「おのぼりさん」

投稿者:かめ

 

この話は俺が体験した話だ。
もう30年以上昔のことなのだが、今でもたまに思い出す。

よく、お盆の時期(8/15を中心に8/13~8/16頃)は海に入ってはいけないと言う話を聞く。
“死人に足を引っ張られるから”とか、“死人が海からやってくる”とかいう言い伝えがその理由なんだが、本当は“盆波(ぼんなみ)”って言う高波にさらわれたり、クラゲが出やすくなったりするから危険だという、ある種の“警告”が込められた昔の人の知恵だ。

こういう話は海に近いほとんどの集落に伝わっているのだが、俺が昔立ち寄った村はまるで違っていた。

その村は、“お盆にだけ”海に入って良い。

逆に言うと、“お盆以外は絶対に海に入ってはいけない”村だった。

今から30年くらい前、俺が立ち寄ったのは、とある九州の端。海に面した小さな集落だった。
村の正面は切り立った崖、そこに絶え間なく波が打ち付ける荒々しい海。
村の後ろは傾斜のある岩山、その麓にうっそうと茂る森。
村はその狭間の極めて狭い土地に密集するようにひっそりと存在していた。

村と海の間には、整備された綺麗な国道が伸び、ドライブをするにはもってこいの風景が広がっているが、その国道を住民以外が使うことはほとんどなさそうだった。

道路はやけに綺麗で真新しい。

この日の仕事は、村にある魚の加工工場から荷を受けて市内のデパートまで運ぶこと。
この村の仕事は初めてだったが、報酬が結構良くて出来れば今後も定期的に仕事がもらえれば良いな、と内心期待していた。

地図を確認し、村に向かうまでの国道を走らせていると、右手に広がる海にキラキラと波間を反射するものがあった。
この辺の海にはイルカが生息していて、泳いでいる群れの背中に太陽の光が反射してこういう風にキラキラきらめいて見えるのだ。
「ほんと、ドライブにもってこいだな・・・」そう思いながら気分良くトラックを走らせた。

2時間ほどかけて目的地の村の手前に着いた。

これから村の中へ入っていくのだが、国道から村に入る道路は、このトラックがギリギリ通れる幅の未舗装の道路1本で、「帰りはバックで降りなきゃいけないのか?」と不安になった。
慎重にゆっくり進んでいくとすぐに魚工場の入り口が見えてきた。

工場に入ると、敷地内は驚くほど広く、村の中心にドカンと建っている感じで、駐車スペースなんかは大型トラックが余裕で切り返せるくらいだった。

工場は2階建て。2階は事務所と自宅を兼ねている感じだ。
1階部分はトラックが出入りできるくらいに高く、柱はぶっとい真っ赤な鉄骨で出来ている。
その1階部分の奥、日陰になっているところにやや高齢の女性たち4,5人が、手ぬぐいでほっかむりをして作業をしていた。

「こんにちは~、お邪魔します」
トラックを降りて女性たちに近付くと、女性たちは顔を上げ、皆、にこやかに返事をしてくれた。
その中の一人が「社長さんのとこに行くかい?」と聞いてくれたので、「はい、お願いします。」と案内をお願いした。

建物の横に付いている鉄製の階段を上っていくと2階の事務所の扉に着いた。
「社長さん、トラックの方~」
案内してくれた女性はそう言うだけ言って、すぐに階段を下りて行った。

事務所の扉が開いて、中年の女性が顔を覗かせた。
ふくよかな、気の良いおばさんといった風情だ。

「ああ、いらっしゃい。暑かったでしょう、入って入って。」
と女性は言い、俺は事務所のソファを勧められた。
ソファに座ると、その女性は冷たい麦茶を出してくれて、自身も俺の向かい側に座った。

「あたしがここの責任者なの、よろしくね。」
思った通り、この女性が社長さんだった。

「こんな急に募集したのに、来ていただけて有難かったわぁ~」
社長さんの口調は、すごく助かったという感じだった。
初対面なのにフレンドリーで好感が持てた。

一息ついて、「じゃあ、積み込みをしようと思いますので・・・」と席を立とうとしたが、社長さんが「ああ、もう男の人たちが来る頃だから、積み終わるまでゆっくりしてて。」と言ってくれたので、俺は言葉に甘えた。

「ちょっと時間かかると思うから、お話しながら待ってましょ。」と社長さんは、お茶菓子を出してくれた。

この魚の加工工場は村の老人たちが手伝ってくれているらしい。
若い人みな、車で1時間ほどかかる街(村では「市内に行く」とか言っているのだが)で働いている。

社長さんは「この時期が一番忙しいのに、肝心の若い人たちは村の外に行っちゃってるのよ!」と少々ご立腹な様子。
俺は笑いながら「それは、それは・・・。積み荷は干物で良かったですか?この時期は珍しいですよね。」と積み荷について聞いてみた。

社長さん:「この村は他の村とは違って、この時期しか漁が出来ないのよね。」
俺:「え、そうなんですか?何か理由でもあるんですか?」

社長さん:「この村ではね、海に入るのも、海に漁で出るのも、お盆以外は禁止なの。」
俺:「へえ~・・・珍しいですね。」
そんな話は聞いたことがない。

俺:「普通は逆ですよね。」

社長さん:「そうなのよね。私もここに嫁いで来て、初めて知ったもの。」

ちょうどその時、事務所の扉の向こうから「終わったぁ~よぉ~」というおばあさんの声が聞こえた。先ほど案内してくれた女性だろう。

社長さん:「あら、早かったわね。」
社長さんはよっこらせっとソファから立ち上がった。

俺は麦茶を一気に飲み干し、先に事務所を出ていく社長さんに続いた。

1階に下り、トラックの前に行くと、おばあさん達が4人ニコニコしながら待っていてくれた。みな、軍手をした両手を後ろに組んで、かっぽう着とほっかむりをしている。
中には暑いのに口元をスカーフでマスクのように巻いている方もいた。
まあ、典型的な田舎のおばあさん達だ。

俺のトラックは、干物を運ぶために借りてきた冷蔵用の4tトラック。
荷台の扉は開けていたが、中を見ると、ウルメイワシの丸干し1㎏の箱がびっしりと詰まった木製のケースが荷台の天井近くまで、うず高く積まれていた。
ごく短時間にキッチリと大量に積まれていて、こっちの仕事も少なくなって大助かりだ。

社長さんは「じゃあ、お願いしますね。お金は戻って来るまでに用意しておくわね。気を付けて行ってらっしゃい。」と言って見送ってくれた。

トラックに乗り込み工場を後にすると、俺は国道に向かってゆっくりと走り出した。
村の道路と国道が交わるところに来たとき、国道の脇にパトカーと人だかりが出来ていた。

人だかりの中にお巡りさんの姿が見えた。
お巡りさんは国道沿いのガードレールから下の海を覗きこんでいた。

俺はちょっと気になって、パトカー近くにトラックを停めて事情を聴いてみることにした。
トラックを停めると、お巡りさんもこっちに気付いたようで帽子に手をかけ「どうしました?」と話しかけてきた。
俺は内心(こっちが“どうしました?”って聞きたいんだが)と思ったが、
「いえいえ、何があったか気になったもんで・・・」と近付いていった。

お巡りさんは50代くらいの小柄ででっぷりとした感じのおじさんだった。
お巡りさんは「いやぁ~、村の人から連絡があってね、“おのぼりさん”が来たみたいなんだよ。」と汗を拭き拭き答えてくれた。

(・・・? “おのぼりさん”って何?)

俺はよくわからないまま愛想笑いして、ガードレールに近付いた。
「あ!気を付けてよ!落ちたらシャレにならんよ!」
お巡りさんはちょっと慌てて注意してくれたが、俺を制止したわけではない。

俺は言われた通り落ちないように注意しつつ、首をのばしてガードレールから下の方を覗き込んだ。

「!?」

一瞬、言葉を失った。

最初に目に飛び込んできたのは、一面に広がった紅い絨毯・・・いや、紅く染まった岩場だった。

真っ赤な広がりの中心には、いくつかの黒い塊が折り重なるように積み上げられていた。
「あれはなんだ?」

数メートル下の岩場にある黒い塊をよく見ると、ヒレのようなものが付いている。
ジーッと眺めている俺の後ろから、さっきのお巡りさんが一緒に覗き込みながら、
「ああ、あれ、イルカだよ。」と教えてくれた。

「イルカ・・・?」
俺は何ともマヌケな声を出していた。
そりゃ、俺だってイルカくらい知ってる!
まあ、間近で見たことはないが・・・形くらいTVで見て知ってる。
俺が“あの塊”をイルカだってわからなかったのは・・・

頭が無かったからだ

岩場の紅は、イルカの体から噴き出した血だった・・・
あの鮮やかな色は、ついさっき噴き出したからなのか。

俺がショックを受けているのも気付かない感じで、お巡りさんは
「今年もようやく来てくれたなぁ。」と明るい声で言いながら満面の笑顔でパトカーに向かって歩き出した。
(え?え?何もしないの?)と思いながら、お巡りさんを見たが、
彼はそのままパトカーに乗り込み、俺が行く市内とは逆の方向へ走り出してしまった。

ふと気が付けば人だかりは消えていて、付近には男性が2,3人タバコをふかして残っているだけだった。

(イルカがあんなになるって何があったんだよ・・・)

あっけにとられて立ち尽くしている俺を尻目に、残っていた村人も方々へ散っていった。

もう一度岩場を見るには相当な勇気が必要だったが、俺は、立ち去る前に見ておこうと思った。
ガードレールから覗き込むと、さっきと変わらない光景がそこに広がっていた・・・。

折り重なるように打ち上げられた頭の無いイルカの死体。おそらく10頭前後はある。

「夢に見そうだな・・・」そう小さくつぶやくと、後ろの方から
「お兄ちゃん、市内に行くんか?」と声がかかった。

ビクッとして振り向くとそこには、40代くらいの男性が立っていた。
「良かったらついでに乗せてってくれないか?」
短髪で神経質そうなその男性は、半袖のポロシャツを着て夏らしい格好だったが、何故か両手に真っ黒い革の手袋をしていた。
そして、歩いて来るのを見て気付いたが、その男性は右足が不自由らしく、杖は無かったが右足を少し引きずるように歩いていた。

「良いですよ。市内のデパートに荷物を届けるんで、そこでも良いですか?」

ああ、それで良い、と頷く男性を助手席に乗せ、俺はトラックを走らせた。

この村から市内までは、国道を走らせて1時間半ほどかかる。
俺は、この男性にさっきのイルカの件を聞きたくて、すぐに話を切り出した。

「あの、さっきのアレって、何なのか知ってます?」と俺は意識して普通のトーンで話しかけると、男性は、「ああ、ああ、“おのぼりさん”のことか・・・」と答えてくれた。

「それです!それです!お巡りさんも“おのぼりさんが来た”って言ってましたけど、いったい何なんです??」

俺の剣幕にちょっと驚きながらも、その男性は「村の変わったしきたり」と“おのぼりさん”ついて教えてくれた。

男性の話はこうだった。

村はかなり昔から“おのぼりさん”と呼ばれる“守り神”を信仰している。
一年のうち、ほとんどの期間、村人は海に入ってはいけないのだが、
『お盆の時期のごく短い期間だけ海に入って良い』ことになっている。
おそらく2~3週間くらい。

何故そんな“しきたり”があるのか?

この村の海一帯には一年の大半、目に見えないくらい小さな“何か”が無数に漂っていて、それに触れたら命が危ないらしい。

しかし、『お盆の時期』には、“おのぼりさん”が村の海に現れ、その小さな“何か”はどこへともなく消え失せ、同時に大量のイワシがやってくるのだそうだ。

そして、村はこの時期だけ大量のイワシを水揚げし、“丸干し”に加工して潤うのである。

“おのぼりさん”の姿を実際に見たものは多いそうだが、誰もその姿を話すことはしない。

“おのぼりさん”は、村人に危害は加えないが、唯一、その時期だけ村の海岸に連日、大量のイルカや大型の魚の首のない死骸が流れ着くのだそうだ。
村の昔話では、一度、頭の無い鯨の死体が打ち上げられたこともあるという。

「聞いたこともない話ですね、どこまでホントなんですか?」
俺は、さっき自分の目で見たイルカのことも忘れ、ちょっと信じられないホラ話を聞いている気分になっていた。

「海に入ってはいけない時期って、本当に危ないんですか?」
俺はまた疑いながら聞いてみたが、
男性はまじめな顔で、過去に実際に何人も村人が消息不明になっており、死体すら上がらないと話した。

「え?死体が無いんじゃ、ただの行方不明ってこともありますよね?」と、
俺が普通に疑問に思ったことを聞くと、男性はちょっと苦笑いのような表情になり、おもむろに両手の黒い革手袋を外しだした。

「兄ちゃん、驚いて事故らんでくれよ・・・」男性はそう言うと、手袋を外した両手の甲をゆっくりと俺の視界の中に入れてきた。

「うぇっ!」
俺は、顔は正面を向きながらも、視線をチラッとその男性の両手の甲に向け、
それを見た途端、反射的に激しい吐き気を催した。

男性の両手の甲は、肌色と茶色がまだらに混ざって変色し、無数の細かな皴のような、スジのような模様が走り、かなり酷いケロイドのようになっていた。
しかも手自体は、骨と皮のみで脂肪など無いような感じで、中肉中背のその男性には似つかわしくないミイラのようになっていた。

「・・・それ、どうしたんですか?」俺はこみ上げる酸っぱいものを飲み込むと、やっとのことで声を出した。

その問いかけに男性は遠くを見るような目になり、ゆっくりと話し始めた。

「俺なぁ、若い頃、海で遊ぼうと、夜中、仲間と一緒に飛び込んでなぁ・・・」

「しばらく泳いでたら、急に仲間の一人が『足をつった!』って言ってさ・・・他の仲間も次々と『わき腹が痛い!』とか口々に言ってギャーギャー騒ぎ出したんだよ。」

「助けに行こうとしたんだが、俺も突然、両手と右の太ももに強い痛みを覚えて、焦って必死に岸まで泳いでいったんだ。」

「道路の下の岩場まで泳ぎ着いて、痛みをこらえながら夢中で海から出ると、月明かりで見た自分の両手は、皮膚の下がウネウネと蠢いていて、小さな何かが無数に入り込んで噛みついているように感じた。太ももは見てなかったが、痛みの感覚は同じだったよ。」

「痛みのせいで叫びながら岩場に転がり、両手をこすりあわせていると、すぐに痛みは減っていった。痛みが少しマシになったことで仲間のことを思い出して海を見たが、海は静まり返っていて仲間は一人も見えなくなっていたんだ。」

「村に助けを求めに帰ると、親父や爺ちゃん、近所のおじさんたちがすぐに総出で海まで来てくれた。しかし誰も海の中に入ることやボートを出すことをしなかった・・・知ってたんだよな。俺たちも小さい頃から言われてたんだがな・・・。」

「だから、あの海でいなくなったら多分死体は上がらないんだよ。海にいる“なにか”に食われちまうんだろうな・・・」

男性はそう言うと両手をさすりながら手袋をはめた。

「この手な、町の医者に見せたんだが、皮膚に無数の小さな孔が空いていて、そこからイトミミズくらいに細っちい何かが皮膚の下に潜り込んだんじゃないか、って言ってた。
ただ、手は神経や筋肉はあまり傷付いてなくて、水から出たから、入り込んだものが死んだか、逃げ出したかしたんだろうってな。見た目はこんなになっちまったが・・・」

トラックは順調に走り、目的のデパート近くまで来ていた。
俺は、なんかちょっとした気まずさを感じながらも、さっき聞いた話で気になったことを思い出して聞いてみた。
「さっき“おのぼりさん”を見た人は多いって言ってましたよね?あなたも見たことはあるんですか?」

俺が聞くと、男性はあきらかに緊張した表情になった。
若干、唇も震えているように見えた。

「・・・あぁ、見たことはあるよ。」

「へえ・・・」俺はちょっと期待していたので、その答えを聞いてワクワクしていた。

「でっかい魚か、サメとかでした?」俺はイルカのあの死体を見て、頭をガブリ!というのを想像していた。

「いや・・・」男性は、小さく首を横に振った。

「あれは・・・そんなんじゃない・・・」

「あれは・・・でかい“ゆび”だったよ・・・」

「え?ゆび?」
男性の答えは俺の想像とは、かけ離れていた。

「あれは・・・薄ピンクのウネウネとした1本の太くて長い“なにか”だった。遠目で頭も尻もわからなかったが、似てると思ったのはカブトムシの幼虫かな。月明かりの波間を丸まったり伸びたりしながら漂ってたよ・・・。それが結構な数いて、一帯がピンク色に染まるほどだった。」

「月明かりに照らされた、その海面をしばらく見てたら、少し離れたところで突然バシャバシャと音がした。そのとたん、ゆらゆら漂ってた“そいつら”は、ものすごいスピードで音のする方へビューっと進んでいったんだ。」

「バシャバシャと音がしていたのは多分イルカだったんだな。見ると、頭に薄ピンクの塊が引っ付いたイルカがバシャバシャともがいていた。それも、そこ一帯そこかしこで・・・。」

「目を離すことが出来なくなってた俺は、じっとその光景に見入っていた。」
男性は助手席から正面を向いたまま話し続けた。

「しばらくすると、あちこちでイルカたちの頭からしぶきのようなものが出て、その都度、バシャバシャという音は消えて行った・・・」

「“やつら”は、イルカの頭を、ビシャっ、ビシャっと潰してたんだ・・・その光景を見て俺は、人間が人差し指と親指でつまんで何かを潰す仕草を思い出したよ。」

「それ、どんな生き物・・・?」俺は自然と思ったことを口にしていた。

「さあな、まるで悪夢を見ているようだったよ。“あいつら”はイルカの頭を潰したあと、スッとイルカから離れて、またゆらゆらと漂ってたんだ。食べるために殺してたんじゃない。」

「あんなの・・・“守り神”なわけないよ・・・」
男性は、自分の右手を左手でさすりながら、小さな声でそうつぶやいた。

少しの沈黙のあと、トラックは目的地のデパートの敷地内に入った。搬入口は目の前だ。

男性は「ありがとな」と言うと、腰を上げた。
そして、助手席から離れる前に「ちょっと見てみな」と言って、胸ポケットから取り出したガラスの小瓶を俺に手渡した。

「それ、俺の両手と右足の傷口から出てきた“もの”なんだ。町のお医者がくれたんだ。」

俺は、その小瓶をまじまじと眺めたが、中にあるのは茶色く干からびた小さい糸みたいなものだった。全部ちぢれて、短い・・・確かに乾燥したイトミミズみたいにも見える。
男性の話を聞いていなければ、ゴミか何かだとしか思えない。
「はあ、ありがとうございます。」そういって俺は小瓶を男性に返した。

トラックを下り、ドアを閉めようとしていた男性は、最後にガラスの小瓶を顔の横で軽く振りながら、
「俺な、にいちゃん。“おのぼりさん”って“こいつら”が大きくなった姿なんじゃないかって思うんだ。」と言って街の方へと足を引きずりながら歩いて行った。

俺はトラックの荷を搬入口に降ろしてデパートの担当者に引き渡し書類を渡し、サインをもらった。
担当の主任さんは、にこやかに「いやあ、助かったよ!この丸干しは凄く評判がよくってね!一年のこの時期しか入らないんですぐに売れちゃうんだ!」と上機嫌だった。

俺が「へえ、そうなんですね。そんなに人気なんですか?」と聞くと、主任さんは少し興奮気味に、
「ああ、イワシなのにまるで肉を食ってるような味わいで、うちも必ず買っちゃうんだよ!バカ高いけどなぁ~」
とガハハと笑いながらその人気度を教えてくれた。

そして思い出したように、
「あ、あと“イワシの頭が全部取ってあるから食べやすい”ってのも、人気のひとつかな。」と付け加えた。

俺は、背筋が凍る気がした。

“丸干し”って頭を取ったりしたっけ?
丸々干すから“丸干し”なんだろ?

そういや、あの村、漁船を停めることが出来るような場所、港なんてあったか?

嫌な想像が頭をよぎりながら、積み荷を下ろしたトラックに乗りデパートを後にした。

「もうこの配達はやめとこう」
そう思いながら、報酬を受け取るため工場に向かう。

帰りは陽も落ちかけ、右手には美しい夕焼けが海と空を染め上げていた。
俺はその光景を楽しむ気にはなれず、一秒でも早く村に着いて、仕事を終えることしか頭になかった。

やがて村に着き、あの工場にトラックを乗り入れると荷台を開けて、先に社長さんの事務所に向かった。

社長さんはニコニコしながら「ほんと助かったわぁ~、お疲れ様。これお金ね。」といって厚めの茶封筒を渡してくれた。

報酬は、相場の3倍近くもあった。

「こんなに・・・」
ビックリしている俺をみて、社長さんは、
「よかったらまたお願いしたいわ」と言ってくれたが、俺はその申し出を丁寧に断った。

社長さんは、理由は聞かずに「残念ねぇ」とだけ言った。

俺は、事務所を出て階段を下り、トラックに向かった。
荷台はすでに空になっており、丸干しを入れていた木製のケースは整然と元あった場所に積み上げられていた。

1階の作業場所には、まだ数人のおばあさんたちがいて、後片付けをしている。

俺は一度、2階の事務所を見上げ、トラックに乗り込む前に、一番近くにいたおばあさんに小さな声で気になったことを聞いてみた。

「あの、イワシはどうやって獲ってるんですか?」

俺が声をかけたのは、口をスカーフでマスクのように覆っているおばあさんだった。
「ああ、この時期はね、毎朝、村の人間総出で、海辺に打ち寄せられてるのを拾ってくるんだよ。」と目を細めて優しい声で教えてくれた。

(やはり・・・)

俺は、その答えを聞く覚悟をしていたので、あまり動揺を表に出さずに済んだ。
そして次に俺は、おばあさんに

「あのう・・・なんで“おのぼりさん”って言うんですか」と聞いてみた。

おばあさんは、「はいはい、“おのぼりさん”ね。“おのぼりさん”はね、ふかいふか~い海の底から“のぼって”くるんさね」
と、満面の笑みで答えてくれた。

俺はおばあさんの顔を見て少しぎょっとし、そそくさとトラックに乗り込み、帰路に就いた。

俺は、見てしまったのだ。

おばあさんが笑った時にわずかに持ち上がったスカーフの端から、あの男性と同じような異様な傷跡を。

この村の海は、「お盆だけ海に入って良い」わけじゃないんじゃないか?

大量のイワシが打ち上げられる時期に村人は、命がけで“収穫”しているだけなのかもしれない。

村に若い人がいないのは、この風習が嫌で逃げたんだろうか・・・
それとも、“収穫”で犠牲になったのか・・・

そのあとすぐに俺は愛知県に引っ越したので、あの村について詳しく調べることはしなかった。
正直、忘れたかったのだ。

だが、TVや新聞でたまにある、「イルカの大量死」のニュースを聞いたりすると、
今でも30年前のこのことを鮮明に思い出してしまうのである。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151815151578
大赤見ノヴ161718171684
吉田猛々161617161782
合計4751504848244