これは私が小学校高学年、昭和の終わり頃の話です。
当時私は、古い家の並ぶ、小さな路地の一角に住んでいました。
飲屋街の外れから、一歩脇道に入った路地の一番奥が私の家です。
そして、お隣が今回お話しする峰子さんのおうちです。
白い壁、青い屋根の小さな家。
一番奥にある私の家に出入りするには、必ずその前を通ります。
道を挟んだ峰子さんの家の向かい、私の家のもう片方のお隣は、クリーニング屋の倉庫になっており、お隣さんと呼べるのは峰子さんだけでした。
峰子さんの家は、路地に面した壁面が、洋風の縁側のような造りになっていました。
大きな硝子の引き戸が四枚あり、外に張り出す縁側はないものの、丁度旅館の広縁のようになっていて、大きな籐の椅子が置いてありました。
雨戸は付いておらず、硝子の引き戸だけなのですが、大抵はカーテンが引いてあり、締め切っています。
一人暮らしの峰子さんは、いつも夕方になると、大きな音で音楽を聴いていました。
流れていたのはロックミュージック。
本来なら大迷惑でしかありませんが、かかっているのは夕暮れの小一時間。
いつも家にいる祖母も、まあ、峰子さんだし、そこそこの時間でやめてくれるのでしょうがないね、と言った感じでした。
私はと言えば、子供だった事もあり、そこまで気に留めていませんでした。
むしろ、その選曲がとても良く、時々窓を開けて聴き入っていたほどでした。
大人になってから分かったのですが、流れていたのはQUEENやデヴィッド・ボウイ、ジャーニーなど。
それらの音楽には、英語は分からないのに、心だけが別の世界に連れて行かれたような衝撃がありました。
しかし、当の峰子さんは家にこもっている事が多く、あまり会う事はありませんでした。
たまに見かけるとそのインパクトは強烈で、髪の色は金髪、紫やピンクのアイシャドーに、金のじゃらじゃらしたアクセサリー、そして服はいつも真っ黒。外出時には縁の大きな帽子をかぶっていました。
私の祖母は「あの人は派手だけど中身は違う」と言っていましたが、確かに派手ですがミステリアスで、影のある人でした。
恐る恐る挨拶すると、にこりともせず、しかし帽子のつばから、斜めにぎろりと私を見つめながら「こんにちは」としっかり挨拶を返してくれるのです。
その様子は少しも嫌な感じがせず、むしろ、とてもまっすぐに私と対峙してくれているようで、不思議と嬉しかったのを覚えています。
また、峰子さんの家から聞こえてきたのは、音楽だけではありませんでした。
時折とても小さな声で「アー」とか「ナー」とか、猫が喧嘩をする時に出すような声が聞こえるのです。
猫を飼ってるのかも知れない。近所には他に沢山シャム猫を飼っている家があり、きっと喧嘩をさせないように外には出さないのかも。子供だった私は単純に考えていました。
ある日の事です。珍しく峰子さんが硝子戸を明け放し、籐の椅子に座って煙草をふかしていました。
「おかえり」
声をかけてきた峰子さんは、いつものように真っ直ぐに私の目を見つめていました。
「日向ぼっこですか」
と尋ねると、
「まあそんなところ」
と煙草の煙を遠くに飛ばしながら答えました。
「あんた、上がってく?」
突然に峰子さんが言ったのです。
今まで一度も家に上がったことはありませんでしたので、興味津々で頷きます。
峰子さんは、アッチと言わんばかりに、紫色のマニキュアの指で、玄関を指しました。
ドアを開けると、ふわっと薔薇の香りがします。峰子さんの付けている香水の香りです。
初めて入るお隣の家は、造りこそ普通ですが、やっぱりとても個性的で、廊下には外国人アーティストのポスターが、額に入れて飾られていました。
リビングには大きな棚。中には沢山のレコードが収納されていました。横には大きなオーディオ。向かいには、深い臙脂色のソファ。
その時です。視界に、あるものが飛び込んで来たのです。
ソファの端っこに置かれた籠、中から飛び出した、小さな人間の顔。
私はギョッとしました。
白い肌に長いまつ毛、赤い唇。それは赤ちゃん人形でした。
ビニール製の人形は、テラテラと存在感を放ち、やけに生々しく感じました。
強調された大きな瞳と、にっこり微笑む表情に、異様な不気味さを感じ、そそくさとその場を離れ、峰子さんの方へ向かいました。
その時、また、
「ナァー」
と小さく鳴き声が聞こえたのです。
声の方角からして人形です。しかし、まさか、人形が鳴く訳ない。やっぱり猫がいるんだ。ソファの下に隠れているに違いない。
なぜか声が聞こえた事を、人形に気取られてはいけないような気がして、平静を装いました。
「お邪魔します! 教えて欲しい曲があって、いつも聞こえて来る曲なんですけど……」
気持ちを変えようと、大きな声で話しかけました。
それからは、いつも峰子さんが聴いている音楽の話で盛り上がりました。
英語をよく知らない私は、
「えーと、こんな感じの……」
印象的な曲の入りの部分を、一生懸命ハミングで伝えました。
「ああ、あの曲か」
峰子さんは少し嬉しげに顔を緩め、
「待ってて」
棚ではなく、別にオーディオの上に何枚か重ねられた山から、一枚のレコードを取り出しました。
そしてプレーヤーにかけてくれたのです。
印象的なピアノのイントロ、
「あ!これです」
私は叫びました。
「なぜ好きなの?」
そう尋ねられ、思ったままに答えました。
「すごく寂しくて、切ない感じのところ。歌の意味は分からないんだけど」
「……あんたにも分かるのね」
と、峰子さんはちょっとだけ笑いました。
その後、オペラみたいな長い曲、や、女の人のボソボソした歌、など、私の難しいリクエストに、峰子さんは何曲も応えてくれました。
今でも忘れがたい、穏やかで楽しい時間でした。
「ナーン」
しかし、聴いている間にも、時折か細い鳴き声がします。
声の方角はやはりソファ。
どうしても気になった私は、我慢できずに尋ねました。
「猫、飼ってますよね?」
「え?」
唐突な問いに、峰子さんは目を丸くしました。
「いつもこの家の中から聞こえるんです。だから猫飼ってるのかと思って」
「鳴き声がするの?」
「はい。今日だって部屋に入った時も、レコード聴いてる時も、ナーナーって鳴いてました。」
「外にいるシャム猫達じゃなくて?」
「いいえ、すっごく小さい声だけど、遠くとか外からの音じゃありません。この部屋の中から聞こえます」
言いながら、思わず人形の方をチラッと見てしまいました。
すると気付いた峰子さんも、そちらに視線を向けました。
「違うわ……猫じゃない……」
「えっ」
「うちで猫飼ったことはないよ」
「じゃあ、あの鳴き声……」
その時です。再び、とてもとてもか細い声で、
「ナァーー」
と聞こえたのです。
私達は一斉に顔を見合わせ、そして声のする人形の方へ目を向けました。
「この声?」
峰子さんは怯えていました。
「はい……!この声です」
「私初めて聞いた……」
あの時の峰子さんを、今でも覚えています。恐怖と同時に、なぜか嬉しそうな表情をしたのです。
あれ? なぜ? そう感じた瞬間、突然、ドン!! と踏みつけるような大きな音と、強い衝撃が部屋中に響きました。
棚がカタカタ揺れる程の衝撃で、ソファの上の籠がガラン! と床に落ちます。
そして異様だったのが、まるで赤ちゃん人形が、床に叩きつけられるように飛び出たのです。
「嫌っ、赤ちゃん!」
飛びつく峰子さん。呆気に取られる私を横目に、何かから守るように人形を抱きしめています。
「大丈夫? 大丈夫?」
震える指で人形を撫でます。
何が起こっているのか分からない私は、その場に立ち尽くすしかありません。
家の中の空気が一瞬で変わリました。今まで軽く流れていた空気が、ザラザラと、まるで粒子の一粒一粒が見えるみたいに、重く対流を作っています。
両腕に鳥肌が立ち、額から冷や汗が流れました。
「この子、鳴くのね。……そうあんた、いつも鳴いてるの」
峰子さんは、まるで本物の赤ちゃんに話しかけているようです。
「今日はもう帰りなさい」
こわばった顔のまま、しかし優しく言いました。
私は言われるまま家を出ました。
玄関を出てて、自宅に向かい歩きながら、ふと縁側に目をやると、峰子さんが硝子戸を閉めたところです。
ピタリと閉じられた戸に目をやったその時、目、大きな目、とても大きな目が一つ、四枚の硝子戸一杯に映っていたのです。
「えっ……!」
光の加減で見えているのか⁉︎ まさか。いや、違う、確かに……目だ!
全体に色は抜け、モノクロの陰影。
硝子戸四枚分の大きさの目が一つ、斜めに写っていたのです。
眼球はぬらぬらと光り、家の中を窺うように、黒目を斜めに向けていました。
この目に気付かれたら、私はどうなってしまうのか。
硝子戸の前を走り抜けようとしましたが、体が思うように動きません。
早く、ここを離れなきゃ。歩け、歩け! 頭の中で体に言い聞かせますが、よろよろと足を動かすのが精一杯です。
恐ろしいのに顔を背けられません。
やっとの思いで自宅に飛び込むと、出迎えた祖母は私は見るなり驚きました。
「あんた、どうしたの! ちょっとそこで待ってなさい」
台所から塩を持って来て、私の頭からばさばさと振りかけます。
そして、玄関に落ちた塩を箒で集め、外に放り出し、私に塩を舐めさせました。
後で聞くと、帰ってきた私は真っ白な顔をしていて、後ろから強烈な視線と、重い空気を感じたそうです。
少し霊感のあった祖母は、これはただ事ではないと感じ、お塩で清めてくれたそうです。
何があったか問い詰められましたが、言葉に出してしまうのが恐ろしくて「何でもない」としか言えませんでした。
その日の深夜、眠っていた私は目を覚ましました。
当時、弟と布団を並べて同じ部屋に寝ていたので、横を見ると常夜灯に照らされた弟の寝顔が見えます。静かな空間に弟の寝息だけが聞こえていました。
枕元の目覚まし時計は2時10分。
こんな真夜中に起きるなど初めてです。
夕方の体験もあり、怖いので早くもう一度寝てしまわなければ、と布団を被りました。
ぎゅっと目を閉じると、案外眠気が襲ってきて、もう少しで眠りに落ちそうだと思った瞬間、うぃんうぃんうぃんうぃん、と耳鳴りが聞こえてきました。
静かすぎると普段気に留めていない耳鳴りが、途端に気になるあの感覚です。
しばらくするとそれが、うぃーん、うぃーん、うぃーん、うぃーん、と変わり、次第に、うわぁーん、うわぁーん、うわぁーん、と変化していきました。
あれ、まるで赤ちゃんの泣き声みたい……と思ったその時です。急激に恐怖が襲って来ました。
駄目だ! 怖い! 目を覚まさなくちゃ!
体を動かそうとしましたが、指一つ動きません。
怖い! 怖い! 助けて!
声を出そうと必死にもがきますが、うぅー、うぅー、としか音が出せません。
弟の名前を必死で叫びますが、唸り声がやっとです。
弟も深く眠りに落ちているのでしょう。全く気が付いてくれないのです。
助けて! 助けて! もがいている間にも、泣き声は次第に高い音に変わり、赤ちゃんでも、まるで新生児のような、軽くて高音の、しかし耳の奥まで届くような質感に変化していきました。
「ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあー、ぎゃあああーーー! ぎゃあああーーー!」
次第に火の付いたような叫び声に変わって行きます。
そして、泣き声の後ろに、隠れるように呟くもう一つの声があるのに気が付きました。
「……ろ。……れろ。……ぶれろ。つ……ぶれろ……。つぶれ……ろ。」
低い女の声でした。
「つぶれろぉおおおお」
ーー怖い! やだ! 動かなきゃ! 誰か! 誰か! 怖い!
心の中で助けを求めます。
その時です。赤ちゃんの泣き声と女の声が、一瞬止まりました。
そして、とてもとてもか細い声が聞こえたのです。
「ナーーーン」
この声! 峰子さんの家から聞こえていた声だ!
「はっ!」
私は目を開けました。体も動きます。布団から飛び起きて、寝ている弟にも構わず、部屋の灯りをつけました。
「眩しいよぉ」
弟が布団を被ります。
私は立ち尽くし、灯りの下、鮮明に存在を際立たせる家具やカーテンなどを見まわしながら、声の存在が消えているのを確認しました。
どくどくと早鐘を打つ鼓動。指先まで震えていました。
赤ちゃんも女もいません。
その夜は灯りを付けたまま布団に入りましたが、外が薄明るくなるまで寝つけませんでした。
明け方少しの睡眠を取った後、思い返してみましたが、やっぱり夢とは思えません。
確かに赤ちゃんの泣き声と、低い女の声が聞こえていた。
最後の声。あれはそう、間違いなくいつも峰子さんの家の中から聞こえてきた声だった。
感覚的に、次第に変化する赤ちゃんの声と、最後の「ナーン」という声は、同じ者の声だと感じました。
その後しばらくは警戒して過ごしましたが、恐ろしい出来事は起きませんでした。
峰子さんの家の前を通っても、あの声は聞こえません。大きい目も現れません。
それどころか峰子さんの姿も見かけず、音楽も聴こえてきませんでした。
一月程経ち、学校から帰宅した私を、祖母が血相を変えて待っていました。
「峰子さんが亡くなったって!」
頭を打たれたような衝撃でした。
聞くと今日の午前中、峰子さんの家に警察が来ていたそうです。
うちにも話を聞きにやって来て、事の次第を教えてくれたそうです。
当時は今ほど個人情報も厳しくなく、お隣ということもあって教えてくれたようです。
市街地の真ん中にある小さな山に、昔防空壕として使われていた手彫りの洞穴があるのですが、峰子さんは、そこで崩れた内壁の下敷きになって見付かったそうです。
「どうしてそんな所に!?」
「あの辺にお寺があるんだよ。峰子さん毎月通ってたから、寄ってみたのかねぇ。しかし立ち入る場所でもないだろうに。……あの防空壕ね、いつもは誰も入れないように、柵に施錠してあるのよ。でも峰子さん入ってたんだって」
呆然とする私の耳元に、あの女の声が蘇りました。
「……ぶれろ……。つ……ぶれろ」
全身が総毛立ちました。きっとあの声の主が、峰子さんに何かをしたに違いない。
それまで恐ろしくて口に出せなかったのですが、祖母に峰子さんの家で起こった事、その日の深夜の体験を話しました。
一部始終を聞いた祖母は、実はね、と話してくれました。
「峰子さんは『お妾さん』なんだよ」
と祖母は言いました。
私には認識がなかったのですが、他に家庭がある男性が、時々通っていたそうです。
「男が家を買ってね、峰子さん一人でずっと住んでたんだよ。もう三十年にもになるかな。最初は派手なのにおどおどした若い女が来たなって思ってたんだけど。あの頃は会うとまだ少し世間話できててね。音楽やってて、バンドで歌ってるって言ってたね。まぁ訳ありなのはすぐ分かったよ。この辺は昔花街だったから、色んな事情で一人で住んでる女なんてよく見るけど、そういう者の一人だね。そしたら言うんだよ、私赤ちゃん産まれるんですって」
「赤ちゃん⁉︎」
「うん。まだね、お腹も大きくなくてさ。私言ったんだよ、だってあんた結婚してるんじゃないんでしょ? って。そしたら、一人でも育てたいって」
「……そんな」
「でもね、結局赤ちゃん、そのままお腹の中で大きくなることはなくて、峰子さん随分ふさいでたんだよ。それからだね、段々笑わなくなっていっちゃって。……夕方に音楽聴き始めたのもさ、堪らなくなるんだって。夕陽が落ちて、一日が暮れていくと思うと、たまらなく寂しくなるんだって。だから私はあの音楽に対しては何も言わなかったんだ」
ショックでした。そんな過去があったなんて。
「多分ね、相当恨まれてたんだろうね峰子さん」
「えっ」
「私はね、赤ん坊の声とか大きな目とかは知らないけど、あの人とあの家に、時々重たいずしんとした空気がまとわりついてるのを感じることがあったんだよ。”潰れろ“って言ってたんだろう? お腹の赤ちゃんも、峰子さん自身も、潰されてしまったのかも知れないね……」
「……誰に?」
「そりゃ……正妻さんにだよ」
祖母は遠くを見ながらため息をつきました。
「防空壕の近くにね、お寺があって、あの人、毎月赤ん坊の供養に行ってたんだよ。それにしても何かに引き寄せられて入っちゃったのかね……。あんな所、誰も入らないのに。私はね、思うんだよ。細々と狭い家に閉じ籠って生きてきた峰子さんを、更に逃げ場のない穴倉に追いやって、命まで奪ったんじゃないかって。普通に死なすには飽き足らず、潰してしまいたい程恨んでたんだろうねぇ……。お腹の赤ん坊だって随分恨まれてただろうからねぇ……」
一連の体験を思い、祖母の言う事は外れていない気がしました。
「でもね、忘れちゃいけない。それだけ苦しめられていたんだよ、奥さんは。苦しめていたのは峰子さん達なんだ」
哀しそうな祖母の言葉に、何も言えませんでした。
「その奥さんも、生きてるんだか死んでるんだか、分からないんだけどね……」
それから更に少し経った頃、学校から帰るとお隣の家の玄関に、峰子さんと同年代の男の人が立っていまいした。
その雰囲気から、どこかの会社の偉い人なんだろうな、と子供心に感じました。
すると男の人は声をかけて来たのです。
「こんにちは。お隣の子かい?」
「はい、そうです」
「峰子がお世話になりました。彼女からあなたの事聞いたもので」
驚きました。峰子さんは亡くなる前に、一緒にレコードを聴いた事を、この男の人に話していたそうです。
ああ、祖母の言ってた通っていた人って、この人なんだなと思いました。
「音楽の趣味が合うって、あの子は趣味がいいって、珍しく嬉しそうに電話をくれてね」
そう言う男の人も、とても嬉しそうでした。
「この家の荷物を整理しなくちゃいけなくて、今日は様子を見に来てたんだ」
ああ、本当に峰子さんは居なくなってしまったんだ。涙が溢れました。
「ありがとう。彼女は身寄りもなくってね、そんな風に泣いてもらえるなんて、きっととっても喜んでるよ」
私はますます胸が苦しくなりました。
男の人はNさんと言い、大学時代からの“友人“だと言っていました。
「そうだ君、レコードをもらってくれないか。好きな曲だけでいいんだ、もらってやってくれよ」
そう言われ、あの日の恐怖が蘇りましたが、Nさんからの申し出を受ける事にしました。
恐る恐る再び入った峰子さんの家は、窓が開け放たれていたせいか空気も軽く、嫌な感じはしません。
やっぱり薔薇の香りがして、峰子さんがまだ家の中に居るんじゃないかと思うほどでした。
ソファの上には、籠も赤ちゃん人形もありませんでした。
「峰子が特別大切にしていたからね、一緒に棺に入れたんだ」
Nさんの言葉に、心底ほっとしました。
「レコード、沢山ありますね」
「すごい量だろう。いつも減らせばって言ってたんだけど『これは私の血と肉なのよ。削れないわ』って言われちゃってね」
Nさんは一枚一枚大切そうに眺めます。
「どれがいい?」
私は棚とは別に置かれた山の上から、以前峰子さんがかけてくれた一枚を取り出し、
「これを頂きたいです」
と申し出ました。
「ああ、本当だ。君は峰子と趣味が合う」
Nさんはまた寂しそうに笑いました。
「一曲だけ一緒に聴きませんか」
私はある曲をリクエストしました。
それは70年代の名曲でした。
スピーカーから流れる澄みきった静寂、そして始まるコーラス。コードを刻むピアノ。叫びのような、切ない、それでいて暖かく張りのあるヴォーカル。
「ーー愛する人を見つけて……!」
繰り返される歌詞。
当時は何を歌っているのか詳しくは分かりませんでした。でも切実に“誰か“を求めている歌という事は分かりました。
そして峰子さんにとっての”誰か“は、Nさんと赤ちゃんだったんだろうなと思いました。
その時Nさんは泣いていました。
レコードを頂き、家を出る際、Nさんは玄関まで見送ってくれました。
つい最近まで明るかった空が、濃紺色に染められています。
早い夕暮れに、季節が変わったのだと感じました。
別れ際、不意にNさんが言いました。
「君もいずれ恋をするんだろうな……」
「えっ、恋?」
「いや、ごめんごめん。……僕達はね、お互い大好きだったけど、でも、いつも一緒にいられる関係じゃ
なかったんだ。……僕はね、彼女を大切にしたかった。でも、ちゃんと大切にできなかった。何もかもを手放す事が出来なかった。どれも大切だ、傷つけたくないと思っているうちに、どんどん周りを、峰子を、孤独にさせてしまった。みんなを酷く傷つけてしまった」
それは懺悔のような告白でした。
「君はどうか、苦しまずに望むものを手に入れて、そのまま、まっすぐ、ずうっと、幸せでいて欲しい」
「……はい」
この家で孤独に過ごし、亡くなっていった峰子さんと、一緒に送られた赤ちゃん人形。そして、強い怨念と化してしまったであろう、Nさんの奥さんの苦しみ。その深さを思い、胸が重く締め付けられました。
結局誰も幸せになれなかったんだな……。
「元気で。幸せに」
Nさんはもう一度言いました。
私は黙って頷きました。
歩き出す私の頬を、少し冷たい風が撫でて行きます。
「ありがとね」
峰子さんのハスキーボイスが聞こえたような気がしました。
と、同時に、
「ナーーーン」
あの声が、また家の中から聞こえたのです。
私は振り返らず、そのまま歩きました。