「異国の村の神について」

投稿者:あきら

 

「そういや、神様買ったんだけど、見に来る?」

 飲んでいる時に突然そう言い出した松矢と言う男は、俺が出会ってきた中で一番変わった奴だった。こいつは仕事はそこそこできるが、かなり個性的で怪しい趣味を持っている。アングラなものは何でも大好きで、部屋は様々な蒐集品で溢れているらしい。変わっているが悪い奴ではないし、珍しい話ばかり聞けるため松矢と喋るのは楽しい。
  
「…神様って、仏像とか十字架とか?」
「いや、俺そんな普通の物は買わないよ」
「もっとレア品なのか?」
「うん。しかもたまに動くんだ」
「は?いやいや、いくらで買ったんだよ」
「ええと、50万以上したかな」
「はあ!?」

 思わず大きな声が出てしまった。気に入ったものは何でも蒐集する奴だと聞いていたが、想像よりも桁が大きくて驚く。俺たちの薄給2か月分近い金額で買ったというその”神様”がどうしても見たくなって、飲み屋から出た後松矢のアパートで飲み直すことになった。
 コンビニで酒とつまみを買って、松矢のアパートに向かっている道中は、松矢のコレクションの話をたくさん聞いた。某国の古い部族に伝わる呪術人形。刑罰につかわれた道具。人間の部位がくっ付いてる装飾品。俺の感性で言えばキモいものばかりだったが、怖いもの見たさと言うか好奇心と言うか、俺はワクワクしていた。

 ほどなくたどり着いたアパートの部屋には、鴨居、本棚、窓際に至るまで部屋中に、まとまりのない変なモノがたくさん並べられている。さっき道中で聞いた話を思い出して、少しぞわぞわしながら部屋を見回していると、壁際に横幅40cmくらいの水槽があることに気が付く。

「へー、魚なんて飼ってんの?」
「それ、さっき言ってた神様だよ」
「え!?」

 熱帯魚とかだと思ったので俺は驚いた。よく見ると、水槽の中は泥を溶かして掻き混ぜたみたいに赤茶色くて、中に何がいるのかは見えない。水面が波打つこともないし、エアーポンプなんかも入っていない。

「どういうこと?この中で神様飼ってんの?」
「餌とかはあげないから飼ってるとは言わないかな。ただ居るなあって感じ」

 何を聞いてもさっぱり意味が分からなくて、俺はこの”神様”とやらの話を詳しく聞くことにした。松矢が話し出したことは、こうだ。

 
 1か月前、松矢が2週間ほど休暇を取ったことがあった。周りはあまりいい顔をしなかったが、有給消化だと鋼メンタルの松矢は気にもしない。その長期休暇中に、とある国へ行ってきたそうだ。異文化圏の面白いコレクションを増やすための旅だったらしく、観光地よりも、寺院や漁村等をうろついてきたらしい。どこまで鋼メンタルなんだと驚嘆しかないが、英語さえも伝わらない土地で、スマホの翻訳アプリ片手に楽しく過ごしてきたという。

 そんな中とある寺院で、松矢はたまたまそこにいた現地人らしい一人の老人へガイドを頼んだ。気の良い人で詳しく話を聞かせてくれただけでなく、そのまま老人の住む漁村へと連れて帰って、寝泊まりさせてくれたそうだ。子どもたちや老人の家族にチップのつもりで小遣いを渡すと大変もてなされ、翌日には”村の祭事”にも参加させてくれたらしい。
 その祭事は、男たちが漁へ出る前夜に、信仰している村の神へ漁の安全を祈願すためのもの。集会場のような建物があって、その中には簡素な祭壇があり、祭壇の上には、何百もの極彩色の細い布に縛られるみたいにくるまれた”黒い魚の像”が、大切そうに置かれているそうだ。
 儀式の中で漁に出る男たちみんなの名前を読み上げる必要があるらしく、それまでは松矢はファーストネームだけ教えていたのだが、儀式の成り行きで苗字含めてフルネームをその場で伝えた。するとなぜか、みんないたく驚いて感激した様子になった。松矢へ握手を求めるものも居たそうだ。不思議に思って祭事が終わった後、家に帰って老人へ話を聞いてみると、(翻訳アプリの誤訳が含まれている可能性もあるが)おそらくこのような話をしたらしい。

 ――その地域では、『大洪水や水害を告げるために現れる、魚の姿をした神』を信仰していた。この村には『村に魚が迷い込むと漁にトラブルが起きたり、水害が起きる』『迷い込んだ魚を祀ればそれらから護ってもらえる』という言い伝えがあって、祭壇の上に飾られていた黒い魚の像は、『過去に村へ迷い込んできた魚で作った神の像』とのことだった。それは何体か存在していて、水害などが起きてしまうたびに『効果の切れた御神体』であるとされ、廃棄して新しい物へ替えていくらしい。
 そして、村の土着信仰である魚神とは別物なのだが、その国全体で信仰されている巨大宗教に出てくる水に関わる神の化身が、何と偶然にも『マツヤ』と言うらしかった。だから漁村の者たちにとって、『松矢』は大変縁起のいい来客であったというわけだ。

 そんなこんなで、松矢の興味のど真ん中を射止めたその土着信仰のことを、滞在中はずっと調べていたのだそうだ。たまたま松矢が滞在する少し前に漁で事故があったらしく、魚神像は交換されたばかりだったそうで、まだ廃棄されていなかった『効果切れの御神体』も見せてもらえた。
 真っ黒で20cmほどの、魚の形の木製の像。日本でいう木彫りの魚の民芸品に似ていた。老人が言うには、中には『村に迷い込んだ魚に特別な処理をしてから、木で作った魚の形の容れ物へ入れる』らしい。
 それがどうしても欲しくなった松矢は、「お役目を終えたものなら売ってもらえないか」と頼み込んだ。さすがの村民たちも渋ったが、松矢がその国の平均年収を大きく上回る有り金を差し出すと、掌を返して快諾してくれた。漁村では、その金額はさらに高額にとらえられただろう。

 役目を終えても神様だから、丁重に扱う事。
 普通ならば役目を終えた御神体は海へ、”マツヤ”の元へ帰しているので、今回同じ名を持つ松矢だから渡す事。

 このような話をされたうえで、松矢はその魚の形をした像をゲットした。レアな異文化圏の御神体を手に入れた松矢、不要となった御神体を超高額で引き取ってもらえた村民、双方ご機嫌で別れ、旅を終えたというわけだ。そして、今に至る。

 
「――で、帰って来て水槽にぶち込んだと?」
「そう。大事にしろって言われたけどどうしていいかわからないし…本来は海に帰す予定だったみたいだから水の中に入れておこうかなって」
「いやよくわかんねえよ…」
「俺たちって無宗教じゃん。熱心に信仰してるのを見たり、色々調べてたら、なんか俺たち日本人には縁遠いことだから面白くてさあ。村の人たちも、海に還った神様がどうなるのかは見たことない訳だろ?どうなるのか、気になるんだ。まあ、終わった神様だから、この先には何もないかもだけど。木が腐る前には水から出すよ」

 そう言う松矢の言ってることは何にも分からなかったが、確かに面白い話だった。
 とはいえ、この水槽の中に『木彫りの魚』が入ってるようには、やはり見えない。容れ物だということは、中に空気があるため普通は浮かぶんじゃないか?いや、そもそも松矢は居酒屋で、「たまに動くんだ」と言っていた気がする。
 動くって、なんだ?

「よく見ててみ。たまにガラスの近くに来るから」
「え」

 背中がすっと冷たくなった。しーんと静まり返った部屋の中で、じっと真っ茶色のガラスを見つめていると――コツ、という小さな音を立てて、少し尖っているようなナニカの黒い先端だけが、赤茶色の水の中でガラスにぶつかるのが見えた。水はしんと静まったままだ。なんの水流もないのに、ただの物質が動き回るなんてことはあるのだろうか?

「な?ふしぎだよなあ。木でできてるのに軽いから中は空洞だと思うんだけど、水にいれても浮かんでこないし、水は濁るし、何かよく見えないけどゆっくり動くし…木に見えたけど実は粘土で出来てたとかで、水に溶けてナニカが出てきたんかな?」

 さらっと恐ろしいことを松矢は言った。土の付着したものは国内に持ち込めないし、税関を通ったならきっと問題なかったのだと思うが…あまり深く考えないようにして、松矢が現地調査してきた村の神の話を酒の肴にして、俺たちは遅くまで飲んだ。

 ”村に迷い込んだ魚”を入れる木彫りの容れ物は、言い伝えの魚神の姿を模して、角が生えていること。案内をしてくれた老人は、もともと御神体を作る職人であったこと。今は息子に代を譲ったこと。村では立地的に、頻繁に水害の起きる土地だったが、事前に『村へ迷い込み水害を告げる魚』たちのおかげでいままで存続してきたこと。

 そんなことを聞いているうちに、うとうとしてきて眠ってしまった。

 何時間ほど経っただろう。泥みたいに重たい眠気から意識がぐわっと持ち上がった感覚があって、何度もまばたきしながらやっと目覚めた。松矢も床で寝ていて、電気が消された部屋は暗い。
 ぼんやりしながら、暗いせいで凄みを増しているコレクションたちをながめていると、水槽が目に入る。相変わらず水は濁って何も見えない。でも、水面は静かで平らなままなのに、どうしてか中の赤茶色の泥のようなものが渦を巻くみたいにうねっていた。まるで中で何かが暴れているみたいに。心臓がバクバクして息が浅くなって、それでも水槽から目を離せずにいると――
 コツ。ガラスをつつくみたいな硬い音が聞こえて。そして黒くて小さなナニカの先端がみえた。おそらく、魚の像の口の部分だろうか?コツ、コツ、コツ。何度かガラスへぶつかって、そしてぐっと、それは突然ガラスへ張り付いた。

 それは赤黒い肉の塊だった。つやつやとぬめるみたいにガラスに張り付いて、小刻みに蠕動している。あっという間に膨れて、ぎゅうぎゅう詰めに押し込められた臓器のように、水槽の中に満ちた。痛みに脈打つように肉は動き回るのに、水面だけが、しんと茶色く濁ったまま微動だにしない。肉塊は苦しそうに、ぐじぐじと音を立ててのたうつ。でも、水面は静まり返って、絶対に肉塊を外へだす気はないようだった。ぐじゅぐじゅうぐじゅ、

 「わあああああああ!!」

 耐えきれなくなって叫んだ。肉塊はまだ蠢いている。しかし俺の声に驚いた松矢が起き出して電気をつけた瞬間、明るく照らされた水槽は元通りの姿になっていた。水面も、中の茶色い水もしんと静まり返っている。

「どうした」
「変なモノ見て…暗いから見間違えたのかもしれないけど…お前、こんなもん置いておいて、何も変なこと起きないのかよ」
「この部屋にあるものって割と変なこと起きるからなあ…でも神様に関しては初めてだ!どんなだった?」

 口に出すのも嫌だったが、目を輝かせて食いついて来る松矢に負けて、結局気味の悪い”水槽の中身”の話をした。興味津々と言った具合で聞いていた松矢は、「そっかあ」と返事をしてから、それきり黙った。俺はもうこの水槽の近くにいたくなくて、空が明るくなりだす頃に松矢の家を出た。
 異国の漁村から来た神様。神は、あんなグロテスクな姿をしているんだろうか。
 
 

 結局それきり何も心霊現象のようなものは起こらず、俺たちはいつも通り仕事に励んでいる。だが、不思議に思うことがいくつか起きた。
 俺たちの職場に高圧的な態度で何人もの若手を辞めさせたお局が居るのだが、当然のように松矢も目の敵にされていた。松矢はあまり気にしていないようだったがかなり鬱陶しくは思っていたはずだ。しかし、そんなお局の娘さんの体調が良くないとかで、突然仕事を辞めてしまったのである。上司でもどうにも出来ずのさばっていたお局の退場には驚かされたが、職場が働きやすくなり、全員の雰囲気がよくなった。
 その出来事を筆頭に松矢の周りでは細々とした”ラッキーなこと”が起きた。
 松矢が行くはずだった出張に、なぜか土壇場で別の奴が行くと変更され、その出張に使った新幹線でトラブルが起き数時間缶詰となったり。松矢は結果的にトラブルを回避したわけだ。
 また、松矢がコレクション蒐集へ行くんだと意気込んでいた旅の予定が、社内の突然のイベントで行けなくなったこともあった。だが、その予定していた日に、付近では大雨が発生して土砂崩れが起きたのだ。こちらもすんでのところで回避したことになる。
 あの日から数か月間、俺が気付くほどの頻度で、それらの”トラブル回避”は起きた。そのたびに松矢は、全然嬉しくなさそうに、複雑そうな顔をしていた。

「なあ、やっぱりあの神様のおかげなのかな」
「…さあ、もともと村の守り神やってたモノだからなあ。水害とか漁での事故とか、たくさんの命を護れるだけの力はもうなくても、俺一人ラッキーな目にあわせる力くらいはあるのかもな」

 羨ましくはあったが、俺はあの夜見たモノを思い出すせいでとてもアレを飼おうとは思わない。しかし、やはり『信仰されるモノ』とはちゃんと特別な力があるんだと、俺は感動していた。無神論者、無宗教の俺たちからすれば、それは目から鱗が落ちるような神秘的な体験だと思ったから。

「さすが神様だよなあ。もともとは魚なんだろ?村の川とかに迷い込んできたのを、捕まえてあの像の中に入れて祀るんだっけ…そうだ、いっしょにパチンコ行こうぜ。最近のお前かなりラッキーだし、お前と行くと当たりそうだ」
「いや…たぶん、そう言うのは当たらないと思う、アレ」

 何か、この現象について分かったことがある様子だ。パチンコは諦めて、居酒屋で詳しく話を聞くことにした。
 

「こんだけラッキーなこと続いてるのに、パチンコとかではその恩恵が無いって?なんでわかるんだよ」
「もともとの村での神様の御利益はさ。『水害や漁の事故から護ってくれる』ってことだっただろ。『豊漁とか繁栄』じゃないんだよ。襲ってくる災厄から護ってくれるけど、新しく利益を生むことは出来ないと思う。…いちおうパチンコいったし。5万スったわ」
「試したのかよ…まあでも、”厄除け特化型”とはいえ、すごい効果だよなあ。そりゃ信仰されるわ」
「うーん…あの祭事に参加させてもらってるときは、純粋に『神様にお祈りしてるんだな』って思ったんだけど。なんか違ったのかもしれん」
「え?」

 松矢は浮かない顔でグラスを傾けた。聞けば、ここ最近、変なことが何度も起こるらしい。
 例えば夢の中で、松矢が所有している”曰くつきの能面”が浮き上がって松矢に迫り、『あの水の中にいる奴が常に泣き叫んでおり五月蠅くて耐えられないため、即刻なんとかしろ』というようなことを言ったのだそうだ。当然夢なのだが、朝起きると能面が棚から落ちていたという。
 『常に泣き叫んでいる』…松矢の部屋でみた、蠕動する肉塊を思い出して背筋が冷たくなる。
 
「…お前が見たのも、俺が見た夢のことも、なんか、とてもあの魚は『人間を積極的に守ってあげましょう!』って感じの神様には思えないよなあ。結果的にアレは村を護ってたんだろうし、今も俺を護ってくれてるけど、進んでそうしてるようには思えないんだよな…」
「まあ確かに…でも便利だしな…怪しいからって手放すのかよ?」
「いや、もう少しこのまま観察するわ。正直こういうオカルトな現象は楽しいし」

 松矢の鋼メンタルに半ば呆れながら、俺は想像してみる。常に泣き叫んでいる、災いを遠ざけてくれる神様。魚の姿のはずなのに、肉の塊のような姿で現れた神様。推理しようと思ったけど、それらは何となく嫌な気分になるものだったので、それ以上は深く考えないようにした。

 松矢に初めて神様を見せてもらった日から、半年が経った頃。それまでも松矢は『神様』に細々としたトラブルを回避させてもらっていたが、ある時これまでとは比べ物にならないほど大きな災厄に見舞われかけた。
 松矢の住むアパートの真横の住宅が火事になったのだ。あわや松矢のアパートに火が届く、という寸前のところで、急に風向きが変わり延焼方向が逆に逸れた。その後は迅速に消火活動が行われ、外壁が煤けるくらいで無事だったのである。夜の出来事だったが、松矢も無事でその朝出勤してきた。さすがの松矢も、「コレクションが全部燃えてたらマジで立ち直れなかった。神様サマサマだわ」とヘラヘラしており、呆れるやら感動するやらで、俺は複雑だった。

 しかし火事の翌々日。松矢は会社を休んだ。さすがに火事で精神的ダメージがあったのかと思ったが、どうやら別の理由があるようだった。仕事中に、LINEが来ていたのだ。

【仕事終わり、俺の家来れるか?神様やめさせることにしたから、見に来る?】

 神様をやめさせる?
 意味不明だったし訳の分からない不気味さがあって怖かったが、仕事が手につかないほど気になったため、俺は【OK】と返事をした。

 松矢のアパートに向かうと、付近一帯が焦げ臭かった。火元となった家は真っ黒こげに焼けており、警察も数人動き回っている。多少離れているとはいえ、この火の勢いでアパートが無事だったことは奇跡のようだと思う。こんな災厄からも護ってくれる神様のことを、どうして松矢は『やめさせる』などというのだろう。首をかしげながら松矢の部屋へ向かった。

 部屋に入ると、松矢は水槽を拭いて掃除していた。そしてなんと、テーブルの上には真ん中で叩き割られたみたいに半分になった『木彫りの魚の像』があるのだ。真っ黒のその魚はちょうど腹のあたりで割れており、中の空洞がぽっかりと見える。すぐ横に置かれている金槌で壊されたようだった。

「お前、神様壊しちゃったのかよ!?祟られるんじゃねえの!」
「落ち着けって。まあ初めから聞いてくれよ」

 うろたえる俺をなだめてから松矢はテーブルまで来て、魚の像を見つめながら話し始めた。

 
 ――火事が起きた夜中は消し止められた後も興奮していて寝れず、そのまま出社した。命拾いしたとヘラヘラしていたのだが、その日の夜のことだ。さすがに疲れて早めに寝たところ、ある夢を見た。

 松矢はベッドに腰かけている。カーテンの奥で真っ赤な光が蠢いている。松矢は(火事がおきてるんだな)と思う。暗い室内がカーテン越しの炎に赤く照らされている。
 その、部屋の真ん中に、水槽がある。
 それを松矢はぼんやりと見ている。しばらくすると水槽の茶色い水面が泡立ち始め、いつしか赤黒く変色していたその水面だと思っていたものは、水槽にぎゅうぎゅうに詰まった肉塊だった。グチョ、ネチョ、ミミミ、ミチッ、そんな重たく水っぽい音が部屋に木霊して、その直後、肉塊がすさまじい勢いで水槽から飛び上がった。いや、立ち上がった、と言う方がいいのだろうか?
 松矢よりも大きな、180cm以上はあるかと言う大きさの肉塊。ぐずぐずの内臓みたいなもので構成されているそれはぎゅうっと捻じれて、潰れて、痙攣している。松矢は、(これが、神様?)と思う。
 部位がはっきりと分かるのは口だけだ。苦し気に90度近く折り曲げた首のような部分の先に頭部と思わしき赤い肉塊があって、そこの中心に口がある。唇はなく、剥き出しの歯を食いしばっている。
 内臓みたいなぬめぬめした体表が、突然ぷつぷつと泡立ち始める。網焼きされている時の魚みたいに。震えながら身をよじっている。松矢は(焼かれている、苦しがっている)、と思う。
 固く食いしばっている歯の奥からは呻き声みたいなものが聞こえてくるが、肉塊が大きく身震いした瞬間、顔の中心にある口が30cmほども縦に開き、絶叫した。

【オオオオッオオオオアアアアア゛ア゛ア゛】

 旧い電話の向こうの音声みたいな、ざらざらとひび割れた絶叫。息継ぎもなくひたすら泣き叫びながら、肉塊は塩を掛けられたナメクジみたいに、立ちながらのたうっている。
 そして松矢は聞いた。その絶叫と絶叫の隙間に、はっきりと英語で【神よ】と、肉塊が叫んだのを。

 その瞬間、抗えないほど強い力で引っ張られるように、肉塊の足の部分が水槽へ沈んだ。肉塊は身をよじりながら絶叫する。しかし、次の一瞬で小さな水槽の中に引きずり込まれて、頭部が収まってしまった瞬間に大音量の絶叫が途切れた。突然訪れた恐ろしい程の沈黙の中で、水槽の水面は、しんとしていた。
 そんな夢だ。

 目覚めた後水槽はきちんと壁際にあったが、床は濡れていたという。

「――って夢見て確信した。俺たちが見た肉の塊は神様じゃない。あれ、人間だ、って」

 夢の話を聞いて俺もそんな予感はしていたが、いざ言葉にするとおぞましくてたまらない。俺は、カルト渦巻く村で旅行者が殺され、その一部を像の中に込めて呪物とするシーンを想像して身震いした。

「で、あんまり夢の中でアレが泣き叫ぶからこのまま放っておけないと思って、水槽の中手突っ込んだら、あの魚の像きれいそのままで、溶けたりしてなかった。で、割ってみたんだよ」
「…人間の一部がはいってたとか?」
「いや、そんなんじゃないよ…たぶん、元気に生かしたまま本人を村から帰さなきゃ、意味がないんだ」

 松矢は、茶封筒を出してきた。それを逆さにすると、カサカサに乾いた麻布のような茶色い布の切れ端が出てくる。それには、黒い墨みたいなもので文字が書かれていた。しかし、何一つ読めない。

「…とりあえず人間の一部ではなさそうだな…」
「うん、おれも開けたら、目玉とか髪の毛とか爪とか入ってるかもって思ってたから、ほっとしたよ。でもこれ、なんて書いてあると思う?…あの国の文字で、『オリバー、イリック』って書いてあるんだ。たぶん。ヨーロッパ系の、男の人の名前」
「それって」
「あの国にはこんな名前の人はいない。で、おれ分かったんだ。あの村に伝わってた言い伝えの中の、『村に迷い込んだ魚は洪水や漁での事故の知らせ』っていう部分の『魚』はきっと、余所から来た人間のことなんだよ。あの祭事で余所者の名前を聞き出しては、こうして布に書いて魚の像に込めてたんだと思う。で、災厄から護ってくれる御神体として使うんだ」
「そんな、勝手に身代わりにしてるってことかよ」
「うん、でもそこに、悪意とかはきっと全くないんだ。ただ昔からの知恵と言うか、起きた奇跡を真摯に信仰する気持ちだとかが合わさって産まれた文化なんだと思う。村の人たちは、名前を込められた人が村から帰った後にどうなるかなんて、知りようがないし」

 俺は自分がこの目で見た肉塊の姿や、松矢の話を思い出して気分が悪くなった。あれは、身代わりにされて苦しがっている『オリバー』という男性の魂なのか。村に訪れ帰国した後、数十年経ってから自身の名前が込められた御神体が使われ、訳も分からず苦しむ日々を送っていたんじゃないだろうか、決して死なない遅効性の猛毒を仕込まれたみたいに…。そして、水の中を魚の像が動くのは、魂が本体へ還りたがるからなんじゃないかと。そう思うと、余計に気分が悪くなった。

「…お前は大丈夫なのかよ。祭りに参加したんだろ?」
「うん。儀式の中ではそう言う場面はなかったな。俺の名前が、あの国の神の化身と同じだって言っただろ?みんなからありがたがられたし…『マツヤ』の名前を布に書いて別の神様に捧げるなんてこと、きっと罰当たりすぎて出来ないと思う。…でも、もし、俺が帰った後にやっぱり名前を書いてあの像の中へ入れられてたとしたら。何十年も経って、俺の前に造られたご神体たちが全部『効果切れ』になって廃棄されたとしたら。俺の魚の像に順番が回ってきたとしたら。そしたらおれ、死ぬほど苦しむことになるのかもな。あの肉塊みたいにさ」

 そう言って松矢はへらへらと笑った。やはり頭のおかしな奴だと思わずため息が出る。しかし、少し見直した部分もあった。

「でも、あんなに役に立つ大事なコレクションだったのに、よく壊したな。オリバーって人が今も身代わりになって苦しんでるから、助けてあげるためなんだろ?」
「……いや…たぶん俺が持ってるから余計苦しめてるってのもあるから、罪滅ぼしと言うか…」
「?」
「俺のコレクション、ガチもんの呪物とかばっかりだからさ。普通にしてても結構良くないことあるんだけど…オリバーが泣き叫び続けてたせいで、他の呪物たちの機嫌が悪くなったっぽくてトラブル続きで……悪循環で余計にオリバーが被る災厄が増えて、かなり苦しかっただろうなって…」

 おれは、会ったこともないオリバーのことを心の底から不憫に思った。

「…この名前が書いてある布は、どうするんだ?」
「うーん。まじないがかけられてる像から出したから、たぶん大丈夫だとは思うけど…本人へ届けることも出来ないし、万が一、災厄の一部がまだ本人へ飛んじゃうとしたら、火で焼いたり埋めたりするとやばそうだよなあ。ふかふかの綿と木箱の中にでも入れておくか…」

 こうして、『魚神』は『オリバー』と名を変えて、改めて松矢のコレクションとなったのだった。因縁や呪いのアイテムのごった煮状態となっているこの部屋で、オリバーの魂は平穏で居られるのか……正直、不安ではある。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121518151272
大赤見ノヴ161717171784
吉田猛々171617171683
合計4548524945239