永島和真(ながしま かずま)、22歳。
春に大学を出たばかりの彼は、いまだ定職につかず、ぼんやりとした就職活動を続けていた。
目指す業界もなければ、夢もない。都内の古びたワンルームに籠もり、気まぐれに面接を受け、気に入らない自己PRを何度も書き換える。そんな無為な日々が、淡々と流れていく。
将来への焦燥が、時折、思考の底をかすめることもある。
しかし、それが行動に変わることはなかった。変化を望む意志は、彼のなかでまだ輪郭を持っていなかった。
そんな和真には、人に言えない「習慣」があった。
ネット通販で次々に商品を注文し、配達が来ても応じない。インターホンが鳴っても動かず、音が止むのをただ待つ。
部屋にいるのに「不在を装う」。それが、彼の日常に組み込まれていた。
「面倒なんだよな、いちいち出るのが」
そう呟きながら、彼は今日もソファに寝転び、スマートフォンを指先でなぞる。画面の中では新製品やレビューが次々と流れ、外では誰かが彼のために立っている。
その事実だけが、妙に心を落ち着かせた。
けれども、それは単なる怠惰とは異なっていた。
配達員が玄関先に立ち、自分の反応をじっと待つ。その構図を思い描くと、不可解な高揚感が和真の中に湧き上がる。
彼は、他人が自分の一挙手一投足によって翻弄されることに、言い知れぬ満足を覚えていた。
玄関の向こうで止まったままの時間。その均衡を支配しているのは、自分だけ。
その感覚が、彼にだけ許された密やかな愉悦だった。
その夜も、変わらぬ手順が踏まれた。
安物のワイヤレスイヤホンを注文し、配達予定の通知を確認する。部屋の照明は最低限。音も気配もほとんどない。
唯一、スマートフォンのスクリーンが小さく光り、指先が画面をすべる音だけが、空間を切り取っていた。
インターホンが鳴る。短く、乾いた電子音。
それでも和真は顔を上げず、画面をスクロールし続ける。
「……明日でいいか」
その直後、玄関の外から微かな物音がした。
紙袋が擦れるような、薄く引き裂かれるような音。続いて、わずかな重量が床板を圧すような気配。
それは、配達員の足取りにしては不自然な軽さだった。
しかし和真は、身体を動かすことなく、ソファに身を預け続けた。
それがいつものルーティン。変わり映えのない、慣れ親しんだ夜の一幕。
扉の向こうに何があろうと、気にかける理由はなかった。
――ただ、そのときふと、和真の脳裏にある疑問が浮かぶ。
(あれ……この荷物、ポスト投函じゃなかったか?)
何気なく確認したはずの配達方法。それが突然、記憶の中で不鮮明になっていた。
その瞬間、画面を撫でる手が止まり、部屋に沈黙が落ちる。
けれど、それ以上は何も起こらなかった。和真はソファに深く沈み、そのまま目を閉じる。
わずかに、指先が湿っていた。
—
翌朝。
郵便受けに突き刺さるように差し込まれた不在票は、紙の角がめくれていた。
和真は寝起きのままそれを手に取り、視線を落とす。
裏側に、不穏な走り書きがあった。
――「次はちゃんと出てくださいね」
指が止まる。空気が固まったようだった。
業者の伝言にしては異様に個人的で、不気味だった。
黒インクは明らかに強く押しつけられており、文字の周囲にはわずかな滲みと、繊維のささくれが見える。
筆跡は乱れており、ただ急いだだけでは出せない歪みが含まれていた。抑えきれない情念が筆先に乗っていたような、そんな痕跡。
「……は?」
口から漏れた声は、室内の空気に呑まれ、消えた。
背筋が妙な温度を帯びる。冷房は止まっており、窓も閉まっているのに、部屋の後方だけが急に重く感じられた。
何かが、そこにある気がした。
和真は反射的に振り返った。
家具も配置も、視界に入るものはすべて変わらない。日常の光景そのままのはずだった。
しかし、目に映るはずの景色が、どこか歪んで見える。
熱の揺らぎのように、空間が微細に撓んでいた。視線の先、壁際の空気だけが、ごくわずかに波打っている。
見えない何かがそこに触れている――そんな予感が、知覚の縁をかすめた。
数歩、後退する。
そのとき足元を掠めた感触は、自身の肌の延長ではなかった。
薄くて湿ったものが、皮膚を撫でた。内側ではなく、確実に「外」からの接触だった。
ぞっとするような感覚だけが、和真の身体に残った。
—
その夜、和真は陽翔(ようしょう)とオンライン通話をしていた。
何気なく、不在票に書かれていた奇妙な一文を話題にすると、陽翔の声色が変わった。
「……おい、それ、“居留守の怪異の話”に似てないか?」
「え?」
「たしか、ネットのまとめで読んだやつだ。配達を無視し続けたやつの家に、“それ”が現れるっていうやつ。深夜、ドアの隙間から忍び込んで、気づいたらもう中にいるって話だった」
「なにそれ、雑すぎんだろ。そういうの信じてるわけ?」
和真は失笑し、スマホを持ち直す。
しかし、陽翔の口調には冗談の気配がなかった。
「投稿者が、実際に体験したって書いてたんだよ。最初は配達の紙に、普通じゃないメッセージが残ってて……そこから部屋の雰囲気が変わるんだって。空気が濁ってくる。最終的には、頼んでもいない荷物が届き始めるらしい。中身は、誰も語ってないけど」
「おいおい、マジで言ってんの? 脅かすなよ……」
「違う。……なんか引っかかって。変なことが続いたら、すぐ連絡しろよ」
その言葉の直後、通話は途切れた。
画面が消える寸前、イヤホン越しに「ピン……」というかすかな電子音が耳を打った。
通知音でも着信音でもない。爪先で硬質な面を弾いたような、乾いた音だった。
和真はスマホを伏せ、ベッドに身体を横たえた。
数分も経たないうちに、眠気が波のように覆いかぶさり、意識が深く沈んでいく。
――夢が始まった。
玄関の向こう側から、音もなく何かが這ってくる。
ドアが、音を立てずにほんのわずか開き、その隙間から長い影がすべり込んでくるのが見えた。
その輪郭はどこか歪んでいて、全体が霞んでいた。
制服のような布をまとっているのがぼんやりと見えたが、顔だけはどうしても見えない。焦点を合わせようとするたび、そこにだけ白い霧が立ちこめるようにぼやけ、視線をはね返してくる。
影は、粘液のごとく床を滑るように近づいてくる。
叫ぼうとしても声は喉に張りつき、四肢は石のように固まり、全く動かせなかった。
そして、次の瞬間。
影の腕が伸び、和真の身体に触れた――と思った刹那、内側から何かが崩れていくような感覚に襲われた。
皮膚ではなく、もっと奥深い部分が削られていく。自身の輪郭そのものが、侵食されていく感触。
はじき返されるように目が覚めた。
部屋の空気が異様に重い。湿り気が残るはずの室内なのに、空気はどこか乾いていた。
シャツは肌に張りつき、息が浅い。冷房は止まっていたが、背筋だけが妙に冷え込んでいる。
時計を見ると、午前3時を過ぎていた。
夢の中の気配がまだこの部屋に染みついている気がして、和真はそっと身を起こす。
水を飲もうとキッチンへ向かったが、玄関前で足が止まった。
空気の流れがそこだけ異質だった。
風のようなものが、見えない膜を揺らしている気配。
彼は一歩だけ近づき、耳をすませた。音はない。
けれども、ドアの隙間から、ごくかすかな風が吹き込んできているのがわかる。季節を無視した温度――夏の深夜には不釣り合いな、芯を刺すような冷気だった。
「……鍵、閉めたはずだよな?」
和真は慎重にノブを確認した。施錠はされていた。
だが、金属の縁には、針のようなもので引っかいたような跡が何本も刻まれている。
外部から何かが侵入しようとした痕跡か。あるいは、すでに通過している“証拠”なのか。
和真の視線が、自然と部屋の隅へと流れる。
その瞬間――視界の端に、わずかな揺れが映った。
黒煙のような塊が、壁際に立っていたように見えた。
すぐにそちらへ目を向けたが、そこには何もいなかった。
—
翌日、和真は再配達を依頼した。昨夜の異様な夢も、陽翔の話も、頭には残っていた。けれど、それを現実と結びつけるには、まだ理屈が追いつかなかった。
夜、チャイムが鳴る。
モニターには、配達員と思しき男が映っていた。帽子を深くかぶり、顔の輪郭すら見えない。やけに静止したままで、映像が止まっているかのようだった。
「永島様、荷物のお届けです」
声がスピーカーから流れる。抑揚がなく、録音のような響きだった。和真は迷いながらも、ゆっくりとドアのロックを外す。
扉を開けると、そこには誰の姿もなかった。
足元に、ひとつの小包。そこに誰かが立っていたことなど、最初からなかったように、空間は沈黙していた。
「……また、これかよ」
拾い上げて開封すると、中から出てきたのは、期待していたイヤホンではなく、黒い布の切れ端だった。白糸で縫われたひとこと――《不在》。
指先が微かに震える。意味がわからない。理解が追いつかない。
困惑のまま、和真は配送会社へ電話をかけた。コール音のあと、事務的な女性の声が応答する。
「お調べいたします。……申し訳ありません、そのような荷物の記録はございません」
「いや、でも今さっき受け取ったんですけど――」
会話を遮るように、オペレーターは続けた。
「お客様……最近、不在票を放置していませんでしたか?」
「……え?」
「配達員は、きちんと届けたかったんです。どうか、次は応じてくださいね」
その言葉に、背筋が粟立つ。昨日、不在票の裏に書かれていたのとまったく同じ文言だった。
和真が絶句した瞬間、電話が無音のまま切れた。部屋の照明が小刻みに明滅し、蛍光灯が細かく揺れる。
その晩、和真は再び夢を見る。
玄関を叩く音。ゆっくりと、しかし確実に強まっていく振動。
――ドン、ドン、ドン、ドン。
逃げ場がなくなっていく感覚。やがて扉が開く。そこにいたのは、顔のない配達員だった。
頭部がないことに気づいたのは、視線の高さが合わなかったからだ。体の中心にぽっかりと空いた空白。その両手には血の滲んだクリップボードが握られていた。
紙にはただ、赤黒い液体でこう記されていた。
《不在》
そして、その影がぬめるような動きで室内へと足を踏み入れたとき――
和真は飛び起きた。
呼吸が荒く、喉が渇いていた。額に滲んだ水滴を拭い、寝具から起き上がる。何かがおかしい。空間に染み込んだ異様な静寂。空気がまとわりつくように重たい。
手探りで灯りを点けようとしたとき、指が紙の端に触れた。
枕元に、不在票が置かれていた。
受取人名も住所も記されていない。だが、そこには大きく、赤い字でこう書かれていた。
――「今夜」
—
翌日、和真は陽翔に相談した。画面越しの彼は、陰を帯びた表情で言葉を選んだ。
「それ、事故で亡くなった配達員の霊らしい。ネットで見たけど、居留守を使った家に夜中、這って入ってくるって話だ」
和真は息を呑んだ。否定するつもりが、声が震えて言葉を呑み込んだ。
「……冗談だろ」
陽翔は真剣なまなざしで続けた。
「塩を玄関に盛れ。隙間もテープで塞げ。何があってもドアは開けるな。変な音がしても無視して寝ろ」
藁にもすがる思いで、和真は近所のスーパーで塩を買い、玄関の四隅に盛った。細いテープでドアの隙間を塞ぎ、震える手で作業を終えた。
夜が更け、午前2時。床に重い振動が響く。
――ドンドン、ドンドン。
和真は飛び起きてモニターを確認したが、映るのは静寂だけ。音だけが部屋を揺らしていた。
「誰だ……?」
叫んだ声は虚しく、振動は一層激しくなる。まるで建物全体が叩かれているかのようだった。
突然、音が途絶えた。張り詰めた空気に包まれたその時、ドアの下の隙間から、墨の染みのような黒い影がゆっくりと広がった。
その姿は人の形を留めているが、異様に細長く、関節は折れ曲がり、壁を這う不自然な動きで音を立てていた。骨がきしむような音が室内に響き渡る。
■ピンポーン
突如鳴り響くチャイムの音に、その影は蔓のように素早く床を滑り、和真の足元へ迫った。動きは異常に速く、恐怖が身体を凍らせる。
「やめろ!」
和真の声は震えた。影はぴくりとも動かず、じっと彼の顔を見据えていた。沈黙の後、歪んだ声が響く。
「不在……でしたよね?」
その声はあの日の配達員そのもの。しかし歪み、擦れ、濡れたスピーカーから漏れるノイズのように冷酷に響いた。
影は再び動き出し、ゆっくりと和真へ近づく。確実な歩みは容赦なく、やがて彼の足元を黒い塊が包み込んだ。空気がひんやりと変わり、息が詰まりそうになる。
「次は君だよ」
その囁きは暗闇の中、遠くから響くかすかな足音のように、確かに彼の鼓膜を揺らした。和真は身動きできず、その場に固まっていた。
—
その影は足音ひとつ立てず、気配を消しながらじわじわと存在感を増していった。室温が急降下し、肌を這うような冷気が和真の体にまとわりつく。電灯が断続的に揺らぎ、空気が重苦しく重く沈み込む。あらゆる雑音が消え失せ、周囲は影の動きだけに支配されたかのように凍りついた。
和真は震える手で塩を掴み、投げつけてみた。けれども、粒は影をかすめて床に散らばるだけだった。無意味な行動だと悟るや否や、絶望が胸を押しつぶす。
「なんで俺が……!」
声を上げようとした瞬間、影は動きを止めて和真の目をじっと捉えた。黒い靄に包まれた視線は、深い闇の中から這い出したかのように刺すようだった。
「お前が……無視したから」
声はささやくように静かだが、重みが伴い、複数の低い呟きが重なり合って耳元で響く。あたかも悠久の怨念が一斉に囁くように、和真の頭を締めつける。
その言葉とともに、昨日の記憶が蘇る。不在票を無視した自分の過ち。陽翔の言葉も一緒に浮かび、事故死した配達員の恨みがこの影に宿っているのだと理解した。
「待ってくれ! 俺はただ……」
言い訳を口にするより早く、影が急激に接近してきた。背後から冷たい何かが迫り、和真は息を呑む。気づけば、鋭く冷えた手が彼の胸を掴んでいた。
圧倒的な力が体を締め付け、呼吸は浅く乱れ、視界は狭まっていく。顔色は青ざめ、肺を満たす空気が急激に減っていく。手の感触は鋭く、まるで心臓を直接押さえ込むかのようだった。
その時、影の囁きが耳に届く。
「私は、届けたかっただけなのに……」
ただの呟きだが、深い悲哀と憤りが混じっていた。和真はその言葉の重さに押し潰され、恐怖と後悔が押し寄せる。
霧の中から一瞬だけ、男の顔が浮かび上がった。それは、もはや人の顔とは呼べないほどに歪んでいた。血まみれの顔が、トラックのフロントガラスに突き刺さったように崩れている。その目は見開かれ、和真をじっと見つめていた。見ることができなかったその顔が、今、はっきりと目の前に現れる。
その凄惨な光景に、和真の身体は硬直し、呼吸も止まりかけた。目は魂を穿ち、肉体を越えて深く刻み込むように迫ってくる。
意識が遠のき、視界が完全に闇に覆われた。
—
和真が意識を取り戻したのは、病院のベッドの上だった。
目に映るのは、薄暗く鈍く光る天井。蛍光灯は不安定にちらつき、身体には包帯が巻かれている。
肌に走る鋭い痛みと、脈打つような圧迫感が全身に広がっていた。どこか異様で重苦しく、内側から何かに締めつけられているようだった。
どうやってここに運ばれたのか──記憶が曖昧だった。
最後に覚えているのは、黒い影が胸を掴み、視界が闇に沈んでいった瞬間。
そのあとのことは、すっぽりと抜け落ちていた。
けれど、あの冷たい感触と、歪んだ顔だけは、今も瞼の裏に焼きついて離れなかった。
「心臓発作の一歩手前でした」
医師の無機質な声が部屋に響く。
「原因は特定できていませんが……」
和真は言葉に返すことなく、その重みをかみしめた。身体の奥で何かが壊れかけている予感が消えない。部屋の静寂は長く、異様な時間が続いているように感じられた。
退院後、和真はあの日の記憶に取り憑かれるようになっていた。
どうしても気になって、地元の事故記録や過去のニュースをネットで探り続けた。
そして、ある小さな記事にたどり着いた。
――「深夜、配達員がアパート前でトラックごと事故死」――
半年ほど前、この街で起きた出来事だった。ブレーキ痕はなく、運転操作の痕跡も見られなかったと報じられていた。
その中に、ひとつだけ気になる記述があった。
> 「再配達が何度も無視され、苛立っていた可能性がある」
事故直前の行動は不自然で、身元を示す書類も紛失しており、氏名は最後まで報道されていなかった。だが、その一文が和真の脳裏に深く刻まれた。
まるで、“あの日の声”が、紙面を通して語りかけてくるようだった。
それから彼はネット通販を断った。それでも、インターホンの音が鳴るたびに、内側から冷たい波が押し寄せる。音は遠くからじわじわと近づき、逃れられない不安を増幅させた。
何より恐ろしいのは、夜な夜な繰り返されるあの音だった。
ドンドン。
ピンポーン。
最初は疲れのせいだと自分を誤魔化した。けれど、次第にそれは現実となり、毎晩和真を苛んだ。音の後には、不気味な影が闇の中に浮かび上がる。ゆっくりと、忍び寄るようにドアの隙間から這い出てくる。
「不在……でしたね?」
凍りつくような声が部屋の隅々に広がる。声の主は見えない。和真は息を呑み、震える手で辺りを探すが、誰もいない。ただ、その言葉だけが確かに耳元で囁かれていた。
毎晩、決まった時間になると、声は一層鮮明に、そして不気味に響く。無視しようとしても逃げられず、闇が近づくたびに鼓動は高鳴り、指先はひやりと震えた。次に声が響いたとき、その正体を直視できるだろうか。いや、見たくはない。けれど、その存在はあきらかに、音もなく忍び寄ってきている。