通じないことで起こる悲劇は、確かにあります。けれど、半端に通じてしまったときの悲劇は、時にもっと破滅的な結果をもたらすことがあります。
これは、私の懺悔の記録として読んでください。
私は以前、とある総合病院の心療内科で看護師をしていました。かなり大きな病院で、すぐ隣には小さなミュージアムがありました。うちの病院の関係者や患者は割引価格で入館できたため、患者と一緒に訪れることも珍しくありませんでした。
ある日、私はとある少女の患者と彼女の主治医と三人で、そのミュージアムを訪れました。代務だったので初めて関わる患者でした。
その日は「フランス展」の初日。有名な展示品はなかったけれど、フランスに由来する様々なものが並んでいました。
展示を順に見ていたとき、少女がとある展示物の前で立ち止まりました。それは甲冑――いかにも西洋的な、頭から足先までを覆う、鈍く銀色に光る甲冑でした。
私はその甲冑を見た瞬間、中に「いる」ことに気がつきました。隙間から“中身”がのぞいていたからです。もちろん人ではありません。私は「見る」ことだけはできるのです。
「ブルボン朝時代の甲冑」
少女が展示名のプレートを読み上げました。「日本でいえば江戸時代くらいだね」と主治医が補足しました。なるほど、この中にいる霊もその頃の人なのだろうかと私は思いました。
少女が甲冑の目の部分を覗き込みました。主治医が後ろから彼女の両肩に手をかけて「何かいる?」と聞きました。
「うん、青い目のフランス人がいる」と彼女がいたずらっぽく笑い、主治医も「じゃあボンジュールだね」と笑いました。中にいる「彼」の瞳はどう見てもブラウンなので、冗談だとわかりました。
そのとき、主治医が後ろから体重をかけたのか、少女が前方にバランスを崩し、甲冑に触れてしまいました。甲冑は少し揺れたあと、元に戻りました。二人は周りを見回してから、口の前に人差し指を立てて笑い合っていました。
今さら非難する気などありませんが、この二人は医師と患者としては明らかに距離が近すぎました。――このことが、後の悲劇につながります。
数日後、少女は亡くなりました。手首の外傷による失血死でした。少女は「回復軌道にある」と私は聞いており、ミュージアムでもそのように見えました。しかしこの段階が最も自死のリスクが高いとも言われています。私は本来の担当看護師の相談に乗る形で、詳しい話を聞きました。
曰く、少女にはもともとリストカットの癖があり、その延長で自死が起きたらしい。無数の傷の中にひときわ深い傷があり、止血もされなかったことで、それが致命傷になった。ただその傷が明らかに他の傷とは異質で、不審な点があったため、警察の捜査が入りそうになった。ところが、死の直前に書き込まれたSNSへの投稿がすぐに見つかったため、自死と判断されてそのまま処理された、とのことでした。
少女の投稿は次の通りです。
「気づいたらこんなに切ってたwなんでいきなり勇気出たんだろw(傷の写真)」
「どんどん気が遠くなってく〜血が止まらないの幸せすぎる〜」
「油断してると右手が勝手に傷口押さえて止血してくるwめっちゃ的確にw生存本能? って賢いんだね〜でも邪魔すんなや!」
「頭ん中で丸っきりわけわからん言葉で怒鳴られてる。何語だろ、これ」
「そろそろ逝けるっぽい。ではみなさん、来世でお会いしましょう」
私は四つ目の投稿に引っかかりました。幻聴であれば、日常でよく聞く外国語をベースにしたものになるでしょうから、意味はわからないにせよ「丸っきりわけわからん」言葉という印象にはならないのではないか。――いえ、これは私がとある答えに引っ張られて、そう思っただけでしょう。そのとき私は既に、少女の死をあの甲冑と結びつけていました。つまり少女が聞いたのは、フランス語なのではないかと。
異常事態は続きました。少女の死から一週間も経たないうちに、今度は彼女の主治医が自死したのです。青天の霹靂……といえば嘘になります。少女の死後、主治医は目に見えて憔悴しており、仕事にも支障をきたしていたからです。私が思っていたより二人の関係は深かったようです。「自分も精神科にかからなければ」と本人が漏らしていた矢先の出来事でした。
しかし自死の仕方が非常に劇的でした。彼は深夜の病院で、自らの頸部をメスで切り、それによって失血死したのです。切ったあとに錯乱して動き回ったようで、現場となった外科病棟は凄惨な光景になっていたといいます。異常な方法でしたが、一部始終が院内の防犯カメラに映っていたことで、すぐに自死として処理されました。遺書はなかったけれど、動機も容易に推測されました。耳目を集める出来事でしたが、病院も医師と少女の関係をそれなりに把握していたようで、箝口令(かんこうれい)が敷かれ、早々に幕引きとなりました。
私は無理を言って、防犯カメラの映像の一部を見せてもらいました。メスを持って歩くあの医師。その身体に他者の霊体が重なって見えたところで、「もう大丈夫です」と言って再生を止めてもらいました。
私はこの段階で、二人の死にあの甲冑が関わっていることをほぼ確信しました。接触したことで怒りを買ったのか、無差別なのか、動機はわかりませんが、次は自分かも知れないという恐怖もあったし、もちろん他の誰かでも困ります。早急に手を打たなければと、私はMさんという人物に連絡を取りました。
Mさんは、私が「見える」ことを通じて知り合った霊能者です。50代の男性で、私よりずっと霊感が強く、見えるし話せるし、また「処理」までこなします。一般的な霊能者のイメージと大きく異なり、かなりの熱血漢で、関西弁混じりで饒舌に喋ります。
私は電話の段階で、それまでに起きたことと、自分の推測を一通り話しました。すると彼は、仕事を切り上げて、その日の昼休みに駆けつけてくれました。
ミュージアムの前で待っていると、Mさんが駆け足でやってきました。
「Kちゃん、大変なことになったなぁ」
Mさんは私のことをKちゃんと呼びます。私が頷くと、Mさんはミュージアムの方を見て遠い目をしました。
「ホンマに二人あやめてんなら、殲魄(せんぱく)やなぁ……」
殲魄というのは、Mさんの所属する流派における、霊に対する「処理」の一つです。成仏などと違い、魂ごと消滅させるという、極めて重い処置だと聞いています。私は少し気が重くなりました。
館内に入り、甲冑の前にたどり着いたところで、Mさんが「おるなぁ」と呟きました。
Mさんはそのまま甲冑の顔に近づいて、しばらく黙りました。恐らく会話をしているのでしょう。――しかし、
「あ~わからん!」
少し経って、Mさんは頭をかきました。霊と会話ができるといっても、言葉が通じなければどうしようもありません。
それでもMさんは、やりとりを通じて何かを感じとったようで「いきなり異国に連れてこられて、みんな敵に見えてるのかもしれん。通訳を呼んでしっかり話して、説得しよう」と、当初の方針を保留にしていました。私はほっとしました。
「準備は全部俺がやっとくから、Kちゃんは病院に戻ってええよ。勤務終わりにミュージアムの前に来てくれ」
勤務後にミュージアムの前に行くと、Mさんは外国人の老紳士と一緒に待っていました。聞くとフランス人で、近くの教会の神父だといいます。
「私は日本語は聞けますが、話すのは得意じゃありません」
神父は申し訳なさそうに言いました。私は少し不安になりましたが、それでも、何も通じない現状は打破してくれるはずです。
「これ館長に借りたんだ。さぁ、入るぞ」
どういう交渉をしたのか、Mさんは既に閉館しているミュージアムの入口の鍵を持っていました。
館内照明はつけられないようで、Mさんが持っているLEDランタンの光を頼りに進んでいきます。広いミュージアムではないので、すぐに甲冑の前にたどり着きました。
暗い中で見ると、甲冑の中の「彼」は、かすかに輝いているようにも見えました。
神父は恥じるように、自分は霊が見えないと言いました。神職やお坊さんだって大半はそうでしょうから、「お気になさらないで」と私は言いました。
Mさんがランタンを床に置き、紙と鉛筆を用意しました。
「よし、始めるぞ」
そこから始まったのは、ものすごく複雑で不器用で、ぎこちない対話でした。
①Mさんが霊に何かを言う(日本語)。
②それを神父がフランス語訳して、甲冑に向かって言う(フランス語)。
③霊から返事が返ってくる(フランス語)。ただしそれを聞けるのはMさんだけ。
④Mさんが聞こえたままの音をカタカナで紙に書く(カタカナで書かれたフランス語)
⑤神父がそれを読み解いて、日本語訳してMさんに伝える。
→①に戻る
これをひたすら繰り返したのです。手順が多すぎるし、Mさんによるフランス語の音写もどこまで正確かはわかりません。また申し訳ないけれど、神父の日本語も、自己申告どおり怪しいものでした。途中で何度か「出血です、もしかしたら彼は出血で、死なせたのです」と言い、Mさんに「それはわかってるんですよ」とたしなめられる一幕もありました。加えて、神父曰く「少し古いフランス語、よくわからないところがあります」とのこと。我々でいえば江戸時代の人と会話しているようなものですから、仕方ありません。
それでも、慣れによって手順がスムーズに進むようになると、それなりに対話が成立するようになってきました。
途中の翻訳部分を省くと、次のようなやりとりがなされました。不謹慎なのですが、コミュニケーションのぎこちなさによって、やや滑稽ですらあるやりとりになっていました。
「(少女と医師の写真を見せて)この二人はお前があやめたな?」
「言葉に気をつけろ。私を侮辱するのか?」
「(剃刀とメスを見せて)お前がこれを使って、この二人の身体を切り裂いて、死なせたんじゃないのか?」
「そうだ、私がやった」
「やっとるやないか!」
いずれにせよ自白が取れたことで、甲冑の霊が犯人であることが確定しました。
ある意味では、そこからが本番でした。
Mさんは甲冑の目を見据えて、落ち着いたトーンで話し始めました。もちろん実際には、神父による翻訳が後に続きます。
「本来だったら俺は、お前を消さなきゃならん。でもな、お前が異国の地に連れてこられて、混乱しているのもわかる」
甲冑の霊もMさんの目をじっと見ています。
「だから約束してほしい。もう人に危害を加えないと。そうすれば、俺はお前に何もしない」
Mさんはそこで、一気に語調を強めました。
「その代わり、もしまたお前が人に危害を加えたら、俺はお前を必ず消す。必ずだ」
二人がしばらく見つめ合ったあと、Mさんが私に手招きしました。
「この場所に関係するのはKちゃんなんやから、約束はKちゃんと結ぶんだ」
私は甲冑の前に立ちました。Mさんが約束内容をさらさらと紙に書き、それを渡してくれました。
「神父さん、Kちゃんがこれから言うこと、しっかり訳してくれな」
神父は大きく頷きました。私は紙に書かれた内容を覚え、甲冑の霊と目を合わせながら、ゆっくりと言いました。
「決して人間に危害を加えないでください。もし加えたら、彼があなたを消滅させます。約束してくれますか?」
神父の翻訳がそれに続きます。日本語の文章に対してフランス語は長いなぁと思ったのを覚えています。
少し経ってから、甲冑から返ってきた応えを、Mさんがカタカナで紙に書きます。
神父がそれを読み、「おぉ」と声を上げました。
「彼は『貴女と神に誓う』と言っています。この時代の戦士にとって、神という言葉は極めて重いものです」
私とMさんは胸を撫で下ろしました。
そのとき、カシャンと音を立てて、甲冑が膝を折りました。鉄の身体が床に沈み、頭を垂れています。跪(ひざまず)いているのです。私は「あ、騎士のポーズだ」と思いました。そしてその右手が、私の前に差し出されました。私は一拍おいて、するべきことを理解し、自分も右手を差し出して、その大きな鉄の手を握りました。もちろんひんやりしていたけど、何だか温かい気もしました。
Mさんが声を上げました。
「よっしゃ! 国も時代も違うけど、魂と魂の約束や! 良かった良かった!」
Mさんは紙パックの日本酒を仰ぎました。神父は目に涙を浮かべてゆっくりと頷いています。私も気づいたら、視界が涙で少しだけぼやけていました。
約束の後――相変わらずミュージアムを訪れる患者は絶えませんでしたが、かつてのようなことは起こらなくなりました。ただ、私自身が患者を連れてミュージアムに行く際は、念のために甲冑は避けるようにしていました。
そんな中で担当するようになったのが、A君でした。彼は小学五年生で、小児がんを患っており、大きな手術を控えていました。その不安から神経症や不眠を患い、心療内科にも通っていたのです。
初めてA君を連れてミュージアムに行った日のことでした。私がトイレから戻ると、A君がいなくなっていました。館内を見回すと、A君は何と甲冑の前にいました。私は慌てて駆け寄りました。
「この鎧、何か良い」
そう言うA君の肩を、私は少し震える手で後ろから抱えました。そして、恐る恐る甲冑の目を見ました。相変わらずの、ブラウンの瞳。それは――とても澄んでいるように見えました。少しだけ緊張がやわらぎました。少なくとも、害意のようなものは感じません。私は不安と安心がないまぜになりながら、A君が満足したところでその甲冑から離れました。
A君の次の通院日まで、私は不安と約束した日のあの希望との間を行ったり来たりしながら過ごしました。結論からいうと、何も起こりませんでした。
次の通院日にも、A君はあの甲冑を見に行きたいと言いました。私は逡巡したけれど、あの約束と彼の澄んだ瞳を思い出し、A君を甲冑のもとに連れていきました。その後も何も起こりませんでした。
それ以来、A君と一緒に甲冑を見に行くのが恒例になりました。通っているうちに、不安はすっかりなくなっていました。行くたびに見る、彼の澄んだブラウンの瞳。そして現に、もう何も起こらない。私は通っているうちに、甲冑を、かつて悪霊だったものが祀られて守り神になっている神社のような存在として捉えるようになっていました。お参りするような感覚になっていたのです。
ある時期から、他の看護師や患者が甲冑の前で両手を組んでいる姿をちらほら目にするようになりました。事情を知らなくても、そういう感覚にさせる不思議な力があるようです。
手術前の最後の通院日。A君は体力の温存も含めて車椅子に乗っていました。いつも通り甲冑参りに向かいました。
車椅子を押しながら改めて後ろから見ると、かなりやつれているのがわかりました。詳しいことはあえて聞いていないのですが、がんは着々と進行しているはずです。彼の運命は手術の成否にかかっているのです。
「ねぇ、A君はあの鎧さんのどこが気に入ったの?」
「わかんないけど……なんか守ってくれそうだなって」
何と、A君も同じ感覚だったみたいです。
「だから、病気治してっていつもお願いしてるんだ」
「へぇ〜鎧さん、叶えてくれそうだもんね」
甲冑の前に着いたら、A君は両手を組んで目を閉じました。私もその後ろで、両手を胸の前でぎゅっと握りました。そして心の中で「Aidez-le(エデル)」と唱えました。短いですが「彼を助けて」という意味のフランス語です。翻訳アプリを使い、表現に誤りがないことを何度も確かめてから覚えたものでした。
何度か唱えているうちに気持ちが入り、気づくと小さく声に出して唱えていました。涙が一筋、頬を伝いました。
唱え終わり、目を開けると、彼と目が合いました。ブラウンの目はやっぱり澄んでいました。私は何だか元気づけられて、「絶対大丈夫だよ」と言いながら、A君の背中をぽんぽんしました。A君は笑いながら頷きました。
その翌日。A君は病室で左腕をメスで切り、静脈から大量出血してICUに運ばれました。同室の患者がナースコールで知らせてくれたこと、そして本人が病衣を裂いて包帯にして止血を試みていたことで、最悪の事態は免れました。――しかし。
「もともと体力が落ちてたところにあんなに出血したら……もう手術は……一体何でこんなことに……」
A君の主治医は、頭を抱えてそう言いました。私は目の前が真っ暗になりながら、気づいたら、泣きながらMさんに電話していました。
勤務後にミュージアムの前に行くと、Mさんが待っていました。見た瞬間に、いつもの優しいMさんとは全くの別人だとわかりました。
例によって鍵を借りているようで、私が着くなり入口のドアを開けました。私が中に入ろうとすると、Mさんに止められました。
「Kちゃんはここで待っとって。あんな儀式、見るもんちゃう。10分もあれば終わるから、10分後に来てな」
私は腕時計を見て頷きました。Mさんはランタンを持って一人で中に入っていきました。
約束通り10分後に、私は甲冑のもとに行きました。汗をかいたMさんが、ランタンの光の中で腰を下ろし、紙パックの日本酒を飲んでいました。
「無事終わった。いなくなったこと、自分の目でしっかり確認しとき」
言われるまでもなく、私の目には既に、空っぽになった甲冑が映っていました。それはもうただのモノであり、脅威がなくなっていることは明らかでした。
私はMさんに頭を下げてお礼を言いました。Mさんは苦い顔でため息をつきました。
「俺の失敗や。学ばんなぁ、昔からこの甘さのせいで、何度も失敗してきたわ」
A君の手術の中止と終末期医療(ターミナルケア)への移行が正式に決まったことを聞いたのは、その翌日でした。
その報せを聞いたあとの記憶は、途切れ途切れになっています。
気づいたら私は、退職願を持って看護師長の部屋の前にいました。
突然の訪問にも関わらず、看護師長は快く迎え入れてくれました。彼女もこの病院で起きてきたことに疑問を持っていたようで、詳しく話を聞きたいという事情もあったようです。
私はもう隠すことなど何もないので、霊的な話も含めて、全てを看護師長に話しました。
話し終えたところで、看護師長は「ちょっと待ってね……」と考え込んでしまいました。いきなり甲冑の霊だとか霊能者のMさんだとか言われたのだから、無理もないでしょう。
「……ねぇ、あくまで私の推測として聞いてほしいんだけど」
しばらくして、看護師長がゆっくりと口を開きました。
「その甲冑くん……もしかして、瀉血(しゃけつ)したかったんじゃない?」
全く予想外の言葉が出てきたことで、私は一瞬思考が止まりました。
「瀉血……」
もちろん知識としては知っています。医療が未発達だった時代に広く行われていた、あえて血を出す治療法です。しかし私の知っているそれは、鍼灸(しんきゅう)の延長のようなもので、ごく少量の血を出す程度のものです。
そのことを告げると、看護師長は次のように言いました。
「うん、こっちではそうなんだけど、あっちではね、結構ざっくり切って、結構たくさん血を出してたのよ。身体の病でも、心の病でもね。もちろん最後は止血もするんだけど……」
あっちというのは、フランスとか西洋ということでしょう。
「現代の刃物で、昔のあっちの感覚で瀉血したら……って思ってね。特にメスの切れ味なんて、完全に想定外だったんじゃないかしら」
この頃の記憶は本当に断片的になっていることをお許しください。
気づいたら私は、ミュージアムにいました。学芸員に話を聞いていたのです。
「あぁ、あの甲冑は今で言う衛生兵のものですよ」
私は表情が曇るのを必死に隠しながら、続きを聞きました。
「珍しいですよね。衛生兵は基本的に後方にいるから、そもそも普通は防具なんてつけないんです。でもその衛生兵は、とにかく前線に出て人を救おうとするから、すぐに自分が負傷してしまう。そこで鍛冶屋に頼んで、わざわざ全身を覆う旧式の甲冑を作ってもらって、それをつけてひたすら前線に張りついていたらしいんです。まぁ真偽は不明なんですけど、そういう逸話がある甲冑だから美術品になってるんです」
今度は私は、気づいたら教会にいました。Mさんに場所を聞いたのでしょうか、あの神父がいる教会です。もうすっかり日が落ちていました。
荘厳な夜の堂内。入ってきた私を見るなり、演壇にいた神父が心配そうに近づいてきました。彼は近くの席に座り、私にも座るように促してきました。
お互いに座ったところで、私は神父に聞きました。
「あの日、甲冑の霊は何と言っていたのですか」
神父は困った顔をして首を横に振り、「すみません、私はそれを、今でも日本語でうまく言えない。少し待っててください」と言って席を立ち、奥の部屋に入っていきました。
しばらくすると、埃まみれの大きな仏和辞典を持ってきて、元の席に座り、机に広げました。
神父は重そうにページをめくりながら眼鏡をかけ、とあるページで指を止めました。
「出血……ではない。ただの出血ではないんです。こちらの意味ですね」
神父が眼鏡の上から私の方をうかがうように見ました。
「――瀉血(しゃけつ)。難しい言葉、知っていますか?」
私は目の前が暗くなるのを覚えながら、頷きました。
「――甲冑の霊は、あの日、そう言っていたのですか」
「ええ、Saignée(セニエ)。あくまでMさんのカタカナ経由なので完全な自信はありませんが、恐らくそうです。ただし、ただの『出血』という意味もあるので、理解は分かれます。私の日本語が足りず、そのことをあなた方に伝えることができなかった。……それでも、最後は確かに約束となりました。人間に危害は加えないと、彼ははっきりと貴女に誓ったのです」
看護師長の推測どおりでした。あの約束は、すれ違いのせいで不完全だったのです。瀉血であれば、彼にとって当然それは危害に含まれず、病める者には無条件でなすべき使命だったのでしょう。
しかし私にはどうしてもわからないことがありました。約束からA君の事件までの間、甲冑を訪れた患者など、他にもいくらでもいたはずです。A君より容体が悪い患者だって、少なからずいたはずです。あれが治療行為なのであれば――なぜ他の患者にはその『使命』を果たさなかったのか。たくさんの病人を前に、なぜ彼は沈黙していたのか。あの空白期間は一体何だったのか。――先に他の誰かにしてくれていたら、少なくともA君は……。
私は必死に感情を抑えながら、それでも、まるで詰めるように神父に問いました。
「甲冑の霊は、どんな相手に瀉血するんですか? 何か基準があるんですか?」
神父は少し気圧されながらも、しばらく考えてから答えました。
「それはわかりませんが、約束が守られている限り、もう誰にもしないはずです」
「え?」
「本当に瀉血なら、彼の中では危害に含まれない可能性があります。だからあの日、約束のときに、私はこう補いました。Ne pratiquez pas de saignée non plus ; cela fait aussi partie de la promesse.――『瀉血もしてはならない。それも約束に含まれる』という意味です。それを踏まえて彼は誓いを立て、膝をつき、貴女と手を交わしたのです」
私は呆然としました。血の気がすっと引き、耳鳴りだけが残りました。先ほど積み上げ終えたはずの推測が、一気に崩れたからです。あの日、多くの誤解や遠回りにも関わらず、神父の機転により、約束は瀉血の禁止まで含めて完璧に結ばれていたのです。
――そうなると。
私はぐちゃぐちゃになった頭の中を整理して、必死に考えました。
――そうなると、甲冑に瀉血をさせたのは――。
考えれば考えるほど、一つの絶望的な答えが浮かび上がってきました。――いえ、本当は、心のどこかではとっくに気づいていたのだと思います。その答えから逃げるために彷徨(さまよ)い、ここにたどり着いたのです。
目から大粒の涙がボロボロとこぼれてきました。
そんな私を見て、神父が静かに言いました。
「……また瀉血が行われたのですか」
私は泣きながら頷きました。神父は大きなため息をつきました。
「……貴女への誓いは、破られたのですね」
私はすかさず首を横に何度も振りました。
「いいえ、違います」
そして下を向き、絞り出すように言いました。
「――私が依頼してしまったのです」