東京から転校してきたNは、背も高く、肩も張って大きな体をしていたが、異様に肌の色が白く、顔色がいつも青かった。
身体が弱いらしく、体育の授業はいつも見学していた。さすが東京の子だと思った。その上、整った優しい「標準語」が、その弱い感じに拍車をかけていた。
Nは僕にひどくなついた。僕もその頃は腺病質でよく熱を出したので、体育の授業は時々休んだ。休み時間もあまり教室を出なかったから、Nと接する機会が多かったのだ。
とは言え、Nにはどことなく影があり、それほど好きにはなれなかった。しきりに彼の家に遊びに来るよう言われたが、気が進まなかった。
それでもあまりにしつこく言うものだから、ある日の放課後、一緒にNの家に行くことになった。
学校を出て、僕の家とは反対の方角に進み、長い坂をずっと下って行った。鬱蒼とした樹木が両脇に並んだ、昼なお薄暗い道であった。人通りはほとんどなく、車も滅多に通らない。もちろん、お店一つない。こんな寂しいところがあったんだな、と思った。同時に、よくもまあこんなところに住むなと思った。
坂道の途中から右にそれて小道に入ったが、そこは空が開けて明るいところだったのでほっとした。ほどなくして明るい住宅地に着いた。
数軒の小さな住宅が並んでいて、明るい陽が差している。その真ん中にNの家があった。瀟洒な新しい二階建てで、暗い山道を歩いている時は、古い薄汚れた陰々滅々とした暗い家を想像していたので、ちょっと意外だった。
Nの母親が出迎えてくれた。東京から来ただけに身ぎれいな人だったが、ひどく痩せていて顔色がやけに悪かった。やつれた感じではあったが、終始にこにこしていた。そして、「息子とお友達になってくれてありがとう」と言った。なんだか違和感のある言葉ではあった。
まだ三時で外は明るかったのに、いやに部屋が暗い。見ると遮光カーテンを閉め切っている。なんで開けないの、とNに聞くと、お母さんは太陽の光が嫌いなのだと小声で言う。
二階のNの部屋に入り、ゲームをした。おもちゃが豊富にあって羨ましかった。一人っ子はいいなと思った。なおNの部屋も、昼間なのに遮光カーテンをしっかり引いていた。
遊んでいるうちに小用に行きたくなったのでNに言うと、一階のトイレまで案内してくれた。
扉を開けようとしたが、開かない。
「お母さんが入ってるみたい」
Nが小声で言って笑った。気まずいので二階に戻ろうとしたら、
「すぐだから、待ってて」
トイレの中から低い声がした。
そうかと立ち止まったが、なかなか出てこない。
あんまり遅いので、Nは頭を搔いて声を出さずに笑った。
「大か?」と、僕がふざけた調子で小声で言うと、Nはしーっと指を立てる。
その時、
「もう出るよ」
また低い声がした。
そして、水が勢いよく流れる音がすると、いきなり扉が開いた。
「えっ?」
そこにいたのは三十センチくらいの小人だった。蓬髪で、男だか女だかわからない顔をしていた。どんな服を着ていたかは記憶にない。
そいつがぴょんと飛び出し、僕等の間を駆け抜けて、廊下から居間に飛び、遮光カーテンの向こうに消えた。
居間に急いで入り、遮光カーテンを開くと、窓が大きく開いていた。小人はもうどこかに行ってしまったようで、草茫々の庭のどこにもいなかった。
「あれはなに?」
そう言ってNを見ると、ぽかんと口を開けている。その後は魂が抜けてしまったような状態で、何を話しても取りつく島もなかった。
一緒に夕食を、と母親が誘ってくれたが、陽があるうちに、この気味の悪い家から離れたかったので断った。
今もって不思議なのは、その日、家に帰った頃には小人のことをすっかり忘れていたことである。そして、翌日、教室でNと顔を合わせた時も、小人のことは思い出さなかった。Nもそのことは忘れていたのではないか。昨日は魂が抜けたようになっていたNだが、すっかり元に戻っていた。
あの時、あの小人はいったい何なのか、もしNに聞いていたら、どんな答えが返ってきたであろうか。
とにかく、小人のことは忘れたのである。理解を超える、あまりにわけのわからないものだから、防衛反応で意識が遮断したのであろうか。
あれが小人ではなく、鬼気迫る普通の幽霊だったら、僕も大いに怖がり、騒いだだろうが、男とも女ともつかない顔をした、やや小太りの小人となると、どう反応したものか分からなかったのである。
ただ、不快な感じは強く残っていたから、もう二度とNの家には行きたくないと思った。
一か月くらいたった頃、Nはまた家に遊びに来るよう誘ってきた。無論、断った。Nは悲しそうな顔をして黙ったが、しばらくして、言いにくそうに小声で言った。
「じゃあ、君の家に行ってみたい」
即座に断った。Nの家の気持ち悪さは、そこに住んでいるNまでをも気持ち悪いものと感じさせていた。それゆえに、この一か月はあまりNとは遊んでいなかったのである。
Nの友達は僕だけかもしれないが、僕には他にも友達がいる。彼らと遊んでいるうちにNのことは忘れていた。彼らがNのことを煙たがっていたことも、Nとは疎遠になる一因となった。
友達が変われば、こちらの生活も変わる。その頃、僕は休み時間によく校庭に出て、活発に遊ぶようになっていた。いまさら暗い顔をしたNと関わるのも面倒になっていた。
とてもじゃないが、自分の家には彼を入れたくない。とは言え、Nのしょげた顔を見ると悪いような気もした。友達なのに放っておいた罪悪感もある。
しかし、いやなものはいやである。
それから何日か経って、Nはまた僕の家に来たいと言った。
僕はこの時、あの家の件はすっかり忘れていた。
母の了承を得るため明日返事する、と言った瞬間、あの家のことを思い出して激しく後悔したが、大袈裟に喜ぶNの顔を見ると、いまさら断ることもできない。その夜は、ああいやだいやだとつぶやきながら床に就いた。
翌日の放課後、Nと一緒に帰宅した。私の母は紅茶にケーキを出してくれた。二人でゲームをするのは楽しかったので、あの家のことはすっかり忘れていた。
夕方になり、Nの母親から電話で呼び出され、Nは帰ることになった。名残り惜しそうにNは立ち去った。ゲームを中断されたので僕も残念だった。
マンションのエントランスまで送っていった。
「じゃあ、また明日」と言って、Nは去っていったが、数十メートル先に、高校生くらいの女の人が立っていて、こっちを見ているのに気づいた。白いワンピースを着て、長い髪を垂らした、色白でほっそりした顔の女性だった。
道を渡ったところでNが振り返り、手を振った。そしてまっすぐ歩いて行ったが、先の女の人がNに追いつき、並んで歩いて行く。二人は何か話しているようだった。
「お姉さん?」
顔はよく見なかったが、色白なのは似ていた。あいつ一人っ子だと言ってたのに、嘘つきやがって。お姉さんがいたのか。
部屋に戻ろうと階段を上がったが、ドアを見てぎょっとした。
ドアの前にうずたかく材木が積んである。よその部屋だと思って通り過ぎたが、あれはやはり自分の部屋だ。あんなものさっきなかったのに。
呼び鈴を鳴らすと母が出てきたが、材木が重すぎてドアがきちんと開かない。山を崩して、やっとドアが開いた。なんでこんなところに薪が、と言ったきり、母は目を丸くして黙った。
次の日、Nに「君、お姉さんいるだろ」と単刀直入に言うと、「いないよ」と言下に否定した。しかし一瞬ではあるが、動揺の表情を見せたのを見逃さなかった。
「昨日お姉さん見たぜ」
と言うと、Nは「どこでだよ」と声を荒げ、昨日は一人で帰ったし、誰かと話していたなんてこともないと言い張った。争ったが、Nは頑固に認めないので、追及は諦めた。
「でも、お姉さんはいるんだろ?」
そう言うと、Nは顔を真っ赤にするので、面白くなってまた言うと、「いないといってるだろ!」と大声で叫んだ。
おとなしいNの豹変ぶりに、僕も驚いたし、クラスの皆も振り返った。気まずくなり、僕はおとなしく引き下がった。Nもはっとして、こそこそ隠れるように席に戻った。
その後、扉の前に積まれていた薪の山のことも話したが、Nは不思議がった。さすがにNが持ってこられる量ではなかったし、そんな悪ふざけをするような奴でもない。
夜になって帰宅した父が大量の薪を片付けた。重すぎて、母と僕だけでは、とても片づけられなかったのである。
僕も少しは運ぶのを手伝った。四、五回はゴミ置き場を往復したと思う。「訳が分からないイタズラだな…」と父は言った。僕はその時、あの女の人のことを思い出したので父に言うと、女の人が運べる量じゃない、と言って笑った。
しかし、その後、眉を寄せて、
「薪だなんて…まさか火をつけるつもりじゃないよなあ…」
と言ったが、それが現実になるとは思いもしなかった。
Nが学校に来なくなった。
どうしたんだろうと思いはしたが、他の友達と遊んでいるうちに、またNのことは忘れてしまった。友達からは、あんな奴と遊ぶのやめなよ、などと日ごろから言われていたので、Nともこれきりかな、と薄情なことを思ったりしていた。
ひと月がたった頃、休んでいたNが教室に現れた。
頬がこけ、顔色がさらに悪くなっていた。その憔悴ぶりに皆は驚き、押し黙った。僕もびっくりし、声も出なかった。Nとは目を合わさぬようにした。
昼休みに、彼から近づいてきて、座っている僕の肩に手を置いた。
幽霊にでも触られたようにぞっとした。
振り仰ぐと、Nが横に立っていた。ちょっと来てくれ、と言うので素直に従った。校庭に出て、Nはベンチに座った。僕も続いて座った。よく晴れた気持ちの良い日であったが、目が落ちくぼみ、さらに痩せた幽鬼のようなNは、明るい風景にまったく溶け込んでいなかった。
「元気?」
Nが黙っているので居心地が悪く、そう言ったのだが、見るからに元気はない。しかし、Nは「元気だよ」と言って、また黙った。
Nを放っておいて、にぎやかな皆のところに戻りたくなったが、そうもいかない。次の言葉を待ったが、なかなか出てこないので、僕はNの方を見ず、校庭をかけまわる生徒たちを見ていた。
その後、Nを見ると、下を向いてまだ黙っているので、
「なんで休んでたの?」
と、聞かなくてもいいことを聞いてしまった。
Nは暗い顔をさらに暗くして言った。
「お父さんの会社が火事になってね…」
何も言えなくて黙った。Nは続けて言った。
「会社なくなっちゃってさ…」
「そうなんだ…」
と僕は言うだけで、あとは言葉が出ない。いやな沈黙が流れ、もうNといるのがとても辛くなってきた。他にも何か話したいことがありそうなのだが、ためらっているようだ。
そこに、たまたま通りかかった友達に声を掛けられたので、そっちに着いていってしまった。
去り際に振り返ると、Nは暗い目で僕をじっと見ていた。だが、僕はもうNの話の続きを聞く気はなかった。どうせいい話ではないだろう。鬱陶しいやつだと思いさえしていた。
それからNとは疎遠なままであったが、ある日、僕が誰とも話していない時を見計らって、Nがすっと寄ってきて言った。
「僕、もうすぐ引っ越すんだ。みんなには内緒だけど…」
「そう…」と言ったが、すっかり重荷を下ろしたような気持ちになった。
近いうちに、もう姿を見る機会もなくなるわけで、そうなってみると、今まで放っておいて悪かった、という殊勝な気持ちが湧いてきた。
皆に内緒というのは、友達と呼べるのは僕くらいだったので、言っても仕方ないからだろう、とその時は思ったが、今思うと、非常に複雑な状況が裏にあったからなのだろう。
翌日からNは学校に来なくなった。そんなに早い話だと思わなかったので驚いた。担任はNの家庭の事情については、おそらくある程度は知っていたと思うが、いっさい話してくれなかった。どこに転居したのか聞いても、知らないと言うだけだった。本当に知らなかったのかもしれないが。
さて話を戻すと、「もうすぐ引っ越すんだ」とNが言ったのには、それほど驚かなかった。お父さんの会社がなくなれば、生活だって激変するだろう。子供でもそれくらいのことは想像できる。それより、それに続く話がはるかに衝撃的だった。
Nには、じつは十歳以上年長の姉がいるのだそうだ。正確には「いた」のだそうだ。
姉は両親が反対する男と駆け落ちして、ずっと勘当扱いだった。その間、連絡もとらなかったらしい。Nの家では姉のことを話すのはタブーで、子供はNだけ、ということになり、Nも一人っ子のつもりでいたそうだ。
しかし、その姉が突然、車の事故で亡くなった。
「僕が女の人と話してたってのは、君の気のせいだと思うんだけど、本当に見たの?」
とNが言うから、その時の光景や、覚えている限りの女性の姿について話してやると、
「この人?」
と言って、Nはポケットからしわになった一枚の写真を取り出して見せた。
手に取ってみたが、一瞬見て、頭の中が白くなった。
けがらわしいものに触れたような気持ちになり、すぐにNに写真を返した。
「こっちじゃないよ。これは君の家にいた小人だろ」
吐き捨てるように言った。Nは僕がどうしてそんな反応を見せたのか驚いたようで、鳩のように目を丸くして、しばらく黙っていたが、やがて、
「それが姉だよ」
と言った。
じゃあ、君が話していた女の人は誰なのか、また、お姉さんは小人だったのか、僕はNに弾丸のように質問を浴びせかけた。しかし、まったく埒が明かなかった。Nはこう言ったのである。
「…いったい何の話? …小人って何?」