「黒いペットボトル」

投稿者:速水静香

 

大学の講義なんてものは、俺の中では、オンラインで出席確認のボタンを押すだけの作業だった。画面の向こうで教授が、抑揚のない声で経済学の何かを喋っているが、俺の耳には届かない。ワイヤレスイヤホンからは、好きなインディーズバンドの攻撃的なギターが直接脳を揺さぶっている。バイトもそうだ。コンビニの深夜勤務は、決まった時間に商品を補充し、たまにくる客に『いらっしゃいませ』と声をかけてからの、思考を必要としない単純作業の繰り返し。サークルは、最初の数回顔を出したものの、アルコールの力を借りなければ成立しない薄っぺらな人間関係に嫌気がさして、それきりだ。そんな、特に語るべきことのない毎日。意味のない、という言葉を、ただ引き伸ばしたような日々。手の中にある、スマホに表示される、無限にスクロール可能な動画やテキストだけが、俺の退屈という名の病を一時的に和らげてくれる、唯一の娯楽だった。

「また変なのが流れてきた」

 思わず、乾いた声がアパートの狭い一室に響いた。誰に聞かせるでもない独り言。指先で画面をなぞると、タイムラインの端に『意味がわかると怖い話』と題された短いテキストが表示されていた。巷に溢れかえっている、ありきたりなネットの怪談話だ。量産された恐怖コンテンツの一つに過ぎない。それでも、他にすることもない今の俺にとっては、格好の暇つぶしだった。

『冷蔵庫の囁き返し』

 そのタイトルからして、安っぽさがすごい。まるで三流のホラー小説のようだ。
 そこに書かれていたルールは、拍子抜けするほど簡単だった。夕食後、家の冷蔵庫を開けて、薄暗い庫内をのぞき込みながら、自分の声で「まだある?」と囁く。閉鎖された空間で、自分の声が小さく反響する。それに合わせるように、同じ言葉を三回繰り返す。たった、それだけ。

「くだらねえ」

 その投稿にぶら下がっているリプライを眺めると、俺と同じ感想を抱いたらしいアカウントが目に飛び込んできた。

『で、結局何が怖いの?』
『こういう系の話ってテンプレでもあるの?』
『#意味がわかると怖い話 ←怖くない』

 そんな嘲笑的な言葉がずらりと並んでいる。俺もそう思う。こんなもので恐怖を感じられるなんて、よほど想像力が豊かか、あるいは純粋なのだろう。だが、いくつものリプライを読み飛ばしていく中で、ある一つの体験談が、なぜか俺の視線を捕らえた。

『これ、姉貴がダイエット中にふざけてやったらしくてさ。マジで笑い話だったんだけど、三日後くらいから、冷蔵庫の奥に知らないペットボトルが一本増えてるんだって。見たことないラベルで、中身はコーラみたいな黒い液体。気味悪いから捨てても、次の日にはまた新品が同じ場所に現れる。で、一番ヤバいのが、それを飲むと喉の奥で「まだあるよ」って自分の声が聞こえるらしい。姉貴、最近じゃそれしか飲まなくなって、どんどん痩せて……マジでヤバいかもしれない』

「へえ」

 ありがちな創作。まあ、ネットの怪談なんて、こんなものだろう。リアリティを出すために『姉貴』という身近な存在を登場させ、具体的な描写を付け加える。陳腐な手法ともいえる。でも、その『捨てても次の日にはまた新品が同じ場所に現れる』という部分。そのゲームのバグのような理不尽さが、少しだけ頭の片隅に残った。

 ◇

 深夜一時。コンビニの夜勤を終え、街灯の少ない夜道を歩いてアパートに帰り着く。部屋の電気をつける気力もなく、靴だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。コンクリートの壁に囲まれた六畳一間の静寂の中、唯一の生活音として耳に届くのは、部屋の隅に鎮座する小型冷蔵庫の『ブーン』という低いモーター音だけ。その単調な音が、なぜかさっき読んだ話を、忘却の底から引きずり出してきた。

 喉が、カラカラに乾いていた。バイト中に飲んだエナジードリンクのせいか、口の中が不快に粘ついている。何か冷たいもので、この渇きを洗い流したい。重い身体をどうにか起こし、壁を伝いながら冷蔵庫へと向かう。ひんやりとしたドアの取っ手に手をかけた瞬間、悪戯心が、疲弊した脳の隙間からむくりと頭をもたげた。

 やるか。

 別に、あの話を信じているわけじゃない。ただの暇つぶしだ。深夜の、この妙なテンションがそうさせるのだ。俺は自分にそう言い聞かせ、ゆっくりとドアを開けた。もわり、と冷気が顔にまとわりつく。奥の壁に取り付けられた小さなライトが、賞味期限切れ間近の牛乳や、食べかけの総菜、数本の缶ビールをぼんやりと照らし出していた。その、生活感に満ちた薄暗い空間に向かって、俺は息をひそめ、遊びのつもりで囁いた。

「……まだある?」

 自分の声が、庫内の壁にぶつかって、小さく、くぐもって返ってくる。予想以上に響かない、つまらない反響音だ。それに合わせるように、もう一度。

「まだある?」

 続けて、三回目。ほとんど義務感で口にした。

「まだある?」

 しん、と静まり返る。当たり前だ。何も起こるはずがない。反響した自分の声が冷気の中に溶けて消えると、そこにはまた、無機質なモーター音だけが残された。

「だよな」

 俺は自嘲気味に笑い、ドアポケットから麦茶のペットボトルを取り出すと、乱暴にドアを閉めた。一口飲んで、そのままベッドに戻る。本当に、くだらないことをした。そう思いながら目を閉じると、疲労が急速に意識を刈り取っていった。

 それから数日が経った。あの夜の馬鹿げた行動なんて、日常生活のノイズの中に埋もれて、すっかり忘れていた。その日もバイトを終え、くたくたになってアパートへ帰り着く。じっとりと汗ばんだ身体をシャワーで流し、夕食代わりに買ってきた弁当を電子レンジで温める。週末のささやかな楽しみに、少し高めのビールでも飲もうと、冷蔵庫のドアを開けた。

 その時だった。

「ん?」

 見慣れないものが、そこにあった。

 一番上の段、普段はジャムやバターを置いているその奥。壁際に、一本のペットボトルが置かれている。ごく一般的な500ミリリットルサイズ。だが、その存在は、俺の知る日常の風景から明らかに逸脱していた。

「……なんだこれ」

 無意識に声が漏れる。手に取ってみる。ひんやりとしたプラスチックの感触が、指先にじかに伝わった。中身は、コーラのように真っ黒な液体で満たされている。光をまったく通さず、振っても泡立つ気配はない。そして、何よりも不可解なのは、そのラベルだった。見たことのないデザインだ。赤と黒を基調とした、どこか禍々しい幾何学模様。その中央には、どの国の言語ともつかない、ミミズが這ったような、見たことがない文字列が印刷されている。

 誰かが忘れていったのだろうか。いや、ここ半年以上、誰もこの部屋になんて来ていない。

 まさか。脳裏に、あのネットの投稿が、錆びついたシャッターが上がるような音を立ててよみがえる。

『冷蔵庫の奥に知らないペットボトルが一本増えてるんだって』

 いやいや、そんなはずはない。偶然だ。何かの間違いだ。

 そう自分に強く言い聞かせながらも、視線は手の中のペットボトルから離せない。ごくり、と喉が大きく鳴った。恐怖よりも先に、強烈な好奇心が全身を駆け巡っていく。一口だけ。一口だけなら、大丈夫だろう。

 俺はまるで何かに導かれるように、キャップをひねった。『キュッ』という小気味よい音がして、密閉が解かれる。新品、未開封だったのだ。その事実に少しだけ安心した。俺は、そのペットボトルの口を唇に運び、黒い液体を、静かに喉へと流し込んだ。

 味は、コーラに似ていなくもなかった。だが、炭酸の刺激はなく、代わりに舌の上に薬のような苦味が広がる。そして、後味に、微かな鉄の匂いが残った。そう思った、直後だった。

「まだあるよ」

 声がした。いや、違う。その声は鼓膜を揺らしたわけじゃない。もっと内側、喉の奥深くから、あるいは頭蓋骨の内部に直接、言葉が送り込まれたような、生々しい感覚。それは、紛れもなく俺自身の声だった。

「うわっ!」

 俺は絶叫し、ペットボトルを放り投げた。プラスチックの容器がシンクにぶつかり、鈍い音を立てて転がる。幸い、中身はほとんどこぼれなかった。幻聴か? 疲れているのか? いや、違う。これは、疲労のせいなどではない。あれは間違いなく、三日前のあの儀式のせいだ。

 考えるまでもない。捨てるんだ。こんな気味の悪いもの、一秒だってこの部屋に置いておけるはずがない。俺はシンクの中で転がっているペットボトルを掴むと、キャップを開け、中身をすべて流しに捨てた。黒い液体は、粘り気を持ちながら、ごぼごぼと音を立てて排水溝の闇に吸い込まれていく。鼻をつく、錆びた鉄のような匂い。俺は、空になったペットボトルを足で踏みつけ、バリバリと音を立てて潰した。そして、その見るも無残なプラスチックの塊を、ゴミ袋に叩き込むと、その口を固く、固く縛った。

 衝動的にアパートを飛び出す。深夜の冷たい空気が肌を刺す。アパートのゴミ出しルールも、収集日も、今はどうでもよかった。一刻も早く、この物体を自分の生活圏から完全に排除したかった。暗い集積所にゴミ袋を叩きつけるように置くと、俺は全力で部屋へと逃げ帰った。まるで身体から重い枷が外れたような解放感があった。もう大丈夫だ。悪い夢だったのだ。

 ◇

 翌日、俺は大学の講義も上の空で、昨夜の出来事が頭から離れなかった。帰宅するのが、少しだけ怖かった。だが、部屋のドアを開け、恐る恐る冷蔵庫を覗いても、そこには何の変化もなかった。当たり前だ。俺は安堵のため息をつき、その日は泥のように眠った。

 しかし、その日の夜。

 バイトからの帰り道、コンビニで買ったチューハイを冷やそうと冷蔵庫を開けた俺は、その場で呼吸を忘れた。

 あるはずのないものが、そこにあったからだ。

 昨日とまったく同じ場所。一番上の段の奥に、あのペットボトルが、何事もなかったかのように置かれている。潰したはずの容器は、新品同様にその形を取り戻し、黒い液体がなみなみと満たされていた。ラベルの不気味な幾何学模様が、冷蔵庫の乏しい光の中で、嘲笑うようにこちらを見ている。

 嘘だろ。

 ゴミ袋に入れたはずだ。確かにこの手で、この足で、再起不能なまでに破壊したはずだ。誰かが持ってきた? ありえない。部屋には鍵をかけていた。

 ぞわり、と全身の毛が逆立つ。俺は再びペットボトルを掴むと、今度は中身も捨てずにそのままゴミ袋にねじ込み、昨夜と同じようにアパートを飛び出した。前回よりも遠くのゴミ捨て場まで走り、それを投げ捨てた。

 ◇

 俺は、この現象の正体を知りたくなった。スマホを操作し、ネットの海を彷徨う。あの情報を、もう一度見つけ出そうとしたのだ。検索履歴をたどり、ようやく『意味がわかると怖い話』の投稿にたどり着く。だが。

「ない……」

『冷蔵庫の囁き返し』に関する投稿が、どこにも見当たらないのだ。俺が読んだはずの、あの『姉貴』の体験談も、それに対する嘲笑的なリプライも、すべてが綺麗さっぱり消え去っていた。まるで、初めからそんなものは存在しなかったかのように。

 記憶違いか? 

 いや、そんなはずはない。

 代わりに、一つの新しい投稿が、俺の目を引いた。

『最近、冷蔵庫に変な飲み物が入ってる人いない? コーラみたいな黒いやつ。ラベルが読めなくて……。飲んだら、頭の中で変な声がするんだ』

 俺と、同じだ。俺はすぐさまその投稿にリプライを送ろうとした。

 だが、指が動かない。

 何を書き込めばいい? 

 『俺もそうだ』と? 
 そして、どうなる? 

 俺が躊躇している間に、その投稿にはいくつかのリプライがついていた。

『はいはい』
『こういうの信じちゃう人?』
『写真の一枚もない時点でね…』

 誰も、本気にしていない。俺があの体験談を読んだ時と同じように。

 絶望的な孤独感が、俺を襲った。この現象は、俺一人の狂気なのだろうか。

 俺は、冷蔵庫の前に立った。ゆっくりと、祈るような気持ちでドアを開ける。

 そこには、やはり、あのペットボトルがあった。

 もう、逃げられない。その事実が、冷たい絶望となって身体中に広がっていく。俺は、まるで引力に引き寄せられるかのように、ゆっくりと冷蔵庫に近づき、そのペットボトルを掴んだ。

 何かがおかしい。何かが決定的に狂っている。

 俺は、衝動的にペットボトルを強く振った。すると、中で『コトン』と、何か小さな固形物が側面に当たる音がした。液体だけではない。何かが入っている。

 確かめなければ。

 恐怖と、それを上回る狂気的な好奇心に突き動かされ、俺はバスルームへ向かった。そして、洗面台の栓をし、ペットボトルを逆さにして、中身をすべてそこにぶちまけた。

 どろり、とした黒い液体が、白い陶器を汚していく。強烈な鉄の匂いが、空間に充満した。液体がすべて出きると、そこには、黒い粘液にまみれた、いくつかの小さな塊が残されていた。

 そ「れは、人間の髪の毛が絡まったものだった。そして、黄ばんだ、爪の欠片のようなもの。さらに。

 ポツンと、一つ。白く、硬い、見覚えのある塊。

 人の歯。

 全身の血が凍り付くような感覚。

 理解が追いつかない。なぜ、こんなものが?

 その時、これまでで最も大きく、明瞭な声が、頭の中に直接響き渡った。

「『まだある』よ」

 呆然と立ち尽くす俺の背後で、静まり返っていたはずの部屋から、あの音が聞こえてきた。

『ブーン』

 冷蔵庫のモーター音。

 そして、カタリ、と。

 冷蔵庫のドアが、内側からゆっくりと開く音がした。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151812151575
大赤見ノヴ161617171682
吉田猛々171717161784
合計4851464848241