高橋和羽(のわ)、17歳。
都内の高校に通う、ごく普通の女子高生。
両親と一緒にマンションで暮らし、穏やかで変わらない日常を過ごしている。
放課後になると、いつものように近くのコンビニに立ち寄り、アイスをひとつ選ぶのが小さな楽しみ。
手に取ったその冷たさを感じながら、ゆっくりと家路につくのが日課だった。
ある日の帰り道、ふとした瞬間にスマホを開き、母へメッセージを送る。
「今日、美術の課題が大変だったの。帰ったら話、聞いてくれる?」
画面にはすぐに返信が届く。
「お疲れさま。もちろん聞くよ。気をつけて帰っておいで」
その言葉に、心がふわりと和らいだ。
自分のことを待ってくれている人がいる――それだけで、不思議と肩の力が抜けていくようだった。
だが、自宅のドアを開けた瞬間、空気が少しだけ違っているように感じられた。
リビングで洗い物をしていた母に向かって、和羽は口を開く。
「それで、美術のことなんだけど……」
母は手を止め、少し首をかしげながら言った。
「え、美術? 何の話?」
驚いたように、和羽は思わず声を上げる。
「だって今日、メールで話したじゃん……」
しかし、母はきょとんとした表情を浮かべたまま首をかしげた。
「え? メールなんてしてないよ。和羽、誰かと間違えたんじゃない?」
戸惑いながらスマホの画面を見つめると、そこには確かに母からの返信が表示されている。
けれど、目の前の母はその内容をまるで知らないかのようだった。
和羽の手に自然と力が入り、スマホを強く握りしめる。
何か引っかかるものがありながら、それをどう言葉にすればいいのか分からない。
ふと視線を上げて母の目を見た瞬間、表情にかすかな違和感が走る。
それでも、その違和感を認めてしまうのが怖くて、和羽は目をそらした。
その深夜、和羽はスマホの通知音で目を覚ました。
時計を見ると、時刻は午前2時17分。
まだ眠気が残るまま、ぼんやりと画面を覗き込むと、母からのメッセージが表示されていた。
「和羽、どこにいるの? お母さんは心配です」
和羽は寝ぼけたまま返信した。
「お母さん、どうしたの? 私は部屋にいるよ」
しばらく待ったが、返事はなかった。
画面をじっと見つめるうちに、どこか不安な感情が湧き上がる。
普段、母がこんな時間にメッセージを送ることはない。
自分が部屋にいることを知っているはずなのに、なぜ心配しているのだろう?
疑念が胸を締め付ける。何かがおかしい。
和羽はその感覚を抱えたまま、再び目を閉じた。
翌朝、和羽はそのことを母に尋ねた。
母はキッチンで朝食を作りながら、首をかしげる。
「夜中にメール? そんなの送ってないわよ」
和羽は言葉に詰まってしまった。
あのメッセージは夢だったのだろうか?
だが、スマホには確かに届いていたはずだ。
胸の奥で違和感が膨らみ、言葉を発しようとしたその瞬間、母は淡々と続ける。
「夢でも見たんじゃないの?」
その言葉が、和羽の心にひっかかりを残した。
普段ならそんな態度を見せない母に、違和感が広がっていく。
学校でその話を友人の彩花にしたが、彩花は笑いながら言った。
「それ、迷惑メールじゃない? 私も変な広告が来たことあるよ」
彩花がスマホを見せてきたが、それはただのスパムだった。
和羽はその画面をちらっと見た後、口を開いた。
「でも、お母さんのアドレスから来たんだよ……」
彩花の笑顔が瞬時に固まり、顔をしかめて考え込む。
「それ、ちょっと怖いね。アドレスが乗っ取られてるんじゃない?」
その言葉を聞くと、和羽の背筋に冷たいものが走る。
乗っ取りなら、最も納得できる説明だ。
しかし、帰宅して母のスマホを確認しても、送信履歴には何も見当たらない。
「疲れてるのかな……」
ベッドに倒れ込んだ和羽は、思考を整理することなく目を閉じる。
それでも、眠れぬまま無意識にスマホを手に取り、画面を見つめていた。
そこには、あの深夜に受け取ったはずのメールが表示されていないことに気づく。
――メールが、ない。
確かに受け取ったはずなのに、それが今、初めから存在しなかったかのように消えていた。
和羽は息を呑み、震える手で画面を再確認する。
けれど、そこには何も表示されていなかった。
冷ややかな汗が額を伝い、ぞくりとした寒気が走る。
頭の中に浮かんだのは、ただ一つの考えだった。
「誰かが、私を見ている――」
目を閉じても、その思いが消えることはない。
和羽は深く息をつき、スマホを閉じたが、その指先は震え続け、感覚を抑えることができなかった。
翌日から、母からのメールは次第に増え、内容も不安を煽るようなものへと変わっていった。
《警察に失踪届を出しました。和羽、どこにいるの?》
《年末までには帰ってきて。お願い》
《あの日のこと、もう怒ってないから》
《また、あなたに会いたい》
和羽はスマホを見つめ、思わず目をこすった。
失踪?
自分は毎日家にいる。
朝、母と「おはよう」と言い、父がいる日には一緒に朝食を取る。
なのに、届くメールはあたかも彼女が存在しないかのような内容ばかり。
疑念が彼女の思考を覆い始め、不安が胸を締めつけた。
混乱しながらも母にそのことを伝えると、母は首をかしげて言った。
「だから、そんなメール送ってないって」
和羽は再びスマホを確認した。
そこに表示されたメールは、確かに母のアドレスから届いている。
しかし、その内容は現実を完全に無視したかのように、強い不安を感じさせるものだった。
和羽の手は震え、もう一度画面をタップしても、何も変わらない。
「システムのエラーじゃないか?」
父が軽く笑いながら言った。
その声にはどこか頼りない響きがあった。
和羽はその言葉を耳にしながらも、心の奥で何かが引っかかっている。
警告のような、抑えきれない不安が、さらに彼女を支配していった。
放課後、彩花と廊下で話していると、彩花が心配そうに言った。
「ねえ、和羽、最近ちょっと元気ないよね。顔色悪いし……」
和羽は笑って誤魔化そうとしたが、トイレで鏡を見た瞬間、息を呑んだ。
確かに顔色は青白く、どこか不自然に感じられる。
目を凝らして見つめると、鏡の中の自分の顔がぼんやりと霞んで見える。
まるで霧の中にいるかのように、その輪郭があやふやで不確かだった。
ほんの一瞬のことだったが、その感覚は和羽に強い違和感を残し、急いで視線を外して教室へと戻った。
その夜、母からのメールがさらに増えた。
《和羽、助けて。暗いよ。寒いよ》
震える手で、和羽は必死に返信した。
「お母さん、私はここにいるよ!」
しかし、その返事はなかった。
恐る恐る母の寝室を覗くと、そこには静かに眠る母の姿があった。
スマホを手にしたまま、無防備に寝息を立てている。
和羽は心臓が速く打つのを感じながら、そっと母のスマホを手に取った。
画面を確認すると、送信履歴には何も残っていない。
送られてきたはずのメールは、最初から存在しなかったかのように消えていた。
それでも、和羽のスマホには母のアドレスから送られ続ける不気味なメールが次々と届いている。
その内容は、確かに彼女の現実とはかけ離れていた。
「もう……、どういうことなの?」
目を閉じてもその問いが消えることはなく、思考の中でその答えは一向に見つからなかった。
一週間後、母からのメールは異常なまでに増えていく。
夜中、何度も鳴る通知音に、和羽は目を覚ますたびに携帯を手に取った。
そのたび、新しいメッセージが待ち構えている。
《和羽、なんで返事をくれないの?》
《お母さんが見つけてあげる》
《今、そこにいるよね?》
そのたびに、和羽の目が重くなり、心拍はどんどん速くなった。
夜中に通知音を切っても、朝になるとスマホは再び起動し、未読のメッセージが積み重なっている。
脳がぼんやりして、思考がうまくついてこない。
「和羽、ストレスじゃないか?」
父が心配そうに言った。
「病院に行ってみたらどうだ?」
その声は、遠くから聞こえてくるかのように感じられる。
彼女は黙ってスマホを見つめ、言葉を飲み込んだ。
帰り道、目に入ったのは電柱に貼られたビラだった。
自分の顔写真と共に、「高橋和羽、行方不明」とだけ書かれている。
連絡先は母の電話番号。
和羽はその場で足を止め、冷たい空気が一気に体中に押し寄せるのを感じた。
驚きと恐怖に駆られ、家へ急いで帰り、母に問い詰める。
「これ、どういうこと? ビラなんて貼ってないよね?」
母は目を大きく見開き、慌てて答えた。
「そんなの貼ってないわよ! だって和羽は……ここにいるじゃない!」
和羽は冷や汗をかきながら、震える手でスマホを取ると、母の番号を押す。
その直後、予想外の声が返ってきた。
「もしもし、和羽? 今どこにいるの?」
それは母の声だった。
しかしこの場にいる母ではなく、機械のように響いていた。
録音されたメッセージのようなその声に、和羽は寒気を覚え、視界がぼやけてくる。
息を呑んでから、電話を切るしかなかった。
その夜、深夜3時に新たなメールが届く。
《和羽、ドアを開けて。そこにいるんでしょ?》
和羽は息を潜め、寝室のドアを凝視した。
家の中は無音のはずだ。
だが、耳を澄ますと、どこかから微かな音が聞こえてくる。
トントン、トントン……
最初はかすかな音だったが、それは次第に強くなり、部屋の外から近づいてくるように感じられた。
その音は、部屋の壁を引き裂くかのように響き、だんだん迫力を増してくる。
「和羽……いるよね?」
その声は、母のものに似ていた。
しかし、その声はどこか遠くから響いており、空間を歪めるように、あちこちから反響している。
和羽は布団を引き寄せ、目を閉じた。
心臓が激しく脈打ち、耳鳴りがしてくる。
ノック音はますます大きくなり、ドアが揺れ始めた。
その音は、部屋の外からだけでなく、部屋の中からも響き渡るかのようだった。
息が詰まりそうになり、布団を頭までかぶって、何とかその音から逃れようとする。
けれど、音はどこからともなく迫り、視覚と聴覚が混乱し、恐怖が和羽を覆い尽くしていった。
翌朝、和羽が目を覚ますと、部屋は静まり返り、時間が止まっているかのような感覚に包まれていた。
ドアの軋む音は聞こえず、普段感じる温もりはなく、冷えた空気が部屋中に漂っている。
リビングへ向かうと、母が朝食の支度をしている姿が見えた。
「おはよう、和羽。よく眠れた?」
その微笑みにはどこかぎこちない空気が漂い、目の奥には隠された緊張が滲んでいた。
心の奥底に何かを押し込めたまま、無理に笑顔をつくっているようにも見える。
「お父さんは?」と尋ねると、リビングの奥からかすかな声が響いてきた。
だが、その声は無機質で冷たく、温かさがまったく感じられない。
それは、彼の存在が空気に溶け込んだような印象を与えるものだった。
学校で彩花に話すと、彩花は顔色を変えた。
「和羽、それ絶対におかしいよ。警察に相談した方がいいんじゃない? ネットで調べてみよう」
放課後、二人は近くのネットカフェへ足を運び、母のメールアドレスについて調査を始めた。
やがて、信じがたい事実が浮かび上がる。
表示されたアドレスは、すでに2年前に廃止されたプロバイダのもので、現在母が使用しているアドレスとは完全に一致しない。
それにもかかわらず、和羽のスマホにはなぜか「母のアドレス」として登録されていた。
さらに検索を続けるうちに、「見知らぬ差出人」というスレッドを匿名掲示板で見つける。その書き込みには、ある人物のこんな体験が綴られていた。
> 「家族のアドレスから奇妙なメールが来る。内容は、私が消えたかのように感じさせるもの。メールは続き、だんだんと不気味になっていく」
その投稿は突然途切れ、「助けて」という一言で終わっていた。その後、その投稿者は消息を絶ったという。
和羽は震える手でスマホを握りしめ、彩花に言った。
「これ、私と同じ……」
彩花は顔色を変え、焦りを隠せずに言葉を続ける。
「和羽、スマホ変えたほうがいいよ。本当におかしいって!」
和羽は首を振り、首を横に振りながら答えた。
「なんだろう、もっと深刻なことになってる気がする。これはただの不具合じゃない……」
その夜、和羽は覚悟を決めてメールに返信する。
《あなたは誰? どうして私を?》
すると、すぐに返信が届く。
《和羽、あなたはもうここにいる。私と一緒に》
和羽は息を呑んだ。手が震える中、添付された画像を開くと、そこには自分自身が映っている。部屋の中で、スマホを手に震えている和羽の姿だった。
しかし、その写真は明らかに不自然な角度で撮影されていて、天井から見下ろすような視点で自分が映し出されていた。
その異常さに、何も言えず、ただスマホをベッドに叩きつけてしまった。
目の前が急に暗くなり、恐怖が一気に体中を襲う。
その時、部屋の静けさを破るような音が響く。
それは、部屋の隅からじわじわと近づいてくる足音のようだった――
翌日、和羽は学校を休んだ。
部屋に閉じこもり、カーテンを引き、スマホの電源も切った。
それでも、部屋の空気は不自然に重く、誰かに見守られているような感覚が付きまとっている。
外からわずかに通りの音が届くが、その音もどこか遠く、時間が停滞したかのように感じられた。
夕方、家の扉が音もなく開く。母が帰宅した。
「和羽、大丈夫?」と心配そうに声をかけるが、和羽はその問いに答えられない。
母の顔はぼんやりとした輪郭をしており、目線はどこか遠くを見ているようだった。
その視線がじっと和羽に向けられている。
部屋の静けさは次第に不安を煽り、肌に刺さるように冷たくなっていく。
和羽は無意識に鏡に目を向ける。
そして、自分の姿が薄れていくのを感じた。
手が透け、輪郭が揺れる。
体の重さが増し、現実感がどんどん薄れていく。
その瞬間、2年前の記憶が突如として蘇る。
――家族で旅行の帰り道、トラックが突っ込んできた。ガラスの破片が四方に飛び、時間が凍りついたように感じた。あのとき、和羽は自分が死んだと思っていた。
けれど、意識だけがこの世界に取り残されたままだった。
その後も届き続ける母からのメール。
だがそれはすべて、和羽自身が発していたものだった。
未練が幻を形づくり、母とのやり取りが続いていた。
死を受け入れきれずに交わした連絡の数々。
だが、その幻想も次第に薄れはじめ、今では自分という存在そのものが、ゆっくりと世界から溶け落ちていくような感覚がある。
そして、最後に届いたメールを開く。
《和羽、ようやく気づいたね。さあ、こっちにおいで》
送信者は「高橋和羽」。
自分自身のアドレスだった。
視界が急激にぼやけ、音は遠のいていく。
空気の圧力が肌を押し潰し、体温がどんどん奪われていった。
全身は硬直し、指先ひとつ動かすこともできない。
やがて、目の前の景色が静寂の中へと沈み込み、意識も深い闇の底へ引きずられていった。
翌朝、高橋家のリビングには、無言で座る母と父がいた。
二人の目は、仏壇の前に飾られた和羽の写真をじっと見つめている。
母がかすかに呟く。
「和羽……」
テーブルの上に置かれたスマホの画面には、新着メールの通知が表示されていた。
《お母さん、私、帰ってきたよ》
けれども、そのメールに気づく者はいない。
和羽の部屋は、それからずっと、空のままだった。