「ママー! 見て」
指先で、おっかなびっくり蝉の抜け殻を掴んだ息子が、目をまん丸くさせてこっちを見ている。
「これヌケガラ?」
「うん、そうだよ。セミさんの古いお洋服だね」
蒸し暑い公園に響く蝉の声。私と息子以外、ここには誰もいない。
帽子を被り、額に汗を浮かべながら、駆け回る息子。
一方、日傘をさし、着替えや水分の入ったリュックを背負う私はへとへとだ。
息子が、セミの抜け殻を大事そうに手のひらに乗せ「セミのお洋服かっこいい! レンも着てみたいなぁ」と眺めている様子が可愛らしくて、クスッと笑った時だった。
『抜け殻』という言葉がちくりと胸を刺し、古い記憶が蘇った。
あれは確か、高校生の頃。占いと、抜け殻と……先輩。
──私が高校生の頃、女子生徒の間で占いブームが起きたことがあった。
誰が始めたのか、一部の生徒がタロットカードを持ち歩き、競うように占っていた。
「あの子の占いはよく当たる」「占ってもらったら彼氏ができた」と噂が飛び交い、みんな誰に何を占ってもらうかで頭がいっぱいだった。
その中で特に「当たる」と言われたのが、二つ年上のサユリ先輩だった。
本格的な78枚のタロットカードを持ち歩き、時間さえ合えば占ってくれると評判だった。
私は、友達がサユリ先輩に占ってもらうところを、横で見ていたことがある。
ダメ元で声を掛けに行ったところ「予約は三ヶ月待ちだけど、今なら時間あるからいいよ」と快諾してくれたのだ。
サユリ先輩は物腰柔らかく、お香のような、不思議な香りが漂う人だった。
「好きな人との相性を見てほしいんです」
空き教室の隅で友達がそう言うと、サユリ先輩は慣れた手つきで机に赤いベロアの布を敷いた。そして小さな水晶石と、カードの束を取り出して並べる。
「うんうん、大丈夫よ。見てあげるからね。好きな人は、あなたから見てどんな子だと思う?」とにっこり微笑むサユリ先輩。
友達の話にうんうん頷き「大丈夫よ、大丈夫」とサユリ先輩が何度も繰り返し言う間に、友達は堰を切ったように泣き始めてしまった。
ぎょっとして声も出せず見守っていると、ようやくサユリ先輩はカードを手に取った。
「いっぱい頑張ったね。今カードに聞いてみようね」
あやすような優しい声色で、淡々とカードを切っていくサユリ先輩の、その目の奥が笑っていなかったのを覚えている。
サユリ先輩はカードをめくると「あらぁ……」と声を上げた。
「あなた、最近誰かに酷いこと言ったよね? 乱暴なことを言ったって自覚してるよね? 相手を傷つけたよね。わかってるでしょ?」
先程とは打って変わって、サユリ先輩はキッと厳しい顔で友達を責め立てた。
狼狽える友達に「ううん、ちゃんと思い出して。あなたがしたのは酷いことだよ。自覚を持って」と、どんどん畳みかけていく。
友達はメソメソ泣きながら「おばあちゃんに、うざいって言っちゃったかも……」と、またサユリ先輩に話し始めた。
「うん、それもだね。他にもあるよね? そういうところが全部カードに出てる。直さないと恋愛も次に進めないよ」
「はい、はい……」
「大丈夫よ、直せるからね。それもカードに聞いてあげるから」
目の前で何が起きているのか。
当時の私は理解できず、こっちまで泣き出しそうだった。
今ならわかる。サユリ先輩は無関係なことで揺さぶりをかけ、友達の思考を鈍らせていたのだ。
困惑する私をよそに、占いは続いた。
「まだ友達の関係が続くみたい。でも一緒に頑張っていこうね。予約してくれたらいつでも相談乗るから」とサユリ先輩は締め括った。
サユリ先輩と友達が連絡先を交換し、なかなか泣き止まない友達を連れて空き教室を出た。
友達がすぐメールを送ろうとするのを「後でにしなよ」と宥めた。
これはやばいと本能的に思ったのだ。
──この出来事を部活の休憩中、部活仲間に話していると、横で聞いていた一つ上のミナ先輩が「それ、止めて正解だよ」と呟いた。
ミナ先輩は、バレー部員の中で一番小柄だけど、妙に存在感のある先輩だった。
「あの人、どう考えてもいかれてるよ」
ミナ先輩は顔色一つ変えず、ボールをくるくる指先で回しながら言った。
「いかれてるって……?」
「マジだよ。サユリ先輩だっけ? あの人元演劇部。役者だよねぇ」
「えっ、そうなんですか?」
「そう。地区大会優勝するくらいの演技派らしいよ。まぁやめちゃったけど」
ミナ先輩の言葉に、一年の部員たちは「へぇ、そうだったんだ」と頷いて聞いていた。
「ああいうの、楽しむならほどほどにしといた方がいいよ」
「はーい」
「休憩終わりねー、三年と二年はコート入って、一年球拾い」
部長の休憩の終わりを告げる声が響いて、私たちは大きな声で返事をした。
「……あの人、抜け殻だらけだし」
その時、ぼそっとミナ先輩が呟いた言葉を、私は聞き逃さなかった。
抜け殻だらけ……? なんのことだろう。
妙に気になって仕方なかった。
部活後、体育館にモップがけをしながら、私は思い切ってミナ先輩に直接聞いてみることにした。
「あの、サユリ先輩のことで……ミナさんが『抜け殻』って言ってたじゃないですか」
「聞いてたんだ? そうだよ、あの人抜け殻だらけ」
モップを押し進めながら、ミナ先輩は平然と言った。そばから、彼女の制汗剤のシトラスの香りが漂った。
「どういう意味なんですか?」
「そのままの意味だけど。そうだなぁ。今度あの人のことを、サーブ打つ時と同じように見てみ」
「サーブ、ですか……」
「そう。トスを上げて、指先とボールと、コートの向こうを見る感じ」
これまでサーブは何度も打っているのに、いざ「それと同じように誰かを見ろ」と言われると、どうやって打っていたかわからなくなる。
その見方をすると一体何が起きるというのか。
「それで何かわかるんですか?」
「うん。多分ね。センス次第だけど、あの人めっちゃいかれてるから、何かわかるかもね」
要領を得ないままモップがけが終わり、会話も途切れた。
『サーブを打つようにサユリ先輩を見る』……まったくもって意味不明な言葉だけど、この時の私は何故か少しわくわくしていた。
占いブームに乗りそびれ、私も不思議な体験をしてみたいと思っていたのかもしれない。
──昼休みに後輩に囲まれるサユリ先輩は、まるでスターかアイドルのようだった。
プレゼントや手紙を持った子たちが、自分の番が来るのを今か今かと待っていた。
私はミナ先輩の言葉を思い出しながら、少し離れた場所で、こっそりサユリ先輩を見つめた。
トスを上げ、投げ上げたボールを目で追い、手がボールをとらえ、そしてコートの向こうへ押し出すように放つ……そんな想像をして、視線を一度天井に上げてからゆっくり下ろした。
瞬間、サユリ先輩にピントが合った。
私は「ヒィッ」と声を漏らし、凍りついた。
一瞬見えたサユリ先輩の体には、無数の、干からびた手が引っ付いていたのだ。
背中や、肩、スカート、脚……茶色く枯れた指や爪の、まるでミイラのような手がいくつも絡みついている。
まばたきをするまでのほんの一瞬の間だった。
でもその光景が脳裏に焼き付き、離れなかった。
恐怖に駆られた私は、慌ててその場を離れた。
今のは何、あれは何だったの──
完全にパニック状態で、気がついたら階段を駆け降り、二年生の教室のあるフロアに佇んでいた。
「あ、見たんだ」
振り返ると、ミナ先輩がいた。
いつもよりも近い距離でシトラスがふわりと香った。
「先輩! やばいもの見ちゃいましたよ!」
「あれね、抜け殻だよ。凄いよね」
「なんなんですか、あれ!?」
思わずミナ先輩の肩を掴むと、ミナ先輩は「それそれ、それだよ」と言った。
「今、掴んでる感じ。それの抜け殻」
「はぁ……?」
ミナ先輩は私の手をそっと掴んだ。
「本当は自然と落ちるものなのにね。こんな風に」
そのままゆっくりと両腕を下へとおろされる。
冷たいものが指先に走った気がした。
「あの人、こうやって縋った残りのカラを集めて、楽しんでるんだよ。だから関わらないでおこーね」
ぽんぽんと肩を叩かれたかと思うと、ミナ先輩は立ち去ってしまった。
その後どうやって授業や部活に出たのか覚えていない。
しばらくの間、サユリ先輩に引っ付いた『抜け殻』の光景が頭から離れなかった。
周りの友達はすっかりサユリ先輩に熱を上げ「あんたもサユリ様に占ってもらいなよ」「サユリ様、絶対プレゼント受け取らないところが素敵」と毎日のように聞かされた。
アイドルの追っかけか、それとも宗教かというほど、たくさんの女子がサユリ先輩に夢中だった。
でも私はあの占いの様子も、おぞましい光景も、全て怖くて仕方がなかった。
ミナ先輩の言いつけ通り、占いから距離を取るので精一杯だった。
「サユリ先輩って、なんで演劇部やめちゃったんですかね?」
部活中、一緒にネットのポールを外して運んでいる時にミナ先輩に話しかけた。
ミナ先輩は少し嫌そうな顔をした。
「あの人の話か……一個上の先輩が病んじゃったからだよ。部活の中で『抜け殻集め』でもしたんじゃない?」
ミナ先輩の言う『抜け殻集め』ってそもそもなんなんだろう。
あの日、ミナ先輩の肩を縋るように掴んだ時に「それだよ」と言われたことを思い出す。
サユリ先輩に無数に引っ付いていた干からびた手……あれは、サユリ先輩に誰かが縋りついた跡……?
そしてそれを集めてる? 何のために?
「──なんにせよ、関わらない方がいいよ」
ポールを棚の奥に突っ込んで、ミナ先輩はため息をついた。
「そういえば先輩、なんであの抜け殻? の見え方知ってるんですか?」
「んー? 昔サーブの練習中に気付いた」
私はあの日からいつも通りサーブを打っていたけど、サユリ先輩に引っ付いていたような『抜け殻』は一度も見ていなかった。
「怖くないんですか?」
私も先輩と同じようにポールを棚に押し込んだ。
「慣れちゃった。みんな色んなもんくっつけて生きてるし」
「え、もしかして、私にもあれくっついてますか!?」
ミナ先輩は「フッ」と小さく噴き出した。
「ついてるかもね。一個くらいは」
「えぇ、やだなぁ」
「身に覚えがないならいいんじゃない?」
ミナ先輩が柔らかく笑うのを見て、この人もこんな風に笑ったりするんだと思った。
記憶にある限りでは、滅多に感情が表に出るタイプではなかったように思う。
「先輩にも何かくっついてるかもですよー?」
私がそう軽口を叩いたら、ミナ先輩はちょっと黙ってしまった。
埃っぽい体育倉庫にシトラスの香りが混じり、じわりと汗が滲む。
「鏡で見たことがあるけど、私には何にもついてなかったんだよ……なんでだろ?」
ようやく口を開いたミナ先輩に私は安堵したけど、先輩の方はどことなく不安気だった。
こんな顔、試合中でも見たことがなかった。
「ついてないなら、いいんじゃないですかね……?」
「そうかな……ま、あの人みたいに集めたいわけじゃないし」
「私にはよくわかんないですけど、先輩はあの人みたいにやばくないんで!」
「そっか、ありがと」
やっぱりミナ先輩は優しく笑ってくれた。
得体の知れないサユリ先輩より、ミナ先輩の方がよっぽど信用できる。
みんながサユリ先輩に夢中になればなるほど、私はミナ先輩に関心が向いていった。
占いブームは結局、サユリ先輩が卒業するまで続いた。
卒業後に「実は、サユリ先輩に言われた通り志願校を変えて落ちた人がいる」「脈ありって言われてたけど、好きな人には彼女がいた」という話や、「サユリ先輩、今やばいサークルに入ってるらしいよ」という話も聞こえてきた。
ほら、やっぱりね。私はミナ先輩を信じていたから助かった。
そんな気持ちでいっぱいだった。
──「ママ! 見て!」
息子の声にはっとして我に返った。
けたたましい蝉の声を聴きながら、少しの間ぼーっとしていた頭を切り替える。
「セミのお洋服くっつけた!」
息子の胸元には、蝉の抜け殻がくっ付いていた。
引っかかってぶら下がる茶色のそれは、あの日サユリ先輩の体に引っ付いていた干からびた手のようで、ゾクリと鳥肌が立った。
「ねぇ、レン。そろそろセミさんにお洋服返してあげようね」
「やだ! おうちに持ってく!」
「セミさん困っちゃうかもよ?」
「やだ、やだやだ!」
Tシャツの裾を握りしめて、下唇を震わせる姿に、ああまた始まったと身構える。
赤ん坊の頃からこうだ。
一度始まれば、ひっくり返って泣き喚き、数十分は動かない。
だから誰もいない時間帯を狙って、人気のない公園に遊ばせに来ているのだ。
「やだ!やだやだやだ!」と泣き喚く息子を見下ろしながら、息子の泣き声よりセミの鳴き声の方がぐんと近く、大きくなる。
──そういえば、ミナ先輩と最後に話したのはいつだったっけ。
ぼんやりし始めた頭で記憶を遡る。
確かこんな暑い季節だった。
夏の大会。三年生の引退がかかった試合。
サーブ交代で私はコートに立った。
緊張感が高まる中、ミナ先輩が私を振り返り「いけるよ、大丈夫」と熱い眼差しで言ってくれた。
先輩たちの勝利に繋ぐため、ボールを宙に投げ、コースを狙い、手を振り上げ、視線が手からネット越しの相手コートへ……。
その瞬間、私の視界には先輩たちの背中──ミナ先輩の背中から、黒い何かが顔を覗かせたのが映った。
一瞬の出来事だった。
しっとりと濡れた長い髪の、黒い影がぬっと背中を割るように這い出てこっちを見ていた。
私の放ったボールは真っ直ぐネットの向こうに飛んでいった。
コートの中に戻って構えようとしたのに、脚が動かない。
瞬きをしたら消えてしまったが、さっきの光景が頭から離れなかった。
試合が進み、ベンチに戻っても尚、心臓がバクバクしていたのを覚えている。
もしまたあれと目が合ったらと思うと、私はもうミナ先輩の方を見ることが出来なかった。
先輩たちが引退すると同時に、私もバレー部をやめた。
もう二度とサーブを打ちたくなかった。
息子の泣き声と蝉の鳴き声が交錯し、あの黒い影がフラッシュバックする。
仰向けになり、泣き続ける息子の服についた蝉の抜け殻。
背中が割れ、別の何かが現れる様子はまるでミナ先輩の背中から顔を覗かせた何かにそっくりだ。
私は、慌てて息子の服の上の抜け殻を手で振り払った。
「レン、帰ろ」
「やだぁやだぁ!!」
「いいから! 帰るの!!」
日傘を畳み、暴れる息子を抱き上げた。
殴られ蹴られても、落とさぬよう必死に。
今はこの公園から一刻も早く離れたかった。
抜け殻から出てきたものたちの、大合唱が聞こえるこの公園から。
縋る手を集めたがったサユリ先輩。
サーブの練習をしている時に、その抜け殻が見えるようになったミナ先輩。
そして、それを教わって、ミナ先輩の中から出てくる何かを見てしまった私。
答えもないのに、ぐるぐると同じことばかりを考えてしまう。
すっかり忘れていたはずの記憶が、今になって鮮明に蘇ってくる。
これまでにないほど激しく泣き喚く息子。
人目も気にせず一心不乱に歩いていると、信号前のパン屋の前で、暴れる息子の手が顎に当たった。
ガクンと衝撃が走る。
殴られた勢いでのけ反って、わかっていたのに視線が、無意識にあのサーブの動きをなぞって──。
あ。
ショーウィンドウに映った私の肩に、黒い影が重なっていた。
あのミナ先輩の背中から出ていた、真っ黒で髪の長い何かが、じっと絡みついている。
咄嗟に息子を抱えたまま、その場にしゃがみ込んだ。
なんで、なんで、あれが肩に……。
茹だるような暑さなのに、私の体はどんどん冷えていく。
いつから、なんで今になって、どうして──
背中や頬を脂汗が伝う中、遠くで蝉の声が聞こえる。
不意に顔のそばで、どこかで嗅いだシトラスの香りが漂った。
振り返ることもできない。いつの間にか泣き止んだ息子を、ただぎゅっと抱きしめる。
首筋を撫でた生温い風は、まるで誰かの吐息のようだった。