真夏のぎらついた日差しが容赦なく降り注ぐ日。
僕はアパートのそばのコンビニを目指して歩いていた。
目的は昼メシと飲み物、それからアイス。
熱中症は怖かったが、往復20分程度なら問題ないだろう。
そう思い、帽子も日傘も部屋に置いてきた。
しかし案の定、凶悪な日差しが肌に刺さる刺さる。
歩き始めてすぐに、僕は後悔をし始めていた。
すると、ぱこん、ぱこんと側溝の蓋を踏む音が背後から近づいてきた。
さっと風を吹かせて、中学生くらいの日焼けした少年を乗せた、一台の自転車がそばを通り過ぎる。
何の気なしにそのうしろ姿を見送っていると、妙なことに気付いた。
影が、踊っている。
少年は普通にひとりでサドルに座っているのに、道路に落ちる影が異様に大きく伸び、ぐにゃぐにゃと蠢いて見えるのだ。
単なる路面の凹凸のせいとは思えなかった。
まるで、人型をしたヒトではない何かが、自転車の上で踊り狂っているようだった。
僕は意味もわからずゾッとした。
恐らくそんなことにはまったく気付いていないのだろう、少年は僕よりひと足先にコンビニの駐車場へ入ろうとした。
その時だった。
いわゆるコンビニワープをしようとした軽自動車が、駐車場を斜めに突っ切ってきたかと思うと――自転車を勢いよくハネ飛ばしたのだ。
けたたましいブレーキ音と、重いものがボンネットに乗り上げる、ドンッという音が周囲に響いた。
その時の僕は、目の前で事故が起きた衝撃に身動きひとつできなかった。
端から見れば、そうだっただろう。
だが、実際は違った。
僕が硬直していたのは、ある信じられないものを目撃したせいだった。
自転車の学生がボンネットに乗り上げた瞬間、その体がふたつに分裂するようにして、『もうひとりの人間』が地面に転がった。
そいつは、頭のてっぺんから爪先まで真っ黒な、影絵のような姿をしていた。
慌てて車を降りたドライバーも、軽傷で済んだらしい学生も、そいつに気付いていない。
彼らには見えていないようだ。
真っ黒な人影は、獣のような四つ足で地面を蹴ると、あっという間にどこかへ走り去ってしまった。
僕はそれをただ呆然と眺めていた。
その異常な出来事は、しばらく僕の頭から離れなかった。
あんな――影法師のような生き物が存在するなんて。
人間から分裂するように、現れるなんて。
しかも、僕にしか見えていないなんて。
何かの見間違えだ。
そう思い込みたかった。
しかし、あの時の光景はあまりにもはっきりと脳裏に焼きついている。
猛暑が見せた幻とは思えなかった。
それでもひと月が経つと、僕はすっかりいつもの日常に戻っていた。
あの出来事の記憶も、徐々に薄れつつあった。
やっぱり、暑さのせいだったのかもしれない。
単なる見間違えだったのかもしれない。
そんな風に、僕は自分自身を納得させつつあった。
だが、そんな時だった。
異変の第二幕が上がったのは。
僕には大学に入って間もなくから付き合っている女の子がいた。
サークルで出会った、人生初めての彼女だ。
心から大切にしていたし、彼女が喜ぶことなら何でもした。
大人たちから見ればママゴトのようなぎこちない恋愛かもしれないけれど、僕らは少しずつ互いを知り、思い出を増やしていった。
しかし。
そんな彼女の様子が、おかしくなり始めたのだ。
普段の何気ない表情や仕草。手料理の味付け。服のセンスまでもが、がらりと変わった。
たとえ他人にはわからなくても、彼女だけをずっと見てきた僕にははっきりとわかった。
それだけでなく、目はうつろで焦点が合っていないことが増え、いきなり泣き出したり、逆に大声で笑い始めることもあった。
彼女の顔と名前をしているだけで、まるで別人にすり替わってしまったかのようだった。
そしてある時、僕は決定的な瞬間を目撃することになる。
やはり強い日差しが降り注ぐ日。
大学の敷地内で彼女を見かけた僕は、声をかけようと近づいた。
彼女は木陰にいて、木の幹をじっと見つめていた。
こちらには気付いていないようだ。
近くまで行ってぎょっとした。
木の幹に、大きな白い蛾がとまっていたのだ。
しかし、さらに僕を驚かせたのは彼女の行動だった。
動物のような俊敏さで蛾を鷲掴みにしたかと思うと、大口を開けてぱくりと頬張ったのだ。
あの、大の虫嫌いだった彼女が。
愕然とする僕をよそに、もしゃもしゃと獲物を咀嚼した『その女』は、ごくりと喉を鳴らしてこちらを向いた。
「××くん、偶然だね」
そう言って、舌なめずりをしながらうつろな笑みを浮かべた女。
木陰を離れ、日向に踏み出したその足元で――影が、踊っていた。
ゆらゆらと、ぐにゃぐにゃと。
人の形をした、人ではない何かの動き。
あいつだ。
自転車の少年から出てきたものと同じ、何か。
そいつが彼女にも入り込み、別人に変えてしまった。
そうとしか思えなかった。
なぜそんなことが起こったのか。
あの事故に僕が居合わせたことと関係があるのか。
そもそも、あいつは一体何なのか。
疑問はいくらでも湧いてきたが、僕が考えるべきことは決まっていた。
どうすれば、彼女を元に戻せるのか?
どうすれば、影法師を追い出せるのか?
講義が終わった午後、僕はいったんアパートに戻り、作戦を立てることにした。
ひとつの方法はわかっている。
少年の時のように、物理的なショックを与えることだ。
しかし、これはリスクが大きすぎる。
彼女が大怪我をしたり、最悪死んでしまうこともあり得る。
だとすれば――。
僕は覚悟を決め、カバンからスマホを取り出した。
彼女をアパートに呼び出すために。
一時間後――玄関のチャイムが鳴る。
ドアスコープから外の様子をうかがうと、うつろな笑みを浮かべた彼女がそこに立っていた。
真夏だというのに、影のように真っ黒なコート。
かりかり、かりかり。
待ちかねたのか、白い指先がドアを引っかいている。
エアコンの効いた室内だというのに、じっとりと背中に汗が滲むのを感じた。
「××くん、××くん」
彼女が僕の名前を呼ぶ。
以前は、それだけでどこかくすぐったく、嬉しい思いをしたものだ。
しかし、今となっては、おぞましい呪文にしか聞こえなかった。
僕は無言でドアを開くと、彼女を中に通した。
異様に白い肌をした彼女は、汗ひとつかいていなかった。
向かい合って居間のテーブルにつくと、僕は意を決して口を開いた。
「お前は誰だ?」
うふ、と彼女がわずかに息を吹き出す。
「何言ってるの、××くん」
彼女はにやにやと笑っている。
何の冗談? という態度だ。
しかし、構わず僕は言った。
さっきより大きな声で。
「お前は誰だ」
沈黙。
エアコンがごうごうと鳴る音だけが室内に響く。
ガラス戸の外では、相変わらず凶悪な日差しが風景に強いコントラストを作っていた。
しかし、ガラス一枚と遮光カーテン越しに見えるそれは、果てしなく遠い世界のように思えた。
「ひ……ひひ」
うつむいた彼女の肩が、がくがくと震える。
「う、うひ、うひははははははははははははははははははははははははははははははは」
大口を開け、体を反らし、彼女は――彼女の形をした何かは、笑っていた。
こぼれ落ちそうなほど、両目を見開いて。
背筋が凍るとはこのことか。
僕はあまりの恐怖に硬直していたが、必死に自分を奮い立たせた。
僕が何とかしなければ。
僕が戦わなければ、彼女は帰ってこない。
僕の好きな彼女は、化け物に乗っ取られて消えるのだ。
「彼女から出ていけ! 化け物!!」
アパート全体に木霊するほどの声で叫んだ。
どうせ今の時間、他の住人は出払っている。
遠慮は要らない。
しかし、逆に言えば、叫ぶ程度のことしかできないのがもどかしかった。
僕には霊感などないし、知り合いにもそんな都合のいい人間はいない。
というかそもそも、こんな話を信用してくれる人間に心当たりがない。
ならば、気合いで何とかしてやる。
気合いで、ヤツを彼女から追い出してやる。
そう意気込んでいたのだが、敵の本性は僕の想像を軽く超えていた。
「う、うぎ、ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ」
彼女はフローリングの上をごろんごろんとのたうち回ったかと思うと、四つん這いになってテーブルに飛び乗った。
そして、威嚇するような咆哮をこちらに浴びせかけてきた。
「きぃあぁあああああああああああーーーーーーーーっ!!」
左右の黒目が互い違いにぐるぐると円を描いている。
舌は異様に長く垂れ下がり、唾液が床に滴り落ちていた。
これは……もう、人間と呼べたものではない。
たとえ影の化け物を追い出したとしても、彼女は二度と元には戻らないのではないだろうか。
そんな不吉な考えを振り払い、僕は負けじと叫んだ。
「出ていけ!! お前なんかに彼女は渡さない!!」
「んぎぃいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
恐ろしい絶叫とともに、そいつは僕に飛びかかってきた。
腕に、顔に、ビリッとした痛みが走る。
爪で引っかかれたのだ。
しかし、ひるんでいる暇はない。
僕は彼女をはねのけ、逆に覆い被さった。
狭い室内での取っ組み合い。
どこからそんな力が湧いてくるのか、ヤツは暴れ牛のような勢いであらゆるものをひっくり返した。
それでも懸命に食い下がり、彼女の体を押さえ込む。
あちこち引っかかれたり、噛まれたりして、僕はすっかり血みどろになっていた。
だが、ようやく努力が実を結んだのか、ヤツの力が徐々に収まってきていた。
このままいけば……彼女を取り戻せるかもしれない。
そう思った瞬間だった。
「ぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいーーーーーーーーっ!!」
耳をつんざくような叫び声を上げながら、ヤツは僕の腕を振り払い、居間から台所に転がり出た。
まさか――。
血の気が引くのを感じた。
その、まさかだった。
気付いた時にはもう、ヤツの手にしっかりと、ステンレス製の包丁が握られていた。
「き、ぎき、ひひひひ」
昆虫のような笑い声を上げながら、ヤツがゆっくりと距離を詰めてくる。
部屋の入り口に陣取られて、逃げ場がない。
背後のガラス戸を開ければワンチャンだが、ここは二階だ。
そもそも、開ける時間を与えてくれるとも思えないが。
僕はわずかな逡巡のあと、腹をくくった。
両腕を広げ、敵を迎え入れるようなポーズをとる。
「いいさ。殺したかったら殺せよ。けどな」
ヤツの両目をまっすぐに睨みつけながら、言葉を紡ぐ。
「俺が死んだら、今度は俺が悪霊になって、お前にとりついてやる。そして、絶対に彼女を取り戻す。覚えておけよ」
僕は本気だった。
殺されようが構わない。
どんなことになっても、絶対に彼女を助ける。
それだけを考えていた。
ぎらりと輝く切っ先が、僕の胸に狙いを定める。
正直、怖い。
怖くないわけがない。
だけど、あるいは、死ねば。
あいつと同じ、人間じゃないという土俵に立てれば。
彼女を傷つけずに勝負ができるかもしれない。
そんな、かすかな希望はあった。
「さあ、来いよ」
震える声で僕は言った。
――その時だった。
「……××くん?」
急に彼女が呆けたような声を出した。
その声。その表情。
それは、化け物なんかじゃない。
僕のよく知る、僕の大好きな、彼女だった。
理由なんかどうだっていい。
僕の祈りが、願いが、彼女に通じたのだ。
――今しかない!
僕は一気に彼女の懐へ飛び込むと、タックルを食らわせた。
ふたりして壁に激突した時、何か黒いものが床を転がるのを僕は見た。
ヤツだ!!
考えるよりも早く体が動いた。
包丁を拾い上げた僕は、咄嗟にそれを影法師の背中に突き立てていた。
「げああああああああああああああああああーーーーーーーーっ!!」
凄まじい断末魔に、アパート全体の空気が震えたつようだった。
もがき苦しむ影法師を押さえ込む。
体重を乗せ、さらに深く包丁を突き入れると、ヤツは床に突っ伏して動かなくなった。
そして、段々とその体が透き通り――、空気に溶けるようにして、完全に消え去った。
からん、という音を立てて包丁が床に落下すると、静寂があたりに下りてきた。
……終わった。
終わったんだ。
百人の泥棒がパーティーしたかのように荒れ果てた部屋の中心で、僕は魂が抜けたようにへたり込んだ。
足元では、彼女がすやすやと寝息を立てている。
こんなこと、誰に話しても信じてもらえないだろうな。
……けど……君には。
君にだけは、信じてほしいな。
そんなことを思いながら、僕は世界で一番大切な人の頬をそっと撫でた。
……彼女を部屋に招いてから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
いつしか、傾いた日差しが部屋に差し込んでいた。
ほのかなオレンジ色を帯びた優しい光が、部屋の壁に僕のシルエットを映している。
そして、僕は見た。
見てしまった。
――影が、踊っている。