一週間が経っていた。
死因は「心不全の可能性が高い」とされたが、
その言葉の背後に、どこか説明しきれない曖昧さが漂っていた。
私は無言で話を聞いた。涙は出なかった。
安堵か、空白か、それすらわからない。
「確認のため一度お越しいただけますか」
「はい」
小さく返事をして、電話を切った。
その夜、夢を見た。
母の顔が、畳の上で静かに横たわっている。
だが、目だけが、カッと開かれていた。
そして、唇が動いた。
「来てくれるのね。うれしいわ。待ってたのよ、ずっと――」
目が覚めると、胸の上に、重たい何かがのしかかっていた。
部屋の空気が、どこか湿っている。
母は死んだ。
でも――どこかで、まだ見ている気がする。
俊明が一緒に行くと言ってくれたが、断った。
俊明を母に関わらせてはいけない。そう、直感が告げていた。
白い蛍光灯が、部屋の隅まで冴え冴えと照らしていた。
ステンレスの台の上に、母は眠っていた。
担当職員が無言で白布をめくる。
その一瞬、目を背けた。見たくなかった。
だが、布の下にあったのは――
あまりに生々しく、そして“母らしすぎる”姿だった。
担当者の声が遠く聞こえた。
「……ご確認をお願いします。間違いありませんか?」
口を開こうとして、うまく声が出なかった。
代わりに、かすかに頷いた。
変わっていなかった。亡くなって一週間というのに、母の顔は生々しく、まるで眠っているようだった。
ふっくらとした頬、軽く開いた口元、かすかに残る口紅。
髪は整えられていない。だが、それがかえって生気を帯びて見える。
瞼は閉じられている――それでも、「私を見ている」と感じた。
そのとき、不意に――
母の口元が、わずかに動いたように見えた。
息を呑んだ。
いや、そんなはずはない。
死んでいるのだ。冷たく、動かないはずの肉体なのだ。
だが――確かに見えた。
唇が、形づくっていた。
「ただいま、って……言って」
心臓が嫌な跳ね方をした。寒気が背筋を這い、胃の奥がざわついた。
この死体は“母”そのものではない。
――本体は、まだどこかにいる。
ここにあるのは、抜け殻。あるいは器。
母の口元が、わずかに笑ったように見えた。
そんなはずはない。
でも、私の脳はその表情の“変化”を確かに知覚してしまった。
耳鳴りがした。低く、ぬるりとした音だった。
その中で、母の声が、どこからともなく響いた。
「これで、やっとあなたの中に入れるわ」
「大丈夫ですか?」
 係員の声に私はハッとして、わずかに頷いた。

 布がかけ直され、
 母の顔が、再び白い布の下へと消えていくその瞬間――
 確かに見た。
 母の胸元が、ゆっくりと、ふくらんで沈んだ。
「吸った。……息を、吸った」
背筋をつたう寒気は、皮膚の奥にまで入り込んできた。
背を向け、何も言わずにその場を離れた。
安置室のドアが閉まる音が、墓の蓋が閉じる音のように私の脳内に響いた。
雨上がりの空気はじっとりとまとわりつき、火葬場の庭に立つ参列者たちの顔を、うすく濡らしていた。
母の葬儀に集まったのは、わずか十人ほど。
火葬炉の前で、職員が合掌を促す。
目を閉じようとしたその時だった。
棺の中の母の顔――ほんの一瞬、瞼がかすかに開いたように見えた。
「……お別れのお時間です」
係員の声が遠く、うわずっていた。
遺体の焼却が始まり、
火葬炉の扉が閉まる瞬間、
真っ赤な何かが私の方へ向かってくるように見えた。
――目だった。
焼かれてゆくはずの母の目が、最後の最後まで、私を見ていた。
かすかに耳に、聞こえた。
「中に入れてくれて、ありがとう。これでもう、離れないわ」
 炉の扉が完全に閉まり、火が入る。
 参列者の一人、見知らぬ老婆が、小声でこう言ったのを確かに聞いた。
「あの人、死んだふりだったのよ。本当は、燃えるのを待ってただけ……」
振り返ったが、老婆の姿はもうなかった。
職員が静かに遺骨を箸で示す。
「あの……こちら、頭部ですが……少し変形していまして……」
骨が、まるで内側から何かが這い出ようとしたような、膨らみと割れ目を持っていた。
その裂け目を見た瞬間、背筋が凍りついた。
――そこには、自分のエコー写真で見た“形”と、よく似た輪郭があった。

葬儀の後、必要な書類を揃えるため、実家の門をくぐった。
足取りは重い。
庭木は伸び放題に伸び、玄関前の敷石は苔で滑りやすくなっていた。ポストにはチラシが詰まり、誰の気配もない。それでも、合鍵を差し込むと――鍵は回った。
中に入ると、空気はねっとりと重く、湿気と線香と、母の香水の残り香が混ざっていた。
その臭いにぞくりとしながら、二階の仏間へ向かう。
仏間は、母が最も嫌っていた部屋だった。
昔、ここに入ると、母は烈火のごとく怒った。
「絶対に入っちゃだめ。あそこには“地”があるんだから」
 その“地”とは何だったのか。今ならわかる気がする。
襖を開けた瞬間、畳の中心に、異様な黒ずみが広がっていた。
焦げ跡のようでもあり、染みのようでもあるその円形の跡は、床板にまで沁み込んでいる。
そしてその中央には――木箱。
どこかの寺の札のような紙が何重にも貼られ、蓋は釘で打ちつけられている。
「あれが、母の“巣”……?」直感でそう感じた。
そのとき――
「ダメよ。あれは、触っちゃダメなのよ」
 背後で、確かに母の声がし、振り返ると、誰もいない。
 だが仏間の姿見には、母が映っていた。喪服姿で、赤子を抱いて。
「せっかく帰ってきたのに、どうして壊そうとするの。やっと育ったのよ……」
驚いてよろけた拍子にその木箱を足で蹴った。
激しい音と共に、蓋が少し開いた。
中から吹き出す生温かい風のような気配、そして――
赤子の、湿った、甘えるような声が聞こえ、確信した。
母は、私を媒介にして生き延びようとしている。
その依代が、私の胎内の子であることを。
私のお腹は、すでにかすかに膨らみはじめていた。
それが“命”なのか、“別の何か”なのか――
俊明が転落したのは、葬儀の数日後のことだった。
工事現場での足場の組み直し中、突如、手すりを越えて落下。
頭部を強打し、意識が戻らないまま昏睡状態に陥った。
病室にはモニターの電子音だけが規則正しく響いていた。
「俊明……ごめん、私が……」
私は思い出していた。事故の直前、俊明が言っていたこと。
「昨夜、夢に出てきたんだよ。お前の……“お母さん”。俺、会ったことないのにさ」
「すごく怒ってた。俺の顔を掴んで、『あんた、いらないのよ』って」
「でも、不思議と怖くなかった。ただ……引きずられる感覚があって……」
 その夢の話をした翌朝、俊明は現場で転落事故にあった。偶然ではない。
 病院の廊下は不気味なほど静かだった。
 深夜0時をまわった頃、俊明の病室に戻ろうとしていた。
 買ってきたーヒー缶を手に病室のドアをそっと開けた。
 ――次の瞬間、
 カンカーンと、手から落ちた缶の乾いた音が床に響いた。
 ベッドの上の俊明に、漆黒の闇を纏った“何か“覆いかぶさっていた”。
 “それ”の背中からは、血のような赤黒い煙がゆっくりと流れ出ていた。
「やめて……やめて!!」
 声を上げた瞬間、
 “それ”はゆっくりと振り返った。
 顔は見えなかった。
 けれど、“わかった”。
 ――母だ。
俊明を守ろうと“それ”に飛びかかろうとした
その瞬間、
モニターの心電波形が、水平線になった。
「俊明……!? 俊明っ!!」
ナースコールを押す手が震えた。
その肌の冷たさに膝から崩れ落ちた。
俊明の顔は安らかだった。
けれど、その唇の端に、血のような赤黒い液体が滲んでいた。
彼の手には、爪痕が残されていた。
明らかに“誰か”に抗おうとした痕。
嗚咽をこらえながら、胸の中で確信した。
母が、俊明を“殺した”。
そして今、
次は、私の中にいる“新しい命”を取り戻しに来る――

俊明の葬儀が終わり、一人残されたアパートで途方に暮れてひたすら泣いた。
それでも、生きていかなければならない。
日増しに大きくなるお腹を抱えながら、部屋を出ると、下階に住む老女・早苗が声をかけてきた。
「お嬢さん、最近お顔がやつれてるね。大丈夫かえ?」
「赤ちゃんがいるってのは、なにか“連れてくる”っていうから……変なものに気をつけなさいな」
老婆の言葉に違和感を感じた。
その翌朝のことだった。
外が騒がしい。パトカーと救急車のサイレン。
ベランダから下のぞき、目に入ったのは――
昨日の老婆が、頭から落下してコンクリートに崩れていた姿。
争った形跡はなかった。自殺みたいね。
そう近所の人たちが話している声が耳に届いた。
その翌日のことだった。
【美緒】「今、こっち来てるんだ!久しぶりに会いたくなっちゃって」
【美緒】「マンションの近くまで来たよ~」
私は返信し、到着を待った。
しかし、いくら待っても美緒は現れなかった。
嫌な予感がし、
美緒に電話をしたが繋がらない。
焦り震える手でリダイヤルを押し続けた。
何回目かわからない。数回のコールの後、
受話器の向こうから、知らない男性の声がした。
「美緒さんのお知合いですか?先ほど美緒さんは交通事故に遭いまして……」
それは、警察官の声だった。
美緒は、アパートのすぐ前の交差点で、車にはねられて即死だった。
近くにいた者たちが、次々と“排除”されていく。
私のスマホは、静かになった。
着信も、通知も、誰からも来なくなった。
近所の人たちからもあからさまに避けられるようになっていた。
母が周りの人間を取り込み、操り、……
「私の外側」を壊し始めている。
「周囲を“間引いている”。私と、お腹の中の“あれ”のために……」
この子は私の子じゃない。俊明の子でもない。
――母の、二度目の“再生”だ。
午前三時。
時計の針の音が、耳を突き刺すように響いていた。
寝ているはずの部屋の天井が、まるで肺のように“ゆっくり膨らんで”見える。
隅に置いたベビーベッドの影が、夜ごと形を変えているのにも、もう慣れてしまった。
鏡を見るたび、自分の顔が「母」に似てきている気がする。
頬の痩け方、目元のくぼみ、そして何より“口元のゆがみ”。
「気持ち悪い」
自分の中に母がいる。
洗面所で吐いたあと、鏡に映る顔がこう言った。
「お前は“わたし”なんだから、戻るのは当然でしょ?」
思わず鏡にグラスを投げつけ叩き割った。
なのに、その声は頭の中でまだ囁き続けている。
冷蔵庫の中に入っていた野菜たちが、みんな黒く腐っていた。
買ったばかりだったはずなのに。
そんなことが日常と化していた。
胎動は日に日に強くなる。
時折、肋骨の内側を“這う”動きがある。
「赤ちゃんだよね?」
「赤ちゃん……だよね?」
その問いに答える者はない。
夜になると、どこかから子守唄のような鼻歌が聞こえてくる。
もうそれすらも日常に感じ始めていた…

産婦人科の定期検診の日。
診察室の照明がわずかに落とされ、モニターに灰色の影が映し出された。
「……ここが、赤ちゃんの頭ですね。はい、順調に育ってますよ」
私は画面に釘付けになったまま、言葉を返せなかった。
それは――“頭”ではなかった。
モニターの中央、黒い羊水の中に浮かんでいたのは、膝を抱え、うずくまる女の影だった。
細くしなびたような腕を脚に巻きつけ、頭をうなだれたその姿は、――禍々しい何かだった。
背筋をぞわりと悪寒が走った。
そのとき、影がゆっくりと顔を上げた。
ゼリーを塗られた腹の皮膚越しに、中からじわりと何かが浮き上がってくるような圧迫感。
心臓が冷たい手で掴まれたような感覚とともに、モニターの中で“それ”がこちらを見た。
目は潰れているのか、黒く窪んで見えなかった。
だが、口元だけが異様に鮮明で、笑っていた。
私は、凍りついたまま、モニターの中の“それ”を見つめた。
検診の度、担当医はいつもと変わらず「異常なし」と笑う。
でも、エコーの画像は――
胎児の顔は“母“だった。
医師の口元がゆっくり動き、
「お母さんに、戻してもらいましょうね」
 え?――幻覚?そんなはず、そんなはず……
その時、悟った。この人はもう母に取り込まれた。
看護師がゆっくりと私の手を握り、
「大丈夫。もうすぐだから。お母さんに、戻してもらいましょうね」
と微笑みかけてきた。その口元はぐにゃりと歪んだ。
母の口元のように。
診察が終わったあとも、私は病院の待合に一人残っていた。
ただ、帰るのが怖かった。この腹の中の“それ”を連れて帰るのが怖かった。
どのくらいここにいたのだろう。
静まり返った産婦人科の廊下。どの部屋も真っ暗なままだ。
さっきまで人がいたはずの院内は静まり返っていた。
消灯されたモニターのガラスに、自分の姿が映る。
――違う。腹が、大きすぎる。
ガラス越しの自分の腹は、見たことのないほど膨れ上がっていた。
鏡に映る自分は異様に肥大した腹を抱えて笑っている。
そのとき、
パン、パン、パン――と、不自然に軽い音。裸足のような、でも何かが擦れるような足音が、診察室の奥から響いてくる。
本来なら閉まっているはずのドアの隙間から、ぼんやりと青白い光が漏れていた。
近づいてみるとモニターが勝手に起動している。
画面には、例の“胎児”がこちらを向いていた。
モニターにノイズが走る。画面が暗転し、今度は病室のベッドが映し出された。
その上に横たわる女――母が、私と同じ腹を抱えていた。
「……産まれるの。わたしが。もう一度」
その瞬間、診察室の天井スピーカーから産声のような金切り声が鳴り響いた。
耳を塞いでうずくまり、腹に走る激痛に叫び声を上げた。
腹の中で何かが蠢き、肋骨の裏から、指のようなものが押し出されるような感触――
照明が一斉に点滅し、廊下全体に母の声だけが響く。
「大丈夫よ、理紗。もう、逃げなくていいの。あなたは私の子で、私はあなたの中」
気を失う直前、最後に見たのは、ガラス越しに映る自分の顔――
それは、母そのものだった。
翌朝、自宅のベッドで目を覚ました。
昨夜、病院で倒れたはず。
誰が自分をここへ?
時計は朝6時。
カーテン越しに射し込む光は、妙に白く、病室の蛍光灯のようだった。
リビングに出ると家の間取りが変わっていた。
廊下の突き当たりに、見覚えのないドアがあった。
恐る恐る開けると、そこは――子供部屋だった。
古びたベビーベッド、よだれかけがかけられた小さなタンス。
壁一面には、幼い私の写真がびっしりと貼られている。
しかし、どの写真の“顔”も、母に置き換わっていた。
母の顔で笑う私。
母の顔で泣く私。
母の顔で、お遊戯をする私。
思わず叫び声を上げて部屋を飛び出そうとした――
その瞬間、腹の中で“ドン”と何かが突き上げた。
「まだ逃げるの? もう、あなたの“子宮”は、私のものなのに」
しゃがみ込んだ私の腹を、内側から骨ばった指先が押してくる。
皮膚が薄く突っ張り、血管が浮き上がる。
後ろの子供部屋からベビーベッドのきしむ音が聞こえて振り返ると
あるはずのない鏡がそこに。
映しだされる自分の姿を見て戦慄した。
そこに映っていたのは、自分ではなく――母だった。
母の顔。母の仕草。
私は叫び、鏡を投げつけた。
割れた破片の中にも、母の顔が映っていた。
鏡の破片の一つが、ゆっくりと“目を開いた”。
「わたしの理紗、理紗のわたし、これでやっと、ひとつになれる」
胎動ではない、爪を立てるような蠢き。
赤子の蹴りとは思えない力で、皮膚が引き裂かれそうになる。

逃げ場はもうなかった。
「わたしの子宮から生まれたんだから、返してもらう」
とスマホから母の声が聞こえ、思わず叩きつけた。
画面にヒビが入り、そこに浮かび上がったのは――
“母”という文字。
記憶が飛ぶことも増えた。
食事の味がしない。夢と現実の区別が曖昧になっていた。
声が聞こえる。鏡が笑う。影が揺れる。
でも、誰に言えばいい?
医者も看護師も取り込まれた。友人は死んだ。俊明ももういない。
テーブルには自分の筆跡ではない文字で、
「もうすぐ生まれるね。“わたし”が」
崩壊は、静かに、けれど確実に、わたしの“内側”から始まっていた。
臨月を迎えた、ある夜。
私は破水した。
時計は見なかった。もう時間の感覚が溶けていた。
強い腹痛とともに、声にならない悲鳴を上げながら、床に這いつくばった。
寝室の隅、クローゼットの扉が、勝手にミシリと音を立てて開き、
そこには、喪服姿のまま、満面の笑みを浮かべた母がいた
私の腹に向かって両手を差し出していた。
「さあ、出してあげて。お腹の“私”を。やっとここまで来たのよ……」
その瞬間、腹を引き裂かれるような激しい痛みが走った。
病院には行けなかった。
電話は圏外。救急車も呼べなかった。
気づけば、部屋の空気が歪んでいる。外の世界と断絶されたように、音も光も遮られている。
部屋の隅には、見知らぬ助産婦のような女が立っていた。
顔は見えない。
だけど、手にしたはさみの刃先だけが異様に光っていた。
「切りましょうねえ、お臍……」
「大丈夫。あなたは“巣”だっただけ」
「母体として、役目は立派に果たしたわよ」
「俊明助けて」
視界が赤く滲んでいく。
何度もいきんだ。だが、“それ”は出ない。
“それ”は中で抵抗している。
そして、何かが這い上がってくる感覚。
胃の奥から喉、鼻腔まで――母の声が満ちていく。
「もう、私がやるわ。この身体、返してね……」
頭の中で、かつて母に言われた言葉がこだまする。
「あなたは、私の生き直しなのよ。やり直し。修正。
だから、“娘”なんて最初からいなかったのよ」
苦しさと底知れぬ恐怖から自分の腹を爪で引っ掻いた。
破れた皮膚から流れる血が、床に落ちる。
胎内から母の声がした。大きな笑い声。
「痛いの?可哀想に。でも、それは母になる痛みよ」
最後の陣痛の波が私を襲う。徐々に遠のいていく意識の中、
腹の内から聞こえる産声――それは人間の赤子の声ではなかった。
それは笑っていた。
産声のはずなのに、「アハハ」と笑っていた。
母が耳元で囁いた。
「ありがとう。ようやく、私は“あなたを使って”生まれ直せたわ」

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志181518121881
大赤見ノヴ161515161678
吉田猛々181717161785
合計5247504451244