「この子の七つのお祝いに」

投稿者:龍神まこと

 

今も俺んちに赤ん坊がハイハイしてる。
……ただ、俺に子供ができた覚えはない。
これは一週間の「泊まり」という仕事で始まった話だ。

少し前、借金で首が回らなくなってた。
パチンコで負けが込んで、酒で気を紛らわせて、取り立てに追われて、もうどうにもならんかった。
その日も散々負けて、パチ屋を出る時にムシャクシャして、出口横の灰皿を思いっきり蹴飛ばした。
ガシャーン! 吸い殻が飛び散って、客が避ける。
俺は逆に睨み返して「なんだコラ」とか叫んでたと思う。

そのとき、横から声がした。
「おう、景気よくやるな」 振り向くと、背広にサングラスの男。
五十くらい、髪はオールバック。
宇崎竜童に似てるから、ここでは「宇崎」と呼ぶことにする。

「なにムシャクシャしてんだ?」

軽い調子で聞かれて、気づけば口が勝手に動いていた。

「……借金でさ。もうどうにもならん」

初対面なのに宇崎は妙に話しやすい空気を纏っていた。

宇崎はニヤニヤしたまま
「ちょっと時間あるか?」
とだけ言った。

古びた喫茶店に入り、煙草をふかしながら宇崎は「一週間、とある場所に泊まって、起こったことをノートに書くだけの仕事がある」と説明した。
「外出禁止だが、飯は出す。終わったら……まあ、いろいろ片付く」
“いろいろ”の意味は聞かなかった。

聞いたら踏み出せない気がした。
そのくらい俺は切羽詰まってた。
怪しさ満点だったが、死ぬよりマシ。
その場で了承し、俺は「泊まり」に連れて行かれることになった。

読みやすいように時刻と何日目とかは書くようにするよ。
俺の記憶違いや勘違いも混じってるかもしれないが、できる限り見たままを書いた。
作り話だと思うなら勝手にしてくれ。
俺は訳のわからん七日間を確かに体験した。

1日目

17:00
宇崎に車へ押し込まれ、何故か目隠しをされたまま山道を揺られていた。
舗装が途切れる感触、車体に擦れる枝の音、窓から入り込む湿った森の匂い。
耳に意識を集中したが、鳥の声すらしない。
ひたすらくねくねと山の奥へ奥へと連れて行かれる。
エンジンが止まった。
目隠しを外されると、あたりは薄暗い森だった。
ざらつく砂利の上に降ろされ、そこからさらに歩かされる。
宇崎の革靴がザクザク鳴る以外、音はなかった。
やがて森が途切れ、白い建物が現れた。
二階建てのアパート。
全八部屋、まだ誰も住んでいない。
森の中にぽつんと浮いていて、不自然すぎて寒気がした。
「お前はここだ」
宇崎に連れて行かれたのは、二階の一番手前、201号室。
鍵はすでに開いていた。
部屋の中はワンルームで真っ白な壁、フローリングにエアコン。
机と寝袋とノートが一冊、それだけ。
宇崎の風貌から蛸部屋っぽい所を想像していたし覚悟はしていた。
汗と煙草と油で汚れた雑居部屋とはまるで違っていた。
宇崎が壁に設置された電話機を指差し
「腹が減ったらこれで電話しろ、一日三食…ある程度注文は聞いてやる」
そう言うと部屋から出ていった。

18:15
腹が減ったので、備え付けの内線で宇崎を呼んだ。
「腹減ったんすけど…マックいいですか?」
数分後、ノックもなくドアが開き、宇崎がマックの袋を片手に入ってきた。
もう一方の腕には、でかいロールのブルーシート。
俺がハンバーガーを取り出してる横で、宇崎は無言のままブルーシートを床いっぱいに広げはじめた。
ガムテで端を留め、壁際までぴんと張っていく。
新築の木の匂いと、ジャンクフードの匂いと、ビニールの青い匂いが混じって、胃が裏返った。
「……何のつもりですか」
問いかけると、宇崎は笑顔を崩さずに言った。
「見てるだけの簡単な仕事とは言ったが…新築の部屋に小便撒き散らされても困るからな」

これから何を見せられるんだ?
子供じゃないんだ…並大抵の事じゃ小便なんて漏らさないだろ…

青い海みたいな床だけを残して、宇崎は出ていった。

21:00
スマホに電波は入っていない。
やることもなく、寝袋に潜る。
窓の外は真っ暗で、ガラスの向こうで木が軋む。
虫の声が遠く近く、ぶつぶつ切れながら続いていた。
ふと、窓に映る自分の顔が歪んでいる気がした。

ガラスに近づくと、俺の背後に誰かが立っているような影が揺れた。
振り返っても誰もいない。
もう一度、窓に視線をおくる。

俺の顔と、鼠色の作業服を着た男。

その男は目を逸らし、震える手で作業服の裾を握りしめた。
まるで何かを悔やむような表情で、唇を小さく震わせていた。
俺の心臓が跳ね、急いでカーテンを閉めた。

ノートは足元に雑に置かれている。
ページを開く気になれず、そのまま目を閉じる。
どのくらい経ったろうか。
半分夢みたいな意識の中で、カツン…カツン…と階段を上る音がした。
ブツブツと同じ言葉を何度も繰り返している。

女の嗚咽が、喉を絞るような怨みの声で響く。
日本語じゃないが意味は何故か分かった。
「返して…返して…」
声にならない声を振り絞っていた。
耳を塞いでも、声は頭の内側で鳴り続けた。
まるで、誰かが俺の脳の奥を直接引っ掻いているようだった。
息を殺して寝袋に潜る。
やがて虫の声に溶け、声は消えた。
気のせいかもしれない。
だけどただ一つ……

「ここは本当に泊まっていい場所じゃない」

という確信だけが、胸の奥に残った。

2日目

08:30
目を覚ます。
壁の時計がカチ、カチと秒を刻んでいた。
外は相変わらずの風景。
鳥の囀りも日常の音もない。
内線でコーヒーを頼むと、紙コップに入ったものが無言でドア前に置かれていた。
カップの縁に、かすかに乾いた土が付いていた、拭ったら消えた。

13:40
外に出るなと言われ、やることもない。
寝袋を畳んでも、机に肘をついても、ただ秒針の音ばかりが部屋に満ちる。
窓の外は森の緑と、揺れる枝だけ。
窓ガラスにまたあの影が映った。
男の輪郭が、俺の背後に立つように揺れている。
例の如く振り返ってみたが誰もいない。
だが、ガラス越しに見える影は、じっと俺を見つめてる気がした。
霧がかかったようにハッキリとは見えないが、どこか見たことあるような…似た空気を纏っている男を俺は知ってる。
まあだが気のせいだろう…

ノートを開いても、書くことがなくてペン先が宙を彷徨う。
結局、「ブルーシート」「女の声」「窓の影」と3行だけ書いた。
その時、ページの隅に薄く文字が浮かんでいるのに気づいた。
“返して”
俺が書いた覚えはない。
目線をそらすと、文字は消えてた。

暇すぎて、逆に頭の中がざわついてくる。
昨日の声を思い出す。
勝手に想像を巡らせて、悲しい物語を作り出してはそれを否定して… そんな事を繰り返してた。

食欲もわかず、昼はカップ麺を一口すすっただけでやめた。
時計を見るたびに、針が遅くなっている気がして、気味が悪かった。

21:05
勢いよくドアが開く音がした。
が…ドアは開いていない… 複数の足音。
濁った発音の男が三人と女一人。
ぞろぞろと俺をすり抜け入ってきた。
昨日の男もその中にいた気がする。
そのまま部屋の真ん中に女を突き飛ばした。

「……はぁ?」

声が出た。

次の瞬間、殴打。
ためらいのない拳が頬に沈み、女の頭が床に跳ねる。
靴のかかとが顔に落ち、鼻がぐちゅりと潰れた音がした。
飛沫した鮮血が青いシートに散る。
男のひとりが無表情で、何度も踵を上げ下げする。
別の男はケタケタ笑いながら爪先を女の脇腹に何度も何度もめり込ませていた。
女の体は痙攣を繰り返し、徐々に反応が弱くなり……やがて、ピクリとも動かなくなった。
それでも淡々と二、三発の蹴りが入る。
ただ一人、悲しい顔の男は惨劇を傍観しているだけだった。

俺は動けなかった。
「見てるだけでいい」という言葉が、頭の奥で繰返し反響した。
だが、胸の奥で何か別の感情が蠢いていた。
怒りか、恐怖か、あるいは同情か。

まるで自分が巡らせては否定してきた物語を再生しているようだった。

視界がふっと遠ざかり気を失った。

3日目

08:00
目を覚ます。 部屋は綺麗だった。
血の痕跡も何もない。
宇崎の思惑に反して小便は漏らしてなかったようで安心した。
ブルーシートの皺がまっさらに伸びている。
ただ、空気に甘ったるい匂いが残っていた。
化粧品と汗が混ざったような、吐き気を催す匂い。
それだけが昨夜を現実だと突きつけてきた。

ノートを開き、震える手で「暴行 女 死亡 」と書いた。
書き終えると、さらに気分が悪くなった。

10:30
内線でまたコーヒーを頼む。
宇崎が「 ”お前は” 逃げなかったな…」ポツリと呟き紙コップを置いた。

「昨日のは何だ」と問いかけると、宇崎は笑ったまま言った。

「……お前がいるから、起きるんだよ。」
意味が分からない。
追及する気力もなかった。

13:00
外に出られず、ただ机に突っ伏していた。
森は静かすぎて、窓の向こうに生き物の気配はない。
この部屋だけ時間が止まっている。
頭の隅では、宇崎の言葉と昨夜の女の顔がぐるぐる回っていた。
――俺がいるから、起きる?
俺に見せている?
頭がおかしくなっていく感覚が少し気持ちよかった。

ふと、窓ガラスに映る影が動いた。
今度ははっきり男の顔を見た。
痩せこけた頬、つり上がった目。
そして悲しい表情だった…
昨日の男だ。
目が合った瞬間、ガラスがビリビリと震え、ヒビが走った。
男の顔と俺の顔を繋ぐヒビ。
俺じゃ無くなりそうで慌ててカーテンを閉めた。
心臓がバクバクと鳴り止まなかった。

21:30
まただ。
今度は、最初から“そこに”いた。
気づいたら、もう始まっている。
いつ入ってきたのか分からない。
男たちは口々に濁った発音で叫んでいた。
例に漏れず意味だけが頭に降りてくる。

「お前らが悪い!」

「あいつらがやらせている!」

「恨むならあいつらだ!」

「お前は怨みを晴らせ」

床に突き飛ばされているのはまた女だった。
痩せこけた顔、地味なワンピース。
昨日の女とは違った。

拳が女の顔に沈む。
呻き声が上がるたび、男が踵を鳩尾に落とす。
頭を踏みつけられて動けなくなる。
白目を剥いた瞳が震え、折れた歯の隙間から赤黒い泡が吹き出した。
男が無言で腰を突き出しジッパーに手をかけた。
次の瞬間、女の顔に温い液体が降りかかった。 鼻を突くアンモニア臭が広がり、吐き気で喉が焼ける。
女は血と泡と小便にまみれながら、口を大きく開いた。
――その瞬間、黒目がぐるりと一周して俺と目があった。
俺に何かを言おうとしていた。 確かにそう見えた。
「助けて」とでも言うように、唇が震えた。
だが、喉の奥から血が込み上げ、ゴポゴポと音を立てただけで、何も聞き取れなかった。

胸が凍りつき、心臓が止まるかと思った。

眼前の女は比喩ではなく心臓が止まってたと思う。

世界から音が消え、誰かに後頭部を掴まれ意識が落ちた。
掴まれた手から何故か悲しみが伝わってきた、そんな気がした。

4日目

08:00
目を覚ますと、腹の底から飢えが這い上がってきていた。
恐怖よりも食欲が勝っている自分に驚いた。
内線で「粥がいい」と告げると、プラ容器に入った白粥が無言で届けられた。
湯気に金属のような匂いが混じっている気がして、鼻で一度止めたが、結局半分以上かき込んだ。
体の芯が少し温まると、眠気が差してきて寝袋に潜った。

――次に目を開けた時には、もう夜だった。

19:00
部屋に甘ったるい匂いが満ちていた。
昨日まで残っていた“香り”なんかじゃない。 もっと近い、生温い、肌にまとわりつく匂い。化粧品と汗と、体液の混じった匂い。
振り返ると、女が立っていた。
昨日まで殴られていた“あの女”。
痣も血もなく、髪は濡れているように見える。
口元を吊り上げ、俺を見て――フフッと笑った。
底のない黒い瞳。
意識が吸い込まれそうになる。
喉が鳴った。
恐怖で声が出ない。
女はためらいなく衣服を脱ぎ捨て、一歩、二歩と近づいてきた。
肩を押さえつけ、俺に覆いかぶさる。
爪が肩に突き立てられた。
肉が裂け、熱い血がじわりと滲む。
痛みに身を捩っても、女の体は獣のように押さえつけ、激しく揺さぶってきた。
舌が俺の眼球をぬるりと這った。
瞼の裏側まで侵入して濡らされ、涙か唾液か分からないモノがこめかみに滴っていった。
視界が赤黒く歪む。
吐き気と戦慄で体が硬直してたのに、下半身だけが勝手に反応する。
女の動きはどんどん激しくなり、肩に立てられた爪がさらに深く沈む。
裂け目から血が垂れ、ブルーシートを彩っていく。
呻き声が勝手に漏れる。
抗えない何かに突き動かされる感覚に溺れそうになる。
その瞬間、口の奥から自分のではない音が漏れた。
聞いたことの無い母音の重なり。
意味は分からないが、顎と舌はそれに従っていた。
女が嬉しそうに頷くと耳元で吐息と共に囁いた。
「はぁ…あぁ愛しいや」
心臓が止まりそうだった。
だが、体の反応は止まらない。
もう駄目だと思った瞬間…俺は堕ちてしまった。

同時に、女の体がプツリと糸が切れたみたいに動かなくなった。
覆いかぶさる重さが抜け、形が崩れていく。
次の瞬間、体全体がどろりと溶け、腐臭のする泥になった。
温い泥が肩口の傷に入り込み、激痛と吐き気が同時に襲う。
泥と血が混ざりマーブル模様を描いてた。
俺は溺れそうになりながらも泥を振り払おうとして必死にもがき……そこでまた意識が途切れた。

5日目

08:00
目を覚ますと、部屋の隅に宇崎が座っていた。サングラスを外し、肩を震わせて笑っている。

「……どえらい不細工とよくやれたな」

いきなり言われ、何故か頭に血が上った。

「不細工? 冗談じゃない、めちゃめちゃ可愛いかったぞ」

宇崎はぴたりと笑いを止め、怪訝そうに俺を見た。

「あれ……?俺の聞いてる山の神ってのは“醜女”なんだがなぁ」

訝しげな表情の宇崎がノートを指さした。

「読んでみな」

俺の筆跡で書いた記憶のない文字が書かれていた。

“あぁいとしや あぁこいしや あなたのいきづかい あなたのがんきゅう あぁいとしや あぁこいしや ”

俺が絶句していると、宇崎は立ち上がり
「まあ…お前には、もう説明しとくか」
と呟き、ノートを手に持ったまま話し始めた。

「この土地はな、昔、戦争の影に汚された。異国の労働者がここに連れてこられたんだ。」

「あいつらか…?」

宇崎は冷たい目で更に続ける。
「女も子供も全部だ。仕事がない女は…わかるだろ?」

「子供は口減らしだ…何人もこの土地に埋められてるよ…」

「もう神でもなんでもねえ、ただの犠牲者だ。だが、土地はそれを覚えてる。怨みも悲しみも。お前が見たのは、その記憶だ」

何か引っ掛かる言い回しだなと感じたが、この状況だ…きっとそうなんだろう。

20:00
内線が鳴った。
「今日は付き合え」宇崎の声。
しばらくしてドアが開き、一升瓶と安いつまみを抱えた宇崎が入ってきた。
床に胡坐をかき、紙コップに酒を注ぐ。
「飲め」
俺も黙って受け取り、一気に煽った。
胃の奥が焼ける。
勢いのまま、口を開いた。

「……俺は、何をさせられてるんですか」

宇崎はにやりと笑った。

「お前、俺のことヤクザだと思ってるだろ」

俺が黙ると、宇崎は紙コップをあおりながら続ける。

「違ぇよ。俺は代々この土地を見張ってきた家の人間だ。まぁ今は名ばかりの家だ」

「数年前、この山を丸ごと宅地にしようって話が出た。森を潰して道路を引いて、住宅もショッピングモールも作るってな。だが、関わった人間が次々に死んだ」

「心臓発作、転落、事故……重なりすぎて不自然だった。で、最終的に“宇崎家”に話が来た。代々ここを管理してきた俺にな」

紙コップを回しながら俺を見据える。

「だからお前を連れて来た。ノートを書かせるのはただの記録じゃねえ。過去に何が起きたのか掘り起こして、解放の糸口を探す。俺の最後の仕事だ」

背筋に冷たいものが走った。

「……じゃあ、なんで俺なんですか」

宇崎は口の端を吊り上げた。

「借金で首が回らねえ、身寄りもねえ……そういう奴は使い捨てに向いてる。だから連れて来た。お前の借金は、この土地を売った金で清算してやったぞ」

「へっ……?」思わず声が出た。

「でもな……」宇崎の声が低くなる。

「お前は“見初められた”普通は死ぬ。ただの道具じゃなくなった。……これは滅多にねえことだ。流れが変わった。解放の兆しが見えたんだよ。彼女はお前を“婿”に選んだ」

一升瓶を掲げて、にやりと笑う。

「まあ、とりあえず飲め。今夜は飲むしかねえだろ」

俺は言葉を失ったまま、紙コップをあおった。酒の苦みが喉を焼くのに、体は妙に冷えていた。
久しぶりにまともな睡眠が取れることに安堵していた。

6日目

08:00
目を覚ます。
部屋には宇崎はいなかった。
机の上にはノート。
表紙を撫で、深呼吸してノートを開く。

“あぁいとしや あぁこいしや しゅうげんじゃ こをさずかった あぁいとしや わがこはそだつそなたのかげで”

俺の…字?。
けれど、書いた覚えはない。
黒々と並んだ文字は、インクがまだ乾ききっていないように、ぬめっと指先に吸い付く気がした。
最後の行に、血のような赤い染みが指の形で滲んでいた。
気味が悪くなってノートを閉じる。

16:00
ふらりと宇崎が現れた。
「外、歩くか」
俺は頷いていた。
外気は冷たく、久しぶりの日差しに目がくらむ。
森の小道を並んで歩く。
苔むした石段を登るたび、肺に湿った空気が染み込んだ。

俺はずっと引っ掛かっていた。
その疑問を宇崎にぶつけてみた。

「俺が見ていたのはただのこの土地の記憶だろ?神とかじゃねーよな?」

宇崎は煙草に火をつけ、淡々と吐き出した。

「この山には昔から祭っていた神がいた。その祭事をしていたのが俺達一族だよ……けど今いるのは“混ざって歪んだ神”だ。この土地を、日本人を怨む思いと、七つにも満たない子供達…それがこの土地を見守っていた神と混ざって歪んじまった」

火種が赤く揺れ、宇崎の目が細まる。

言い終えたとき、石段の先に朽ちた鳥居が現れた。
黒ずんだ注連縄が垂れ、紙垂は風化してボロ布になっている。
宇崎は立ち止まり、サングラスを外して俺を見た。

「ここが“お前の婿入り先”だ」

宇崎に促され先に進む。

境内に入った瞬間、薄い膜を全身で破るような感覚があった。
空気が変わる。
虫の声も、木のざわめきも消え、耳の奥で鼓動だけが響く。
中央に、女が立っていた。
白い布のようなものをまとい、長い髪を垂らして。
顔はよく見えない。
だが、2日目の女、3日目と4日目の女…混ざり合ってすべてが彼女だった。

これまでに起きた、女の死亡。惨劇。甘い記憶と泥。

全部が、この瞬間のためにあったとしか思えなかった。

俺の胸に、これまでにない感情が湧き上がった。
彼女らの痛み、苦しみ、絶望。
すべてが俺の中に流れ込んでくる。
見ているだけだった俺が、急に恥ずかしくなった。
いや、腹が立った。
こんなに苦しんでいるのに、俺は何もしなかった。

こいつは”神”なんかじゃない。
神に”されてしまった”女達だ。
暴行され、殺され、縛られ、土地に沈められた記憶そのもの。

胸の奥が熱くなった。
怒りか、恐怖か、哀れみか。
それとも、彼女の痛みを共有したかったのか。

俺はもう、見ているだけではいられなかった。
窓に映るあの男が脳裏を過る。
記憶の中でヒビの入った窓がパキリと割れる…崩れるガラスに映った男が頷いた。

気づいた時には、体が走ってた。
「もう十分だ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。

渾身の拳を女の顔に叩き込む。
崩れ落ちた頭に踵を振り下ろす。

ーーぐしゃ。

足裏に伝わる柔らかさと、骨の砕ける感触。
俺は今まで見てきた光景を、自分の足と拳で繰り返していた。
女は微笑み呻きもせず、殴られるたびに恍惚の表情のまま形を失い、顔は判別できない肉塊に変わっていく。
やがて全身がどろどろと泥に崩れ落ちた。
腐臭はなかった。
ただ、湿った土の匂いと、かすかな花の香りがした。

その瞬間、周囲に音が戻った。
鳥の声、木のざわめき、遠くの風。
振り返ると、鳥居の外で宇崎が立っていた。
肩を揺らし、声を殺すように笑っている。

「やっぱり、お前は“やる”と思ってたよ」

サングラスの奥で目だけが光る。

「ここで“神と混ざった”ものは、同じだけの痛みでしか剥がれねえ。あの国の流儀は『目には目を』だ。……同じ痛みでしか剥がれねぇ。気に病むことはねぇ…お前は女達を解放したんだ」

言い方は軽いのに、吐き捨てるみたいな冷たさがあった。

「これで終わり……だといいな」

20:00
部屋に帰ると宇崎は「よくやってくれた」と言って、紙コップを差し出した。
俺は受け取らなかった。

「お前は素質あるよ、また何かあったら頼むな」

「先祖代々守ってきた土地を易々と売るような奴にとは今後一切会いたくねーよ」

自分でも驚くくらい低い声が出た。
彼女の痛みを知った今、宇崎の軽薄さが許せなかった。
土地を売った金で借金を清算した?
そんな金で、俺のモヤモヤは晴れない。
宇崎はにやりと笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。

その夜、泥のように眠り、夜中、喉が乾いて目が覚めた。
枕元に、ノートがあった。
俺の筆跡。

“いとしや このこ このこはななつになるまでは あなたのかげでおねむりよ わがこはそなた そなたはわがこ”

手が震えた。
ページの端が、風もないのに、ぺら、と勝手にめくれる。

その時だ。

「……おっとぅ」

小さな声がした。
部屋には誰もいないはずなのに、耳の奥ではっきりと響いた。
幼い、舌っ足らずの声。
ハハっ……乾いた笑いしか出てこなかった。
諦めてその日は眠りについた。

7日目

09:00
宇崎が迎えに来た。

「ご苦労さん。……まあ、よくやったよ。俺もようやくお役目御免だ」

そう言って車に乗せ、自宅まで送ってくれた。別れ際、名刺を差し出す。

「何かあればまた連絡してこい。まああれだ七年は陰に隠れてんだろ? 気にすんな。がっはっは」

軽い調子で笑ってた。

19:00
久しぶりの我が家。
ノートは駐車場ですぐ焼いた。
何か新たに書いてあった気もするが、もう見たくもなかった。
炎の奥で、彼女の顔と並んで男の顔も浮かんだ。悲しげな目が、初めて穏やかに閉じられるのを見た。
何故か宇崎の軽薄な笑顔と重なり、まるで土地の記憶が二人を結ぶ糸のように揺れた。

シャワーを浴び、布団に潜り込んだ。

すぐに違和感が訪れた。
……泣き声。
赤ん坊の、か細い泣き声。
部屋の隅から、はっきりと。
「気にすんな」なんて無理だ。
耳を塞いでも、頭の奥で鳴り続けている。
やがて、畳を擦る微かな音。

――ハイハイしている。

暗闇の中、声も音も近づいてくる。

寝ている俺の指を小さな手が掴んだ。

「おっとぅ…おっとぅ…」

悪寒と暖かさが俺を包んだ。

……まあ、七歳までは神様の子供って言うしな。
問題は、ランドセル背負ったらどうなるかって話だ。

神か、鬼か、ただの小学生か。
教えてくれ…300円のおやつ代に線香は含まれますか?

だが、胸の奥では分かっていた。
この子は、彼女の子だ。
そして、土地に埋められた子供達。

山の神様が哀れな女の怨念を、無垢な子供達を救ってあげたかったんだなって……

歪んで混ざり合っちゃったんだけどな。

この子の七つのお祝いには必ず”返しに行って”やるよ。

まぁ生きてたら七年後またカキコしにくるよ。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121515121266
大赤見ノヴ161717171885
吉田猛々171617171784
合計4548494647235