「盲目」

投稿者:中岡いち(ペンネーム)

 

 目が見えていたのは、いつまでだっただろう。
 記憶に朧げにあるのは、少なくとも小学校に入ってすぐくらいにはすでにほとんどが見えていなかったこと。正直、同級生の顔など、まるで初めから存在していなかったかのように覚えていない。
 すぐに特殊な学校に転校したことは覚えている。そこは私のような人たちの通う高校までの一貫校。そのまま一八歳までをそこで過ごした。
 一応、毎年家族が誕生日を祝ってくれた。おかげで自分が春の始まりと共に二十歳を迎えたことは知っているが、もう何年も変化の無い日々。仕事をしていないせいもあるのだろう。こんな自分を嫁にもらってくれる人がいるとも思えないまま、実家を離れたことのない人生。
 たまに家族と外に出かけることはあるが、どこに行っても景色など見えるはずもなく、それでも家族は私を出来るだけ外に連れ出した。外に出ることに慣れさせようとしてくれているのだろうか。私もその意味が全く分からないわけではない。
 それでもその度、私の中に疼くものが積み重なる。
 見えないなりに、私に様々なものを見せようとしてくれていたのだろう。
 それなのに、私には家族には見えない存在が見えていた。
 その存在は、生きていなかった。
 なぜか私に、自らの死ぬ光景を耳元で囁き続ける。
 入れ替わり立ち替わり、性別を問わずに多くの「死んだ人たち」の言葉を聞き続けてきた。
 そして、目の見えない私の頭の中に、なぜかその人たちの姿が浮かぶ。私が見ることの出来るのは、その人たちだけ。おそらくは生前の姿というものなのだろう。車の事故で体が潰れたという男性の姿は私の頭の中では綺麗な姿のままだった。
 自分の着ている服の色も分からないのに、死んだ人たちの服装のシワが分かるというのはおかしな感覚だ。そんな人たちが話しかけてくるようになってから、すでに二年近く。私にとってそれはすでに日常と化していた。
 そもそもが孤独な日々。現在までは専業主婦の母が身の回りの世話をしてくれた。父と一つ上の兄が仕事に行っている間は母と二人だけ。
 それでも私のような目の見えない人の働ける場所もあるのだという。以前に母からいくらか話を聞いたが、未だ私は動いていない。
 それよりも最近は家族のことが心配だった。
 「死んだ人たち」が家族にも影響を及ぼし始めたのは二ヶ月ほど前から。母の話では家の中だけのようだったが、物が勝手に動き、音や声が聞こえ、見知らぬ人たちの姿が見えるのだという。
 それが私に話しかけてきている人々と同じなのかは分からなかった。私から何かを話しかけることはしたことがなかったし、少なくとも私の場合は「会話」ではなく「聞こえる」だけだからだ。何かを確かめようとしてもそれは私に出来ることではない。
 そして家族で相談の結果、除霊をしてもらえるところを探すことになった。
 母がいくつかの神社に問い合わせをし、足を運び、その関係で一人の霊能力者を紹介してもえた。

 それはすでに春の終わり。
 桜の花びらもすでに姿を消し、気が付くと空気が少しずつ湿度を纏い始める季節。
 そんな頃に、その女性は現れた。
 リビングの隣の和室。畳の部屋なので私にとってはその程度の認識だったが、応接間のような場所だろうか。そこもやはり幼かった頃のわずかな記憶だけ。少しだけ残るお線香の香りに、仏壇があったことを認識できる程度。
 今日は平日。父と兄は仕事。今は母と私だけ。
 やがて玄関から繋がる廊下のフローリングを伝わる家族以外の足音。同時にわずかに震える空気の揺れ。
 大柄ではない。ヒールを履いたことのある女性ならではの歩き方。柔らかい生地の靴下が床を擦る音。部屋に入る時に体を回し、それに合わせるように聞こえるスカートの衣擦れ。小柄で若い女性なのだろうと思う。
 その女性が畳に膝を下ろし、正座をする一連の小さな音に、立ち振る舞いの美しささえ感じた。
 ワンピースかスカートかは分からなかったが、春物の服だろうか、レースのような生地の装飾が多い服。その装飾用の薄い生地と服そのものの生地とでは重さが違う。それぞれが異なる衣擦れの音を響かせていた。
 そして聞こえる、それに続く柔らかい声。
「初めまして。お話は伺ってました」
 やはり若い女性。とはいえ決して幼くはない。むしろその話し方は落ち着きを感じさせ、大人びてさえいる。少なくとも私に安心感を抱かせるには充分。
 私は出来るだけ声のほうに体を向けて小さく頭を下げて応えた。
「どうも……よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
 悪い印象はない。声の印象から口元に浮かんだ笑みまで想像できた。霊能力者というから、てっきり私はもっと横柄な態度の人が来るのかと勝手に想像していたので、正直安心したのは事実。
 そう思ったせいか、私の表情も柔らかくなったのだろう。その感情は声に表れた。
「すいません。失礼ですが、勝手に、若い方とは思っていなくて……むしろ安心しましたが」
「それなら良かった。神社の産まれで三姉妹の三女だったんですが、色々と複雑な家庭事情もあって、居場所もなかったので現在は今の仕事をさせてもらってます」
 そう話す女性の口調から、笑顔とまでは言わずとも、その顔が強張っていないことは想像できた。嫌味のない声色。この人なら任せられそうだ。
 母がお茶の香りを漂わせた湯飲み茶碗をテーブルに置く小さな音が聞こえる。
 私は少し間を空けてから返していた。
「そうでしたか……私はこの通り目が見えなくて、なかなか仕事も見つかりませんので少し羨ましくありますが」
 実際には私自身が積極的に動いていないことが一番の理由。正直、社会に出ることが怖かった。なまじ中途半端に子供の頃に視力を失ったせいで「見える」ということがどういうことなのかは理解できる。理解できるからこそ、未だに「見えない」ことが怖い。辛うじて今は家の中だから生きていられる。
 それでも、羨ましい、のは嘘ではない。
 知識として、私のように目が見えなくても立派に生きている人がいるのは知っていた。前向きな考えで人生を楽しめている人は事実としているのだろう。それでも私はその人たちとは違う。そう思って生きてきた。
 どこかそんな私の気持ちを見透かしたのだろうか、女性の言葉は優しかった。
「こんなことを言うと無神経と思われるかもしれませんが、事実として私は五体満足に産まれました。ですので綺麗事を言ったところで、あなたがどんなお気持ちで生きてこられたのかは分かりません。ですが、私にはあなたには感じられないものを理解することができます……」
「それは……幽霊とかですか?」
「幽霊ですか……まあ、一般的にはそう言ったほうが分かりやすいんでしょうね。いかがでしょう、例えば本日は除霊という形で伺わせて頂きましたが、一般的なイメージだとお塩や日本酒で清めたりするイメージでしょうか」
「どうなんでしょう……私は詳しくないので」
 正直、テレビを見ることのない私にはイメージすらも湧かない。除霊とはそもそもどんなものなのか、どんな人たちが行うのかも正直分かっていない。
 返答に困っている私に、女性は構わず言葉を繋いだ。
「ほとんどの霊能力者と言われてる人たちは、そこにさらにお線香ですかね……神道も仏教もゴチャゴチャです。そもそも神社とお寺の違いも理解できてない人たちからすれば、それっぽい、から問題ないんでしょうけど。亡くなった方たちとの会話に、人の作った宗教は必要ありませんよ。そんなものに頼らなければ会話ができないなんて、それは紛い物でしかありません」
 この女性の言葉が正しいものなのかどうか、それすらも私には分からない。ただ、なんとなく変わった人なのかもしれない、と思うだけ。
「では……どうするのですか?」
 不安の乗った私の質問に、それが見えているのか女性の声は自信に満ちていた。
「まず私は情報を集めます。ですので、あなたからも色々とお話を伺いたいと思っています」
「そうですか……」
 本題に入られた途端、なぜか私は不安に襲われた。何かがゆっくりと足元から登ってくるような、決してそれは気持ちのいいものではない。少し前から、色々なものが見透かされているような気がしてならなかったのもある。それがしだいに形になってきた。
 もしかしたら、いつもの「あの人たち」のことも気付かれているのだろうか。
 時々私に話しかけてくる「生きていない人たち」は悪い人たちではない。言葉自体は決して耳心地のいいものだけとは限らなかったが、それでも敵意のようなものは感じなかった。
 もしかしてそのことまでも見透かされているのだろうか。
 だとすれば、あまりそれは気持ちのいいものではない。
「……家の中で音が聞こえたり声が聞こえたりするというのはお母様から伺っていたのですが、今回あなたに聞きたいと思ったのは、あなた自身が今回の事象の中心にいると思ったからです」
 女性の声は迷いのないものに聞こえた。
 とすると、やっぱり「あの人たち」?
 私はきっと、困惑の表情を浮かべていたのだろう。
 そこに入り込むように女性の言葉が続く。
「あなたは、家族以外の誰かの声が聞こえたりしていませんか?」
 やっぱりバレてた。
 予想通り。
 急に、優しく感じていた女性の声までも、私の中で怖いものへと変化していた。
「大丈夫ですよ。怪しげな呪文を唱えたり塩を振りかけたりはしませんので安心してください」
 そういうことじゃない。
 違う。
 でも、なぜか怖い。
 そして思い出した。
 かつて、私は外の世界が怖かった。他人が怖かった。そんな記憶が湧き上がる。だから働くことも迷ったまま。そのままではダメなことも分かっていた。私は家族にとって「お荷物」でしかないと思って生きてきた。
「きっとあなたに……何かを求めてる……」
 その女性の声は、やはり重く感じられる。
 私は出来るだけ冷静を装っていた。
「何かを求められても困ります。私には何も──」
「そうでしょうか。お父様とお兄さんにもお話を伺いましたが、お二人とも大事な家族だとおっしゃってましたよ。あなたはカレンダーを見ることができないからでしょうか、毎日の日付と曜日を積み重ねるように毎日を過ごしてきたでしょ? だから誰よりも早くお父様とお兄さんの誕生日には「誕生日おめでとう」って伝えていたんですよね。お二人ともそれがいつも嬉しかったようです。だから──」
「でも……私はいつも家族に守られてきました。そんな私に「あの人たち」が何を求めるというんですか……「あの人たち」はいつも私に死んだ時のことを聞かせてくれるだけで、それを聞かされたからって、それがなんだというんですか?」
 冷静ではいられなかった。家族以外には見せていない自分を、突然表れた他人に見られることの怖さ。しかも、自分でも知らなかった家族の感情までも、なぜかその霊能力者は知っている。
「知ってほしいんですよ……歴史上の人物ならいざ知らず、私たちのような多くの人たちは、例え家族がいてもいずれ歴史の中に埋もれていく……自分が生きていた事実は、やがて消えていくだけです。そして私はそれを悪いことだとは思っていません」
「それはあなたの考えですか? 私はむしろ迷惑してるんです。昼も夜も……」
「聞こえるのは……その人たち、だけですか?」

 だけ?
 どういうこと?

「家族の声は……聞こえませんか……?」

 家族?

「お父様と……お兄さんの声が聞こえませんか?」

 声? 声なら……

「あなたは確かに守られてきたのかもしれません。あなた自身がそれを負い目に感じるのも無理はないことでしょう。しかし家族の皆さんは、あなたを守ることを負担になんか感じてはいなかった……もちろん大変なことはあったかもしれません。だからと言って、それは嫌なことと同義語ではありません。だからあの時も──」

「やめて!」

「あなたは二年前の二十歳の誕生日の直後、お父様とお兄さんと歩いていました。踏切の音がして、お兄さんに止められて……」

 あの時、わずかな子供の頃の記憶で、踏切の光景が頭に浮かんでいた。
 だから踏切の遮断機のバーを触った時、今しかないと、思った。

 そうだ。
 家族のお荷物でしかない私が死ぬなら、今しかない、と思った。

「ほとんど外出もしてなかったようですね……あの日は初めての就職の面接の日。だからその時しかないと判断して遮断機を潜った……見えないから怖さも少なかったですか? でも、あなたを助けるためにお父様とお兄さんも犠牲になったことはご存知ではなかったようですね」

 …………え?

「しかし……お二人はあなたを恨んではいません。むしろあなたを守れなかったことを悔いてる……しかも、あなたが亡くなったことに気が付いていないことを心配しています」

 考えがまとまらない。
 理解できない。
 そしてゆっくりと、女性の姿が暗闇の中に見え始めた。
 美しい女性だった。
 私は自分の姿を知らない。だからこそ自分に自信など持ったことはない。その私から見ても綺麗な顔立ちの女性だった。
 その女性の小さな口が開いた。
「私は、あなたを成仏させるために来ました」

 ……そっか……

「あなたに気が付いてもらいたくて色々な人に協力してもらったんですが、直接来ることになってしまって……最後に一つ聞いてもいいですか?」

 何を……

「自分で死ぬことを判断したのに、あなたが上がりたくなかったのは……お母様をお一人にするのが嫌だったからですか?」

 分からない……分からない……

「お母様は、あなたに成仏してほしいとおっしゃっています」

 例え目が見えなくても、瞼を開くことがなくても、込み上げるものがあった。

「あの時、迷わなかったですよね……自ら命を終わらせられる時は怖くないものです」

 あなたに何が分かるの──?

「私もそうでした。なぜか不思議と怖くなかったんです……怖くなってたら、私もまだ生きていられたんでしょうけど……」

 そして、女性の姿が、ゆっくりと暗闇の中に消えていく。
 それに合わせるように、少しずつ女性の声は小さくなっていった。
「これが私の仕事です。お母様のことは後は私が……」

 私は盲目だった。

 ごめんね、お父さん。
 ごめんね、お兄さん。

 親不孝な娘で、ごめんね、お母さん。
 先に行って、ずっと見守ってるから……。

 

得点

評価者

怖さ鋭さ新しさユーモアさ意外さ合計点
毛利嵩志121215101564
大赤見ノヴ151515161576
吉田猛々182019162093
合計4547494250233