「クローゼット」

投稿者:ミラジョボ・マッチョ

 

今から十数年前の話。

 高校を卒業するまで俺は北海道の旭川ってところに住んでいた。札幌からまあまあ近くて、一応北海道の中では札幌に次ぐ第二の都市だなんて言われてる場所。

 住んでる時はなんとも思わなかったけど、治安がそこそこ悪かったらしい。噂では薬の売買が道内で一番盛んだとか。ここ最近ではイジメだったりの問題が多発していて、大人になった今ではあまり近寄りたくない場所。

 そんな場所で物心ついた時には旭川に住んでいた。自分に霊感があるのかどうかは知らないけれど、昔からよく不思議な体験をしていた。

 あまり覚えていないけれど、五歳の時に住んでいたボロアパートでは、俺がクローゼットの中に向かって話しかけていたらしい。

 妻に言われて気付いたのだが、俺は家庭環境がそこそこ悪かったらしく、今のパパは二代目。初代はDVが激しくて旭川に逃げてきたらしいのだが、最初に住み始めたアパートで俺はよく家に置き去りにされていたらしい。

 二代目と母が遊びに行っている間、俺は一人で家で遊んでいた。母が夕方に帰ってきた時、俺の話し声が玄関まで聞こえてきたという。

 誰かいる?
 場所は……寝室?

 母は冷や汗を流しながら、足音を立てないよう恐るおそる寝室を覗いてみた。ドアは開けっぱなし。その向こう側で、備え付けのクローゼットに向かって正座した俺が楽しそうに話しかけていた。

 開かれたクローゼットには、母の服がびっしり敷き詰められていた。そのわずかな隙間へと、いやその空間なのかはわからないけれど、俺は時には相槌を打ち、声をあげて笑った。何やら可愛がってもらっている様子でさえあった。

 今の俺は子どもが三人いるので、まあありがちなんじゃないかと思ったが、そんなレベルではなかったという。

 明らかに誰かと喋っていて、でも微動だにしない俺の姿に母は一旦外に出たらしい。深呼吸。そしてもう一度家に入って、いまだに何者かと喋っている俺へ、意を決して話しかけた。

「〇〇、帰ってきたよー」

「あ、ママ帰ってきた! バイバイ!」

 バイバイ。幼い俺はクローゼットに向かって手を振ったらしい。そして母の足に抱きついて抱っこをせがむ五歳の俺。

 引っ越してきてまだ一ヶ月。母はもう引っ越したくてたまらなくなったらしいのだが、何せお金がない。あってもデート代(服、化粧品、アクセサリーなど)に消えるし、当時の時給なんて雀の涙ほどだから貯金なんてない。

 何より物件を探す時間もないし、頼れる親族は旭川にはいない。

「と……とりあえず、蒸しパン買ってきたから食べな」

 いつものやっすい割引シールの蒸しパンを受け取った俺は、何事もなかったかのように食べ始めた。母は、クローゼットを極力見ないようにして寝室を後にした。

 それから数時間が経って、俺と母は眠りについた。母はベッドの隣にあるクローゼットが怖くて仕方がなかったらしいが、睡魔には勝てなかった。

 すぐに眠りについて、激しい物音で目が覚めた。

 ——がさ。ごそ。がさ。がさ

 すぐ隣のクローゼットの中で、何かがもがくように暴れる音。

 ——が、が。どす。ががが。

 まるで閉じ込められた何者かが扉を蹴破るかのような激しい音。

 数時間前の、俺がクローゼットに向かって話しかけていた光景が瞼の裏で再生される。

 怖い。
 逃げなきゃ。
 でも、体が動かない。 

 人生初の金縛り。

 ——どす。ドス。ドスドス、ガガガがが。

 内側から叩きつける音。爪で引っ掻くような音。必死に這い出てこようと高ぶる音と共に母の恐怖のボルテージも上がっていき、やがて両者ともに最高潮を迎えた瞬間。

「———」

 クローゼットの扉と母の絶叫がほぼ同時に弾けた。

 そして気が付くと朝の九時。母は、ガソリンスタンドのパートをクビになった(ちなみに、働き始めたこの一ヶ月のうち、俺の発熱やら泣き止まないやらですでに三回ほど休んだり早退していた)。

 後日、祖母に耐えかねて引越したと連絡したところ、

「あー。やっぱり引越したの?」

「え? どういうこと?」

「いや、あのね。引越し初日に私、先に〇〇と家に行ったでしょ? ドアを開けるとね……その、影がね、リビングから寝室の方にスッと入っていくの視えたから。怖くて〇〇を先頭にして部屋に上がったの。
 やっぱりあそこ、出たのねえ」

 一連の話を聞いた大人の俺は、大好きだった祖母に初めて怒りを覚えた。

 そして、未だに忘れられない体験があって。
 それをずっと誰かに喋りたくて、今回ようやく文字に起こしてみた。

 ここからが、本文です。

 十四の春。中二の俺は一軒家へと引越した。

 小学生の時は市営住宅にお世話となり、高校受験を意識し始めた頃、同じ町の中ではあるが中学校に比較的近い住宅地に移り住んだ。

 二階建ての一軒家で、駐車場は三台。庭もあるし、三人兄弟なのだがそれぞれに部屋が割り当てられる。しかも家賃はたったの五万。超優良物件だと思う。

 玄関を開け、すぐ右手に階段。左には寝室の扉と、その横にトイレ。正面を二十メートルほど歩けば広いリビング、独立したキッチン。そして和室。

 俺は二階に駆け上がった。奥の一番広い部屋を陣取り、早速工房作りを始めた。

 当時の俺は、ヤンチャし過ぎて先生に死ぬほど怒られ、親父に殴られ、母を泣かせ、しかも毎年自分の誕生日月にヤンチャがバレて誕生日プレゼントが四年間与えられなかったことに懲りて、一周回ってアニオタの道を進んでいた。

 アニオタにとっての工房とは、それはそれは神聖なもので、その場にいるだけで生命力を増進させ、己が肉体を強化・修練に励めるだけでなく、憩いの空間として日々のストレスや外敵からの侵略を防いでくれる、世界唯一の安全空間。サンクチュアリー。ルミナス。いや知らんけど。

 ベッド付近の壁に雑誌の付録についてきたポスターを画鋲で貼り付け、ベッドで仰向けになった時に見られるようにと天井にまでポスターを貼り付けた。

 ベッドの横には嫁の祭壇を作り、ドアからの死角を作る。これで急にドアを開けられたとしても、太ももから上部分は隠せる。

 その他にもアニオタっぽい部屋作りに勤しみながら、俺は中学に通っていた。

「おまえ、なんか最近引越しららしいじゃん」

 高校に進学してからは全く噂も聞かないしSNSで繋がることも無くなった友人Aとは、当時はそれなりに付き合いがあった。決して、めっちゃ仲がいいとかそういうのではない。

「引越した。歩いて二十分くらい」

「今日行ってもいい?」

「え、絶対嫌なんだけど」

「いや行くわ。ついてく」

「は?」

 そう言って、Aは本当に俺の家まで着いてきた。

 家を見られるのはいいが、中に入られるとマズイ。俺の部屋が見られる。

 当時はアニオタに肯定的な感じは皆無だったし、小、中と何かと暴れていた俺がそういう趣味だったと知られるのはいささかマズイ。まあそれでイジられるのも役得といえば役得だし、リアルな女より二次元の女様の方が俺には優しいからどうにでもなれという感じでは内心思ってはいたのだが、それでも部屋に入られるのはマズイ。

 親友とかならまあ全然、家に入れてもいいのだが、おまえは違うだろ。

「おま、帰り道真逆なのに……着いて来んなよ」

「いいじゃんいいじゃん、勉強教えてやるから」

「ふざけんなよ、マジで」

 中学からまっすぐ帰れば二十分でつく道のりを、俺は遠回りをしたり、あえて家をスルーして、なんだかんだで一時間ほど潰したのだが、Aは帰る気配を見せなかった。

 早く家に帰ってゲームをやりたい俺は堪忍して、

「いいけどさ、家には上げられないんよ。親が友達家に入れるなって厳しくてさ」

「ふーん。なら外観だけ見せろよ」

「いやなんなん、その執念……外観だけだぞ」

「そしたら帰るわ」

「絶対帰れよ、マジで」

 本当に何がしたいんだよコイツ。とか思いながら、体力的にも限界だった俺は先ほどスルーした家のまえにやってきた。

「ここが家。見たならさっさと帰れ」

「へえ、なんか想像と違った」

「失礼な奴だな。帰れよ」

「ほいほい。……ん? おまえんとこ、今誰か家にいんの?

「いや……弟と妹はまだ学校おわってないだろうから、俺一人だぞ。車もないし」

「え、でも」

 その日は期末試験があり、午後から授業は休み。なのでまだ時間は十三時前後だった気がする。当然、小学校はまだ授業中だ。

「……いや、気のせいか?」

「は? なんだよ」

「いや、そこの窓にチラッと誰か覗いてた気がするんだよな」

「いやいやいや、もういいって。早くゲームしたいし、帰れよ」

「おう。じゃ帰るわ。また明日なー」

 ようやく帰路に着いたAの背中を見てから、俺は自身の家を見上げた。

 Aが指差していた窓は、両親の寝室の窓。うっすらとクローゼットの影が視える。きっと、それに見間違えただけだ。とはいえ、

「……あの野郎」

 俺は少しビビりながら、家に入った。入って、部屋まで駆け上がってPSPに入れてあるアニソンを大音量で流しながら家中を歩き回ったが、もちろん誰もいない。

 ビビらせやがって。
 俺は一発抜いた。

 その日の夢。俺は誰かに呼ばれたような気がして、目を覚ました。けど視界は霞がかっていて、天井に貼り付けてあった嫁の顔がよく視えない。頭が痛い。体が重い。でも、呼ばれているから俺は下に降りなければならなかった。

 でも全く体は言うことを聞いてくれず、天井の嫁をぼーっと眺めていた。金髪ツインテールの黒い魔法少女。綺麗な赤色の瞳が瞬いた。

「———」

 霞がかった視界。揺れる背景。瞬く赤色の瞳が、夢なのか現実なのかの区別を濁らせる。

 それでも、俺は行かなければならなかった。呼ばれてるから。

 必死に体を起き上がらせた俺は、ベッドから崩れるようにして脱出し、這いつくばりながら階段に向かった。

 ……前にも、この夢を見ていた気がする。

 一段。また一段と真っ暗な階段を揺れる視界の中、降っていく。
 
 昨日は、どこまで行けたっけ。

 ふとそんな考えが頭を過った。

 ああ、そういえば俺は、昨日も。またその前の日も、俺は階段を一段ずつ降り続けていたっけ。

 そして今日。俺はやっと一番下——階段を降り切った。刹那、玄関に立っている女と目が合った。黒いシルエット。目も鼻も何もない。けれど、直感で女だと分かったその影が、俺に指を向けた。

 全身に悪寒が走る。あ、ヤバイ——背後から、階段を駆け降りてくる音を聞きながら俺は絶叫した。

「こんなところで何してるの?!」

「——へ」

 気が付くと、俺は母に肩を揺さぶられていた。めっちゃ寒い。めっちゃ痛い。

 母は怪訝な目で俺を見つめていた。俺は、異常に寒いことに気がついた。

 それもそのはず。

 気が付くと、俺は家の庭にいた。雪が降り積もったその中で、俺は母と二人で立っていた。

 体の表面はとても寒いのに、体の内側は酷く熱くて、痛い。

「とにかく家に入りなさい! 風邪ひくから!!」

「あ、え、は?」

 さっきまで部屋にいたはずなのに。いや……階段を降りていた?

 思考がぐっちゃになり、何が起きたのかわからないまま俺は部屋に入った。指先が冷たいを通り越して痛い。爪の中にはびっしりと雪が敷き詰め込まれていた。まるで積もった雪を掘り起こしていたかのように。

 服も雪で濡れていたので、俺は重だるい体に鞭打ちながら服を脱いで着替えた。そして、「うわっ!?」と情けない声を上げた。

 腹や胸、腕にみみず腫れや赤い痣のようなものが何箇所かできていた。背中も少しばかり痛いから、もしかしたら後ろにもあるのかもしれない。

 母は、無言のまま俺の裸体を確認すると、目を細めて言った。

「……今日はもう寝なさい」

 何かを知っているような表情。俺は怖くなって、すぐ布団に潜り込んだ。

 それから程なくして俺は高熱を出し、一週間ほど寝込んだ。

 母に事情を説明する余裕もなく、また向こうも何かを説明する暇もなく、一週間が過ぎ、ようやく学校に登校した。期末試験は終わっていて、俺だけ別途で受けることになった。

 今日。帰ったらあの日のことを聞いてみよう。

 俺はテスト中についた涎を拭いながら、帰る準備を始めた。

 そして家の前。玄関は空いていて、何やらリビングが騒がしい。弟と妹が暴れているようだった。

 普段なら、無視して二階に上がるのだが、なんとなく……本当になんとなく、気になってリビングを覗いた。

 すると、さっきまで楽しそうに遊んでいた二人が、俺がリビングに入ってきた瞬間にピタッと動きを止めた。

「……おまえら」

 何やらモジモジと、ニヤニヤしながら俺を見上げる二人。そして、カーテンの裾部分から覗く素足。

 あー、こいつらやってんな。

 俺はすぐに引き返して、階段の中段あたりに腰を降ろした。そして電話の子機から母親の携帯へと電話を掛ける。

 母は、程なくして出た。

『もしもし? どうしたの、もう帰るよー』

「いやね、〇〇(弟)と〇〇(妹)が家に友達連れてきてるんだよね」

『えー、そうなの?』

「うん。俺が来て急いでカーテンのとこに隠れたみたいなんだけど、足めっちゃ見えてるんだよね。あいつら最近調子に乗ってるから怒っといて」

 うちの両親は、家に誰かを上げるということを嫌っていた。昔、俺が友達を家に遊びに来させてから酷い荒らされようを経験してから、我が家では友達を家に上げてはならないというルールがあった。

 その禁を破った憎き弟妹へ、俺は母を使って懲らしめることにした。

 俺は電話を切り、ワクワクしながら階段から聞き耳を立てていた。再び騒ぎ始めた弟妹。すぐに電話がかかってきた。

 リビングの方で受話器をとった誰かが、母にめちゃめちゃ怒られて萎えているという姿を想像して、俺はウッキウキだった。

 リビングのドアが開く。妹が、階段下までやってきた。

「ママが電話代わってだって」

「ほいほいwww」

 俺は子機を耳にあてた。程なくして、母親が言った。

『家に誰も上げてないって言ってるよ』

「いやいや、そんなはずないし。まあ否定はするよな」

 俺は半笑いで階段を降りて、リビングに入った。そしてカーテンに向かったが、誰もいなかった。リビング中を探し回っても、誰もいなかった。

「あ、れ、どこにもいない……」

『ほら、いないって。もう電話切るからね』

「いや、ちょ、ええ?」

 玄関から出て行った? いや、俺が見張っていたからそんなはずはない。じゃあ窓から? 覗いてみるも、外の雪に足跡はない。何よりも、外の冷気を感じられない。

 他にも出られそうなところを探したが、ふと気がついた。

 玄関に、俺たち家族以外の靴は置いていなかった。

 冬で雪が積もっているから、みんな長靴だ。それはうちの家族以外もそうだろう。しかし、見覚えのない長靴なんて玄関には置かれてなかった。隠すにしたって、靴箱は置いていない。どこか家の中に隠したとしても、長靴なんてすぐに見つかるし、俺の目が届く範囲で、隠した長靴を回収しながらこの家を出ることは不可能だ。

「……なあ。おまえら、誰と遊んでたんだ?」

 俺の問いかけに、二人は「何言ってんだコイツ」みたいな目線を返した。
 腕にできた痣が、痛む。

「——アンタ、夜中に雪掘ってたんだよ。素手で」

 その日の夜に、夕食を食べながらあの時のことを教えてもらった。

 母は、夜中に物音がして目が覚めたという。

 寝室。窓の横に置いたクローゼットが揺れている。

 ——がさ。ごそ。がさ。ガサ。

 クローゼットの内側に詰め込まれた何かが、這い出ようともがく音。

 数十年前の記憶がフラッシュバックした母は、声も体も動かせない状況で震えていた。

 ——ドス。ドス。がさ、ドス!

 心臓の音とクローゼットから溢れる暴音で息が詰まりかけたその瞬間、勢いよく外玄関の扉が開かれ、ザ、ザ、ザと雪の上を走っていく音が聞こえたという。

 気が付くとクローゼットの音は消え、体は動くようになっていた。母はとてつもなく嫌な予感がして、急いで寝巻きのまま外にでた。

 開けっぱなしの扉と、庭へと回り込む足跡。母は足跡を追って庭に向かうと、そこに俺が居た。柔らかい雪に膝下まで埋まりながら、俺は腰を痛めるのを辞さない姿勢で雪を掘っていた。必死に、笑い声を上げながら掘っていた。

 父を呼ぼうと思ったが、その間に致命的な何かが起きてしまいそうで、怖くて、意を決して俺のケツを蹴り上げた。前のめりに倒れる俺。それでも穴を掘り続ける俺へ、しばらくの間暴力を振るっていたらしい。

 中学、高校時代に空手で賞状やメダルを獲得していた母が、ここぞとばかりに俺を殴り、口に雪を詰めて、なんとか落ち着かせようと拳を握り、ようやく正気に戻った俺を家の中に引き摺り込んだ。

 俺は、ところどころ体にできていたあざが、霊ではなく母の仕業だと知って恐怖をおぼえた。

「本当に怖かったんだから!」

「………」

 俺の方が怖いって。

 それから冬が明けて春になってすぐに、歩いて三分の一軒家に引越した。

 引越しが終わり、新居へと向かうため玄関を一足早く出た俺は、隣に住んでいたおばさんと目が合った。

 おばさんは、小汚い格好にボサボサの白髪、そして黒い猫を抱きながら俺に言った。

「せっかくまともな人が住んでくれたのに……もう引越しちゃうなんてね」

 悲しそうでいて、どこか嬉しそうに。おばさんはそれだけ言うと家の中に引き返して行った。
 
 それから聞いた話では、俺たちが住む前の住人は殺人鬼が、その前は一家心中をしていたらしい。その前も前も、何やらいわくがあって、でもそんなの気にしないからと父が選んだ物件だったと。つい先日、孫の顔を見せに父に会いに言ったら、そんな話を聞かせてくれた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151512151269
大赤見ノヴ161616171782
吉田猛々171715161681
合計4848434845232