私が家庭教師の仕事を始めたのは、大学二年生の春だった。アルバイトとしては時給が良く、何より一対一で教えることに興味があった。「エクセレント家庭教師センター」という派遣会社に登録してから三ヶ月が過ぎた頃、担当の田中さんから久しぶりに電話がかかってきた。
「お疲れさまです。新しい案件があるんですが、どうですか?」
田中さんの声は相変わらず事務的だった。私は手元のノートを開きながら返事をした。
「はい、ぜひお願いします」
「中学二年生の女の子で、数学と英語を週二回見てもらいたいとのことです。場所は青葉台のマンションで、時給は二千五百円。どうでしょう?」
条件は申し分なかった。青葉台なら電車で二十分程度だし、時給も悪くない。私は二つ返事で引き受けた。
「ありがとうございます。それでは明日の夕方、詳細をメールでお送りします。初回は明後日の土曜日、午後二時からでお願いします」
電話を切った後、私は少し興奮していた。中学生の女の子の家庭教師は初めてだった。今までは小学生の男の子や高校生の男子ばかりだったので、少し緊張もしていた。
翌日の夕方、約束通りメールが届いた。
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件名:【案件詳細】青葉台マンション 中2女子
お疲れさまです。
以下、案件の詳細です。
生徒名:山田 美咲
学年:中学2年生
科目:数学・英語
頻度:週2回(土曜・水曜)
時間:各2時間(14:00-16:00)
住所:青葉台3-15-8 グランドメゾン青葉台 702号室
最寄り駅:青葉台駅 徒歩8分
初回は保護者の方もいらっしゃる予定です。
よろしくお願いいたします。
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私は住所をスマートフォンの地図アプリで確認した。青葉台駅から徒歩八分、築十年程度の中層マンションのようだった。外観も綺麗で、セキュリティもしっかりしていそうだ。
土曜日の朝、私は準備を入念に行った。中学二年生の数学と英語の参考書、問題集、ノート、筆記用具を鞄に詰め込んだ。服装も清潔感を意識し、紺色のジャケットに白いシャツ、グレーのスラックスを選んだ。
青葉台駅に着いたのは午後一時三十分だった。メールの住所を頼りに歩いていくと、確かにグランドメゾン青葉台という看板が見えてきた。十二階建ての綺麗なマンションで、エントランスには管理人らしき中年男性が座っていた。
「すみません、702号室にお伺いしたいのですが」
管理人は私を上から下まで見回してから、内線電話に手を伸ばした。
「702号室の山田さんに家庭教師の方がお見えです」
しばらく待っていると、エレベーターから小柄な女性が現れた。四十代前半くらいだろうか。髪を後ろでまとめ、薄いメイクをした上品な印象の女性だった。
「家庭教師の田村と申します。よろしくお願いいたします」
私は深く頭を下げた。
「こちらこそ。山田です。娘がお世話になります」
山田さんの声は少し緊張しているようだった。エレベーターで七階まで上がる間、私たちは軽い世間話をした。
「美咲は数学が特に苦手でして。英語も文法でつまずいているようで」
「承知いたしました。まずは現在の理解度を確認してから、適切な指導計画を立てさせていただきます」
七階に着き、廊下を歩いていく。7-01、7-02……そして702号室の前で山田さんが立ち止まった。ドアの表札には確かに「山田」と書かれている。
「お入りください」
ドアを開けると、清潔で落ち着いた雰囲気のリビングが広がっていた。白を基調とした内装に、濃い茶色の家具が配置されている。テーブルの上には既に教科書やノートが用意されていた。
「美咲、家庭教師の先生がいらしたわよ」
山田さんが奥の部屋に向かって声をかけると、しばらくして一人の女の子が現れた。肩まで伸びた黒髪に、少し内気そうな表情。制服ではなく、薄いピンクのセーターに紺のスカートを着ていた。
「美咲です。よろしくお願いします」
彼女の声は小さく、恥ずかしそうに頭を下げた。
「田村です。一緒に頑張りましょうね」
私は優しく微笑みかけた。
最初の授業は予想以上に順調だった。美咲は確かに数学の方程式で躓いていたが、理解力は決して悪くない。丁寧に説明すると、次第に表情も明るくなってきた。
二時間があっという間に過ぎ、授業を終える頃には美咲も随分とリラックスしていた。
「今日はありがとうございました。次回は水曜日の同じ時間でよろしいでしょうか」
山田さんが玄関まで見送ってくれる。
「ええ、お願いします。美咲も『わかりやすい』と言っていました」
帰り道、私は満足感に包まれていた。新しい生徒との初回授業は成功だったと思う。美咲も最初の緊張が解けて、積極的に質問してくれるようになった。これなら成績向上も期待できそうだ。
水曜日の授業も順調だった。美咲は前回の復習問題をしっかりとやってきており、新しい単元への理解も早かった。ただ、一つだけ気になることがあった。
授業中、美咲がときどき窓の外を見て、何かを探すような仕草を見せるのだ。最初は集中力が切れただけかと思ったが、毎回同じような行動を取る。
「美咲ちゃん、なにか気になることでもある?」
ある日、私は思い切って聞いてみた。
「あ、いえ……なんでもないです」
彼女は慌てたように首を振ったが、その表情には何か言いたげなものがあった。しかし、それ以上追求するのは適切ではないと判断し、私は授業を続けた。
それから二週間が過ぎた。美咲の成績は確実に上がっており、山田さんも喜んでいた。
「本当にありがとうございます。美咲の学校での数学のテストも八十点を取れました」
「それはよかったです。この調子で頑張りましょう」
しかし、私の心の中にはある疑問が芽生え始めていた。美咲の話す学校生活の内容が、どこか現実感に欠けるのだ。友達の名前や担任の先生の話も、なんとなく抽象的で具体性がない。
また、山田さんについても気になることがあった。毎回、私が到着する直前にマンションのエントランスに現れ、授業が終わると必ず玄関まで見送ってくれる。一見すると丁寧で礼儀正しい対応なのだが、なぜか他の部屋の住人に会ったことがなかった。
これらの疑問を抱えながらも、私は授業を続けていた。美咲は良い生徒だったし、成績も順調に上がっている。些細な違和感など、深く考える必要はないだろうと思っていた。
ところが、ある土曜日の授業で決定的な出来事が起こった。
いつものようにエントランスで山田さんと合流し、二人でエレベーターに乗る。ふと目をやると、私が押す前からすでに7階のボタンが点灯していた。誰かが先に押したのだろうか。でも、私たちが乗ったとき、エレベーター内には誰もいなかった。
「あれ? 7階のボタンがすでに……」
私が呟くと、山田さんは何も答えなかった。いつものような穏やかな表情のまま、ただ静かに立っていた。
エレベーターが7階に着き、ドアが開く。廊下は静寂に包まれていた。702号室のドアも静かに閉まっている。私は首を振った。きっと気のせいだろう。
しかし、授業を終えて帰るとき、私は振り返った。7階の窓を見上げると、702号室らしき部屋の窓からカーテンの隙間に人影が見えたような気がした。
その夜、私は一人のアパートで考え込んでいた。美咲や山田さんに対する違和感の正体が何なのか、どうしても分からなかった。彼らに特別おかしなところがあるわけではない。授業も順調だし、支払いも毎回きちんとしてもらっている。
それでも、何かが引っかかっていた。
転機が訪れたのは、それから一週間後のことだった。水曜日の午後、いつものように青葉台駅から歩いていると、携帯電話が鳴った。エクセレント家庭教師センターの田中さんからだった。
「お疲れさまです。実は大変申し訳ないことがありまして……」
田中さんの声には明らかに動揺が含まれていた。
「どうされましたか?」
「青葉台の山田さんの件なんですが、実は住所に間違いがありました」
私の足が止まった。
「間違い……ですか?」
「はい。正しくは同じマンションの802号室だったんです。7階ではなく8階の……本当に申し訳ありません」
頭の中が真っ白になった。私はこの一ヶ月間、間違った部屋に通っていたということなのだろうか。
「あの……それでは私が教えていた美咲さんは……」
「それがわからないんです。802号室の山田さんに確認したところ、『家庭教師の先生は一度も来ていない』とおっしゃるんです」
電話口の向こうで、田中さんが資料をめくる音が聞こえた。
「田村さん、大変お手数ですが、今日は802号室の方に伺っていただけますでしょうか。正しいご家庭にご挨拶をして、改めて授業を開始していただきたいと思います」
私は混乱していた。それでは今まで私が教えてきた美咲は誰だったのか。702号室の山田さんは何者だったのか。
「わかりました。今日は802号室に伺います」
電話を切った後、私は立ち尽くしていた。通りを歩く人々が普通に見えるのに、自分だけが現実から切り離されたような感覚だった。
グランドメゾン青葉台に着くと、いつものように管理人が受付にいた。私は意を決して尋ねた。
「すみません、802号室の山田さんはいらっしゃいますか?」
管理人は内線電話に手を伸ばした。
「802号室の山田さんに家庭教師の方がお見えです」
しばらくすると、エレベーターから一人の女性が現れた。私が知っている山田さんとは全く違う人だった。五十代前半くらいで、少しふっくらとした体型。髪は短くカールしており、明るい色のカーディガンを着ていた。
「田村さんですね。お待ちしていました」
この女性の声は明るく、温かみがあった。702号室の山田さんとは全く違う印象だった。
エレベーターで8階に上がりながら、私は混乱していた。この女性が本当の山田さんなのだろうか。それでは今まで私が会っていたのは誰だったのか。
802号室のドアを開けると、生活感のある温かいリビングが広がっていた。壁には家族写真が飾られ、テーブルの上には宿題らしきプリントが散らばっている。702号室とは全く違う雰囲気だった。
「美咲、家庭教師の先生よ」
奥の部屋から現れたのは、私が知っている美咲とは似ても似つかない女の子だった。髪は短く、眼鏡をかけており、少しふっくらとした体型。性格も明るく、人懐っこい笑顔を見せた。
「はじめまして! 美咲です。よろしくお願いします!」
彼女の声は元気で、屈託がない。702号室の美咲とは全く違う子だった。
「田村です。よろしくお願いします」
私は努めて普通に振る舞おうとしたが、頭の中は疑問でいっぱいだった。
この日の授業は集中できなかった。本当の美咲は確かに数学と英語で困っており、私の指導を必要としていた。しかし、私の心は702号室のことで占められていた。
授業を終え、802号室を後にするとき、私は決心した。702号室を確認しに行こう。
8階から7階へ降り、私は702号室の前に立った。ドアベルを押してみたが、応答はない。もう一度押してみても、静寂が続くだけだった。
「どなたかお探しですか?」
突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、掃除用具を持った中年女性が立っていた。マンションの清掃員らしい。
「あ、はい。702号室の山田さんを探しているんですが……」
女性は首をかしげた。
「702号室ですか? あそこはもう半年以上空き部屋ですよ」
私の心臓が激しく鼓動した。
「空き部屋……ですか?」
「ええ。前の住人が転勤で引っ越されてから、ずっと空いています。管理会社も新しい入居者を探しているはずですが……」
清掃員の女性は私の顔を心配そうに見つめた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
私は答えることができなかった。頭の中で今までの出来事が渦巻いていた。一ヶ月間、私は空き部屋で誰に授業をしていたのだろうか。美咲は誰だったのか。山田さんは何者だったのか。
「ちょっと具合が悪くなって……失礼します」
私は慌ててその場を離れた。エレベーターで1階に降り、マンションを出る。外の空気を吸っても、混乱は収まらなかった。
その夜、私は一睡もできなかった。携帯電話を何度も手に取り、田中さんに電話をかけようと思ったが、何と説明すればいいのか分からなかった。
「一ヶ月間、空き部屋で幽霊に勉強を教えていました」
そんなことを言えるわけがない。田中さんは私を精神的に不安定だと判断するだろう。
翌日の朝、私は意を決してマンションの管理会社に電話をかけた。
「グランドメゾン青葉台の702号室についてお聞きしたいのですが」
「702号室ですね。現在空室となっております。内見をご希望でしょうか?」
やはり空き部屋だった。私の記憶は正しく、清掃員の女性の言葉も事実だった。
「いえ、その部屋にいつ頃まで住人がいらしたか教えていただけますか?」
「少々お待ちください……昨年の9月に退去されています。それ以降は空室です」
昨年の9月。私が家庭教師を始めたのは今年の4月だった。つまり、私が通い始める7ヶ月も前から、702号室は空き部屋だったのだ。
その日の午後、私は再びグランドメゾン青葉台を訪れた。今度は管理人に直接尋ねることにした。
「702号室について教えていただきたいのですが」
管理人は台帳を確認した。
「ああ、702号室ね。去年の秋から空いてるよ。前の住人は単身の男性サラリーマンだった。佐藤って名前だったかな」
私の最後の希望が崩れ去った。
「それでは、最近その部屋にだれかが出入りしているということは……」
「ないね。鍵は管理会社が預かってるし、内見の予約も最近はないから」
管理人は私の表情を見て、心配そうに続けた。
「なにかあったのかい?」
「いえ、なんでもありません。ありがとうございました」
私はマンションを後にした。もう真実は明らかだった。私は一ヶ月間、誰もいない空き部屋で、存在しない生徒に勉強を教えていたのだ。
しかし、私の記憶は鮮明だった。美咲の顔、声、仕草。山田さんとの会話。部屋の内装や家具の配置。全てが現実のように思い出せる。
幻覚だったのだろうか。それとも何か超自然的な現象だったのだろうか。
その夜、私は家庭教師センターに電話をかけた。
「田中さん、実は702号室の件でご相談があります」
「はい、なんでしょうか?」
「あの部屋、実は空き部屋だったようなんです」
電話の向こうで、田中さんが息を呑む音が聞こえた。
「え……それはどういう……」
「管理会社に確認したところ、昨年9月から空室とのことでした。山田という名前の住人もいなかったそうです」
長い沈黙が続いた。
「田村さん、それでは今までだれに授業を……」
「わからないんです。でも確かに美咲という女の子に教えていました。成績も上がっていましたし、授業料も……」
そこで私は気づいた。授業料は現金で直接もらっていたが、そのお金は今どこにあるのだろうか。
慌てて財布を確認した。そこには確かにお金が入っている。しかし、よく見ると全て一万円札で、どれも古く、よれよれになっていた。まるで長い間誰かが大切に保管していたような……
そのとき、一万円札の中に小さく折りたたまれた紙が挟まっているのを見つけた。震える手でそれを開くと、丸っこい字で書かれたメッセージがあった。
—
田村先生へ
一ヶ月間ありがとうございました。
数学がとても分かるようになりました。
先生に教えてもらえて、本当に嬉しかったです。
また会えますように。
美咲
—
紙は古く、黄ばんでいた。まるで何年も前に書かれたもののようだった。
翌日、私は最後の確認をするために、もう一度マンションを訪れた。今度は違う管理人が受付にいた。年配の男性で、長年このマンションで働いているような雰囲気だった。
「すみません、702号室についてお聞きしたいのですが……特に以前の住人について」
男性は考え込むような表情を見せた。
「702号室……ああ、あの部屋か」
何かを思い出したような口調だった。
「実は十年ほど前、あの部屋で痛ましい事故があってね」
私の背筋に冷たいものが走った。
「事故……ですか?」
「ああ。当時中学生だった女の子がベランダから転落してしまったんだ。山田美咲ちゃんという子だった」
私は言葉を失った。美咲……まさに私が教えていた生徒と同じ名前だった。
「その子のお母さんも、娘を失ったショックで体調を崩されて、しばらくして引っ越していかれた。それ以来、あの部屋は何度か住人は変わったが、長続きしないんだ」
管理人は悲しそうに続けた。
「美咲ちゃんは勉強熱心な子だったらしい。特に数学が苦手で、家庭教師を付けてもらう予定だったと聞いている。でも、その約束の日の前日に事故が起こってしまった」
私の手が震えていた。全ての辻褄が合い始めていた。
「その家庭教師の先生は来られたんですか?」
「いや、事故のことを知って、結局来なかったそうだ。美咲ちゃんはずっと楽しみにしていたのに……可哀想にな」
その日の夜、私は美咲からの手紙を何度も読み返した。子供らしい丸い字で書かれた感謝の言葉が、胸に突き刺さった。
私は確かに美咲に勉強を教えた。彼女は確実に理解し、成長していた。テストで八十点を取ったと喜んでいた。それらの記憶は今でも鮮明に残っている。
しかし、美咲は十年前に亡くなっていた。家庭教師に勉強を教えてもらうことを楽しみにしながら、その約束を果たすことができずに。
もしかすると、美咲は十年間ずっと待っていたのかもしれない。約束の家庭教師が来てくれることを。そして私が間違って702号室を訪れたとき、やっと念願の授業を受けることができたのかもしれない。
私は美咲の母からもらったお金を大切にしまった。それが現実のものなのか、幻想なのかは分からない。でも、確かに私と美咲の間には一ヶ月間の授業があった。それは間違いない事実だった。
それから何年も過ぎた。私は今でも家庭教師の仕事を続けているが、あの一ヶ月間のことを忘れることはできない。
ときどき、青葉台を通りかかることがある。グランドメゾン青葉台を見上げると、7階の702号室の窓が見える。そこはまだ空き部屋のままだ。
美咲は本当にいたのだろうか。それとも私の妄想だったのだろうか。真実は誰にも分からない。
しかし、一つだけ確かなことがある。もし美咲が実在したのなら、彼女は最後まで熱心に勉強に取り組む、素晴らしい生徒だったということだ。
そして、もし彼女がまだあの部屋にいるのなら、きっと次の家庭教師を待っているのかもしれない。十年前に叶わなかった約束を、いつか必ず果たしてくれる人を。
私は今でもときどき、美咲からの手紙を読み返す。黄ばんだ紙に書かれた子供らしい感謝の言葉は、私にとって何よりも大切な宝物になった。
現実と幻想の境界は、時として曖昧になる。でも、家庭教師と生徒の間に生まれた絆は、たとえそれがどのような形であっても、確かに存在していたのだと信じている。
美咲、君に出会えて本当に良かった。短い間だったけれど、君は私にとって忘れられない生徒になった。そして、君が本当に数学を理解できるようになったことを、心から嬉しく思っている。
私も本心で、君と同じことを願っているよ。
いつの日か、「また会えますように」