学校から帰ってきたゆきが、夏休みのしおりを冷蔵庫に貼った。
丸いマグネットひとつだけで留めたA4の紙は、左右に首を振る扇風機の風で、パタパタとめくれては戻るを繰り返している。
「お母さん、ひいばあちゃんって、お話するの難しい?」
ひいばあちゃん、私にとっては祖母にあたるトミばあちゃんは認知症になり、2年前から施設で過ごしている。
「会話って意味ではちょっと難しいかもしれないけど…どうかなぁ?」
「あらぁ~、介護士の福田さんは、ご機嫌な時はおしゃべりしてるって言ってたわよ~」と、台所に来た母のけいこが言う。
冷蔵庫の中で冷やしてある麦茶ポットからトクトクトクトク…と、コップに注いだ麦茶を飲み干した母は、シンクにコップを置いて、「私、明日早番だから先に寝るわよ~」と、さっさと布団に入ってしまった。
ビルの清掃員のパートをしている母は、早番勤務の前日は早めに布団に入る。
朝6時には現場集合なので、美容師として働く私が起きる頃には母の姿はもうない、なんてこともざらにある。
「じゃあ、明日の面会は、ゆきも一緒に行く? 明日から夏休みでしょ?」
「うん、行く。」と、ゆきも飲み干した麦茶のコップをシンクに置く。
コップに残った氷がカランと涼しげな音を立てた。
「戦争について調べろって宿題あってさ、ひいばあちゃんなら何か聞けるかな~って。」と言い、冷蔵庫に貼った紙の下の方を、もうひとつ丸いマグネットで留めて、ゆきはお風呂へ向かった。
トミばあちゃん、昔のこと覚えてるかなぁ。
そういえば私も尋ねたことあったけど、何か話してくれたかなぁ、と、3人分のコップを洗いながら、夏休みのしおりの宿題欄を確認した。
「トミさん、今日はお孫さんとひ孫さんが来ましたよ~」
居室を訪れると、介護士の福田さんが祖母に優しく声をかけ、トントンと肩を叩いた。トミばあちゃんはわたしたちの顔を、しばらく交互に眺めた後、ポンっと空気が抜けるみたいに笑った。
「あらぁ…こんにちはぁ。」かすれた声で、一文字一文字ゆっくりと音を出す。
残念だが、これは私たちを誰だか認識していない時の反応だ。仕方ない。
「今日はお風呂に入ったから、トミさんご機嫌なんですよ、ね?」
最後の「ね」は、祖母を覗き込みながら微笑む福田さん。
顔は優しいのに身体はがっちりしていて背も大きい。
半袖の爽やかな青いポロシャツから伸びる、日焼けした腕は筋張っていて、「自分、力持ちです!」と、腕だけで十分に語っている。
こういう人に介護してもらえると安心だな~なんて、偏見が重く首をもたげる。
介護の仕事は本当に大変だから、していただいている側からはなかなかお願いしづらいこともあるが、物理的にも心理的にも安心させてくれる福田さんとは、プライベートな話もよくするようになっていた。
確か私より少し年下だったと思う。
「実は娘が、夏休みの宿題で、戦争について調べてくるって課題があるらしくて。
祖母は太平洋戦争を経験しているから、話を聞きたいみたいなんですけど、どうですかねぇ…。」
わずかに福田さんの眉毛がハの字になったような気もしたが、
「そうか、宿題かぁ、偉いねぇ。」と、ゆきを手招きして、祖母のベッド脇の丸椅子をひき、座らせてくれた。
「トミばあちゃん、戦争の時ってさぁ…」「食べ物って…」「何して遊んでたの?」「学校は行ってたの? どんなこと教わってたの?」
さっそく鉛筆と自由帳を取り出し、前のめり気味で話しかけるゆきの言葉に、祖母は首をかしげたり、開けているのか閉じているのか分からない目で宙を見つめたりと、反応が鈍い。
福田さんが「もう少しゆっくり聞いてみて」「耳元で言ってみようか」などとアドバイスをしてくれている横で、私は持参した着替えをタンスにしまい、持ち帰って洗濯する服を仕分けしていた。
「学校の友達は?」「空襲の時って…」なかなか欲しい答えが返ってこないことにもめげず、表現を変え、言葉を変え、質問を続けるゆき。
すると祖母は急に眼を見開き、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き始めてしまったのだ。
弱々しい声を上げながら、手を空中でバタバタとさせる異様な光景に、ゆきは驚いた様子でガタっと椅子から立ち上がり、ベッドから離れた。
「トミさん、トミさん、大丈夫ですよ~」と、優しく背中をさする福田さんを部屋に残し、私はゆきの手を引いて部屋を出た。
しばらくして、福田さんが出てくる。後ろ手にそっと扉を締めながら、祖母は寝ついたと告げた。
「お嬢さん、びっくりしちゃいましたよね。
よくある…と言ったら語弊がありますが、戦争を体験された方の中には、当時のことを思い出すとパニックになってしまう方も、少なくないんですよ。」
…ということは、思い出していたのだろうか?
「それは認知症でも、ですか?」とたずねると、
「そこの関連性は、すみません専門的なことは正直分からないです。
でも、認知症の人ほど、とでもいいますか、忘れてしまいたいほど辛い、地獄のような経験の記憶に、ただ蓋をしているだけなのかもしれませんね」と返す福田さん。
自分が何か悪いことを言ってしまったのではないかと、ずっとバツが悪そうな顔をしていたゆきに、「大丈夫。お嬢さんのせいではないよ。」とフォローしてくれた福田さんは、
「そういえば、郷土資料館は行ったことある? ちょうど今、戦争体験者の書いた絵が、証言と一緒に展示されているよ。」と教えてくれた。
「もし良かったら、ふみこさん、一緒に行ってあげてはいかがでしょう。」
ゆきの目線に合わせてかがんだ姿勢を取っていた福田さんが、すくっと私の前に立ち上がって言う。
有難い提案をいただき、さっそくスマホに資料館の場所をメモした。
その晩、私は奇妙な夢を見た。
視界は真っ暗、周りでは何かがうごめいているようだ。
酸素が薄いのか、一生懸命空気を吸っているのに、息が苦しい。
おでこをぎゅーっと押され、背中をぐりぐりと圧迫してくるものから熱が伝わり、周りにいるのはどうやら人間だということが分かる。
「…満員電車?」と思ったが、時折振動を伴う地鳴りが起こり、あちこちで怒号と悲鳴が上がっていることから、電車の中ではなさそう。
「ギャーッ!」と、火が付いたような子供の、絶叫に近い鳴き声も聞こえる。
苦しい…苦しい…息が吸えない…熱い…
ドーン! と、ひときわ大きな衝撃音がして、「キャーッ!」と悲鳴が上がる。
そこではっと目が覚める。漫画みたいにガバッと上半身を飛び跳ねて起こすと、まるで全力疾走した後のように肩で呼吸をし、汗びっしょりになっていた。
ラップにくるんだ冷凍ご飯を3つ電子レンジに入れ、ピーッピーッと温め終了の音で、ゆきが起きてきた。
「お母さん、なんかすごいうなされてたね。どうしたの?」
「えっ、うん。なんかすごい嫌な夢見たなーって感じでね。疲れかしら?」
熱々になってしまった米が手についてしまい、思わず手をブンブンと振った。温まったご飯を3つのお茶碗に分けてよそいながら、あれはなんだったんだろうと、夢のことを振り返っていた。
次に祖母の面会に行くことにした火曜日、ゆきは朝から図書館に行くというので、仕事が休みの私と、早番上がりの母と2人で、施設へ面会に行くことにした。
足りなくなってしまった上着の補充を依頼されていたので、近所のモールに寄っていこうと車を走らせる。
夏休みが始まったからか、ショッピングモールの駐車場へのアプローチは、長い車の行列が発生していた。
警備員が誘導棒を横にして「止まれ」のサインを示してくる。
行列がゆっくりゆっくり動く間、念のため、前回の面会時に起きたことを伝えておいた方がいいだろうと思い、ゆきの質問でトミばあちゃんが泣き出してしまったことを、母に話した。
「あらそう、どうしたのかしらねぇ。」
助手席の母の声は、顔面まで覆うサンバイザーを装着しているせいで、声がくぐもってよく聞こえない。
車の中なんだから取ればいいのに…と言ったら、まぶしくなくてちょうどいいのだと返されてしまった。
「そういえば私も昔、多分ゆきと同じような宿題で、おばあちゃんに話を聞こうとしたと思うんだけど、確か何も話してくれなかったんだよね。」
「あらぁ、お母さんも、戦争の話は聞いたことないわよ~。」今度はしっかりと声を張って答えた。
面会に行くと、祖母は車いすに乗っていた。
天気がいいので、福田さんが外の空気を吸いに連れていってくれていたそうだ。
「ふみちゃん、今日は大学の授業じゃないの?」と言ったかと思えば、「高校には自転車で通ってるんだって?」
祖母にとっては孫にあたる私は、ふみちゃんと呼ばれているが、こんな調子で時系列がごちゃまぜになって話をしてくる。
そもそも今の私は、バツイチ子持ちの出戻り状態。
かといって、それをわざわざ認識させる必要もないし、むしろ何も分からないでいてくれる方が気楽だとすら思ってしまう。
「若く見られて良かったじゃない!」と、天然回答をかましてきた母が、今度は福田さんに、「私もたまに、娘と間違われるんですよぉ~そんな若く見えるかしらねぇ!」などと追い天然を炸裂させているのを、ぼんやり眺めていた。
母の気が済むまでおばちゃんトークの弾丸を浴び切ってくれた福田さんが「大丈夫ですか?」と、ふいに私に声をかけてくる。
「あっ、ああすみませんウチの母が…」急いで苦笑いをこしらせると「あっ、いえ、ふみこさんが、です。お疲れのように見えたんで…」
家族の変化にまで気を配ってくれるなんて、本当に介護士のかがみだなぁと感銘を受けた。
その夜も、またあの夢を見る。
ホコリっぽい暗闇の中、どこか狭いところに詰め込まれているような閉塞感。
蒸し暑く、息苦しく、方々から聞こえる怒号と悲鳴。
ドガーン! 「きゃーっ!」 ミシミシッ…
「おいっもうこっちは無理だぞーっ!」
必死に周りからの圧力にこらえていると、徐々に目が慣れていったのか、薄っすら見える周りには、やはりたくさんの人がいるようだ。
酸素を身体の中に取り込もうと、大きく息を吸いこむと、熱気に肺がやられてしまったのか、喉のあたりが熱くなってゴホゴホッ! とむせてしまった。
すると、外から「開けてーっ! 開けてーっ! お願い入れてーっ!」と、若い女性の悲痛な声が聞こえる。
どうして“外から”声が聞こえると思ったのか、まるで口にタオルを押し当てて叫んでいるかのように、くぐもっているからだ。
轟音と悲鳴の隙間をぬって耳に飛び込む必死の叫び声がずっと続いている。
「もう入れないのよ!いっぱいなの!」目の前の女性が、必死に腕を突っ張りながら叫ぶ声は、今度ははっきりと聞こえた。
「痛っ!」
連日の変な夢のせいで寝不足気味だったのか、疲れが溜まっていたのか、勤務先のヘアサロンで、仕事中に指を切るケガをしてしまった。
幸いひどいケガではなかったものの、水や薬品を扱う上に、なによりお客様商売なので、店長から数日休むよう勧められた。
はぁ…。ついてないなぁ…。
お昼過ぎに早退して、家に戻ると、ちょうど母も、祖母の面会から帰宅したところのようだった。
首にかけたタオルで汗を拭きながら、麦茶をガラスのコップについでいる。
右手には麦茶ボトルを持ったまま、コップの中身を一気に飲み干して、私のイレギュラーな時間の帰宅を指摘することもなく、祖母の様子がこうだった、隣の部屋のなんとかさんがああだった、などとまくし立てる。
「なんかね、お母さんね、最近夜泣きが続いてるんですって。」
「夜泣き?」私は少し、ドキッとした。
「そう、暗くなると怖がっちゃうんですって。だから、消灯時間が過ぎたら、手元の、ほら、本読んだりする用の、あの明かりをつけておいてくれてるらしいのよ。」
その照明だと明るすぎるかもしれないと言われて、明るさの調整ができるランプを買って置いてきたのだと母は言う。
施設に入った当初も、祖母はしばらく夜泣きのような状態が続いていた。
新しい環境に慣れていないからだろうかと考えた私たちは、着慣れた服や愛用のブランケット、お気に入りの小さな日本人形の置物を施設の部屋に運び入れ、頻繁に面会に行った結果、最近は落ち着いているように見えていたが…。
もしこれが、認知症の進行に伴うせん妄の併発症状だったら…。
そう考えると、途端に不安になってきた。
祖母が祖母じゃなくなっていってしまうのでは…?
そもそも、最近の祖母の変化を考えたら、やはり、ゆきの宿題きっかけで、戦争の話を聞いたからだろうか…。
なんだかザワザワとした気持ちが落ち着かない。
仕事でもぼんやりしてしまうし、変な夢も度々見るし…今日はもう早く寝よう。
そうして早々に布団に入ったものの、やはりあの夢を見ていることに気づく。
薄暗い中で人々に圧迫され、蒸し暑い、ほこりっぽい、息が吸えない、苦しい。
目の前の女性が、必死に腕を突っ張りながら「もう入れないのよ!いっぱいなの!」と叫ぶ横顔を、今日も眺めている。
しかし今日は、誰の声か、いや、声かどうかも判別がつかないものが聞こえた気がするのだ。
「みっちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい…みっちゃん…」
みっちゃん…?
休職中で暇を持て余しているのも、何もしていないようで申し訳なく感じてしまう。
こうなったら祖母の面会も、ゆきの宿題にも、とことん付き合うか! そう考え、今日の面会には私とゆきの2人で向かった。
祖母が泣き出してしまった前回の出来事を踏まえてか、今日のゆきは、特に何を話しかけるでもなく、ベッドでぼんやりしている祖母の手や足に保湿クリームを塗ってあげたり、赤い手提げかばんに着けているキャラクターのぬいぐるみを触らせたりして時間を過ごしていた。
「ちょっとゆき、かばんは机の上に置きなさいよ、汚いわねぇ」
拾い上げたかばんの中には、背表紙に分類シールが貼られた戦争の本がいくつか入っていた。
どうやら図書館で借りてきたらしい。
祖母に話を聞くのは諦めて、早々に方向転換したようだ。
洗濯物の入れ替えも済み、そろそろ帰ろうかとした時、私は、夢の中で聞いた“みっちゃん”という名前を思い出した。
もしかしたら祖母なら何か知っているのでは…?
でも、また変に刺激して大事になっても…。
「ねぇ、トミばあちゃん、あのさ…“みっちゃん”って…知ってる?」恐る恐る、聞いてみる。
「みっちゃん?」ゆきが復唱する。
心臓がドクンドクンと、鼓動するのが分かるくらいに緊張しながら、しばらく返答を待ってみた。
しかし祖母は、声を出すことも首を動かすこともなく、変わらず右下あたりの宙を見つめていた。
面会後、ゆきと一緒に、以前福田さんが勧めてくれた郷土資料館に行った。
「戦後80年東京大空襲の記録」という企画展では、空襲で、文字通り焼け野原と化した東京の街の白黒写真が多数展示されている。
そして、写真よりも生々しいのが、絵画による街の様子だ。
当時、あの戦火の中にいた体験者たち自らが筆をとって描いたのだという。
人間っぽい黒い塊や、灰色の室内のようなところ、全面真っ赤なキャンバスは、見ているだけで熱風が襲ってくる感覚すらある。
上手い下手を評すものではなく、むしろこれが見たままのリアルなんだろうと想像すると、福田さんが「地獄」と言ったのも、あながち間違いではないと思ってしまう。
娘のゆきは、何か感じ入るところがあったのか、来館者アンケートの紙にびっしりと感想を書いて、回収ボックスに投函していた。
事件はその晩に起きた。祖母が暴れていると、施設から電話があったのだ。
「夜間せん妄の可能性があり、初めてのことだったので…」と連絡が入り、私たち家族3人は、車に飛び乗り急いで駆け付けた。
「トミばあちゃん!」居室の引き戸を開けると、祖母は扉近くに座り込んで「みっちゃんが、みっちゃんが…!」と大泣きしている。
傍では福田さんを含め3人程のスタッフが、頭の位置にクッションを置いたり、背中を支えたり、肩や腕をさすって「大丈夫よ~トミさん、大丈夫ですよ~みっちゃんはいませんよ~」と声をかけている。
…みっちゃん?
母に「心当たりある?」と聞くも、「うーん…お母さんの知り合いでは聞かない名前だわ。」と言う。
やはり、私が夢で聞いた名前を言ったから…?
不用意なことをしたから、おばあちゃんを苦しめてしまったの…?
救急で入院をさせた方がいいか等の相談をしているうちに、祖母は落ち着きを取り戻したようだ。
まるで泣き疲れた子供のように、よく眠っているようだったので、今夜はこのまま様子を見ましょう、となり、私たちは岐路についた。
車の中は、重苦しい空気だった。
いつも明るい母ですら、今日は黙っている。
そんな空気に耐えられなかったこともあり、私は、最近頻繁に見る、あの夢の話を2人にした。
「あらぁ、意味深な夢ねぇ。」「だからお母さん、最近よくうなされてたんだね。」
そう答えたきり、また車内は沈黙となってしまった。
翌朝、「お母さん、おばあちゃん、ちょっと!」と、ゆきが騒ぐ声で起きる。
昨晩、帰宅したら日付が変わっていて、すっかり寝る時間が遅くなってしまったのに、子供は元気だ。
「ねぇ、みっちゃんって、もしかしてコレじゃない!?」 興奮気味で、食卓に置いた白黒の写真を指さしている。
また閉じてしまいそうな目を、こすって無理やり開けながらリビングに向かうと、机の端には、元からその色なのか変色したのか分からない、いかにも古そうな茶色くて分厚い冊子が3つほど積みあがっている。
えぇ? と言いつつ写真の裏面を見ると、なんと「トミ ミチ」と書いてあるではないか!
写真の2人はワンピースを着ておめかしし、笑顔で並んで写っている。
ゆきと同じくらいか、少し年齢が上? 中学生ぐらいだろうか。
名前がミチなら、あだ名がみっちゃんはありうる。
「あらぁ、これ、お母さんのアルバムじゃない! よく出して来たわねぇ」
遅れて起きてきた母が感嘆の声を上げる。
押入れの奥に積んで押し込められている段ボールの中身は、ひいばあちゃんのものだろうと考え、ひっぱり出して来たのだと、ゆきは自慢げに説明した。
そういえば、使わないから開けたことなかったけど、今すぐ使わないものってことは、思い出の物入れだったのかもね、と、押入れのある部屋に目をやると、中身が空になった段ボールが積み上げられ、その横には、うず高く積まれて崩れそうになっている書類や、本や服の山が見える…。
とりあえず今は、見なかったことにしよう。
「お母さん、ひいばあちゃんに言いたいことあるから、今日私も行く!」
昨日の今日なので、様子見と、今後の相談で面会に行くことにはなっていたが、ゆきの希望で今日も3人で行くことにした。
「昨晩は本当に、申し訳ありませんでした。」
祖母の居室に入って福田さんを見るなり、思わず深々と頭を下げる。
昨日の騒ぎや奮闘してくださった様子を思い出したら、途端に申し訳なさが込み上げてきてしまった。
「いえいえ、とんでもない!」
祖母はあの後も、特に暴れることなく朝までちゃんと眠っていたことや、今朝、医師の診察を受けて、問題はなさそうだと言われたことを受け、胸をなでおろす。
「ふみこさんこそ、お疲れじゃありませんか。
お母さまから、お仕事もお休みされていると聞いて、心配で…」
「はぁ…。」
祖母のことで迷惑をかけているのに、私にまで気を遣わせてしまって、申し訳ないなぁ…。
その様子をじっと見ていたゆきは、「ちょっと…」と、私と母を外に追い出し、驚く福田さんを連れて居室に戻っていった。
ミーンミーン…ミ…。
この暑さで、蝉も疲れているのか、諦めたように鳴き声が止む。
施設の向かいにあるフードコートでアイスクリームを買ったものの、夏休みの家族連れで満席だったので、仕方なく私たち3人は、公園の木陰のベンチで食べることにした。
「ゆき、さっきひいばあちゃんに、何を話したの?」
昨日家で見つけたアルバムの写真を持っていたから、恐らくそれにまつわる話を何かしたのだとは思った。
この子は変に大人びいているから、私たちに何か遠慮したり気を遣ったのではないだろうか。
「うーん、まずね、ひいばあちゃんのせいじゃないよって、言った。」
「えっ? どういうこと?」
言葉が足りないゆきの説明に、母のけいこも私も、要領を得なかった。
「あのね、お母さんが最近見てる夢、ひいばあちゃんの子供の頃の思い出なんじゃないかな。
資料館でさ、一緒に「防空壕」って灰色の絵を見たでしょ?
それで、お母さんがよく見る夢って、防空壕の中なんじゃないかって思ったんだよ。」
そうか、人でぎゅうぎゅうだったことや、薄暗かったこと、時折響く地鳴りは爆弾か何かの落ちた音、あれは空襲の時に逃げ込んだ防空壕の中のことだというのは、体験者の証言を照らし合わせれば合点がいく。
しかし、あの夢で見たことを、祖母が現実に体験していたとなると、相当な恐怖だっただろうと、思わず身震いした。
でも、そんなことって、本当にある?
他人の記憶を夢で見るなんて、映画や小説でしか聞かないことが、私のような普通の人間に起きるものかしら?
胡散臭く思ってしまうと正直に伝える。
「んー…、それはさ、よく分かんないけど。
でも、ここンとこ、ひいばあちゃんの様子がおかしくなってたのは事実でしょ?」
それは、本当にそう。
でも、病気のせいかもしれないし、にわかには信じられない。
「それでさ、お母さんが夢で見たのって、女の人が何かを押さえてる横顔でしょ?
それ…多分、ひいひいばあちゃんだと思う。」
「えっ!?」
途端に頭がぐるぐると、ものすごい速さで回想を始める。
ここのところの祖母の変化や福田さんの話、アルバムの写真や資料館の写真や戦争経験者の証言集。
「そうだ…防空壕に逃げた話、資料館で読んだわ!」
祖母も空襲の時に、人でいっぱいの防空壕の中に逃げたのではないだろうか。
「だからね、防空壕に入れなかったのがみっちゃんって人で、ひいばあちゃんは、みっちゃんを防空壕にいれなかったって、ずっと後悔してたんじゃないかなって思ったの。
少なくとも、一緒に写真に映る仲ではあったみたいだしさ。
でも、実際に扉を押さえてたのは、ひいひいばあちゃんだと思うし、だから“トミちゃん”のせいじゃないよって、伝えたかったの。」
「あーっ! 思い出した!」ふいに大きな声を出す母。「みっちゃんって、確かお母さんの従妹だったはずよぉ!」
「えええーっ! なんでそんな大事なことを…」
「だって、ほら、お母さん、あんまり戦争の話、したがらなかったでしょ?
従妹の子も、その後会えてないって、詳しく教えてくれなかったから、もしかしたら…ねぇ…」
学生の頃、私も、祖母に戦争体験を聞こうとしていたのを思い出す。
平和教育の一環で、なんて言われて出された宿題だったけど、皆、別にそうなりたくて戦争体験者になったわけじゃなかったはず。
それは祖母だけでなく、多くの人のトラウマとなり、苦しめ、思い出すのもはばかられるほど辛い記憶になっていたのかもしれない。
「そりゃあ忘れたくもなるよね…」
手元のソフトクリームはすっかり溶け、プラスチックのカップの中で、牛乳に戻っていた。
「忘れてたと言えば…」と、サンバイザーの下に手を入れ、ハンドタオルで垂れる汗を拭きながら、母が続ける。
「私も、なんかそんな夢、昔よく見てた気がするのよねぇ。」
本日2度目の「えええーっ!」を発してしまう。
「お母さんっ、苦しいなぁとか、変だなぁとか、思わなかったの!?」
「えっ、そうねぇ、夢だなーって思ってたわ!」と呑気に言い放ち、ほほほと笑う。
「…多分、おばあちゃん鈍感で伝わらないから、ひいひいばあちゃんはお母さんの方の夢に出てきたんじゃないかな。」
そんなぁ…。けっこうしんどかったんだけどなぁ…。
でも、祖母のお母さんだって、みっちゃんを締め出したくてやったわけではない。
あの状況下だったら、そうせざるを得なかったことぐらい、容易に想像がつく。
トミばあちゃんは、自分のせいだって、今なお自分を責めてしまっていたのだろうか。そして、祖母の母は、娘のせいじゃないと伝えたかったのだろうか。
そんな辛い記憶も全部忘れて、トミばあちゃんが穏やかに過ごせたらいいなぁ…。
「ふみこさーん!」施設のエントランスから、福田さんが赤いかばんを持って出てくるのが見えた。
「あっ、図書館の本!」ゆきがベンチからぴょんと降り、「ひいばあちゃんとこに忘れてきちゃったー!」と叫びながら福田さんの方へ駆けていく。
2人は何か言葉を交わした後、福田さんはこちらへ笑顔を向け、手を振っている。
思わず私も、立ち上がってお辞儀をした。
ゆきったら、ちゃんとお礼言ったかしら?
「お母さんも、たいがい鈍感だよ。」「え?」
かばんを受け取って戻ってきたゆきが、私の顔をニヤニヤと見上げてつぶやいた。