「ヘルシー牧場」

投稿者:かめ

 

これは数年前、私が高校生の頃に体験した話です。
一生涯誰にも話すつもりはありませんでしたが、先日この投稿怪談というものを知り、
ここでなら話せると思い投稿してみました。
当時、私は農業高校に通っていました。
親戚が酪農をやっていたという簡単な理由で入学したのですが、学校の仲間達はすごく良い奴ばかりで先生も大好きだったので毎日大変ながらも充実した日々を送っていました。
ごめんなさい、地域に関してはあまり詳しく書けません。
農業高校には「農業実習」というものがあります。
他の学校は知りませんが自分の学校では、1、2、3年生でそれぞれ内容の違う「農業実習」がありました。
私は1年生の時「牛の飼育」を体験できる実習に参加しました。
実習は学校からそう遠くない酪農農家に仲間数人と「牛の世話」をしに行くもので、
自分が行った酪農農家は乳牛を60頭くらい飼育していました。
規模としては中規模くらいだったのかな。
実習は1週間くらいでした。
毎日、学校から牧場まで先生に車で送ってもらい、夕方まで牧場主のおじさんに「牛」についての色々な説明を聞きながら、牛舎(きゅうしゃ)の掃除や餌の準備、給餌(きゅうじ)を勉強しました。
親戚の家が牛を飼っていたので何となくは知っていたものの、餌に関しては粗飼料(そしりょう)という、いわゆる牧草類と、濃厚飼料(のうこうしりょう)という穀物類の配分を牛の健康状態を見ながら日々変えるなど、初めて知ることも多く想像以上に大変でした。
私はある時、牛舎近くに大人の肩くらいまでの高さの、割と大きな古いステンレス製の機械があるのに気付いて、牧場主のおじさんに何の機械か聞いてみました。
おじさんは「ああ、あれは骨粉砕機といってね、今は使ってないんだが昔は動物の骨を砕いてカルシウム補給のために餌に混ぜたりしてたんだよ。」と教えてくれました。

私はその時、なんでやめたのか知らなかったので、
「へえ、乳牛には良さそうですよねカルシウム。なんでやめたんですか?」と聞くと、
おじさんは、
「あはは、そうか若い子は知らないよね。昔、狂牛病ってのが流行ってね、その原因が牛骨粉だったから全面的に禁止になっちゃったんだよ。高い機械だったのに今では場所を取るだけの厄介ものさ。」と、豪快に笑いながら教えてくれました。

私はおじさんとこの牧場がとても好きでした。

この牧場には他にも働いている人がいました。
おじさんの娘さんと、海外から働きに来ている男性が一人。

娘さんは「さやかさん」と言い、地元の農業大学に入ったばかりで、大学に通いながら牧場を手伝っていました。

海外からの男性は、名前は知りませんが当時始まって間もなかった国の制度に募集して来た人だったらしいです。

さやかさんは私たちの仲間内でも人気でした。
実に古臭いですがマドンナ的存在と言えば良いのでしょうか。

長い黒髪を後ろに束ねて、汗を拭きながらテキパキと動くそのオーバーオール姿にみんながときめいていました。

みんな、どうにかしてさやかさんと話せないかと思いを巡らせながら日々を過ごしていましたが、ある時、私は、さやかさんの首元に光るものを見つけて、「やった!話すきっかけがあった!」と内心小躍りしました。

さやかさんが身に着けていたのは、「コンパスと定規」をモチーフにした有名なデザイン「イルミナティ」のペンダントだったのです。

「ひょっとして、いや間違いなく“アレ”ってテレビでやってたやつだよな」
自分はそういう話が特別詳しかったわけではありませんが、たまたま見たテレビ特番で芸人が話していた「イルミナティ」という組織のマークを覚えていて、そのマークがあのペンダントと一緒だということには気付けたので、「それ」を話題に話しかけようと思いついたのでした。

私は掃除をするふりをしながら話しかけるチャンスを伺いました。
もう夕方で、帰る時間になってしまう!というタイミングで、作業をやめて顔を上げたさやかさんと、目が合ってしまいました。

咄嗟に私は、「あ、あの!それってテレビでやってたやつですよね!」と、今思い出しても恥ずかしくなるような裏返った声で話しかけていました。

さやかさんは一瞬、驚いた顔をしましたが、すぐににっこり笑って「あ、これね。良いでしょ?この間、町で見つけて買っちゃったの♪」とペンダントを指でつまんで見せてくれました。

そこから話が弾んだわけでもなかったのですが、その日はとても幸せな気持ちでいっぱいでした。

そこから実習最後の日まで、さやかさんとは、にこやかに挨拶するしかしていませんでしたが、内心「俺は特別」という根拠のない自信で、他の仲間を見る時「謎の優越感」に浸っていました。

1年生の農業実習が無事に終わり、数か月が経とうとした頃、あの牧場に行ったメンバーが職員室に呼ばれました。

実習の評価はとっくに終わっていたので、みんな「今頃、何だろう?」と不思議に思いながら職員室に向かいました。

職員室に入ると担任のO崎先生が神妙な顔をして、静かに教えてくれました。
「お前らがお世話になったあの牧場な、娘さんがいただろう?昨日、その娘さんが亡くなったって、さっき連絡が来たんだ。」

「え・・・」私は思わず声を漏らしていました。
皆、心の中は同じだったと思います。

「なんで・・・?」

悲しいとかそういう感情は置いてけぼりになって、ただただ、「なんで?」としか頭にありませんでした。
先生は、「明日、告別式があるそうだ。希望者は俺が連れて行くから黒っぽい服装持ってこい。」とだけ言いました。

職員室から出てから、みんなは話をすることもせず、淡々とその日の授業をこなし、そのまま帰宅しました。
家に帰って母親に事情を言うと、喪服を用意しながら、
「なんでかねえ、病気かねえ・・・」というばかりでした。
私は、母の声に反応する気力すらありません。

翌日になり、昼前にO崎先生の車で、僕たちはあの牧場に向かいました。
母屋の方はすっかりそれらしく飾られ、式場になっている大きな畳の部屋に喪服の人がひしめき合い、所々からすすり泣く声が聞こえています。

その場にいる誰もが泣いていました。
唯一明るく笑っていたのは、遺影の中のさやかさんだけ・・・

喪主の挨拶をする牧場主のおじさんは、すっかり憔悴しきっていて、あの豪快さは消え失せていました。

焼香の順番になっておじさんを間近で見ましたが、おじさんは床の一点を見つめたまま、まんじりともせず、こちらから声をかけることは・・・とても出来なかった。

しかし、おじさんの目の奥には、どこか怒りにも似た鈍い光が灯っていたように私には見えました。

告別式では棺は固く閉ざされており、さやかさんの顔を見ることは出来ませんでした。
式場の誰もさやかさんの死の原因について話している様子はなく、自分たちも気にはなったものの先生に聞くことはできませんでした。

私たちはどこかモヤモヤした気持ちのまま学校に戻り、午後の授業は集中できずにいました。

家に帰ると夕飯のあと、父からさやかさんの死が「自死」であったことを聞かされました。

父は酪農をやっている私の親戚から聞いたらしいです。

父からは、さやかさんは、あの牧場にいた「ヤツ」に乱暴され、それを苦に「自死」という選択をしてしまったのだと聞かされました。

「あいつか・・・」

私は言いようのない怒りに心を支配されながら、小さい声で父に「そいつは捕まったんでしょ?」とだけ聞きました。

父は静かに「それがな、逃げたらしくてな。今もどこへ行ったかわからないみたいだ・・・」と答えました。
父の答えを聞いた後、私がどう反応したのかよく覚えていません。

とにかく、心の中は、経験したことの無い「怒り」と「悲しみ」と「後悔」と「破壊衝動」、「憎しみ」がごちゃ混ぜになって、部屋で大声を上げて泣いていたことだけは覚えています。

この時のことは今思い出しても辛すぎてどうしようもなくなる・・・。

そういうことがあり私は2年生に進級しました。

農業高校のカリキュラムをこなして2年生になって、また「農業実習」の時期になりましたが、「あの牧場」のことを忘れたい一心で、全く違う場所へ酪農の先端技術を学ぶ実習を選択しました。

そしてまた月日が過ぎ、私は3年生になりました。

高校最後の年の「農業実習」は「総合実習」といって、10日間ほど泊まり込みで、本格的な実習を行う場合が多いです。

1年生の時にお世話になった「あの牧場」が、この「総合実習」の場所としてエントリーされていました。

「実習、受け入れるんだ・・・」

3年生の担任はO崎先生ではなく、新任の若い男性教諭に代わっていました。
新しい担任は「さやかさんの一件」はまったく知らないようでした。

この担任から「お前、前にここに行ったことあるんだろ?進路が変わらないなら、ここにしとけ」と軽く言われ、複雑な気持ちになったのを覚えています。

「行きたくない」気持ちと・・・正直、「気になっている」自分もいました。

悩んだ挙句、結局2年ぶりに「あの牧場」に行くことにしたのは自分の気持ちに整理を付けたかったからだと思います。

今度の実習は10日間泊まり込みになるため着替えや最低限の生活用品は自分で用意することになっていました。

実習期間は早朝から夜までみっちり仕事があるということで、娯楽用の品は禁止されてはいませんでしたが、自分としては何も持っていくつもりはありませんでした。
さやかさんのことが頭にこびりついていて、とてもそんなことは考えられなかったんです。

その牧場で実習する生徒は私一人でした。
1年生からの仲間はほとんど同じクラスでしたが、その牧場を希望したのは自分だけでした。
もし仲間が誰か一緒だったら・・・
どこか気まずい10日間になるところだったので私は内心ホッとしました。

初日は、担任の先生に車で送ってもらい、牧場主のおじさんに先生と二人で挨拶をしました。

おじさんは、見た感じは2年前と変わらず、私たちに対してもにこやかに対応してくれました。
以前の農場を知らないであろう担任は、大声でバカ話をしながら「10日間お願いしますね~」と、ちょっと失礼なくらいのテンションだったので、私は終始ヒヤヒヤしながら愛想笑いを崩せませんでした。

担任が帰ると、おじさんは優しく「宿舎に案内するよ」と私を伴い、牛舎を横切って
プレハブ小屋へ連れて行ってくれました。

プレハブ小屋と言っても見た目は綺麗な2階建てで、1階に一部屋、2階に一部屋、といった感じでした。
「君は1階ね。2階は外国人が一人いるから。」とおじさん。
私はおじさんの言葉にちょっと驚きました。
「外国人、入れてるんだ・・・」

あんなことがあって、普通なら外国人なんて見たくもないだろうに・・・
そんなことを思うのは、自分が良くない考えを持っているからなのか?

私は少し黙りこくっていたので、おじさんは心配したのか、
「大丈夫かい?まずは荷物を入れて、少し休憩すれば良いよ。」と部屋の中へ案内してくれました。

「申し訳ないんだが、トイレは牛舎横の共用のを使ってくれ。風呂は母屋のを使えば良いからね。食事は母屋でみんなで食べるから。」

そう言うとおじさんは、私が部屋の電気を付け、荷物を下ろすのを見届けると、
「1時間ほどしたら迎えに来るよ、それまで休んでいなさい。」と言って、母屋の方へと戻っていきました。

「ふう」
私が10日間を過ごす部屋は、8畳ほどの畳の部屋。
電気とTV、小さな冷蔵庫、部屋の片隅には畳まれた布団が一式あり、座椅子と小さな机、デスクライトがあるだけのシンプルな部屋でした。

部屋はわりと綺麗で、実習期間は快適に過ごせそうだと感じました。
ただ、少し不思議に思ったのは、カギは外からしか掛けられない作りだったこと。
プレハブ作りのような簡単なドアはそんなもんなのかな?と気にはなりませんでした。

部屋の中はとても静かで、荷物の整理をしている自分の音以外は何の音もしていませんでしたが、ふと、何か小さな音がしていることに気が付きました。

・・・カリ・・・カリ・・・

耳を澄ますと部屋のどこかから、何かものをひっかくような小さな音がしています。
蟲なのか、ネズミなどの小動物なのか、部屋の中にいるのは嫌だな、と思い、音の出所を探しはじめましたが、動くものは見つかりません。

部屋の片隅の小さな机の裏から聞こえるようにも思えて、少し机をずらしてみると、壁にかすかに何かで削ったような跡を見つけました。
「H・・・F・・・、S・・・?」
日中の明るさではよく見えないものの、何かアルファベットを書いているようにも見えました。

音はいつの間にか消えていましたが、今度は見つけたその文字らしいものを、もっと良く見ようとした時、ドアがノックされ、おじさんがにこやかに入ってきました。

「どう?落ち着いたかな?そろそろ仕事に入ろうか。」

私は、文字はまた帰ってから見れば良いやと思い、タオルと軍手を持って、おじさんの後についていきました。

なつかしい牛舎に入ると、以前と同じように乳牛がズラーッと並んでいました。

奥には作業をしている人影。

人影は外国人の男性でした。

その黙々と牛の餌やりをしている姿を見ていたら、
2年前、そこで同じように作業をしていたさやかさんの姿をふいに思い出してしまい、
私は目頭が熱くなるのを覚え、あわてて両目をこすりました。

その瞬間、突然、私の背後でものすごい音が鳴り響きました。

がん! がん! がん! がん!

ビクッとして振り返ると、おじさんがものすごい形相で、手に持った1メートルくらいの鉄の棒で、牛をつないだ鉄柵を叩いていました。

「チャン!こら!チャン!!」

おじさんはものすごい形相で奥の外国人男性に詰め寄り、手に持った棒で殴りかかりそうな勢いで怒鳴り続けました。

内容は聞き取れないくらい支離滅裂で、ただただ、怒っている、と言うことしかわかりません。

詰め寄られた外国人男性は、怯え切った表情でおじさんを見つめ、身を縮こませてしゃがんでいました。

「チャン」と呼ばれたその男性が私の方へ視線を向けると、それに気付いたのか、おじさんは急に静かになり、私の方へニコニコしながら歩み寄ってきました。

私は何が起こったのか理解できずに固まったままでしたが、おじさんは「やあやあ、大丈夫大丈夫、ちょっと注意しただけだから・・・」と優しい口調で私に説明をはじめました。

「彼はね、ここで農業を学んで、故郷でそれをひとりでやらなきゃいけないんだ。だから少~しだけ厳しくしなくっちゃいけないんだよ。」
おじさんの口調は優しいけれど、どこかネバネバして気持ち悪い感じがしました。
「やつらは日本語も良くわからないんだ・・・何をやっちゃいけないかもわかってない。厳しくしなきゃわからないんだよ・・・」
おじさんの目はにこやかなのに、その奥に鈍く光るものを見て、私はどこかで「それを見た」とデジャブのように思い出していました。

あれはどこでだったか・・・

「君は外国人じゃないんだから、あんなふうに注意することは無いから安心しなさい。」

おじさんは、牛舎の他の場所を案内しながら、さっきの出来事が嘘のように穏やかな表情で仕事の説明をしてくれました。

牛舎の端に差し掛かった時、私はあるものを見て足を止めました。
それは、以前見た「骨粉砕機」でした。

「あ、これって・・・」私がつぶやくと、おじさんは
「ああ、これはね、骨粉砕機って言うんだよ。今は時々しか使わないんだ。」と説明してくれました・・・・え?もう使わないんじゃなかったっけ?確か、“骨粉”は飼料として使わなくなったんじゃ・・・?

頭に浮かんだ疑問は口に出さず、機械を注意して見てみると、
確かに、以前見た時は古びて使っていない感じでしたが、今は、よく手入れされているように見えました。
何より、機械が置いてあるコンクリートの床はきれいに掃除されている。
コンクリートの色は「骨粉砕機」を中心に丸く円を描くように黒ずんでいました・・・。

その日は順調に終わり、色々と新しいことをおじさんから学ぶことが出来ました。
母屋でおじさんと食事をして風呂に入り、実習の評価のコメントを実習ノートにもらって部屋に戻ると、二階のチャンさんの部屋は電気が消えていました。
私は部屋に入るとすぐに寝てしまいました。

チャンさんは翌日、姿を現しませんでした。

実習の二日目も終わり、仕事が終わって夕飯とお風呂を済ませ、前日同様おじさんから評価のコメントを書いてもらうと、夜はやることが無くなります。
体はクタクタなので、今日も横になったらすぐ大いびきで寝てしまいそうでした。

部屋に戻る時に一度、おじさんに「そういえば部屋って内側からカギ出来ないんですけど」と気になったことを聞くと、「ああ、カギはしなくて大丈夫だよ。誰も入ってこないから。」
と答えたので、そんなもんかなと了解しました。

次に私は気になっていたことを聞きました。
「あの、チャンさんは具合が悪いんですか?見ませんけど。」

おじさんは一瞬、顔からすべての表情が消え、うつろに
「ああ、あいつは“また”逃げたんだよ・・・」とボソッと呟きました。
私が「え?」と聞き返すと、おじさんはハッと我に返り、
「ああ、ああ、外国人はダメだね、みんな逃げ出すんだ。もうこれで20人くらいかな。」とにこやかな表情で答えました。
私は「20人」という数字に驚きましたが、詳しく聞こうとは思いませんでした。
おじさんの目の奥は笑っていなかったんです。

プレハブまで戻ると当然ながら二階の部屋の明かりは消えていました。
気になった私は階段を少しのぼり、その部屋のドアノブを回してみるとカギがかかっていました。
「ありゃあ、逃げるよな。」
おじさんのあの様子を目の当たりにすると、自然とそう思えました。

逃げた“20人”もきっとおじさんのあれが原因で逃げたのだろうと納得しました。
でも何故、そんなに外国人を雇ったんだろう?国から補助金とかがあるのかな?
制度に詳しくない私には答えが出ませんでした。

自室に入り、布団を敷くと急に睡魔が襲ってきて私は倒れこむように眠りにつきました。

・・・カリ・・・カリ・・・

何時なのか、真っ暗闇の中、かすかな音で目が覚めました。

・・・カリ・・・カリ・・・

昨日の日中、聞いたあの音だ。

「嫌だな、やっぱり鼠かな?」

暗闇で余計に感覚が研ぎ済まされているのか、音の発している位置が大体わかりました。

・・・カリ・・・カリ・・・

やはり音は部屋の隅の小さな机の方から聞こえてきます。

体は起こさずにそっと首だけ机の方へ向けてみると、机の手前に“真っ黒いかたまり”がありました。

「ひっ」
心臓がキュッとなるくらいビックリして思わず声がもれました。

その途端“かたまり”は大きさを変えました。
はじめに見た数倍の大きさに膨れ上がったんです。

私は、あまりの恐怖に目をそらすことが出来ませんでした。
膨れ上がったその“かたまり”はこちらに近付くことは無く、ただそこでモゴモゴと蠢いているようでした。

さっきまでの「カリ、カリ」と言う音は消えており、気が付くと「シューシュー」とか「ヒューヒュー」とかいう、何か呼吸音のようなものが、その“かたまり”から聞こえてきました。

“真っ黒いかたまり”は人間の姿をしているわけではありませんでしたが、何故か「ヒト」なのかもと感じました。
その姿は真っ暗な部屋の中で、うっすら輪郭が見える気がするだけでしたが、表面はどこかボコボコと膨れ上がっているように見えました。

どれだけの時間が経ったかわかりません。
私は少しだけ状況に慣れたのか、体の緊張が多少緩みました。

その瞬間、“真っ黒いかたまり”から「声」が聞こえてきました。

「へ・・る・・ぃ~・・・へ・・・るし・・・~・・・」

その声を聞いた途端、私の中に生まれてから一度も感じたことが無いような、
すさまじい恐怖が流れ込んできました。それは、痛みさえ覚えるほどの想像を絶する
“恐怖”でした。

「へる・・・しぃ・・・ヘル、シー・・・」

徐々に大きさを増す声

「ヘル!・・・シー・・・ヘル・・・シー!」
「ヘルシー!・・・ヘルシー!ヘルシー!ヘルシー!」
「ヘルシー!!ヘルシー!!!」

いつの間にか声は一つでなく、まるで大勢が口々に叫んでいるようになっていました。
その声が部屋中に充満した瞬間、私の意識はなくなっていました。

次に気が付いたときは朝になっていました。

目が覚めた瞬間、がばっと体を起こし、おそらく数時間前に経験した“恐怖”の感覚を思い出して、体中から冷たい汗が吹き出しました。

もう牛舎に向かう時間になっているな、と思った時、ドアがドンドン!と叩かれ、ビクッとしながら慌ててドアを開けました。

そこには二人の警官が立っていました。

警官の一人は私に「大丈夫?ケガとかはない?」と声をかけ、もう一人の警官は肩にかけた無線で状況を報告しているようでした。

警官に促され外に出ると、パトカーや救急車、消防車も来ていて、牛舎の方は何人もの警官が慌ただしく動いていました。

私の「実習」はわずか二日で中断されました。
牧場主のおじさんが警察に逮捕されたからです。

私は警察から事情聴取を受けたあとすぐに自宅に帰りました。
私は、事情聴取の時に何があったのか聞きましたが、その時は詳しい事情が警察にも把握できていなかったらしく教えてもらえせんでした。

後日、警察に呼ばれ、父と学校の担任と共に行ったときに、あらかたの事情説明を受けました。

内容はこうです。

牧場主のおじさんは、最初の外国人実習生の被害(さやかさんの件)にあって数か月後から、“積極的に”外国人実習生を受け入れるようになったようです。

ただ、その外国人実習生たちは長く居つくことは無く、数日から数週間もせずに例外なく、みんな“いなくなった”のだそうです。

私が見た「チャン」という外国人実習生は、“あの日”に逃げ出し、そのまま警察へ駆け込んで今回の件が発覚したと言うことでした。

実はチャンは、兄が日本の牧場に雇われることになってしばらくして、音信が途絶えたため、心配になり兄と同じ牧場へ入れるように地元で頼み込んで来日したと言うことでした。

チャンは牧場に入ってからほどなくして、牧場主のおじさんから虐待を受けるようになりました。
事あるごとに怒鳴られ、鉄の棒で滅多打ちにされ、夜は部屋にカギをかけられトイレにも行かせてもらえなかったそうです。
兄の消息を聞いても教えてもらえず、逆にひどく殴られました。

私が「実習」で牧場に行ったあの日の夕方、チャンさんはおじさんに「骨粉砕機」を掃除するように言われたそうです。

「骨粉砕機」はよく使い込まれていたようで、チャンさんが掃除した時には、最近使ったみたいに、“破砕部”のところには肉片やら骨みたいな欠片やらが挟まっていました。
血は、水であらかた流された後のようでした。
チャンさんが機械の中まで丁寧に掃除していくと、“破砕部”の奥の方にキラリと光るものが挟まっていました。
チャンさんは挟まっている“それ”を強引に引っ張り出すと、グニャリと曲がった“それ”は、見覚えのあるものでした。

“それ”はチャンさんとお兄さんが持っているお揃いのペンダントの一部でした。
小さい頃に両親を亡くしていたチャンさん兄弟は、両親と写した写真の切れ端をペンダントに入れ肌身離さず持っていたそうです。

「骨粉砕機」の中からペンダントが出てきたことで、チャンさんは兄の身に起こったことを理解しました。
チャンさんは、怒りや悲しみよりも先に「恐怖」にとらわれ、無我夢中で逃げ出しました。
ちょうどその時間は私がおじさんから実習の評価のコメントをもらっている時だったので、チャンさんにとっては千載一遇のチャンスだったのかもしれません。

チャンさんは最寄りの交番に駆け込みました。
たどたどしい日本語からも伝わる尋常でない「恐怖」を感じた警官は、本部の指示を仰いで牧場に確認に行き、おじさんに事情を聴くと、おじさんはあっさりと犯行を認めるようなことを言ったそうです。

おじさんは、さやかさんを襲った外国人を逃がしてはいませんでした。
さやかさんの葬儀を済ませたおじさんは、その外国人を長く長く責め立て、最後には手足を「骨粉砕機」に入れて絶命させ、その後の処理も、体を丁寧に解体してから“破砕”していったそうです。

しかし、おじさんの怒りと悲しみは納まることがありませんでした。
発作のように思い出す「さやかさんのこと」
おじさんはその後、何人も外国人を受け入れるようになりました。
何の罪もない人々を・・・

私が泊った部屋は、チャンさんのお兄さんが使っていた部屋でした。
部屋の片隅に彫られていた文字は、こうだったと警察官から聞きました。

「HELL SEE(地獄を見る)」と。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志121212151263
大赤見ノヴ161717171683
吉田猛々171817171786
合計4547464945232