「握手」

投稿者:十二月田護朗

 

「僕、握手が出来ないんですよ」

鷹野さんという三十代の男性はそう言った。
例えば多汗症で手のひらが汗でビシャビシャに濡れているから人の手を握るのが恥ずかしいだとか。
あるいは、知らない人と交わす、皮膚と皮膚とのじっとりとした生の接触が生理的に無理だとか。
その手の理由ではないらしい。
彼の口ぶりから察するに、どうやら握手という行為自体に、心底汚らわしい真っ黒な害虫を素手でぐちゃりと無惨に握り潰す──といった本能的な恐怖と嫌悪感を覚えているように見受けられた。

若白髪がちらほら目立つ短髪で、白のTシャツとヴィンテージジーンズがよく似合う鷹野さんは、怪談師である私の取材に快く応じてくれた。
もっとも取材といっても、体験者と事前にアポを取り、しかるべき対面の場を設けたというわけではない。
それは偶然の産物だった。

去年の夏のことだ。
陽はとっくに暮れているというのに、じっとりとした蒸し暑さの残る熱帯夜。
不動産会社のサラリーマンでもある私は、会社帰りに遅い夜飯を兼ねて、一人で池袋駅近くの小さな焼き鳥屋の暖簾をくぐった。
焼き場の炭火の熱と店の空調の効きが悪いため、じんわりとした汗が絶え間なく浮き出てくる。
五人掛けのカウンターに陣取っていた先客が鷹野さんだった。

「ここの焼き鳥、美味いですよね」

同じく一人客の彼が生ビールの中ジョッキ片手に積極的に話しかけてきた。
彼からしてみたら、特に私に興味があるわけでもなく。
時間を持て余し、たまたま隣に居合わせた見知らぬ小太りのおじさんに気まぐれで話かけてみた──そんな程度の認識だろう。
案の定、彼はこれから深夜の待ち合わせがあり、空き時間が少しあるので焼き鳥屋で時間を潰していたとのことだ。
とりとめなく焼き鳥の味や見た目の感想をしばし交わした後、どうせならこのタイミングで言ってみようと思い立ち、いかにも怪談師らしいセリフを口にした。

「そういえば、何か怖い話とか不思議な話あります?」

もちろん私が普段、インディーズで怪談師をやっているなんてことを知るよしもない。
すると彼は少し考え込み──怖い話かどうかわからないけど。
そう前置きを入れて「自分は握手が出来ない」と告白してきたのだ。

酒が入っているとはいえ、見ず知らずの人に積極的に話しかけるタイプの人間が、握手が出来ないとはなんだか意外に思えた。
どうしてですかと理由を聞いてみると、これまで明るい笑顔を見せていた彼の表情が急に鬱々とした色に変わり、こんな話をしはじめた。

一年半ほど前。
とある冬の深夜のことだという。
建築会社の設計士である鷹野さんは会社帰りに渋谷で飲んだそうだ。
久しぶりに再会した大学時代の友人たちとの飲み会だ。
懐かしい話で大いに盛り上がった。
アルコールには強い彼だったが、酒を浴びるほど飲んでしまい、終電で帰る頃にはしたたか酔っていたという。

彼の自宅アパートは東京都世田谷区にある。
渋谷駅を起点とする東急田園都市線の某駅が自宅の最寄り駅だ。
駅に着いた頃には、深夜零時半をすっかり回っていた。
この駅はホームと改札口が地下階にある。
家まで二十分ほど歩くのでその前にトイレに立ち寄った。
しばらくして地下コンコースに出ると、終電から降りた人たちの気配はもうなくなっていた。
彼は一人、地上へと出る薄暗い階段を上っていく。

すると、踊り場に一人の女性が立っていた。
黒髪をポニーテールにした可愛らしい女の子だ。
見た目から想像するに、二十歳前後だろうか。
ウエストに大きなリボンがついた半袖のカットソーワンピース。
冬だというのに薄着だった。
でも寒そうな素振りを一切見せない。
酒に酔った頭で、まるでアイドルみたいだな、と思ったそうだ。
近くを通り過ぎようとした際、その女の子がこちらに向けて声をかけてきた。

「あの、握手してくれませんか?」

真っ直ぐな眼差しで、優しく微笑みを浮かべ、すっと右手を差し出してくる。
すべすべと滑らかな絹のように白い女の子の手。
綺麗で華奢な五本の指。
突然そんな申し出をされた彼は、一瞬呆気にとられた。
とはいえこんな可愛い女の子から握手を求められることに悪い気はしない。
むしろ嬉しい気すらした。
自分で良ければ、と彼もまた手を差し出し、握手を交わす。

「ありがとうございます」

女の子は更に空いているもう一方の手のひらで、彼の手を包み込むようにしっかりと握ってきた。
その両手握手の瞬間──彼は片手から身体の隅々に至るまで優しい温かさを感じたそうだ。
涙が出そうになるくらい温かな幸福感に包まれた。
その表現として、鷹野さんの言葉をそのまま借りると。

──女の子のお手々が、柔らかくて柔らかくて、マジで……本当にマジで天国そのもの。

だったという。
その時間は、数秒なのか数十秒なのか。
手を離した後もしばらく忘れられないほど、多幸感のある感触だったという。

それからというものの、終電で最寄り駅に着き、トイレに寄った後、同じ階段の同じ踊り場に行くと、同じ服装の女の子がいて、同じように握手を求められる。
そんなことが何度もあったそうだ。
顔馴染みになったので聞いてもいいだろうと、一度女の子に名前を尋ねたことがあるが、頬笑みを見せるだけで、肝心な答えをはぐらかされてしまった。
どうして終電の遅い時間にここに立っているのか。
なぜいつも同じ服装なのか──という質問にも同様に答えてもらえず。
だけど、何のために僕に握手を求めるのか──その問いかけには答えてくれた。

「私、知らないおじさんと握手することで、私には勇気があるんだって再確認しているんです」

鷹野さんからしてみたら、おじさんと断言されたことに少なからずショックを受けたという。
とはいえもう三十代半ば。
若い子からしてみたら、立派すぎるほどのおじさんだろう。
それゆえに握手以上の肉体的な接触や関係を求めたいとも思わなかった。
仮に求めてしまったらこの握手の関係すら壊れてしまう──そう感じてもいたからだ。

女の子と握手するたびに、自分の手のひらに天国みたいな感触を覚えていた彼だったが、一方で切実に困った問題が生じていた。
鷹野さんには、幸恵さんという同い年の彼女がいるのだが、踊り場の女の子との握手以降、彼女の身体に触れた時の感触がおかしくなった。
身体が、柔らかくないのだ。
まるでアルミ缶みたいな冷たく硬いものを触っているような奇妙な感覚に陥っていた。
しかも、あの女の子と握手を交わすたびに幸恵さんの身体の硬さが如実に増している──そんな気すら覚えていた。

名も知らぬ若い女性と握手してから二ヶ月ほど経った。
とある底冷えの冬の深夜のことだ。
その日は、会社帰りに幸恵さんと会って、デートをしていた。
渋谷で流行りの映画を見て、もつ鍋専門店で食べて飲んで、終電で鷹野さんの家に向かっていた。
以前のデートコースの最後の〆は、大抵世田谷区にある鷹野さんのアパートだったが、二ヶ月ほど前から変わってしまった。
明確な理由などないのだが、彼は彼女と一緒に自分のアパートに行きたくないと漠然と思うようになったのだ。

「また、あんたの家に遊びに行きたい。デートの最後、あんたの家に行かなくなったのは、あたしに言えない何かやましいことでもあるのか」

もつ鍋専門店で彼女から厳しめに問い詰められ、彼は渋々それに応じた。
東急田園都市線某駅の地下階の改札口を出て、いつものようにトイレに寄る。
コンコースには、すっかり人の気配はなくなっていた。
二人して横並びで地上への薄暗い階段を上っていく。
酒が入った彼女は、いつも以上に陽気だった。

「ほら早くぅー早くぅー。行くよぉー行くよぉー。競争だぁー!」

彼女は二段飛びで階段を駆け上がっていく。
すぐに姿は見えなくなった。
一足先に地上に出てしまったようだ。

こちらも急いで行こうとしたのだけど。
どうしてだろう。
酒にも強いしあまり飲んでいなかったのに、その時の鷹野さんは、いきなり酔いが回ってしまったそうだ。
ふらふらと重い足取りで階段を上っていく。
そして、踊り場にあの女の子の姿を見つけた。
一際寒い深夜なのに、いつもと同じ薄着のカットソーワンピースの女の子は、嬉しそうに微笑んだ。

「あの、握手してくれませんか?」

彼女の右手がゆっくりと差し出される。
いつもなら喜んで握手に応じるのだが、今夜は彼女と一緒だ。
さすがに握手するのはよくない。

──しちゃダメだ。ダメだ。ダメだ。

頭の中ではそう理解しているが、身体は違った。
あたかも脊髄反射のように握手に応じてしまったのだ。
笑みを浮かべた女の子はもう片方の手のひらで、鷹野さんの手のひらをしっかりと包み込む。

鷹野さんは、ああ、と思わず声を漏らした。
その感触たるや、いつもより遥かに柔らかくて優しくて何より幸せで……。
ぼーっとした頭の中に、女の子の囁きが直接聞こえてくる。

──ほら、両手のひらで。私を、もっともっと強く強く強く握って。

鷹野さんは、はじめて両手で彼女に握手し返した。

女の子が求めるように。
強く、更に強く。
強く強く強く。
力を入れて握って……。

その刹那──。
視界からコンクリート剥き出しの殺風景な階段の踊り場が消え失せ、パステルピンクの雲がもくもくと広がる世界が見えた。
頭の先から爪先まで電離が流れ、痺れるような快感が走る。

最高だ。最高だ。最高だ。
最高だあああああああああああああああああああ!!

感情がぐちゃぐちゃになって。
だけど、彼は思う。
この手を──この手をいつまでもいつまでも離したくない!

「あんた! なにやってんの!?」

遠くの方から怒声が聞こえた。
声はどんどん自分に近づいてくる。

「離れろよ! 離れろ!!」

ヒステリックな怒号とともに、鷹野さんの右頬にじんとする強烈な痛みが走った。
はっ、と現実に戻る。
彼は、薄暗い階段の踊り場にいて。
目の前には、憤怒の表情をあらわにしている幸恵さんがいた。

握手をしていただけだ。決して浮気をしたわけではない。

そんな言い訳めいた言葉を口にすることすら出来ずに、今度は左頬を思い切りビンタされた。
幸恵さんは鷹野さんの首根っこをつかむと、有無を言わさず、引きずるようにずるずると階段を上っていく。
斜め下を見ると、あの女の子がなんだか寂しそうな残念そうな表情で彼を見上げていた。

駅の出口から地上に出ても、首根っこをつかまれたままだった。
鷹野さんは、自分が抵抗できないほどの力で拘束されていたので、背も低いし痩せた女なのにどこにこんな力があるんだろう、と他人事みたいに思っていたそうだ。

駅近くのコンビニ前で、ようやく幸恵さんの手から解放される。
やけに首に残る息苦しさに、けほけほ咳き込んでしまった。

「おい、ここまでやらなくてもいいじゃねえか!」

握手程度で怒らなくても、と抗議したのだが……。

「あんた、自分がやったことわかってないの!?」

彼の言葉をかき消すように幸恵さんは大声で言い放った。
続く言葉で──。

──あんた、太ったおばさんと両手で首、絞めあっていたんだよ!

幸恵さんが言うには、一向に階段を上ってこないから酔って倒れているんじゃないか、と心配して戻ってみた。
すると踊り場の片隅で、鷹野さんとぶよぶよ太った薄着のおばさんが体を密着させながら、互いに両手で首を絞めあっていた。
二人してだらだらとヨダレを垂らして、恍惚とした笑みを浮かべ見つめ合っていたから、これは異常だと止めに入ったんだ、という。

さすがにそんなことはしていない、と真っ向から否定した鷹野さんだったが、幸恵さんはカバンからすっと手鏡を取り出し、目の前に突きつけてきた。
「いいから見てみろ」と強く言われ、彼は鏡をのぞき込む。

彼の首には、両手で絞められた時に出来るような、内出血の赤黒い跡が色濃く残っていて、ニタニタと笑っている口元からヨダレがだらりと垂れ下がっている。
そんな常軌を逸した奇妙な姿が手鏡に映っていたのだ。

「あんた、なんで今も笑ってるの!? 何か悪いものが取り憑いてるよ!」

翌日、鷹野さんは幸恵さんの指示通り、お祓いに行った。
すぐさま世田谷のアパートを引き払い、彼女の住む埼玉県川口市のマンションに同棲するようになった。

「もうあの駅を使わなくなったからでしょうかね。それから、踊り場の女の子と会わなくなったんです」

私は池袋の焼き鳥屋で、彼からこんな話を聞かせてもらった。

「……その女の子って、現実にこの世にいるものではなく、踊り場に閉じ込められた地縛霊みたいなものですかね」

「そうなんでしょうね、たぶん」

彼は残りわずかになったビールの中ジョッキをあおった。

「待ち合わせの時間までまだちょっとあるんで。もう少し続きを聞いてもらってもいいですか」

「ええ、是非」と私は話の続きを促した。

しばらくの同棲生活の期間を経て、鷹野さんと幸恵さんは結婚した。
それは幸恵さんからの強い要望で、彼は押し切られてしまったという。
なのにその直後から、彼は彼女との肉体的接触を拒んでいるそうだ。
その理由は──幸恵さんの身体の感触が完全に岩になってしまったから。

同棲時点では、硬い硬いと感じながらも無理やり自分自身を奮い立たせ、なんとか彼女に触れていた。
だが結婚後に一度彼女を触ってみたら、これまでの硬さとはまったく次元が違う。
まるで人型の岩そのものを抱いているような、異常な感覚に陥ったという。

──ああ、自分は人間ではなく、岩と結婚したのか。

もう完全に無理だった。
触れるどころか、毎日顔を合わせることすら苦痛になってしまった。

もちろん、この岩そのものの硬い感触は鷹野さんだけが感じているものであり、彼以外に幸恵さんに対してそのような感触を覚えるような人間は、この世のどこにもいないだろう。
それは彼自身わかっている。
だからこそ鷹野さんは、彼女に本当の自身の思いを伝えることは出来なかったのだ。

結局、結婚してから互いの体の接触は一度きりで、それから一切なくなった。
無論、彼女は不満を覚える。
結婚生活において、他にも色々な不平不満が彼女の方から噴出し、絶えることのない喧嘩の挙句、夫婦関係は当然の如く破綻した。
今や離婚に向けての話し合いをしている状況なのだという。

カウンターで鷹野さんは自分の右手のひらを見つめていた。

「だから僕は握手が出来ないんです。恐怖感や嫌悪感を抱いてしまっていて……。でも、そんな自分をなんとかしたいと……。今日は久々に握手しようと思っているんですよ」

彼の待ち合わせであるが、マッチングアプリで知り合った女性とはじめて会うのだという。
その女性のプロフィール写真は、どうやらあの踊り場の女の子と似ているらしい。

待ち合わせの時間がやってきた。
「それでは、またどこかで会えたら」と鷹野さんは席を立った。
閉店間際の焼き鳥屋のカウンターで私は一人きりになる。

これから鷹野さんは知らない女性と握手する、のか。
彼の”握手”は”握首”になるのだろうか……。

すっかり冷めてしまったぼんじりを食い、カルーアミルクを飲みながらぼんやり考えた。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計
毛利嵩志151515151575
大赤見ノヴ171719181788
吉田猛々171717181786
合計4949515149249