パンドラの箱の最後に残っていたのは希望では無く、予兆だと聞いた。
なのに、世の中の不幸も幸せも、やってくる事への前触れは、あったことが無いと誰かが言っていた。
ある夏の夕暮れ近く。
珍しく定時に退社することが出来た俺は、会社を出たところで、同僚の保條に「少し、時間あるか?」と後ろから声をかけられた。
最初は飲みにでも行くお誘いかと思ったが、それにしてはやけに冴えない顔をしている。
ひょっとして、仕事の話でもしたいのだろうか?
自分的には、抱えていた仕事をやっと一段落着かせて、数ヶ月ぶりの定時退社だ。
出来れば、面倒ごとは明日にして欲しいというのが本音ではあったが――。
仕事となれば致し方ない。
それにしても――。
仕事の話がしたいのならば、事務所にいるうちに声をかけてくれれば良いものを。
すっかりOFFモードになった瞬間に声を掛けて来るとは、最悪のタイミングでは無いか。
「事務所に戻ろうか?」と、尋ねてみる。
「いや、どこか喫茶店にでも――」
「?」
飲みへのお誘いで無いことはハッキリした。
しかし、事務所を避けた?
仕事関係でも無いという事か?
だとすれば、私的な|煩い事と言うことであろうか。
それで、不謹慎ではあるが、少しばかり面白そうだと思ってしまう自分がいた。
誰だって、他人の悩み事には興味のある物だろう?
しかもそれが、自分がいつも、公私ともにコンプレックスを抱いている奴のそれとなれば。
「『カカポ』でいいか?」
会社の近くで俺達が良く使う喫茶店の名前を出した。
「……ああ」
保條は返事をするやいなや、俺を追い越して、足早に喫茶店へ向かって行く。
『カカポ』は、今時珍しい個人経営の喫茶店だ。
店内は五人ほどが掛けられるカウンター席と、窓際に四人掛けのテーブル席が4つ並ぶ、こぢんまりとした造り。
俺達以外には、他に客の姿は無く、知顔の、人が良さそうなマスターが俺達の姿を確認するとカウンター越しに会釈した。
「いらっしゃい、まっせー」
バイトの若い娘が妙なアクセントの挨拶をしながら近づいて来て、俺達を窓際のテーブル席に案内する。
俺は、保條と向かい合って席に着いた。
「手遅れになる前に、聞いて貰わなくてはいけないことがある」
待っていたように、保條はすがるような目をしてそう言った。
だが、何故かそれきり、視線を斜め下に落としたかと思うと黙りこくる。
何かを思いあぐんでいるように見える。
思った以上にやっかいな話なのだろうか?
もしそうだとしても、このままでは埒が明かない。
話を|促《うなが》そうとしたその時、バイト娘が水の入ったコップをそれぞれ、俺と保條の前に置き、口を開いた。
「お決まりですかぁ?」
文字通り、水を差された状態となってしまった俺が、少しむっとしながら「レギュラー、ホットで」と答えると、保條も、その言葉にハッとしたように顔を上げ「同じで――」と応えた。
バイト娘が席を離れる。
すると、おずおすとした視線を俺に向けながら保條は話し出した。
「これから少し、変な話をするが、暫く付き合ってくれ」
俺は無言で頷いた。
もっとも、俺が今ここに居ると言う状況的に、その選択肢以外無かったというのが正直なところだ。
「まず、俺が誰だか判るか?」
「……えっ?」
言うに事欠いて何だそれは?オマエが誰だか判らなければ、俺はここに居るわけが無いだろう。
「変な事を言っていると言うことは、充分自分でも判ってる」
保條があからさまに焦った表情を見せて続けた。
「判っているんだ。少しの間付き合ってくれ、俺は誰だ?判るか?」
「オマエが、俺の知っている人物なら、オマエは俺と同じ会社の同期の保條だ」
俺がそう応えると、彼は頭を垂れ、心底ホッとしたように息を吐き、すぐにまた顔を上げる。
「もうひとつ。オマエ、秋山って男を知っているか?」
『アキヤマ』?
はて?いきなり言われて思い浮かぶほど親しい間柄でその名前の人物には思い当たらない。
「アキヤマって何処のアキヤマだ?」
俺が尋ね返すと、彼は少し必死な表情になった。
「『秋山』だ。ホントに判らないか?春夏秋冬の『秋』に山川の『山』と書いて『秋山』。去年、うちの会社に入社した新人で、人事に配属されたヤツ」
思い当たらない。大体――。
「人事に秋山なんていたっけ?」
言っては何だが、うちの会社はそれほど大きな会社では無い。
社員の数だって、バイトを含めたとしてもたかが知れている。
自分的には、社員のほぼ全員の顔と名前が一致すると言っても言い過ぎとは言えないだろう。
でも、まぁ。
新人ならばそんなこともあるか?
「誰も知らないんだ」
保條が、絶望的な表情を浮かべて呟いた。
「なんだって?」
彼の言葉の意味がよく汲み取れず、俺は思わず聞き返していた。
「知らないんだよ、誰も――人事の連中も秋山なんかいないって言うんだ」
いや、だからそれは。
「居ないんじゃ無いのか?最初っから。そういう事だろう?」
俺がそう言うと、保條は何かを言いかけたが、ちょうどそのとき、再びバイト娘がやって来て、営業スマイルとともに二人分のコーヒーをテーブルの上に置いて行った。
「じつは――」
保條は、仕切り直すようにコーヒーを一口飲むと、いっそう神妙な顔つきになって語り出した。
「人間ドックの手続きをしようとして、3日前に人事課に行った。その時対応してくれたのが秋山だった」
「その時には居たのか、秋山ってヤツ」
俺は口を挟む。
「秋山とは初対面というわけでは無かったんだ、何度か話をしたり事務を頼んだりしたことがある。話しやすい奴だったんで、その時も手続きを頼んだ」
「秋山に?ちょっと待て、だって秋山って言うのは人事の人間じゃないんだろう?」
「人事の職員だよ!」
保條が、声を荒げる。
「ちっと落ち着け」
俺がたしなめると、彼はハっとして再び神妙な顔つきに戻る。
よくわからないが、暫く黙って話を聞くしかなさそうだと腹を決めた。
「その2日後に人事から手続きが終わったから書類を取りに来てくれと連絡があったんだ」
「秋山から?」
「いや、相沢女史からだった」
「秋山に頼んだのに?」
「俺もおかしいなとは思ったんだ、なんで秋山が直接連絡をよこさないんだろうって」
その後、保條は人事に出向き書類を受け取る。
その時に対応したのも相沢さんだったので、保條としては直接仕事を頼んだ手前、多少は手を煩わせただろうから、挨拶ぐらいはしておこうと秋山という人物への取り次ぎをお願いしたという。
ところが――。
「居ないって言うんだ。いや――」
保條が、うつむきながら続ける。
「人事には、最初から秋山という男はいなかったって言うんだ」
それを聞いて俺は、椅子に深くかけ直し、背もたれに寄りかかった。
そして、尚もうなだれ固まっている保條を見ながら考えていた。
これは――、
どう考えても保條がおかしい。
だってそうだろう?
人事には秋山という人物がいたことが無い。
これは個人の思い違いでは無い。課という組織が認めた事実だ。
さらに、俺も秋山を知らない。
そのことから考えて会社中の人間は秋山なんて男は知らないと言い切れると思う。
いや、そもそも保條の言う人事の秋山なんて人物はこの世に存在すらしていないかもしれない。
秋山が居たと認識しているのは保條ただ一人なのだ。
しかも、保條がその根拠としているのは、3日前、秋山に人間ドックの手続きを頼んだという主観的な信念。
それって。
妄想って言わないか?
「オマエ――疲れてるんじゃ無いのか?」
俺のそんな言葉に保條は俯いたまま反応しない。
しかし――。
保條は自分の話が妄想じみた与太話だという事には気づいている。
先程来から本人が、自分の話をおかしい話だと言っているのを俺は聞いている。
それでも俺を呼び止め、敢えて話を聞かせようとしたと言う事には、何があるのだ。
それとも何も無いのか?ただの妄想の愚痴に付き合わされているだけなのか?俺は。
「オマエは、何が起こっていると思ってるんだ?」
俺は、保條に問いただしてみた。
「『自分だけの友達』って話を知っているか?」
保條は、伏し目加減だった視線をゆっくりと上げながら言った。
なんと言った?自分だけの――ともだち――?
「自分だけって――イマジナリー・フレンドとか言うやつの事か?」
確か、児童期に起きる現象で空想上の友達がどうのこうのと言うヤツがあったような気がした。
「そっちじゃ無い方の話しで、ちょっと都市伝説じみた話なんだ」
再びコーヒーカップに口をつけ、一息ついた様子で保條が話し出す。
「シチュエーション的には色々な話があるんだが、その中の一つで、こんなのがある。
Aと言う男が、小学生の頃によく遊んでいたBと言う奴がいた。
やがて、Aが社会人になり、母親と小学生の頃の思い出話をしていた時、
AはBと言う友人の話を始めたが、母親はBを知らないという。
Bはとても仲が良かったので、よくAの家にも遊びに来ていたし、母親もBには何度も逢っていたと言う記憶がAにはあるのにだ。
気になったAは、後日、卒業アルバムでBを探したが、載っていない。
古い友人達に確認しても、誰もBを知っている者は居なかった。Bと言う存在が世の中から消えてしまっていたのだ」
保條は、そう言うと、問いかけるような眼差しを俺に向けてきた。
「どう思う――」
いや、そんな胡散臭い話をされて、どう思うと言われても。
だが、なるほど。
保條は、そんなことが自分の身の回りで起こっているのでは無いかと思っていると言うことか。
「しかし、存在していた人間が、記憶ごとこの世から消えて無くなるなんて」
人の存在とは、小説の登場人物のような点の存在では無い。
他の人々と繋がる星の数ほどの因果とともに有る。
何十年、因果を遡れば何百年かもしれない繋がりが、何の不都合もないように調整されて一瞬で消滅する。
もし、人の歴史が消える事があるとすれば、そういう事じゃないのか?
「あり得ないだろ――と、言うか、無理ゲーだろ。固有の量を持つ物体が消えるだけでもあり得ないのに、人の因果まで消滅するなんて」
もし、有ったとしたらソレでは――。
「この世の全ては移ろいやすく、滅は生から移ろい生は滅より移ろう。
全ての存在は次の瞬間に無へと変わる。この世の形のある物は仮の姿なのだ」
突然、保條が訳のわからない事をしゃべり出す。
「な、なんだ、そりゃ?」
「般若心経だよ」
「般若心経――って、お経か?ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃーていって奴か?」
そこしか知らないが。
「ソレの意訳だ」
保條――なんでオマエは、そんなものを知っているのだ?
「その後に、
今ある身体も心もいずれ移う。オマエの求め欲する物、オマエを苦しめている物も、やがて移ろう幻なのだ。
と、続く」
保條は、そう言って少しの間、何かを考えるように口を閉ざしていたが、俺と目を合わせ直して口を開いた。
「ホントにそれが真実だとしたら?
世の中って言うのは、俺達が思っている以上に不確定なモノなんじゃ無いんだろうか?
俺達は――、世の中のすべてが存在していると思っている。だが、その存在だと思うモノそのものが、実は、無に等しいモノだったとしたら」
ちょっと、何を言っているのか判らない。
まあ、とにかく。
「あくまで、秋山という存在は人事の言うように最初から無かったのでは無くて、オマエが言うように、突然無くなってしまった、と言うことか?」
「そう、移ろって行き、幻になってしまったんだ。誰も覚えていない」
「あれ?」
保條の言葉に、俺は何か違和感を感じた。
誰も覚えていない?
いや、誰もじゃない。
「気が付いたか?」
保條が半目状態でじっとりとした視線を俺に向けて来た。
「もし、『自分だけの友達』の様なことが起こっているのだとしたら、何故、そんな幻となってしまったモノを。俺だけが秋山を覚えている?」
それだ!俺もそれが気になった。
「何故だ!!」
保條が俺に詰め寄り、叫ぶ。
「消える前の秋山は、オマエと凄く仲が良かった――から?――とか――?」
俺は何も思い浮かばず、さっき聞いた話の中でも、確か仲の良いAだけが覚えていたと言う話だった事を思い出して、そんな適当な事を言ってみた。
保條は首を振りながら口を開く。
「残念ながら、秋山と一番仲が良かったのは、オマエだ」
「えっ、そうなの?」
心底ビックリして声が裏返る。
なるほど、だから俺に声を掛けたのか。
だが、そうすると。
もしも、ホントに秋山という人物が忘れ去られてしまったとするならば、保條だけがそいつを覚えている理由は何だ?
そんな俺の気持ちを見透かしたように、又しても保條が突拍子も無いことをのたまう。
「死神って知ってるか?」
「今度は何だ?」
「死神だよ――冥途のお迎え。死にそうになった奴の前に現れる」
「ああ、でっかい鎌もって黒い頭巾かぶったドクロ顔の有名な奴?」
俺がちゃかし気味に、大鎌を振り回す手振りを交えて答えると、保條は2度頷いた。
「死神が見えるようになる条件の一つに、死が近づいていると言うのがあるようだ」
ああ、なんかソレっぽい話だな。
「それが?」
俺は、話を促す。
「それは、自分が死の世界に近づいたから。つまり、死の国の住人になろうとしているから、死の世界のものが見え始めるのだって事らしい」
おい、それって。
「俺は今、秋山に近い位置にいるのだとしたら?死神に近い世界に居るから死神が見える。なら、俺が秋山に近い位置にいるから秋山を忘れないんじゃ無いんだろうか?」
その仮定からだと必然的に導かれる推測はひとつ。
「次に消えるのは俺かも知れない」
「ちょっとまて、ちょっとまて」
真顔で怖いことを言う保條を、両手を振りながら制した。
「オマエの考えてる事は判った、理解した。だがな――」
そこまで言って、言葉に詰まる。
座り直し、コーヒーを口に運び一口啜る。
今までの話は、すべて保條一人の考えだ。
状況証拠も何も無い。
そう、すべてこいつの妄想なのだ。
どう考えても、そう考えるのが正しい。
「やっぱり、オマエ疲れてるんだよ。とりあえず一回医者に行け。な?、な?」
俺の言葉に保條はうなだれる。
それに――。
俺は、窓の外に視線を移した。
外に広がる見慣れた町並みには、すっかり|黄昏時《たそがれどき》が広がり、薄暗くなっていた。
よりにもよって、般若心経だぁ。
『この世の全ては移ろいやすく、滅は生から移ろい生は滅より移ろう』
この町並みが、そしてこの俺も――すべて幻だというのか?
現実なんか無い。あるような気がするだけだって事か?
かりにそうだとしても――、何故消える。
引き金は何だ?
「般若心経の教えが行き着く先――」
ふと、声に出る。
「あれ?」
そして――。
あまりにも馬鹿馬鹿しいその考えに思い当たってしまった。
思わず苦笑いし、俺は視線を店内に戻しながら言った。
「なあ、保條――ソレって『悟』ったて事になるのかな?」
正面に向き直り、保條と目を合わせる。
……合わない。
保條がいない。
ふと、テーブルの上にコーヒーカップがひとつしか無いことに気づく。
店内を見回す。
カウンターの椅子に腰掛けて休憩しているバイト娘を見つけ、声を掛けた。
「はい、なんでしょう?」
バイト娘は軽い足取りで俺の脇までやってくるとそう言って微笑んだ。
「俺の連れは何処に言った?」
俺の言葉にバイト娘は難しい顔をしながら必死に微笑んでいる。
「俺の正面に座っていた保條は何処へ行ったか?って聞いてるんだよ!」
顔を歪め、泣き出しそうになりながら叫ぶ俺に、バイト娘は満面の営業スマイルで言った。
「お客さん、入って来た時からずっとお一人でしたよ」